2016/11/11 - 2016/11/11
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ANZdrifterさん
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ウイキペディアで掛川市を読んでいたら「思想」という項目があって「スローライフ・歩行文化・報徳文化宣言都市」だと書いてありました。「思想」が項立てされるなど面白い町らしいと思い込んで訪れました(別旅行記の掛川市もご参照願います)。
とくに、歩行文化という言葉に魅かれて旧東海道の「小夜の中山峠」を歩きました。「小夜の中山峠」は、箱根峠、鈴鹿峠とともに東海道の三大難所と言われた所で、西の掛川市がわの宿場「日坂・にっさか」から、東の「菊川」までを言います。歌枕でもあり、旧東海道には西行や芭蕉などの10を超える歌碑・句碑とともに、有名な「夜泣き石」伝説地もありました。
この「小夜の中山」は、東の登り口の青木坂と西の登りの沓掛・二の曲りの両坂が急勾配で旅人を悩ませましたが、登り終わるとなだらかな茶畑が広がる気分の良い散歩道です。
とくに表紙写真に掲げた西端の「二の曲り」は勾配が急すぎて車は登れないので、国道から旧東海道まで新しい道が作られています。地元の人の車は下りだけに、この七曲りの急坂を通るようです。
この、全国区の観光資源になれそうな有名な歌枕を歩いて見ようと思いました。
今回は掛川駅からタクシーで、新道経由で中山峠の名刹・久延寺まで登り(約3500円)新道の別れまでタクシーで戻り(4610円)そこから旧東海道の難所「二の曲り」を独りで歩いて日坂宿まで下り、バスで掛川駅まで帰りました。
数年前に歩いて登ったニュージランド・ダニーデンの世界一急な自動車道より、はるかに急勾配でカーブ続きの難所なので、気を付けて歩きましたが、最後の急坂でつまずいて走り出して止まれなくなって転倒し、後頭部を怪我してしまいました。
帽子がとんで、路上に直径20㎝ほどの血だまりができ、カメラには血しぶきがつきました。自分では見えないけれど後頭部の裂傷でした。
出血があったので、日坂宿まで手で押さえて歩き、数軒目で見かけたご婦人にお願いして手を洗わせてもらったら、もう一人の方と二人で大量の脱脂綿と薬瓶を持ち出して、親切にも髪についた血を拭いて傷の状態を見てくれました。
「ひどいから医者に・・・・・」と勧められたので、帽子をかぶってバスで掛川市まで戻り、仁藤町の外科医院で診察を受け縫合してもらいました。
翌日に再診を受けて東京に帰りましたが、医院では受付の人も、看護婦さんも心配りが行き届き、ドクターは診察・処置からホームドクターへの手紙など、行き届いた親切でありがたかった。
あとから気づいたのですが、自分の血に動顛していて、日坂宿の親切なご婦人お二人には名前も聞かず、申し訳ないことに屋号も見ずに、ただ「有難うございました」と言っただけで帰ってきてしまいました。
年甲斐もなく慙愧の至りですが、日坂宿の親切なご婦人に助けていただいたこと、本当に有難く感謝しております。無事に帰ってきました。
旅の最後の日に、駅前通りに幼稚園児の絵を並べて「街なか美術館」の準備をしていた「掛川おかみさん会」の端麗なご婦人に話しかけ、このいきさつを話したところ「日坂宿の人は親切で旅人に馴れているので気にしないと思いますが、日坂宿のほうに知人がいるので人づてに、旅の人が申し訳ながっていたと伝えておきましょう」と言ってくれました。重ねて有難うございました。
今回の一人旅は、茶畑や街中でもいろいろな人とお話ししましたが、皆さんが心に残る人たちで、思い出深い旅になりました。
別旅行記「静岡県掛川市・・・・・」にも書きましたが、旧東海道の中山峠は有名な難所であり、有名な歌枕でもあるので、全国区の観光資源だと思います。安全に歩けるように道のわきに階段を刻むとか、つかまって歩けるようにロープや手すりを設けるとかして、多くの人が安心して訪れるようになればうれしいことです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- タクシー 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
中山峠の久延寺の向かい側の公園にある西行の歌碑。
西行が69歳の時に、焼失した奈良の寺を復興すべく、奥州藤原氏の経済的援助を要請するためにこの「小夜の中山峠」を超えた時の歌「年たけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけりさやの中山」がかかれている。
この円筒形の碑は嘗てあった巨木のいわれを示したものと言う。
西行は途中で鎌倉に立ち寄り、藤原氏攻略を計画していた頼朝に軍略を講じている。 -
久延寺(きゅうえんじ)。中山峠にある高野山真言宗の古刹。
会津上杉家を攻めるべく軍を進めてきた徳川家康を、山内一豊がここでもてなしたといわれ、いくつかの伝説がのこる。 -
現在は無住寺。月に2度くらい麓から住職?が訪れている。
この本堂の右側に、次の写真の夜泣き石がある。 -
夜泣き石。まん丸い石だが日当たりの関係で上半分が黒く見えて大きさがわからなくなってしまった。
殺された妊婦のそばで泣いていた嬰児は久延寺の住職に飴で育てられたが、妊婦の魂は石に乗り移って夜な夜な泣き声を出したという。嬰児は長じた後、仇討ちを果たしたという。
毎日ではないが、中山峠では子育て飴が売られている。夜泣き石は形状が似ている石が加わって二個ある。地元ではこれが本物と信じている。 -
夜泣き石伝説の説明。
殺された妊婦の名前は、ここでは「お石」だが「小石姫」とするパンフレットもある。
あとの写真で紹介したが、小石姫は上杉三位良政の娘とされている。 -
久延寺近くの中山公園にある橘為仲朝臣の歌碑
「旅寝するさやの中山さよなかに鹿も鳴くなり妻や恋しき」 -
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寺から旧東海道を西に向かって歩く。
最初の名所は佐夜鹿(さよしか)一里塚で、日本橋から56里の一里塚とされている。 -
蓮生法師の歌碑。
「甲斐が嶺ははや雪しろし神無月しぐれてこゆるさやの中山」 -
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路傍の道標。この少し右に鎧塚がある。
鎧塚は「中先代の戦いで負けた武将の鎧を埋めた」と伝えられる。 -
遠くの山に「茶」の字が見える。
茶の樹では大きな字を書けないので松の木で書いたが、枯れてしまったのでヒノキを「茶」の字に植えたという。
手前は茶草場農法の茶畑。 -
茶草場農法。
刈り取った草を、低く刈りこまれた茶樹の周りや通路に敷き詰めてある。 -
紀友則の歌碑
「東路のさやの中山なかなかになにしか人を思いそめけむ」 -
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藤原家隆朝臣の歌碑
「ふるさとに聞きしあらしの声もにず忘れぬ人をさやの中山」 -
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芭蕉の句碑(野ざらし紀行)
「道のべのむくげは馬にくはれけり」 -
白山神社。ここまで久延寺から約1000メートル。
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馬頭観世音の碑の説明
蛇身鳥退治に京から下向してきた上杉三位良政卿が乗ってきた愛馬を葬ったところとされている。
蛇身鳥は、父に狩りをやめさせるべく熊の皮をかぶっていた息子を、狩猟好きの父が射殺してしまい、悲しんだ母が入水死。以後、蛇身で刀の羽をもつ怪鳥が住民を苦しめたという当地の伝説。 -
馬頭観世音の碑
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妊婦の墓
松の根元で自害した妊婦小石姫を葬った所(別伝説では賊に殺されたと)。
墓碑には「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・・旧跡」と刻まれているという。
ここでは小石姫は上杉三位良政と月小夜姫とのあいだに生まれた子 とされている。 -
涼み松広場。この先に芭蕉の句碑がある。
「命なりわづかの笠の下涼み」 -
芭蕉の句碑
「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」(野ざらし紀行)
同じ句碑が久延寺の東にも建てられている。 -
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夜泣き石跡。
この場所で妊婦が殺され、霊が傍らの石に乗り移って夜になると泣いたという。
石は東海道の真ん中にあったが、のちに久延寺に移されたという。
軽トラで茶畑に来た古老に聞いたら「話せば長くなるが・・・・・」と言って、この伝説を20分以上話し続けた。82歳だった。 -
読人不知の歌碑が沓掛・二の曲りの急坂の途中にあった。
「甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく横ほり臥せるさやの中山」 -
この辺りは急坂で、写真を撮るにも足もとがおぼつかない状態であった。
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坂の写真は、傾斜を示すのが難しい。
何枚か撮ったなかで、これだけが左端の木柱や左下の草が垂直を示しているので、どうにか急勾配を示している。傾斜儀を持って行けばよかった。
この後に急坂が繰り返し出現するが、最後の最後に躓いてとまれなくなり、滑って仰向けに転んだ。後頭部から出血がひどかった。 -
傷口を手で押さえて「日坂宿」(にっさか)に到着した。
入り口から少し過ぎたところで見かけたご婦人に頼んで手を洗わせてもらったところ、大量の脱脂綿と薬瓶を持ち出して頭の傷口を洗ってくれた。
「医者に診てもらわないと・・・・」と言われたので掛川市内に帰り、外科医を訪ねたら傷が深いとのことで縫合してもらった。 -
日坂は品川宿」から25番目の宿で、下りの大井川の渡し待ちの宿だったらしい。
「にっさか」と呼んでいるが「西坂」とも書いたらしい。
宿場の規模は小さいがかなりの賑わいだったという。
延長は約700メートルで、現在の街並みは往時の形をとどめているという。 -
各家には、昔のままの屋号が示されている。
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各戸に屋号が示されている。
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これは士分の宿「川坂屋」。この向かいに町人宿がある。
川坂屋は精巧な木組みと細かな技法の欄間などが有名で、土日祝日には無料で公開されている。 -
日坂宿は幕府領であったため、高札は公儀御法度が中心で、復元された天保年間のものが掲示されている。
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高札場。
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事任八幡宮(ことのままはちまん)
日坂宿を出はずれて、国道を渡ったところにある。
桓武天皇の勅命で坂上田村麻呂が創建したという。枕草子には「言のままの明神、いと頼もし」と書いている。
願い事がそのまま叶う という神で、願い事成就や旅の安全を多くの人が祈願してきた。 -
事任八幡宮の御由緒
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事任八幡の本宮は、国道を挟んだ日坂宿側の山の上にあるらしい。
271段の石段を登るのは、けがをして出血が多い身には至難であり、あきらめた。 -
市指定の天然記念物となっているクスノキ巨木。その奥が本殿。
傷を手で押さえて賽銭をあげたが、社殿の写真を撮るのを忘れた。 -
掛川駅前通りで「街かど美術館」の準備をしているスマートな婦人がいた。絵は幼稚園児の絵で自由奔放な力があふれている絵だった。
話の中で「日坂宿で怪我の手当てをしてくれたご婦人に、名前も聞かずただ”有難うございました”だけで帰ってきて申し訳なかった」と話したら「日坂宿の人は親切で旅人に馴れているので心配ないと思いますよ」と言ってくれた。
本当にありがたかったのに、ろくな挨拶もできなかったことがいまだに申し訳なく残念です。
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