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2016年9月30日、クラクフ(ポーランド南部にある都市)のバスターミナルでオシフィエンチム行きのバスを探した。<br />そこはクラクフの西54kmの所にある地方都市で、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの強制収容所「アウシュヴィッツ」があったことで知られている。<br />精神科医のヴィクトール・E・フランクル氏は収容所から奇跡的に生還後、「夜と霧」を、そして「それでも人生にイエスと言う」という本などを書かれているが、彼の著書を読み、いつかポーランドの地に立った折には、アウシュヴィッツへ行こうと想っていたその日がやってきていた。<br /><br />6月にポーランド航空直行便をワルシャワまで、そこからクラクフまで乗継便の予約をすませ、アウシュヴィッツ博物館ではただお一人の日本人公認ガイドとして活躍されておられる中谷さんへは、いつガイド依頼のメールを差し上げようか?と思案していた。あまり早すぎてはご予定もつかないのでは?など、いつになくためらったりしていて7月終わりになってやっと、メールをお送りした。<br />アドレスは「地球の歩き方」に紹介されていた。<br /><br />見学希望日は9月30日、10月1日あたりでご都合をうかがってみた。<br />間もなく、お返事をいただいた。現在のシステムはオンライン化していて、直接博物館へアクセスし、フォームに従って入力し、その後支払いを済ませる・・・という一連の流れをご紹介くださった。ただ日本語でのガイドをお願いするので、通常とは少々手順が違っている様子だった。<br />その通りに入力して博物館からのお返事を待ったが、なかなか返信がなかったため、申し訳ないと思いつつ、直接中谷さんへ再度メールをしてみた。<br />調べて下さったようで、10月1日は団体のツアーが入っていて個人では申し込みできないとのことで、結果的に中谷さんが9月30日見学の申し込みの予約を代行して下さることになった。<br />9月30日、14時スタートということで申し込みをして、そこに希望者がおられればグループとして見学するということに決まった。<br />ガイド料は人数に応じて一人当たりの負担が少なくなるという仕組み。<br />あとでわかったことだが、本当にラッキーなことで、その日を逃すとあとは10月下旬まで予定はつかないようだった。<br /><br />今回の旅は、アウシュビッツの旅から始めます。<br /><br />(表紙写真は収容所内部、蚕だなのような三段ベッドとなる床の上にそっと供えられていた一輪のバラ。)

アウシュヴィッツへの旅 : ポーランド 秋、その1.

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2016/09/30 - 2016/09/30

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mistral

mistralさん

2016年9月30日、クラクフ(ポーランド南部にある都市)のバスターミナルでオシフィエンチム行きのバスを探した。
そこはクラクフの西54kmの所にある地方都市で、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの強制収容所「アウシュヴィッツ」があったことで知られている。
精神科医のヴィクトール・E・フランクル氏は収容所から奇跡的に生還後、「夜と霧」を、そして「それでも人生にイエスと言う」という本などを書かれているが、彼の著書を読み、いつかポーランドの地に立った折には、アウシュヴィッツへ行こうと想っていたその日がやってきていた。

6月にポーランド航空直行便をワルシャワまで、そこからクラクフまで乗継便の予約をすませ、アウシュヴィッツ博物館ではただお一人の日本人公認ガイドとして活躍されておられる中谷さんへは、いつガイド依頼のメールを差し上げようか?と思案していた。あまり早すぎてはご予定もつかないのでは?など、いつになくためらったりしていて7月終わりになってやっと、メールをお送りした。
アドレスは「地球の歩き方」に紹介されていた。

見学希望日は9月30日、10月1日あたりでご都合をうかがってみた。
間もなく、お返事をいただいた。現在のシステムはオンライン化していて、直接博物館へアクセスし、フォームに従って入力し、その後支払いを済ませる・・・という一連の流れをご紹介くださった。ただ日本語でのガイドをお願いするので、通常とは少々手順が違っている様子だった。
その通りに入力して博物館からのお返事を待ったが、なかなか返信がなかったため、申し訳ないと思いつつ、直接中谷さんへ再度メールをしてみた。
調べて下さったようで、10月1日は団体のツアーが入っていて個人では申し込みできないとのことで、結果的に中谷さんが9月30日見学の申し込みの予約を代行して下さることになった。
9月30日、14時スタートということで申し込みをして、そこに希望者がおられればグループとして見学するということに決まった。
ガイド料は人数に応じて一人当たりの負担が少なくなるという仕組み。
あとでわかったことだが、本当にラッキーなことで、その日を逃すとあとは10月下旬まで予定はつかないようだった。

今回の旅は、アウシュビッツの旅から始めます。

(表紙写真は収容所内部、蚕だなのような三段ベッドとなる床の上にそっと供えられていた一輪のバラ。)

旅行の満足度
4.5
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス
旅行の手配内容
個別手配
  • 滞在していた旧市街にあるホテルから<br />クラクフ駅に向かい<br />地下道を渡ると正面には<br />大きなショッピングセンターが<br />現れる。

    滞在していた旧市街にあるホテルから
    クラクフ駅に向かい
    地下道を渡ると正面には
    大きなショッピングセンターが
    現れる。

  • ショッピングセンターに入ると<br />案内板が充実していて、目的地まで<br />連れて行ってくれる。<br />バスターミナルへはバスのマークを<br />たどって進む。

    ショッピングセンターに入ると
    案内板が充実していて、目的地まで
    連れて行ってくれる。
    バスターミナルへはバスのマークを
    たどって進む。

  • 地上に出ると<br />すでにクラクフ駅をこえていて

    地上に出ると
    すでにクラクフ駅をこえていて

  • 二階建てになった<br />バスターミナルへ。

    二階建てになった
    バスターミナルへ。

  • ティケットを購入するため<br />ターミナル内部へ入る。

    ティケットを購入するため
    ターミナル内部へ入る。

  • オシフィエンチム迄は<br />バスの便も沢山あるようだが、<br />中谷さんがご案内下さったバスは<br />どうやらこのバスのようだ。<br />博物館が終点になるのでわかりやすい。<br /><br />11時10分発のバスに乗るつもりだった。<br />1時間半ぐらいかかるようなので<br />現地でゆっくりし、お昼をとるつもりだった。

    オシフィエンチム迄は
    バスの便も沢山あるようだが、
    中谷さんがご案内下さったバスは
    どうやらこのバスのようだ。
    博物館が終点になるのでわかりやすい。

    11時10分発のバスに乗るつもりだった。
    1時間半ぐらいかかるようなので
    現地でゆっくりし、お昼をとるつもりだった。

  • 目的地を言ったらすぐ<br />ティケットを発券されてしまった。<br />購入時間に間に合うバスのティケットだったようだ。<br />乗車するゲートの番号が違ったので<br />改めて出発時間を告げて発券していただく。<br />今度は目指すゲート番号、発車時間など<br />記載されていた。<br />料金は14ズオッティだった。

    目的地を言ったらすぐ
    ティケットを発券されてしまった。
    購入時間に間に合うバスのティケットだったようだ。
    乗車するゲートの番号が違ったので
    改めて出発時間を告げて発券していただく。
    今度は目指すゲート番号、発車時間など
    記載されていた。
    料金は14ズオッティだった。

  • バスはほとんど満席状態で発車。<br />途中の停留所で下車する人もいて<br />終点の博物館まで乗っていたのは<br />半分ぐらい?<br /><br />写真は荷物預け先となる小屋。<br />入口に向かって左手にある。<br />中谷さんからのご案内にも<br />持ち込める荷物の大きさは制限されている<br />旨の記載があった。<br />サイズはA4サイズまで。

    バスはほとんど満席状態で発車。
    途中の停留所で下車する人もいて
    終点の博物館まで乗っていたのは
    半分ぐらい?

    写真は荷物預け先となる小屋。
    入口に向かって左手にある。
    中谷さんからのご案内にも
    持ち込める荷物の大きさは制限されている
    旨の記載があった。
    サイズはA4サイズまで。

  • 入り口周辺には<br />カフェテリアや、パン類を販売している小屋なども<br />あって、入場を待つかなりの人で賑わっている。

    入り口周辺には
    カフェテリアや、パン類を販売している小屋なども
    あって、入場を待つかなりの人で賑わっている。

  • カフェテリアでの昼食をすませて<br />持参してきたデイパックを預け<br />インフォーメーションセンターにある<br />売店で案内書(日本語版)を購入。<br />3ズオッティだった。

    カフェテリアでの昼食をすませて
    持参してきたデイパックを預け
    インフォーメーションセンターにある
    売店で案内書(日本語版)を購入。
    3ズオッティだった。

  • このような賑わいの中で<br />果たして中谷さんにお会いできるのか?<br />と心配していたが<br />同じバスにどうやら乗り合わせていたらしい<br />男性とベンチでおしゃべりをしていたら<br />彼のほうから見つけて下さった。

    このような賑わいの中で
    果たして中谷さんにお会いできるのか?
    と心配していたが
    同じバスにどうやら乗り合わせていたらしい
    男性とベンチでおしゃべりをしていたら
    彼のほうから見つけて下さった。

  • 当日は、他にも女性がお一人<br />20代の会社員の男性二人連れ<br />学生さんの男性とで<br />6人のグループのようだ。<br />他にも6人の申し込みがあったが<br />フライトの関係で間に合わないとの<br />連絡があったとかで、<br />予定の2時にガイドツアーはスタートした。

    当日は、他にも女性がお一人
    20代の会社員の男性二人連れ
    学生さんの男性とで
    6人のグループのようだ。
    他にも6人の申し込みがあったが
    フライトの関係で間に合わないとの
    連絡があったとかで、
    予定の2時にガイドツアーはスタートした。

  • 私たちグループは並んでいる行列の<br />横にあるゲートから入場していった。<br />ガイディングレシーバーを受け取った。<br />見学者で混んでいるので、グループ毎に<br />説明が聞けるような配慮のため。

    私たちグループは並んでいる行列の
    横にあるゲートから入場していった。
    ガイディングレシーバーを受け取った。
    見学者で混んでいるので、グループ毎に
    説明が聞けるような配慮のため。

  • 写真の門が有名な&quot;働けば自由になる&quot;<br />と書かれた門。<br />「ARBEIT MACHT FREI」<br />Bの文字が上側が大きくて通常とは反対。<br /><br />作業に携わった収容者達が皮肉ってかBの<br />文字を上下逆さまにしたといわれる。<br />自由になることは生涯なかった。

    写真の門が有名な"働けば自由になる"
    と書かれた門。
    「ARBEIT MACHT FREI」
    Bの文字が上側が大きくて通常とは反対。

    作業に携わった収容者達が皮肉ってかBの
    文字を上下逆さまにしたといわれる。
    自由になることは生涯なかった。

  • 中谷さんのご本<br />「アウシュヴィッツ博物館案内」によると<br />現在年間140万人余りの見学者があるという。<br />個人で見学する人は数に入っていないとのことなので<br />実際の数はもっと多くなるはず。<br /><br />ここが博物館として公開され始めたのは戦後まもない<br />1947年。当初の入場者は20万人ぐらいだったが<br />70年代になると70万人近くに増えたという。<br />

    中谷さんのご本
    「アウシュヴィッツ博物館案内」によると
    現在年間140万人余りの見学者があるという。
    個人で見学する人は数に入っていないとのことなので
    実際の数はもっと多くなるはず。

    ここが博物館として公開され始めたのは戦後まもない
    1947年。当初の入場者は20万人ぐらいだったが
    70年代になると70万人近くに増えたという。

  • この本が、見学前に読ませていただいた中谷さんのご本。<br /><br />多くの取材をもとに書かれている内容であり、<br />そして現地でのご案内はたくさんの事実をベースとして<br />更には今、世界で起こっていることを<br />縦横無尽に語られる。<br /><br />日本での講演依頼が多くあることにもうなずける。<br /><br />アウシュヴィッツ強制収容所は1940年に<br />ポーランド人政治犯を収容するために設立された。<br />抵抗するポーランド人排除のための施設だった。<br />もともとのオシフィエンチムという街の名前が<br />改称されたもの。<br />やがてナチスは、ソ連の戦争捕虜、ジプシーを移送、<br />更には20か国以上の多くの市民を連行するように<br />なった。その大部分はユダヤ民だった。<br />

    この本が、見学前に読ませていただいた中谷さんのご本。

    多くの取材をもとに書かれている内容であり、
    そして現地でのご案内はたくさんの事実をベースとして
    更には今、世界で起こっていることを
    縦横無尽に語られる。

    日本での講演依頼が多くあることにもうなずける。

    アウシュヴィッツ強制収容所は1940年に
    ポーランド人政治犯を収容するために設立された。
    抵抗するポーランド人排除のための施設だった。
    もともとのオシフィエンチムという街の名前が
    改称されたもの。
    やがてナチスは、ソ連の戦争捕虜、ジプシーを移送、
    更には20か国以上の多くの市民を連行するように
    なった。その大部分はユダヤ民だった。

  • 入場してすぐ、<br />整然と配置された建物、広々とした道路に驚かされる。<br />ポプラ並木は、当時の写真では建物の高さぐらいのようだが<br />今では大木になっている。<br />元々はポーランドの軍関連の宿舎を利用、<br />当初はポーランドの政治犯を収容するために造られた。<br />この地は鉄道の要衝にもなっているため<br />各地からの収容者の輸送に便利であり<br />また市街地から離れていて、拡張も可能で<br />秘密保持のためにも都合が良かったという理由もあり<br />その後は、多くの収容者を連れてくるべく<br />彼らによってどんどん増築、整備をさせていった。<br /><br />ポーランド人の見学者は若者が中心。<br /><br />ドイツからもイスラエルからも見学者は絶えない。<br /><br />中谷さんが、グループを引率しているドイツ人教師に<br />見学の目的について尋ねた折りの答えが本に:<br /><br />まず、歴史の事実を知ること。それから、ここで学んだ<br />教訓が、現在や将来のいろいろな問題を考え、解決する<br />ときに、一つの判断材料となってくれることを期待して<br />います。<br />とあった。

    入場してすぐ、
    整然と配置された建物、広々とした道路に驚かされる。
    ポプラ並木は、当時の写真では建物の高さぐらいのようだが
    今では大木になっている。
    元々はポーランドの軍関連の宿舎を利用、
    当初はポーランドの政治犯を収容するために造られた。
    この地は鉄道の要衝にもなっているため
    各地からの収容者の輸送に便利であり
    また市街地から離れていて、拡張も可能で
    秘密保持のためにも都合が良かったという理由もあり
    その後は、多くの収容者を連れてくるべく
    彼らによってどんどん増築、整備をさせていった。

    ポーランド人の見学者は若者が中心。

    ドイツからもイスラエルからも見学者は絶えない。

    中谷さんが、グループを引率しているドイツ人教師に
    見学の目的について尋ねた折りの答えが本に:

    まず、歴史の事実を知ること。それから、ここで学んだ
    教訓が、現在や将来のいろいろな問題を考え、解決する
    ときに、一つの判断材料となってくれることを期待して
    います。
    とあった。

  • アウシュヴィッツを生き抜いた人々から直接お話を聞かれている<br />体験が、中谷さんの著書の中には記されている。<br /><br />例えば、収容されていたロマの中で、ポーランド唯一の<br />生き残りの人から。<br />あるいは第二収容所ピルケナウで特命労働隊としてガス室での<br />作業に従事させられていた方から。。

    アウシュヴィッツを生き抜いた人々から直接お話を聞かれている
    体験が、中谷さんの著書の中には記されている。

    例えば、収容されていたロマの中で、ポーランド唯一の
    生き残りの人から。
    あるいは第二収容所ピルケナウで特命労働隊としてガス室での
    作業に従事させられていた方から。。

  • このような過酷な作業は、ユダヤ民<br />(著書の中ではこのように記述されている。<br />ユダヤ人という人種があるわけではなく、一定の宗教を信仰<br />している人々をさすことから)<br />収容者だけに作業をさせていた。<br />大量殺人の秘密保持のために、他の収容者との接触を禁じ、<br />更には口封じのために一定期間ごとに彼らもガス室行きと<br />なっていた。<br />終戦時、奇跡的に生き残った作業員は80名ほどだったといわれる。<br />しかし彼らの存在は暗闇の中に置き去りにされたままで、家族に<br />さえ語ることのできないほどの体験だった。<br />戦後、彼らが口を閉ざしてしまったのは、とうていこの体験は<br />わかってもらえないだろうとの思いからだった。<br /><br />写真は、収容者は各地から連れてこられた事を示しているもの。

    このような過酷な作業は、ユダヤ民
    (著書の中ではこのように記述されている。
    ユダヤ人という人種があるわけではなく、一定の宗教を信仰
    している人々をさすことから)
    収容者だけに作業をさせていた。
    大量殺人の秘密保持のために、他の収容者との接触を禁じ、
    更には口封じのために一定期間ごとに彼らもガス室行きと
    なっていた。
    終戦時、奇跡的に生き残った作業員は80名ほどだったといわれる。
    しかし彼らの存在は暗闇の中に置き去りにされたままで、家族に
    さえ語ることのできないほどの体験だった。
    戦後、彼らが口を閉ざしてしまったのは、とうていこの体験は
    わかってもらえないだろうとの思いからだった。

    写真は、収容者は各地から連れてこられた事を示しているもの。

  • 作業員の中には、自分たち全員が殺されてしまったら、この事実を<br />世界に伝える人がいなくなってしまうとの思いから、生き抜いた人も<br />中にはいた。<br />自分たちが担わされた任務を克明にメモ書きして空き瓶などに詰め、<br />ガス室近くに埋めて残した人々もいた。<br />そんな証拠物件が戦後7つ、見つかった。どれも殺されていった作業員<br />の署名入りだったという。<br /><br />アウシュヴィッツに移送されてきた130万の人々のうち<br />110万人はユダヤ民、14ー5万人はポーランド人・・・ということを<br />示すパネル。

    作業員の中には、自分たち全員が殺されてしまったら、この事実を
    世界に伝える人がいなくなってしまうとの思いから、生き抜いた人も
    中にはいた。
    自分たちが担わされた任務を克明にメモ書きして空き瓶などに詰め、
    ガス室近くに埋めて残した人々もいた。
    そんな証拠物件が戦後7つ、見つかった。どれも殺されていった作業員
    の署名入りだったという。

    アウシュヴィッツに移送されてきた130万の人々のうち
    110万人はユダヤ民、14ー5万人はポーランド人・・・ということを
    示すパネル。

  • 写真は博物館で購入した案内書にある<br />第一収容所の地図。<br /><br />下方から入場し4,5,~赤線の順番に<br />進んでいった。<br />全部が公開されているわけではない。

    写真は博物館で購入した案内書にある
    第一収容所の地図。

    下方から入場し4,5,~赤線の順番に
    進んでいった。
    全部が公開されているわけではない。

  • 車両一両に100-150人ともいわれる人数が詰め込まれ、<br />数100キロ以上もの距離のところから、食料を与えられる<br />こともなく一週間近くかけて到着した人々の様子。<br /><br />「今から東方へ移り、新しい土地で仕事と生活を始めるのだ」<br />というナチスの説明に、カバンや袋にわずかな家財をもって<br />移送されてきた人々の群れ。

    車両一両に100-150人ともいわれる人数が詰め込まれ、
    数100キロ以上もの距離のところから、食料を与えられる
    こともなく一週間近くかけて到着した人々の様子。

    「今から東方へ移り、新しい土地で仕事と生活を始めるのだ」
    というナチスの説明に、カバンや袋にわずかな家財をもって
    移送されてきた人々の群れ。

  • 収容所で降りると、家族や親族は引き離され、男性と<br />女性も分けられ、ドイツ人医師のところへ移動させられる。<br />

    収容所で降りると、家族や親族は引き離され、男性と
    女性も分けられ、ドイツ人医師のところへ移動させられる。

  • 医師の指さす方向で、生死が決定された。<br />「選別」は外観と顔色を見ただけの判断だった。<br /><br />「働けそう」とみなされて収容された人は全体の<br />20-30%ぐらいだったという。

    医師の指さす方向で、生死が決定された。
    「選別」は外観と顔色を見ただけの判断だった。

    「働けそう」とみなされて収容された人は全体の
    20-30%ぐらいだったという。

  • 4号館、5号館には絶滅計画の展示が続く。<br />シアン系の劇薬、チクロンBの空き容器、ガス室の模型、<br />髪の毛、その製品の織物、荷物を詰め込んできたカバン、<br />衣類、靴、食器等々<br /><br />しかし、カメラを向ける気持ちにはなれなかった。<br /><br />6,7号館には収容所内の生活に関する展示が。<br />縞模様の囚人服の胸元につけられたマークには意味づけがあるというパネル:<br />赤の三角マーク;政治犯、つまりナチスに反対する政治家、教授、弁護士、医師、<br />をはじめとして神父など社会的に影響力のある人も含まれる。<br />黒の三角;反社会的分子<br />ピンクの三角;同性愛者とみなされた人びと 等々。

    4号館、5号館には絶滅計画の展示が続く。
    シアン系の劇薬、チクロンBの空き容器、ガス室の模型、
    髪の毛、その製品の織物、荷物を詰め込んできたカバン、
    衣類、靴、食器等々

    しかし、カメラを向ける気持ちにはなれなかった。

    6,7号館には収容所内の生活に関する展示が。
    縞模様の囚人服の胸元につけられたマークには意味づけがあるというパネル:
    赤の三角マーク;政治犯、つまりナチスに反対する政治家、教授、弁護士、医師、
    をはじめとして神父など社会的に影響力のある人も含まれる。
    黒の三角;反社会的分子
    ピンクの三角;同性愛者とみなされた人びと 等々。

  • 11号館に入って初めて、ヒトラーの写真パネルが掲げられていることを<br />中谷さんは指摘された。<br />最近ではこのような戦争犯罪は彼一人によって成されたものでは<br />ないとされるようになってきた。この犯罪に携わった多くの人々は、<br />実際に行われていることに目をつぶり、たんたんと各自の「仕事」<br />を成し遂げていた。<br /><br />11号館地下にはコルベ神父が殺された地下牢が当時のまま残っている。<br />逃亡囚が一人出ると、見せしめのために同じ棟の600人の収容者の中から<br />10人が選ばれて餓死刑を言い渡される。<br />1941年7月、10人を選別するという時、指名されて、家族にもう会え<br />なくなる、と絶望のあまり叫ぶ一人の男性に代わることを申し出たのが、<br />このコルベ神父だった。<br />その時の想像図のパネル、そしてその折りに彼はこのあたりに立っていた、<br />という場所を中谷さんは示された。<br />

    11号館に入って初めて、ヒトラーの写真パネルが掲げられていることを
    中谷さんは指摘された。
    最近ではこのような戦争犯罪は彼一人によって成されたものでは
    ないとされるようになってきた。この犯罪に携わった多くの人々は、
    実際に行われていることに目をつぶり、たんたんと各自の「仕事」
    を成し遂げていた。

    11号館地下にはコルベ神父が殺された地下牢が当時のまま残っている。
    逃亡囚が一人出ると、見せしめのために同じ棟の600人の収容者の中から
    10人が選ばれて餓死刑を言い渡される。
    1941年7月、10人を選別するという時、指名されて、家族にもう会え
    なくなる、と絶望のあまり叫ぶ一人の男性に代わることを申し出たのが、
    このコルベ神父だった。
    その時の想像図のパネル、そしてその折りに彼はこのあたりに立っていた、
    という場所を中谷さんは示された。

  • 〝刑執行のために閉じ込められた牢からは、日々祈りと讃美歌の歌声が最後まで<br />聞こえてきていた。2週間後、完全に意識のあったのはコルベ神父を含めて4人<br />となったが、最後はフェノール注射で殺害することになった。<br />最後の神父の表情は穏やかで、輝いていた。&quot;<br />とその当時、地下牢の門番手伝いで通訳も務めていた収容者は、後に教会で<br />その時の様子を語っているという。<br /><br />コルベ神父が救ったのは、身代わりを申し出た人だけでなく、その時<br />同じ牢で餓死刑を言い渡された9人、更には同じ時期に地下牢にいた人々<br />全員の魂を救ったのでしょう。<br /><br />コルベ神父によって救われたガイオニチェクという方は、その後も<br />神父の行為を世に伝え続け、その結果、1982年、ヨハネ・パウロ2世に<br />よって神父は聖人の列に加えられた。<br /><br />

    〝刑執行のために閉じ込められた牢からは、日々祈りと讃美歌の歌声が最後まで
    聞こえてきていた。2週間後、完全に意識のあったのはコルベ神父を含めて4人
    となったが、最後はフェノール注射で殺害することになった。
    最後の神父の表情は穏やかで、輝いていた。"
    とその当時、地下牢の門番手伝いで通訳も務めていた収容者は、後に教会で
    その時の様子を語っているという。

    コルベ神父が救ったのは、身代わりを申し出た人だけでなく、その時
    同じ牢で餓死刑を言い渡された9人、更には同じ時期に地下牢にいた人々
    全員の魂を救ったのでしょう。

    コルベ神父によって救われたガイオニチェクという方は、その後も
    神父の行為を世に伝え続け、その結果、1982年、ヨハネ・パウロ2世に
    よって神父は聖人の列に加えられた。

  • そのコルベ神父は1930年5月から1936年まで長崎の大浦天主堂下にある<br />木造西洋館に聖母の騎士修道院を開き印刷事業を始め「無原罪聖母の騎士」<br />誌の発行と布教活動を行っていたという。<br /><br />昨年旅立った義母は、戦後、長崎で洗礼を受けたという。<br />その同じ地でコルベ神父は布教活動をされていたということを知り、<br />不思議な結びつきを感じた。母が今、存命であったなら、コルベ神父の<br />ことを尋ねたら、きっと何か話してくれたかもしれない。<br /><br />写真は死の壁と呼ばれる処刑場。ポーランド内部で抵抗を続けた英雄<br />たちの処刑場。<br />犠牲者は3000人とも10000人とも言われる。10,11号館の間にある。<br />両側にある収容棟には目隠しのための窓枠が取り付けられている。

    そのコルベ神父は1930年5月から1936年まで長崎の大浦天主堂下にある
    木造西洋館に聖母の騎士修道院を開き印刷事業を始め「無原罪聖母の騎士」
    誌の発行と布教活動を行っていたという。

    昨年旅立った義母は、戦後、長崎で洗礼を受けたという。
    その同じ地でコルベ神父は布教活動をされていたということを知り、
    不思議な結びつきを感じた。母が今、存命であったなら、コルベ神父の
    ことを尋ねたら、きっと何か話してくれたかもしれない。

    写真は死の壁と呼ばれる処刑場。ポーランド内部で抵抗を続けた英雄
    たちの処刑場。
    犠牲者は3000人とも10000人とも言われる。10,11号館の間にある。
    両側にある収容棟には目隠しのための窓枠が取り付けられている。

  • 有刺鉄線には220Vの高圧電流が<br />流されていた。

    有刺鉄線には220Vの高圧電流が
    流されていた。

  • 収容所所長、ルドルフ・ヘス一家が暮らしていた家は<br />垣根のすぐ向こう側に見える。<br />地図上では上方左手、f にあたる。<br />子供たちと共に幸せに暮らしていた家から<br />毎日収容所へ仕事と称して出勤していたのか?

    収容所所長、ルドルフ・ヘス一家が暮らしていた家は
    垣根のすぐ向こう側に見える。
    地図上では上方左手、f にあたる。
    子供たちと共に幸せに暮らしていた家から
    毎日収容所へ仕事と称して出勤していたのか?

  • 自分が暮らしていた家がすぐそこに見える地で<br />ヘスに対して、絞首刑の執行が行われたのは1947年だった。<br /><br />またこのすぐそばにはクレマトリウム(ガス室と焼却炉)がある。<br />

    自分が暮らしていた家がすぐそこに見える地で
    ヘスに対して、絞首刑の執行が行われたのは1947年だった。

    またこのすぐそばにはクレマトリウム(ガス室と焼却炉)がある。

  • 外見は整然とした宿舎が立ち並ぶ地。<br />

    外見は整然とした宿舎が立ち並ぶ地。

  • この後、バスに乗って<br />第二収容所、ビルケナウまで移動した。<br />その折、女性がもう一人加わった。<br />当初はツアーに参加予定だったようだが<br />14時開始に間に合わなかったようだ。<br />

    この後、バスに乗って
    第二収容所、ビルケナウまで移動した。
    その折、女性がもう一人加わった。
    当初はツアーに参加予定だったようだが
    14時開始に間に合わなかったようだ。

  • 同じく、博物館の案内書にある<br />第二収容所、ビルケナウの案内図。<br /><br />下方のA、所謂「死の門」中央監視塔から入り、<br />線路にそって突き当りまで進んでいった。

    同じく、博物館の案内書にある
    第二収容所、ビルケナウの案内図。

    下方のA、所謂「死の門」中央監視塔から入り、
    線路にそって突き当りまで進んでいった。

  • 通称「死の門」と呼ばれる監視塔。<br />〝この門をくぐるとお前たちの出口は煙突だけだ&quot;と<br />言われていた。<br />本線からここまで続く単線の引き込み線は1944年春<br />完成した。この時ハンガリー方面から43万人余りの<br />ユダヤ民が移送されて来た。

    通称「死の門」と呼ばれる監視塔。
    〝この門をくぐるとお前たちの出口は煙突だけだ"と
    言われていた。
    本線からここまで続く単線の引き込み線は1944年春
    完成した。この時ハンガリー方面から43万人余りの
    ユダヤ民が移送されて来た。

  • ここにも有刺鉄線が張り巡らされている。<br /><br />175ヘクタールの広大な面積に<br />300以上のバラックが建っていたという。<br /><br />今では煙突だけがニョキニョキと残されている。

    ここにも有刺鉄線が張り巡らされている。

    175ヘクタールの広大な面積に
    300以上のバラックが建っていたという。

    今では煙突だけがニョキニョキと残されている。

  • 荷卸し場(ランぺ)に残された<br />車両。

    荷卸し場(ランぺ)に残された
    車両。

  • 引き込み線の終点まで歩いて来た。<br />はるか彼方に監視塔が見える。

    引き込み線の終点まで歩いて来た。
    はるか彼方に監視塔が見える。

  • ユダヤ民を象徴する、ダビデの星をかたどった<br />お花が供えられていた。<br /><br />背後には犠牲者に対しての<br />国際追悼碑が各国別に造られている。

    ユダヤ民を象徴する、ダビデの星をかたどった
    お花が供えられていた。

    背後には犠牲者に対しての
    国際追悼碑が各国別に造られている。

  • 解放直前になってSSはクレマトリウム(ガス室、焼却炉)<br />を証拠隠滅のために破壊してしまった。<br />今もそのままの状態が保存されている。<br />

    解放直前になってSSはクレマトリウム(ガス室、焼却炉)
    を証拠隠滅のために破壊してしまった。
    今もそのままの状態が保存されている。

  • しかしギリシャ出身のユダヤ民の人が、どのようにして<br />カメラを入手したのかは不明だが、隠し撮りをした第五<br />クレマトリウム周辺の写真が残されている。<br /><br />シャワーを浴びるためと説明されて屋外で裸にされ<br />ガス室に追い立てられるユダヤ民女性たちが写っている。

    しかしギリシャ出身のユダヤ民の人が、どのようにして
    カメラを入手したのかは不明だが、隠し撮りをした第五
    クレマトリウム周辺の写真が残されている。

    シャワーを浴びるためと説明されて屋外で裸にされ
    ガス室に追い立てられるユダヤ民女性たちが写っている。

  • 破壊されてしまったが<br />地下の脱衣場とガス室、<br />地上に5基の焼却炉の跡と<br />そこに続く死体を運んだレールの跡が<br />今でも残っている。

    破壊されてしまったが
    地下の脱衣場とガス室、
    地上に5基の焼却炉の跡と
    そこに続く死体を運んだレールの跡が
    今でも残っている。

  • 中谷さんが伝えられていたのは<br /><br />過去に起こった事実を多くの人に知ってもらいたいこと、<br />特に若い世代の人たちにはこの地を是非訪れて欲しいとのこと。<br />そして、このような凄惨な出来事は<br />ある条件のもとでは、いつでも起こりうることで<br />決して特殊なケースとは言えないということ。<br />

    中谷さんが伝えられていたのは

    過去に起こった事実を多くの人に知ってもらいたいこと、
    特に若い世代の人たちにはこの地を是非訪れて欲しいとのこと。
    そして、このような凄惨な出来事は
    ある条件のもとでは、いつでも起こりうることで
    決して特殊なケースとは言えないということ。

  • 元々は湿地帯だったため<br />建物も劣化が進んでいるようだ。<br />永久保存を目指して、今<br />覆いをつける工事などが進行中。

    元々は湿地帯だったため
    建物も劣化が進んでいるようだ。
    永久保存を目指して、今
    覆いをつける工事などが進行中。

  • 厨房で使われていた運搬車が<br />今もそのままに残る。

    厨房で使われていた運搬車が
    今もそのままに残る。

  • 現在でも残っているのは<br />レンガ造りの45棟のバラックと<br />22棟の木造バラックのみ。<br /><br />もともと湿地帯に基礎なしで建てたもので<br />大部分は床もなく、土を固めただけのもので<br />すぐに泥土と化した。

    現在でも残っているのは
    レンガ造りの45棟のバラックと
    22棟の木造バラックのみ。

    もともと湿地帯に基礎なしで建てたもので
    大部分は床もなく、土を固めただけのもので
    すぐに泥土と化した。

  • 三段の蚕棚のような寝床には<br />湿った腐りかけた藁が敷かれ<br />一段に5人ぐらいづつが休んだという。

    三段の蚕棚のような寝床には
    湿った腐りかけた藁が敷かれ
    一段に5人ぐらいづつが休んだという。

  • 当初は14歳に満たない子供たちは母親たちと共に<br />ガス室へ送られていたが、途中から方針が変わり<br />1943年中ごろから一部の子供たちを収容所に入れる<br />ようになっていた。<br />その子供たちへの慰めのため?壁には絵が描かれていた。

    当初は14歳に満たない子供たちは母親たちと共に
    ガス室へ送られていたが、途中から方針が変わり
    1943年中ごろから一部の子供たちを収容所に入れる
    ようになっていた。
    その子供たちへの慰めのため?壁には絵が描かれていた。

  • パネルの説明をされる中谷さん。<br /><br />ビルケナウ収容所は広大な敷地にあるため<br />ここではマイクもレシーバーもなしで説明をされる。<br /><br />この後、バスに乗って再び元の地に<br />戻って来た。

    パネルの説明をされる中谷さん。

    ビルケナウ収容所は広大な敷地にあるため
    ここではマイクもレシーバーもなしで説明をされる。

    この後、バスに乗って再び元の地に
    戻って来た。

  • ツアーは5時丁度に終了。<br />当日のガイド料は6人の参加(一人は途中だったので)<br />だったので一人当たり50ズオッティを中谷さんを経由して<br />博物館へお支払した。<br /><br />クラクフ行きのバスが待っていたので荷物を引き取り<br />女性3人はバスに飛び乗った。<br />男性4人はもう少し博物館に残り、余韻を味わっていくとの<br />ことだった。<br /><br />帰路、窓越しだったが、折から夕日の反射光か?小さな虹が<br />出来ているのをずっと見ながら帰った。

    ツアーは5時丁度に終了。
    当日のガイド料は6人の参加(一人は途中だったので)
    だったので一人当たり50ズオッティを中谷さんを経由して
    博物館へお支払した。

    クラクフ行きのバスが待っていたので荷物を引き取り
    女性3人はバスに飛び乗った。
    男性4人はもう少し博物館に残り、余韻を味わっていくとの
    ことだった。

    帰路、窓越しだったが、折から夕日の反射光か?小さな虹が
    出来ているのをずっと見ながら帰った。

  • クラクフに到着し、<br />女性3人でつれだって<br />旧市街へ戻ってきた。

    クラクフに到着し、
    女性3人でつれだって
    旧市街へ戻ってきた。

  • たまたま別ルートから来て<br />博物館ツアーで出会った。<br />なんだかすぐお別れするには<br />勿体ない気がしていた。

    たまたま別ルートから来て
    博物館ツアーで出会った。
    なんだかすぐお別れするには
    勿体ない気がしていた。

  • 旧市街広場を囲むテラス席に<br />空きを見つけて腰をおろした。<br /><br />コロッケを添えた赤カブのスープ。

    旧市街広場を囲むテラス席に
    空きを見つけて腰をおろした。

    コロッケを添えた赤カブのスープ。

  • 手前はピエロギ、奥はチキンとポテトフライなど<br />注文し、シェアをして食べながら<br />それぞれの旅を語りあった。<br />三人にとって、今回の旅の大きな目的だった<br />1日がおわった。

    手前はピエロギ、奥はチキンとポテトフライなど
    注文し、シェアをして食べながら
    それぞれの旅を語りあった。
    三人にとって、今回の旅の大きな目的だった
    1日がおわった。

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この旅行記へのコメント (10)

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  • frau.himmelさん 2018/01/06 23:51:50
    本年もよろしくお願いいたします
    遅ればせながら明けましておめでとうございます。

    新年の挨拶を述べるのがはばかれるような旅行記を拝見させていただきました。
    アウシュヴィッツ・・。
    素晴らしい旅行記でした。感動いたしました。
    表紙のそっと供えられていた一輪のバラも悲しみを誘います。
    私は10年ほど前に夫と二人でアウシュヴィッツを個人で訪れました。
    その時も、塀の金網の間に黄色いバラが1輪、そっと指してありました。
    旅行記を拝見してそのバラの花のことをはっきりと思い出しました。

    私たちはあまり下調べもせずに、個人で収容所内を周ったので、mistralさんの何分の一も理解していません。
    ルドルフ・ヘスの家、このことも後から知りました。幸せな家族だったらしいですね。
    垣根一つ隔てて、こちらとあちらでは、まさに天国と地獄の風景が広がっている・・・。ヘスの家族はどこまで収容所のことを知っていたのでしょうね。
    ヘスはアウシュヴィッツで絞首刑に処されたのですか、皮肉ですね。

    女性3人は中谷さんのツアーでお知り合いになられたのですね。最初からのお仲間でお食事を一緒にされたのだと思っていました。
    mistralさんも他の女性の方もお気持ちは同じだったのですね。
    あの凄惨な歴史を知った後は、重苦しい気持ちのままでお別れしたくないというお気持ち、よく判ります。

    新年早々、重厚な旅行記を拝見させていただきました。ありがとうございました。
    本年もよろしくお願いいたします。
    himmel

    mistral

    mistralさん からの返信 2018/01/07 12:59:46
    本年もよろしくお願いいたします
    himmelさん

    私の方こそ、本年もよろしくお願い致します。
    ご丁寧にコメントまでいただきまして、ありがとうございました。
    >
    > 新年の挨拶を述べるのがはばかれるような旅行記を拝見させていただきました。
    > アウシュヴィッツ・・。
    > 素晴らしい旅行記でした。感動いたしました。
    > 表紙のそっと供えられていた一輪のバラも悲しみを誘います。
    > 私は10年ほど前に夫と二人でアウシュヴィッツを個人で訪れました。
    > その時も、塀の金網の間に黄色いバラが1輪、そっと指してありました。
    > 旅行記を拝見してそのバラの花のことをはっきりと思い出しました。

    ありがとうございました。
    古い旅行記に、こうしてコメントいただき色々な過去の記憶を共有できることは、
    4トラに旅行記を載せていて良かったと思うことです。
    Himmelさんもいらっしゃったんですね。
    その折には一輪の黄色いバラが。
    バラをおかれた方の深い想いが伝わってきますね!

    > 私たちはあまり下調べもせずに、個人で収容所内を周ったので、mistralさんの何分の一も理解していません。
    > ルドルフ・ヘスの家、このことも後から知りました。幸せな家族だったらしいですね。
    > 垣根一つ隔てて、こちらとあちらでは、まさに天国と地獄の風景が広がっている・・・。ヘスの家族はどこまで収容所のことを知っていたのでしょうね。
    > ヘスはアウシュヴィッツで絞首刑に処されたのですか、皮肉ですね。

    中谷さんにご案内いただけたことは、本当に幸運なことだったと思います。
    一人で見学するのでなく、グループで見学したことで
    不思議な一体感が得られたのではないかと思いました。
    見学中は皆、無言で回っていたのですが。

    > 女性3人は中谷さんのツアーでお知り合いになられたのですね。最初からのお仲間でお食事を一緒にされたのだと思っていました。
    > mistralさんも他の女性の方もお気持ちは同じだったのですね。
    > あの凄惨な歴史を知った後は、重苦しい気持ちのままでお別れしたくないというお気持ち、よく判ります。
    >
    > 新年早々、重厚な旅行記を拝見させていただきました。ありがとうございました。
    > 本年もよろしくお願いいたします。

    いつも丹念に辿られていますhimmelさんの旅行記、大好きです。
    このところコメントも残さず失礼しておりました。
    今年も、おたがいに、健康で旅ができたらとおもいます。

    mistral
  • わんぱく大将さん 2016/10/18 22:28:43
    言葉がでません
    mistralさん

    言葉がでませんでした。 映画や本では見たことがありましたが、これが同じ人間かと? それも同じ敷地内に住んで生活していたというのが考えられません。勿論、上の人だから直には手を下していないといっても、その同じ敷地内でご飯を食べ、温かいベットで休みと。

    コルべ神父さんのことは私の長年の仕事仲間から聞きました。彼は今、ポーランドからの留学生交換の手伝いをしていて、昨年は長崎に彼らを連れて行きました。下見に私も同行したのですが、その時に神父さんの話をしてくれました。長崎と関係のある方でもあったのですね。

    普通にあるということ、生きてるということ、生かされているということが、ナチスにとったら生かしてやってる、だったんでしょうね。

     大将

    mistral

    mistralさん からの返信 2016/10/19 08:44:09
    RE: 言葉がでません
    大将さん

    おはようございます。
    コメント、いつもありがとうございます。

    > 言葉がでませんでした。 映画や本では見たことがありましたが、これが同じ人間かと? それも同じ敷地内に住んで生活していたというのが考えられません。勿論、上の人だから直には手を下していないといっても、その同じ敷地内でご飯を食べ、温かいベットで休みと。

    そうですね。
    考えられないことが収容所内では繰り広げられていたんですね。
    他にも、気付いていながら毒ガスを納入していた業者とか
    女性の髪の毛で作られた製品を買取っていた業者などなど。

    ただ自分が同じ状況に置かれたらどうなるか?と考えると、、、
    人間って恐ろしい存在だとおもいました。

    > コルべ神父さんのことは私の長年の仕事仲間から聞きました。彼は今、ポーランドからの留学生交換の手伝いをしていて、昨年は長崎に彼らを連れて行きました。下見に私も同行したのですが、その時に神父さんの話をしてくれました。長崎と関係のある方でもあったのですね。

    そうだったんですね。
    長崎にゆかりのある方にとっては、コルベ神父さんは大きな存在なんでしょうね。

    > 普通にあるということ、生きてるということ、生かされているということが、ナチスにとったら生かしてやってる、だったんでしょうね。

    今、普通に、何事もなく生かされているという事を
    大切にしなくてはいけないと、強く思いました。

    皆さんからコメントをいただきながら
    現地で想った事を改めてたどることができて、
    嬉しくおもいます。

    mistral
  • マリアンヌさん 2016/10/17 00:11:55
    忘れてはいけない
    mistralさん、こんばんわ。

    モスクワやサンクトペテルブルクも羨ましいなぁと拝見してましたが、ポーランドに行かれたのですね。ここも未踏の地です。

    まずは、アウシュビッツ、表紙の薔薇の写真が悲しく美しいです。
    私はアンネの日記世代なので、もしもポーランドに行けたら外せないとは思ってます。
    初めてユダヤ人の迫害を知ったのは中学の図書館で穴に大量の死骸の写真を見た時だった。
    一体これは何だろうと思いました。
    でも戦争中において自分が加害者側にたったとき、Noと言えるのか…

    時々ナチス関連のドキュメンタリーをNHKで見ることがあるのですが、最近、ドイツ国内で障害者を健常者に比べ、劣るものとして殺害していったというのを見ました。残された親族が殺された叔母の存在を父親から聞くことはなかったといい、親兄弟からも「劣るものは社会のために殺していい」と思われていたその真実が衝撃だったと語りました。
    相模原事件にもユダヤ人虐殺にもつながる思想だと思います。

    英語が苦手な私、なかなかイタリア以外の国に出かけるのに時間がかかってしまってます。

    続き楽しみにしています。
    マリアンヌ

    mistral

    mistralさん からの返信 2016/10/17 12:32:23
    RE: 忘れてはいけない
    マリアンヌさん

    コメントをありがとうございました。

    > まずは、アウシュビッツ、表紙の薔薇の写真が悲しく美しいです。

    日程的には間に入るべき旅行記でしたが
    まずアップさせた上でないと、先に進めない気がしていて
    悩みながらでしたが、なんとか完成させました。
    暗い収容所のなかにお供えされていた一輪のバラは
    ほかの展示品は撮ってなかったのですが、
    思わずシャッターを押していました。

    > 私はアンネの日記世代なので、もしもポーランドに行けたら外せないとは思ってます。
    > 初めてユダヤ人の迫害を知ったのは中学の図書館で穴に大量の死骸の写真を見た時だった。
    > 一体これは何だろうと思いました。
    > でも戦争中において自分が加害者側にたったとき、Noと言えるのか…

    残されている写真はどれも衝撃的なものばかりですね。

    > 時々ナチス関連のドキュメンタリーをNHKで見ることがあるのですが、最近、ドイツ国内で障害者を健常者に比べ、劣るものとして殺害していったというのを見ました。残された親族が殺された叔母の存在を父親から聞くことはなかったといい、親兄弟からも「劣るものは社会のために殺していい」と思われていたその真実が衝撃だったと語りました。
    > 相模原事件にもユダヤ人虐殺にもつながる思想だと思います。

    ガイドされた中谷さんも、そういった事件のことを指摘されていました。
    人としての尊厳の重さを考えたら、考えられないことと思うのですが。

    > 英語が苦手な私、なかなかイタリア以外の国に出かけるのに時間がかかってしまってます。

    ユックリとイタリアからお出まし下さい(笑)
    マリアンヌさんのイタリアからの旅行記、楽しみ!ですから。

    > 続き楽しみにしています。

    次からは軽い旅行記になりますので、よろしくお願いします。

    mistral
  • yunさん 2016/10/16 19:44:57
    ポプラ
    mistralさん

    ポーランドの旅からお帰りなさい。

    アウシュヴィッツ訪問記からスタートされましたね。
    ゆっくり読み進ませていただきました。

    集団としての人間の怖さを感じます。

    声高に抗議するのではなく「私が代わりましょう」と言ったコルベ神父の勇気が
    その状況で可能な最善の方法であった事が哀しい。

    同じような判断力を持つ人が多ければ「収容所」そのものが存在しなかったはず。
    判断は出来ても実行する勇気も難しいけれど。

    時が過ぎても、やはり人間の愚かしさは健在。
    敵だ、味方だ、どの神様が唯一だ・・・と、果てない争い。
    この数日の世界のニュースに目を覆いたい気持ち。
    ユダヤ民も国連に背を向けてしまいました。

    辛い経験を経た人々が実行する「優しさ」が
    世界に満ちていけばいいのに。

    収容所内のポプラが大きく成長したように
    帰り道にご覧になった虹のように
    人の心が温かい地球でありますように。

    女性三人、同じ日に居合わせ、学んだ後の一緒に囲む夕食のテーブル。
    いい日でしたね。

    yun

    mistral

    mistralさん からの返信 2016/10/16 23:20:42
    RE: ポプラ
    yunさん

    こんばんわ。
    コメントを有難うございました。
    博物館を訪れた者の責務として、まず最初に
    この旅行記を仕上げることにしました。
    悩みながら最終的に、いくつかの文章を削りました。
    読んで下さった方が、それぞれの感じ方で
    受けとって下されば、それで良いのではと思って
    表現を変えたりしました。

    > アウシュヴィッツ訪問記からスタートされましたね。
    > ゆっくり読み進ませていただきました。

    > 集団としての人間の怖さを感じます。

    そうですね。
    私自身、過酷な状況のもとでどのような態度で
    臨めるかは本当にわからないことだと思いました。

    > 声高に抗議するのではなく「私が代わりましょう」と言ったコルベ神父の勇気が
    > その状況で可能な最善の方法であった事が哀しい。
    >
    > 同じような判断力を持つ人が多ければ「収容所」そのものが存在しなかったはず。
    > 判断は出来ても実行する勇気も難しいけれど。
    >
    > 時が過ぎても、やはり人間の愚かしさは健在。

    いつの時でも
    人間は愚かな存在なんですね。
    それでも、人生が人間に、問いかけてきた時
    全身全霊でもって、応えた人々もいたんですね。
    それは聖職者だけでなく、多分普通のひとでさえ
    それができた!

    > 敵だ、味方だ、どの神様が唯一だ・・・と、果てない争い。
    > この数日の世界のニュースに目を覆いたい気持ち。
    > ユダヤ民も国連に背を向けてしまいました。
    >
    > 辛い経験を経た人々が実行する「優しさ」が
    > 世界に満ちていけばいいのに。

    そこに、きっと希望があるんだと思いました。

    >
    > 収容所内のポプラが大きく成長したように
    > 帰り道にご覧になった虹のように
    > 人の心が温かい地球でありますように。

    夜と霧の中にも、そんなくだりが確かありました。
    収容所のなかで、ある日、荘厳な夕景色をみた時
    全員が神の存在を感じ深い祈りを捧げた、と。
    そこにはきっと温かさが満ち溢れていたと想いました。

    > 女性三人、同じ日に居合わせ、学んだ後の一緒に囲む夕食のテーブル。
    > いい日でしたね。

    はい、お料理だけでなく
    想いもシェア出来て良かったです。

    yunさんからの深いコメントに
    そうそう、、、と頷いています。
    ありがとうございます。

    mistral
  • ヴェラnonnaさん 2016/10/14 10:21:54
    とても 重いくて 苦しい 旅でしたね。
    mistoralさん

    おはようございます。

    この 旅行記を読みながら 涙しました。
    私は ポーランドに行っても 多分 アウシュビッツへは 行かないでしょう。 目にしたもの以上の 出来事を 想像してしまうので とても怖いです。

    人というのは 集団心理の中で いとも簡単に人としての心を失い 
    そして 加害的な異様な経験も 都合よく 記憶から消し去って 生きていくことができる 生き物なんですね。

    そんな 状況の中でも 信念を貫き 希望を見失いことなく 尊厳死を選ばれたコルベ神父。  死してなお 人々に 勇気を与えられているのですね。

    この旅行記を 書いてくださったことへ 感謝です。

    表に表されている事は ほんの一部でしょうし 言葉にできない 様々なことが 行われていたでしょう。

    無くなられた 犠牲者、そして 携わった加害者ともいえる犠牲者の方々に
    深い祈りをささげたいと思います。


    ヴェラnonna
     

    mistral

    mistralさん からの返信 2016/10/14 13:31:02
    RE: とても 重いくて 苦しい 旅でしたね。
    ヴェラnonnaさん

    メッセージをありがとうございます。

    今までも多くの方々が旅行記を残されていました。
    私も、私が感じた想いを残さなくては、という気持ちで
    まず最初に取り組むことにしました。

    ガイドの中谷さんがおっしゃっていました。
    そこは過去に起こったことを知る場所でもあるし
    亡くなられた方々に、深い祈りを捧げる場所でもある、と。
    グループのなかに若者たちがいたこと、そして各国からの
    若者たちも、それは大きな支えともなりますね。

    また、フランクルさんの本の中にも書かれていましたが
    過酷な人生としても、イエスと言って、それに応えた方々
    のことを知ることは意味のあることとおもいました。
    一応書き終えて一安心です。
    続きの旅行記は軽くなるとおもいます。
    どうぞよろしくお願いします。

    mistral



    > mistoralさん
    >
    > おはようございます。
    >
    > この 旅行記を読みながら 涙しました。
    > 私は ポーランドに行っても 多分 アウシュビッツへは 行かないでしょう。 目にしたもの以上の 出来事を 想像してしまうので とても怖いです。
    >
    > 人というのは 集団心理の中で いとも簡単に人としての心を失い 
    > そして 加害的な異様な経験も 都合よく 記憶から消し去って 生きていくことができる 生き物なんですね。
    >
    > そんな 状況の中でも 信念を貫き 希望を見失いことなく 尊厳死を選ばれたコルベ神父。  死してなお 人々に 勇気を与えられているのですね。
    >
    > この旅行記を 書いてくださったことへ 感謝です。
    >
    > 表に表されている事は ほんの一部でしょうし 言葉にできない 様々なことが 行われていたでしょう。
    >
    > 無くなられた 犠牲者、そして 携わった加害者ともいえる犠牲者の方々に
    > 深い祈りをささげたいと思います。
    >
    >
    > ヴェラnonna
    >  

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