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JR八高線(八王子~高崎)児玉駅より西進約10分の雉岡城(きじがおかじょう、埼玉県本庄市児玉町八幡山)は1460年代に鎌倉府の足利氏を補佐する関東管領山内上杉氏の家臣である夏目実基(なつめ・さねもと)によって築城と伝えられている平城です。<br /><br />一時山内上杉氏当主の居城でしたが城域が狭いとの理由もあり上野国平井城に拠点を換えたため当該城は夏目定基が初代城主を勤め、子息定盛(さだもり)が2代目城主となります。<br /><br />天文15年(1546)河越合戦において伸長著しい小田原北条氏に大敗した山内上杉氏はそれまでの勢力を一気に失い、永禄年間(1558~1570)鉢形城に拠点を置く北関東軍管区司令官とでも言うべき北条氏邦(ほうじょう・うじくに、1548~1597)に攻められ開城、以降小田原北条氏の支配下に加えられ、鉢形城の属城として城代横地忠晴(よこち・ただはる)が城代として派遣されます。<br /><br />天正10年(1590)豊臣秀吉のいわゆる小田原征伐においては、前田利家・上杉景勝らが率いる北国軍の攻略を受けた雉岡城は鉢形城と前後して落城に至ります。<br /><br />小田原北条氏の旧領を受け継いだ徳川家康は同年8月に江戸に入部、新領地の関東を整えるべく有力な家臣を各地に配し、児玉の地については一門の松平清宗(まつだいら・きよむね、1538~1605)を1万石を以て雉岡城主に封じます。<br /><br />清宗没後家督を相続し慶長6年(1601)関ケ原の戦いで戦功挙げた嫡男家清(いえきよ、1566~1611)は3万石に加増され三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)に転封されると雉岡城は廃されます。<br /><br />アスピアこだまに在る「塙保己一記念館」で入手した雉岡城に関する資料には下記の通り記されています。<br /><br /><br />「 雉 岡 城 に つ い て<br /><br />雉岡(「きじおか」・「きじがおか」)城は本庄市児玉町八幡山にあり、旧字雉岡の地名をとって付けられた城で、小丘陵上に築かれています。別名を八幡山城ともいいます。15世紀頃に築かれたものと思われ、関東管領山内上杉家・後北条家・松平家と城主を替えて江戸時代の初め頃まで使用されました。<br /><br />雉岡城は旧児玉町の市街地北西部に築かれており、城の南側を東西に鎌倉街道上杉道が、東側には鎌倉街道本道の上道(かみつみち)が南北に通り、その二つの街道の分岐する内側に立地しています。<br /><br />雉岡城の築城は「上野国志」という書物によれば、「山内上杉氏が築いたが地形が狭いために上州の平井城に移り、家臣の有田豊後守定基を置いて守らせた」とあります。この有田定基は当寺上野国藤岡城主でしたが、これ以後、雉岡城主となりました。この時に姓を夏目と改めたといいます。夏目定基とその子定盛の二代が城主でした。その後、小田原北条氏が武蔵国に侵攻し、関東管領上杉憲政は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃げ、雉岡城も後北条氏の城となりました。<br /><br />永禄4年頃(1561)に小田原城主北条氏康の三男北条安房守氏邦が鉢形城(寄居町)主となり、現在の秩父郡・大里郡・児玉郡を支配するようになりました。しかしその間は武田信玄や上杉謙信軍の侵攻を受け、その支配は安定しませんでした。天正10年(1582年)に起きた神流川合戦以後、児玉の地は完全に北条氏邦の支配下に入り、氏邦は家臣の横地左近忠晴を雉岡城の城代として派遣して守らせました。<br /><br />天正18年(1580年)に豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めるため軍を進め小田原城を囲むと、豊臣方の北国勢(前田利家・上杉景勝軍)の侵攻を受け、城代横地忠晴は大軍に恐れをなして鉢形城に逃れたといいます。雉岡城は間もなく落城しました。<br /><br />小田原北条氏の滅亡後、関東は徳川家康の支配となり、江戸城に家康が入り関東の体制を整えるため、家康は一族の松平清宗・家清父子に雉岡城(この頃は八幡山城といった)と一万石の領地を与えました。清宗八幡山城で新領地の支配を始めましたが数年で死去し、嫡男の玄蕃頭家清が跡を継ぎました。しかし関ケ原合戦の翌年の慶長6年(1601年)には家清は合戦の勲功により3万石に加増されて三河国(愛知県)吉田へ転付となり、児玉の地を離れました。城は廃城となり建造物等は取り壊されたようで、城の土塁や堀などは残されましたが、跡地は領主持ちの御林となりました。江戸時代後半には城内は開墾され農民に払い下げられ堀は田になり、曲輪などは畑になったようです。<br /><br />江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「城は山により南を首とし、、北を尾とする。東西北の三方はすべて堀を構え、南の一方のみ平地に続き、子の所に大手口あり。大手の前に馬出し跡あり。大手を入り山を登り本丸に至る。この所は山上の平地なり。ここより乾(北西)の方に行ってから堀あり、その西に二の丸曲輪あり、それより北へ降りて三の丸へ至れり。この二・三の丸の隅に丸馬出の跡あり。すべて城中構え構えの土手(土塁)今に依然たり。これより東へまわりて大池あり。城中の固めとせり」と書かれています。<br /><br />現在では、明治時代に三の丸一帯が児玉高等女学校(現在の児玉高校)の敷地となり、その後、本丸から二の丸一帯は児玉中学校の敷地となり、城の遺構の多くが失われています。<br /><br />現在、雉岡城跡は埼玉県指定文化財(史跡)となり、城内には大規模な土塁や堀が残されており、多数の桜が植えられ市民の大切な憩いの場となっています。<br /><br />   作成 本庄市教育委員会文化財保護課 2015.5改訂」    <br />

武蔵児玉 平井城移転までは関東管領山内上杉氏の本拠地であり小田原北条氏との武蔵北部攻防をめぐる覇権争いの要衝地にあった『雉岡城』訪問

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2016/08/28 - 2016/08/28

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR八高線(八王子~高崎)児玉駅より西進約10分の雉岡城(きじがおかじょう、埼玉県本庄市児玉町八幡山)は1460年代に鎌倉府の足利氏を補佐する関東管領山内上杉氏の家臣である夏目実基(なつめ・さねもと)によって築城と伝えられている平城です。

一時山内上杉氏当主の居城でしたが城域が狭いとの理由もあり上野国平井城に拠点を換えたため当該城は夏目定基が初代城主を勤め、子息定盛(さだもり)が2代目城主となります。

天文15年(1546)河越合戦において伸長著しい小田原北条氏に大敗した山内上杉氏はそれまでの勢力を一気に失い、永禄年間(1558~1570)鉢形城に拠点を置く北関東軍管区司令官とでも言うべき北条氏邦(ほうじょう・うじくに、1548~1597)に攻められ開城、以降小田原北条氏の支配下に加えられ、鉢形城の属城として城代横地忠晴(よこち・ただはる)が城代として派遣されます。

天正10年(1590)豊臣秀吉のいわゆる小田原征伐においては、前田利家・上杉景勝らが率いる北国軍の攻略を受けた雉岡城は鉢形城と前後して落城に至ります。

小田原北条氏の旧領を受け継いだ徳川家康は同年8月に江戸に入部、新領地の関東を整えるべく有力な家臣を各地に配し、児玉の地については一門の松平清宗(まつだいら・きよむね、1538~1605)を1万石を以て雉岡城主に封じます。

清宗没後家督を相続し慶長6年(1601)関ケ原の戦いで戦功挙げた嫡男家清(いえきよ、1566~1611)は3万石に加増され三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)に転封されると雉岡城は廃されます。

アスピアこだまに在る「塙保己一記念館」で入手した雉岡城に関する資料には下記の通り記されています。


「 雉 岡 城 に つ い て

雉岡(「きじおか」・「きじがおか」)城は本庄市児玉町八幡山にあり、旧字雉岡の地名をとって付けられた城で、小丘陵上に築かれています。別名を八幡山城ともいいます。15世紀頃に築かれたものと思われ、関東管領山内上杉家・後北条家・松平家と城主を替えて江戸時代の初め頃まで使用されました。

雉岡城は旧児玉町の市街地北西部に築かれており、城の南側を東西に鎌倉街道上杉道が、東側には鎌倉街道本道の上道(かみつみち)が南北に通り、その二つの街道の分岐する内側に立地しています。

雉岡城の築城は「上野国志」という書物によれば、「山内上杉氏が築いたが地形が狭いために上州の平井城に移り、家臣の有田豊後守定基を置いて守らせた」とあります。この有田定基は当寺上野国藤岡城主でしたが、これ以後、雉岡城主となりました。この時に姓を夏目と改めたといいます。夏目定基とその子定盛の二代が城主でした。その後、小田原北条氏が武蔵国に侵攻し、関東管領上杉憲政は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃げ、雉岡城も後北条氏の城となりました。

永禄4年頃(1561)に小田原城主北条氏康の三男北条安房守氏邦が鉢形城(寄居町)主となり、現在の秩父郡・大里郡・児玉郡を支配するようになりました。しかしその間は武田信玄や上杉謙信軍の侵攻を受け、その支配は安定しませんでした。天正10年(1582年)に起きた神流川合戦以後、児玉の地は完全に北条氏邦の支配下に入り、氏邦は家臣の横地左近忠晴を雉岡城の城代として派遣して守らせました。

天正18年(1580年)に豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めるため軍を進め小田原城を囲むと、豊臣方の北国勢(前田利家・上杉景勝軍)の侵攻を受け、城代横地忠晴は大軍に恐れをなして鉢形城に逃れたといいます。雉岡城は間もなく落城しました。

小田原北条氏の滅亡後、関東は徳川家康の支配となり、江戸城に家康が入り関東の体制を整えるため、家康は一族の松平清宗・家清父子に雉岡城(この頃は八幡山城といった)と一万石の領地を与えました。清宗八幡山城で新領地の支配を始めましたが数年で死去し、嫡男の玄蕃頭家清が跡を継ぎました。しかし関ケ原合戦の翌年の慶長6年(1601年)には家清は合戦の勲功により3万石に加増されて三河国(愛知県)吉田へ転付となり、児玉の地を離れました。城は廃城となり建造物等は取り壊されたようで、城の土塁や堀などは残されましたが、跡地は領主持ちの御林となりました。江戸時代後半には城内は開墾され農民に払い下げられ堀は田になり、曲輪などは畑になったようです。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「城は山により南を首とし、、北を尾とする。東西北の三方はすべて堀を構え、南の一方のみ平地に続き、子の所に大手口あり。大手の前に馬出し跡あり。大手を入り山を登り本丸に至る。この所は山上の平地なり。ここより乾(北西)の方に行ってから堀あり、その西に二の丸曲輪あり、それより北へ降りて三の丸へ至れり。この二・三の丸の隅に丸馬出の跡あり。すべて城中構え構えの土手(土塁)今に依然たり。これより東へまわりて大池あり。城中の固めとせり」と書かれています。

現在では、明治時代に三の丸一帯が児玉高等女学校(現在の児玉高校)の敷地となり、その後、本丸から二の丸一帯は児玉中学校の敷地となり、城の遺構の多くが失われています。

現在、雉岡城跡は埼玉県指定文化財(史跡)となり、城内には大規模な土塁や堀が残されており、多数の桜が植えられ市民の大切な憩いの場となっています。

   作成 本庄市教育委員会文化財保護課 2015.5改訂」    

交通手段
JRローカル
  • 雉岡城跡(全景)<br /><br />JR八高線児玉駅から駅前を西進10分で雉岡城跡案内板が見えてきます。現在では城址公園となっています。

    雉岡城跡(全景)

    JR八高線児玉駅から駅前を西進10分で雉岡城跡案内板が見えてきます。現在では城址公園となっています。

  • 児玉霊場と北武蔵の遺跡を訪れるコース案内板<br /><br />雉岡城跡入口の傍らに遺跡を巡るコースが地図入りの案内板にて記されています。

    児玉霊場と北武蔵の遺跡を訪れるコース案内板

    雉岡城跡入口の傍らに遺跡を巡るコースが地図入りの案内板にて記されています。

  • 南の郭虎口<br /><br />城址公園の入口は往時では南の郭あたりに相当します。

    南の郭虎口

    城址公園の入口は往時では南の郭あたりに相当します。

  • 雉岡城跡案内板

    雉岡城跡案内板

  • 南の郭<br /><br />南の郭虎口から左右に道が分かれ、右側に行くと左手に南の郭土塁、右手には湿地帯が見えます。

    南の郭

    南の郭虎口から左右に道が分かれ、右側に行くと左手に南の郭土塁、右手には湿地帯が見えます。

  • 城址公園入口

    城址公園入口

  • 城址公園入口<br /><br />やや緩やかな上り坂となっておりここを通って南の郭に進みます。

    城址公園入口

    やや緩やかな上り坂となっておりここを通って南の郭に進みます。

  • 雉岡城跡・縄張図

    雉岡城跡・縄張図

  • 雉岡城跡・説明板

    雉岡城跡・説明板

  • 塙保己一記念館移転案内<br /><br />以前はこの城跡の中に「塙保己一記念館」があったようです。この城郭見学後新規の記念館を訪ねる事にします。

    塙保己一記念館移転案内

    以前はこの城跡の中に「塙保己一記念館」があったようです。この城郭見学後新規の記念館を訪ねる事にします。

  • 南の郭<br /><br />南の郭から緩やかな坂を上がった所が南の郭上段に相当します。南の郭は虎口から右手、左手へそれぞれ南の郭上段を取り囲むように走ります。

    南の郭

    南の郭から緩やかな坂を上がった所が南の郭上段に相当します。南の郭は虎口から右手、左手へそれぞれ南の郭上段を取り囲むように走ります。

  • 雉岡城跡・石碑

    雉岡城跡・石碑

  • 「雉岡城跡と周辺の文化財」案内板<br /><br />南の郭虎口から右手に廻る途中に案内板が建っています。

    「雉岡城跡と周辺の文化財」案内板

    南の郭虎口から右手に廻る途中に案内板が建っています。

  • 南の郭上段<br /><br />虎口から南の郭が右手から南の郭上段を取り囲んでいます。

    南の郭上段

    虎口から南の郭が右手から南の郭上段を取り囲んでいます。

  • 南の郭上段<br /><br />虎口から南の郭上段を左手に見ながら南の郭を進みます。

    南の郭上段

    虎口から南の郭上段を左手に見ながら南の郭を進みます。

  • 水堀<br /><br />今度は反対側の右手を見るとなだらかな下降線の向こうには湿地が視野に入ります。

    水堀

    今度は反対側の右手を見るとなだらかな下降線の向こうには湿地が視野に入ります。

  • 湿地帯<br /><br />かつては南北を走る水堀となっていたと思われます。<br /><br />

    湿地帯

    かつては南北を走る水堀となっていたと思われます。

  • 南の郭に建つ石碑<br /><br />南の郭上段の右手には石碑があります。<br />

    南の郭に建つ石碑

    南の郭上段の右手には石碑があります。

  • 城址公園入口<br /><br />南の郭から振返って城址公園の入口を捉えます。

    城址公園入口

    南の郭から振返って城址公園の入口を捉えます。

  • 南の郭上段<br /><br />南の郭の緩やかな坂道を上ってゆくと南の郭上段に繋がります。

    南の郭上段

    南の郭の緩やかな坂道を上ってゆくと南の郭上段に繋がります。

  • 南の郭上段中央部<br />

    南の郭上段中央部

  • 南の郭上段(北東側)<br /><br />南の郭上段を取り囲むように南の郭が廻っています。

    南の郭上段(北東側)

    南の郭上段を取り囲むように南の郭が廻っています。

  • 南の郭上段<br /><br />中央部にはあずまやが配されており、城址公園を訪れる人の休憩所となっています。

    南の郭上段

    中央部にはあずまやが配されており、城址公園を訪れる人の休憩所となっています。

  • 深い空堀<br /><br />南の郭上段(手前側)と三の郭(向う側)の間には5~6mとも思われる深い空堀が横たわっています。尚堀底には「よなき石」と記された立札が建っています。<br />

    深い空堀

    南の郭上段(手前側)と三の郭(向う側)の間には5~6mとも思われる深い空堀が横たわっています。尚堀底には「よなき石」と記された立札が建っています。

  • 大規模空堀<br /><br />南の郭と三の郭の間に配された東西に走る深い空堀の姿は見応えがあります。

    大規模空堀

    南の郭と三の郭の間に配された東西に走る深い空堀の姿は見応えがあります。

  • 夜泣き石説明板

    夜泣き石説明板

  • 馬出<br /><br />右手一段高い四方形は角馬出で、従来は塙保己一記念館としてこの馬出の跡に建てられていました。現在は児玉総合支所の一角に新設移転しています。

    馬出

    右手一段高い四方形は角馬出で、従来は塙保己一記念館としてこの馬出の跡に建てられていました。現在は児玉総合支所の一角に新設移転しています。

  • <br />土橋<br /><br />角馬出から三の郭に繋がる土橋が見られます。


    土橋

    角馬出から三の郭に繋がる土橋が見られます。

  • <br />失われた二の郭<br /><br />二の郭は大部分が消滅して児玉中学校の敷地と化し、僅かに東端が残され回廊として南北に有しているだけです。


    失われた二の郭

    二の郭は大部分が消滅して児玉中学校の敷地と化し、僅かに東端が残され回廊として南北に有しているだけです。

  • 南の郭南端<br /><br />角馬出から空堀を越えて南の郭南端を一望します。

    南の郭南端

    角馬出から空堀を越えて南の郭南端を一望します。

  • 大規模空堀<br /><br />土橋付近から「よなき石」立札が建っている大規模空堀を一望します。

    大規模空堀

    土橋付近から「よなき石」立札が建っている大規模空堀を一望します。

  • 南の郭上段中央部<br /><br />南の郭上段の南西部から振り返ってあずまやが配されている中央部を展望します。

    南の郭上段中央部

    南の郭上段の南西部から振り返ってあずまやが配されている中央部を展望します。

  • 南の郭<br /><br />南の郭が虎口から左側の南の郭上段を取り囲むように南側(手前)を走ります。

    南の郭

    南の郭が虎口から左側の南の郭上段を取り囲むように南側(手前)を走ります。

  • 南の郭上段南西部<br /><br />南の郭上段の中ではやや高くなっており、例えば見張台のようなものが配されていたかも知れません。

    南の郭上段南西部

    南の郭上段の中ではやや高くなっており、例えば見張台のようなものが配されていたかも知れません。

  • 南の郭上段西端<br /><br />金網の先は断崖となっておりその先は児玉中学校の敷地(駐車場)となっています。

    南の郭上段西端

    金網の先は断崖となっておりその先は児玉中学校の敷地(駐車場)となっています。

  • 雉岡城跡説明板<br /><br />西端に建てられた雉岡城跡説明板、公園入口に建てられていた説明板より詳しく記されています。

    雉岡城跡説明板

    西端に建てられた雉岡城跡説明板、公園入口に建てられていた説明板より詳しく記されています。

  • 雉岡城縄張図(拡大)

    雉岡城縄張図(拡大)

  • 二の郭跡<br /><br />すっかり土台から削られ往時の二の郭のイメージはすっかりなく、現在では児玉中学校の敷地(駐車場・体育館)に姿を変えています。

    二の郭跡

    すっかり土台から削られ往時の二の郭のイメージはすっかりなく、現在では児玉中学校の敷地(駐車場・体育館)に姿を変えています。

  • 土塁<br /><br />南の郭上段の南側を東西に走る土塁が大規模に配されています。

    土塁

    南の郭上段の南側を東西に走る土塁が大規模に配されています。

  • 水堀跡<br /><br />南の郭上段の南側を東西に走る土塁の外部は四の郭並びに五の郭を取り囲む水堀となっていましたが、現在では埋め立てられ道路となっています。

    水堀跡

    南の郭上段の南側を東西に走る土塁の外部は四の郭並びに五の郭を取り囲む水堀となっていましたが、現在では埋め立てられ道路となっています。

  • 南の郭上段風景<br /><br />南の郭上段の南端部から馬出方向を一望します。

    南の郭上段風景

    南の郭上段の南端部から馬出方向を一望します。

  • 騎乗の武将像<br /><br />南の郭上段の西南隅にミニチュアの騎乗武将像が配されています。

    騎乗の武将像

    南の郭上段の西南隅にミニチュアの騎乗武将像が配されています。

  • 騎乗の武将像(近景)<br /><br />詳しい説明は一切ありません。

    騎乗の武将像(近景)

    詳しい説明は一切ありません。

  • 池<br /><br />南の郭上段(手前)と二の郭(向う側)に挟まれた低地には池が横たわっており、火ついては水堀だった可能性があります。



    南の郭上段(手前)と二の郭(向う側)に挟まれた低地には池が横たわっており、火ついては水堀だった可能性があります。

  • 池<br /><br />南の郭上段から降りて「く」の字に折れ曲がった池に接近します。



    南の郭上段から降りて「く」の字に折れ曲がった池に接近します。

  • 池

  • 二の郭<br /><br />南の郭上段から池を経て二の郭を見上げます。<br /><br /><br /><br />

    二の郭

    南の郭上段から池を経て二の郭を見上げます。



  • 湿地帯風景

    湿地帯風景

  • 池と二の郭

    池と二の郭

  • 源泉の井戸説明板

    源泉の井戸説明板

  • 二の郭土塁<br /><br />池を二の郭の一部が取り囲み、立ち往生している敵方に対し攻撃できる状況となっています。

    二の郭土塁

    池を二の郭の一部が取り囲み、立ち往生している敵方に対し攻撃できる状況となっています。

  • 二の郭土塁

    二の郭土塁

  • 二の郭に繋がる階段<br /><br />階段を上り切り回廊となった二の郭を左折し南進します。<br /><br />

    二の郭に繋がる階段

    階段を上り切り回廊となった二の郭を左折し南進します。

  • 金毘羅神社<br /><br />回廊を南進すると鳥居にぶっつかり「金毘羅神社」と刻された石標が見られます。

    金毘羅神社

    回廊を南進すると鳥居にぶっつかり「金毘羅神社」と刻された石標が見られます。

  • 金毘羅神社本殿<br /><br />鳥居から引き返し金毘羅神社の参道の役割をしている二の郭回廊を北進します。<br /><br />

    金毘羅神社本殿

    鳥居から引き返し金毘羅神社の参道の役割をしている二の郭回廊を北進します。

  • 金毘羅神社本殿(近景)

    金毘羅神社本殿(近景)

  • 二の郭(回廊)<br /><br />左手に児玉中学校の校舎を見ながら残された回廊となった二の郭を北進します。

    二の郭(回廊)

    左手に児玉中学校の校舎を見ながら残された回廊となった二の郭を北進します。

  • 主郭<br /><br />二の郭より幾分段差の高い回廊となった主郭を進みます。

    主郭

    二の郭より幾分段差の高い回廊となった主郭を進みます。

  • 主郭(回廊)

    主郭(回廊)

  • 主郭(回廊)<br /><br />左手には切削され平坦地と化した児玉中学校の校舎が控えています。

    主郭(回廊)

    左手には切削され平坦地と化した児玉中学校の校舎が控えています。

  • 主郭(回廊)<br /><br />消滅した主郭は東端部しか残されおらず、そのため見た目には尾根または土塁の上を進んでいるような印象しかありません。

    主郭(回廊)

    消滅した主郭は東端部しか残されおらず、そのため見た目には尾根または土塁の上を進んでいるような印象しかありません。

  • 主郭(回廊)<br /><br />突き進むと主郭(回廊)は終了し、右脇には下る小道が配されています。

    主郭(回廊)

    突き進むと主郭(回廊)は終了し、右脇には下る小道が配されています。

  • 三の郭<br /><br />主郭の回廊が終わり小道を下ると正面に金網らしきものが視野に入ります。

    三の郭

    主郭の回廊が終わり小道を下ると正面に金網らしきものが視野に入ります。

  • 三の郭<br /><br />突き当りは児玉高校のグランドであることが判ります。つまり当時の三の郭跡になります。ここでも完全に城郭としての佇まいは消え去りどこで見かけるグランドしかありません。

    三の郭

    突き当りは児玉高校のグランドであることが判ります。つまり当時の三の郭跡になります。ここでも完全に城郭としての佇まいは消え去りどこで見かけるグランドしかありません。

  • 下りてきた小道<br /><br />金網で遮断されたグランドから振り返ります。

    下りてきた小道

    金網で遮断されたグランドから振り返ります。

  • 二の郭跡<br /><br />すっかり切削されて児玉中学校の体育館並びに駐車場と化しています。

    二の郭跡

    すっかり切削されて児玉中学校の体育館並びに駐車場と化しています。

  • 二の郭跡<br /><br />現在では主郭も含め児玉中学校敷地となっています。

    二の郭跡

    現在では主郭も含め児玉中学校敷地となっています。

  • 児玉中学校グランド<br /><br />ここも城域の一部でありました。当時の様子を想い起すものは何一つありません。

    児玉中学校グランド

    ここも城域の一部でありました。当時の様子を想い起すものは何一つありません。

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