2016/03/23 - 2016/03/23
212位(同エリア394件中)
カンゲンさん
小笠原の旅も今日が最終日です。
午後のおがさわら丸で東京竹芝桟橋に向かいます。
おがさわら丸の運行日は、
1日目 東京竹芝桟橋を 10:00出港
2日目 父島二見港に 11:30入港
5日目 父島二見港を 14:00出港
6日目 東京竹芝桟橋に 15:30入港
後1日、2日あると父島をじっくり見て回れるのですが。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 船
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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父島での最後の朝ごはん、しっかり頂きました。
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扇浦海岸、今朝も快晴です。
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ホテルの周辺を時間まで回ってみました。
午後の出港時間に間に合うよう、ホテルが車を用意してくれるそうです。 -
扇浦遊歩道
桑ノ木山方面は、大雨による崩壊で通行できませんでした。 -
小笠原神社の鳥居
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小笠原神社は、小笠原諸島を発見したとされる小笠原貞頼を祀った神社。
神社の奥に「無人島発見之碑」です。
天正20年(1593年)、信濃国深志城の城主小笠原貞頼が、八丈島の東南洋上に無人島を発見、徳川家康から小笠原島の名を賜ったと伝えられている。 -
小笠原開拓碑
付近一帯には、様々な石碑が建っていました。
延宝3年(1675年)、江戸幕府が調査船富国寿丸を派遣し、「此島大日本之内也」という碑を設置しました。 -
小笠原新治碑は、小笠原諸島が日本の領土であることを示すため建てられた碑です。
文久元年(1862)、咸臨丸で品川港から積み込まれこの地に建立されました。 -
にほへ碑
文久2年8月(1862年9月)、八丈島の移民を乗せた幕府軍艦朝陽丸で、この碑を運搬し奥村の地に建立しました。
開拓農民30名のうち8名が子どもでした。幕府役人の原又吉は、子どもたちに読み書き手習いを教えました。
この碑は、使い終えた筆を供養するための筆塚として文久2年の冬に建てられました。 -
無人島発見之碑
嘉永6年(1853年)
米東インド艦隊司令官ペリーが日本に行く途中、父島二見港に寄港。
島民に牛、羊、山羊や野菜の種子を与え、石炭補給所用の土地を購入。
文久2年(1863年)
幕府は駐日の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告。
八丈島から日本人37名が父島に定住。内務省出張所を設置。
昭和21年(1946年)
連合軍により、日本の小笠原諸島への施政権が停止される。
昭和43年(1968年)
南方諸島に関する日米協定が発効し、日本に返還。
東京都小笠原村に属する。 -
遊歩道を歩いていくとトーチカ跡が
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納涼山(すずみやま)
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納涼山頂上から、二見港とおがさわら丸が、手前右に天狗鼻も見られました。
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扇浦
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納涼山から
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外来種対策実験用電気柵
小型のソーラーパネルを見かけたのでこちらの電源だったようです。 -
人が通った様なヶ所を探しながら森の中を進みます。
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軍用道路に下ってきました。
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連珠トンネル(軍用隧道)
昭和15年(1940)に、軍事利用を目的に整備された特別国道「特30号」の一部です。 -
センサーがあり、自動で照明が点灯しました。
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素掘りトンネルです。
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トンネルを抜けるとこんな感じ。
時間がないので此処で引き返しました。 -
トンネルの抗口
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ホテルに戻り、二見港に送ってもらいました。
乗船までの僅かな時間、二見港の周辺を散歩。
大村海岸で -
大村海岸で
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おがさわらまる
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岸壁には見送る島民がいっぱい、進学や就職で島を離れる若者が多数いるので満席に近いそうです。
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敬礼
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小笠原空港早期開港のスローガンも
賛否両論あるようですが、島民の気持ちもわかります。 -
定刻の14時、船が離れます。
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どこからか見送りの船が突然現れました。
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並走して見送ってくれます。
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見送りする漁船
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見送りする漁船
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さようなら〜 アリガトウございました。
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翌日12時過ぎ、房総半島が見えてくる。
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14時半、羽田空港沖
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15時、レインボーブリッジを通過。
15時30分、竹芝桟橋に到着。
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