2016/05/14 - 2016/05/14
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frau.himmelさん
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前編では、数々の学者を輩出したチュービンゲン大学や、美しいシュティフト教会などをご報告いたしました。
後編では、ノーベル賞作家ヘルマンヘッセが働いていた書店を訪れ、ネッカー川の中州プラターネンアレーを散策して美しい街並みを眺めます。
食事はチュービンゲンの有名店「ネッカーミューラー」でシュヴァーベンの郷土料理「マウルタッシェン」をいただきました。
街の方々は私たち日本人のシニアに大変好意的に接してくれました。ますます美しいチュービンゲンという街が好きになりました。
しかし、チュービンゲンに限らず、日本人に好意的というのは裏を返せば、隣国の旅行者がいろんなところで評判を落としている反動でしょうかね。
同じアジア人としては複雑な心境です。
**(8月28日追記)
最下段にナチスとローレライの作曲家ジルヒャーとの関係について追記しました。
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ホルツマルクト広場のシュティフト教会の前には、ヘッケンハウアー書店があります。
日本でも広く知られるノーベル賞作家のヘルマン・ヘッセが若いころ働いていました。 -
ヘッセは1895年から1899年の4年間この書店で働いていました。
現在は、博物館として、ヘルマン・ヘッセに関連する資料や、ヘッケンハウアー書店の歴史などが展示されています。 -
ここで私たちは大変ラッキーだったことに気が付きました。
この博物館が開いているのは、木14:00〜18:00、金・土の11:00〜18:00。オープンしているのはこの3日のみでしかも時間も短い。
今日は土曜日で今午後1時。
運よく開館している日に遭遇したのです。 -
中に入ると、壁にびっしりと並べられた貴重な蔵書の数々。
真ん中にはらせん階段が通っています。
◇◆ヘルマン・ヘッセとは
1877年黒い森に抱かれた美しい街カルフで生まれたヘルマン・ヘッセは、子供のころより将来を嘱望された神童でした。
14歳で難関のマウルブロン神学校に入学しますが、途中で挫折し退学してしまいます。
彼はたいへん傷つきやすい性格で、自殺未遂や精神病院へ入院など様々な経験を重ねます。 -
店内にはソファーなどが置かれ、本を手に取ってゆっくり眺めることができるようになっています。
手前の写真は、当時のヘッケンハウアー店主のカール・アウグスト・ゾンネヴァルトや、その家族たちでしょうか。
◇◆
しかし、17歳のときに店員としてこの書店で働き始めたヘッセは、大好きな本に囲まれた毎日を過ごし、辛いながらも、詩作や散文などの創作活動に意欲を燃やしました。 -
その後、さまざまな職に就きながら作品を発表し、作家として成功を収めていくのです。
ナチスが政権を掌握した後は、彼の作品もトーマス・マンと同じく退廃芸術のレッテルを貼られ、創作活動が制限されました。
平和主義者のヘッセは、ドイツを離れスイスに移り住みます。
ドイツ敗戦後の1946年、彼はノーベル文学賞を受賞しました。 -
ヘッセ博物館の蔵書を眺めて(まさに眺めるだけ)いたら、係の女性に話しかけられました。
「日本の方ですか?」と。
「そうです」と答えると、「そうだと思っていました。」ってとてもフレンドリーな感じで言われました。
きっとここを訪れた日本人の印象がとても良かったのでしょうね。
うれしいことです。
そして、いろいろな資料を見せながら、ヘルマン・ヘッセのことを説明してくださいました。 -
ただ悲しきかな、ヘッセ自筆の手紙やヘッセ宛ての手紙など、説明していただいたのだけど、よく理解できませんでした。
この手紙は、私には難しくて文字も読めませんが、日付が1894年11月22日となっていますので、この書店に勤める前年のことですね。 -
こちらは、下の説明では、1897年10月18日の母の誕生日のお祝いの手紙らしいです。
1897年はといえば、ヘッセがこのヘッケンハウアー書店で働いているころです。 -
また係の女性は大変興味深い話をしてくれました。
この写真の女性はヘルマンヘッセの孫娘エヴァ・ヘッセ。
ヘッセの次男のハイナーの娘です。
彼女がこの書店を訪れた時の写真のようです。
エヴァ・ヘッセは、動物の絵を描く画家で、今もご存命でイタリアに住んでいらっしゃるとのことです。 -
その絵を見せていただきました。
猫の絵が多く、その表情が可愛い〜〜。
私たちは、ヘルマンヘッセの博物館を訪れた記念に、ハガキを数枚買い求めました。
1枚2ユーロでした。 -
はがきの裏には、直筆でEva Hesseのサイン入り。
親切な女性係員さんの思い出とともに、たいへんいいお土産になりました。 -
記念撮影をお願いしたら、じゃーヘルマンヘッセを中にしてねと、写真を抱えて応じてくださいました。
とてもフレンドリーな感じのいい女性でした。
ヘルマンヘッセに別れを告げて外に出ます。 -
ヘッセの博物館を出るとすっかり雨も上がっていました。
待ちかねたように街に繰り出した人々。
さすがに私たちもお腹がすきましたねー。
もう1件私が目をつけていたレストランがありますので、この坂を下ってそちらに向かいます。 -
ダンキンドーナツが入っているお店の建物は壁絵が素晴らしい。
この坂をもう少し下ればネッカー川に出ます。 -
-
ネッカー川に架かるエバーハルト橋の上に立って、旧市街方向を眺めます。
川にはチュービンゲン大学の学生さんが操る小舟が数隻、河畔の石壁に座っている人々、チュービンゲンの風物詩です。 -
その反対側のレストラン「ネッカーミューラー」。
前回訪れた時にホテルから見えたレストランです。
ここに入ってみたいなーと思いながらとうとう果たせなかったお店です。
今回チュービンゲンの食事はラーツケラーかここと決めていました。 -
ところが人気店とあってこの盛況ぶり。
若い店員さんが相席になるけどーと言って、席に案内してくれました。 -
このお店は自家製ビールを出してくれるところ、さっそくお店と同じ名前のネッカーミューラーというビールをいただきます。
大きいサイズはK氏の500ml、小さいサイズは300mlで、I女史と私。 -
いいのです小さい方で。この後の楽しみがありますから。
でも飲めるならば絶対大きいほうがいいですよ。
大3.5ユーロ、小2.9ユーロ、200miも量が違うのに、金額の差はわずか0.6ユーロ。
お料理を注文してビールをいただいていると、さっきの店員さんが私たちに、川べりの窓辺が空いたからそちらに移っていいよ、と言ってくれました。
えっいいの?
店内は満員なのに、あえて私たちに声をかけてくれた店員さんに感謝です。 -
わあーここは特等席です。
さっきの雨で水は少し濁っていますが、右手にはエバーハルト橋、川向うの橋のたもとにはチュービンゲンの観光案内所。 -
それだけではない、チュービンゲン大学の学生さんが、5月から9月の間だけアルバイトで小舟を操るシュトッハーカーンも目の前に見えます。
そして、写真左端に見える白い建物は私が前回3泊したホテル・ドミツィルではありませんか。
ホテルの窓から見えたこのレストランの賑わいを見て、行ってみたいと思っていたのでした。 -
お料理はシュヴァーベン地方の郷土料理「マウルタッシェン」をいただきます。
ポテトの量がちょっと多いけど、ドイツ風ラビオリは私たちシニアにも十分食べられる量です。
私たちにお料理を持ってきた店員さん、怪しげな日本語で話しかけます。
「いただきました・・・」
???
たぶんドイツ語の「Guten Appetit!:美味しく召し上がれ!」のつもりだと思います(笑)。 -
この店員さんだけでなく、ちょっと中年の店員さんも私たちのことを気にかけてニコニコと接してくれます。
嬉しいですね、異国の地でレストランで食事をするってある程度緊張するもの、こんな風に好意的に接してくださると、次もまた行きたいと思いますものね。
さて、こちらは別な舟。
大勢の観光客が乗っています。 -
お客と船頭さんの息もぴったり合って、和気藹々。
-
次に私たちはお楽しみのワインもいただきます。
最近ビールの次はワインというパターンが多いですね。
乾杯をして一口飲んだ後、「ウィーー、うまいねー♪」。もうたまらないといった声が、期せずして3人の口から同時に発せられます(笑)。
本当に飲兵衛旅なのです。 -
お店はますます混んできました。
お食事を終えて会計をお願いすると若い店員さんのまたまた怪しい日本語。
「うまいですか?」
???。
たぶん美味しかったですか?って言っているつもりでしょうね。
もちろんチップはいつもよりはずみました。 -
帰る時には先ほどの中年の店員さんも、日本語で「さようなら」ってお見送りしてくれました。
ビールもワインもお料理もおいしかったけど、一番心に残ったのは、窓側の席に移動させてくれて、いろいろ怪しい日本語で話しかけて気を遣ってくれたやさしい店員さんたちかなー。 -
またまたここでもチュービンゲンで嬉しい思い出が一つできました。
エバーハルト橋からもう一度旧市街の方を。
ひときわ高い尖塔はシィティフト教会。
川畔にはパステルカラーのかわいい三角屋根の家並み。
川が濁っているのがちょっと残念だけど、何度見ても本当に絵になる風景です。 -
川縁の石壁に座っている人たち、怖くないのかしら?
カフェのテラス席でお食事している人々。 -
川の中州に降ります。
プラターネンアレー。
ここはプラタナスの並木が1kmに渡って続く散歩道。
19世紀に造られた人工の中洲です。
チュービンゲンに来て、ここを歩かなかったらK氏I女史は後で後悔するでしょうね。
「私はそのベンチで少し休んでいるから、お二人でこの中ほどまでお散歩して来てください。」 -
足が痛くなった私は、近くの風景を写しながら待つことにします。
中央にそびえる高い塔はさきほど行ってきたシュティフト教会、その左横の大きな建物はアルテ・アウラ(旧大学本館)。
そして川岸には大きな柳が枝垂れています。 -
柳の木の下に停泊しているシュトッハーカーン。
ここが乗り場になっているようです。
アルバイトの学生が櫂を操って、ネッカー川の中州を一周してくれます。
この風景は、5月から10月までの期間限定で、夏の風物詩になっているとか。 -
新緑の間から見えるとんがり帽子の黄色い塔はヘルダーリンの塔。
ドイツの有名な詩人ヘルダーリンが、ここでネッカー川の流れを眺めながら亡くなるまでの30年間を過ごしました。 -
彼は、30代の中ごろより精神を病み、彼のファンであった家具職人に引き取られます。
この家は家具職人の家でした。
彼の部屋はネッカー川に突き出た塔の中の部屋。
ここで、彼は、毎日ネッカー川を眺めながら、時折詩を作ったりしながら幽閉生活を送りました。 -
ヘルダーリンが幽閉されていた部屋の窓の下には、木々の間から銅像が見えます。
なにやら苦悶に満ちた表情の像。 -
ヘルダーリンの塔の左上に見えるピンク色の建物はブルゼ。
15世紀に学生寮として建てられ、後に病院として使われました。
ヘルダーリンは、精神病患者としてここに入院していました。
その上に見える大きな建物はアルテ・アウラ。
チュービンゲン大学旧校舎です。
ヘルダーリンはチュービンゲン大学神学校で学びました。 -
ほんとに飽きない風景です。
こんな私のヘボ写真でもきれいに見えるのは風景のお蔭です。 -
丘の上には先ほど登ったホーエンチュービンゲン城が見えます。
-
こんな近くにステッハーカーン。みんな笑顔。
船頭さんがなにか面白いことを言って笑わせているのですね。 -
-
並木道の反対側ではボール遊びをやっている人々。
楽しそう〜〜。 -
K氏とI女史が戻ってきました。
中ほどにあるジルヒャーの銅像のところまで行ってきたそうです。
フリードリヒ・ジルヒャー(1789-1860)。
指揮者でもあり、作曲家でもあった彼は多くの名曲を残しました。
日本でも、明治時代から歌い継がれてきた懐かしい唱歌「ローレライ」は彼の作です。
これはハインリッヒ・ハイネの詩に曲をつけたものです。
その他、彼の曲として私たちでも知っている有名な曲に「菩提樹」「ムシデン」などがあります。
jijidarumaさんからとても詳しいコメントをいただいていますので、そちらもご覧ください。 -
K氏が、ドイツ現代史に興味を持っている私のためにこんな写真を撮ってきてくれました。
ジルヒャーとナチス、やはりなにか繋がりがあるのだろうか?
調べたら出てきました。
ローレライの作詞のハインリッヒ・ハイネはご存知のようにユダヤ人なので、ナチスの焚書に指定されました。
しかしジルヒャーが作曲した「ローレライ」はドイツ国民の間であまりにも有名だったため、禁止処分にできなかった。
そこで作詞者匿名として歌い継がれたそうです。 -
また、「Der gute kamerad」という歌があります。
これはチュービンゲン大学の教授も務め、ドイツ詩人のウーラントの詩にジルヒャーが1825年に曲をつけたもの。
「良き同志」という意味です。日本流に言えば「同期の桜」のようなものかなと思いましたが、実際に聴いてみると「葬送曲」のような感じの曲です。
https://www.youtube.com/watch?v=8LOf4ci1_WU
これも戦死した兵士の葬送曲としてナチスも使ったようです。 -
それではプラターネンアレーの中ほどにある小橋を通って駅に行きましょう。
向こうに見える橋がエバーハルト橋です。 -
この銅像の主こそが、これまで何度も名前が挙がったウーラント。
ドイツロマン派の詩人、ルートヴィッヒ・ウーラント(1787-1862)。
チュービンゲン生まれで、政治家でもあり、チュービンゲン大学の教授もつとめた人で、チュービンゲンでは最も有名な偉人です。
この広場は「ウーラント広場」、その前の通りは「ウーラント通り」、また近くには「ウーラントギムナジウム」という学校もあります。" -
この公園を抜けるとすぐ駅です。
-
チュービンゲン駅からシュツッツガルトに向かいます。
-
(追記)
やはりこの像がナチスのプロパガンダ(宣伝用)に使われていたのではないかという理由を探し出しました。
この像が造られたのは1939年から1941年にかけて。
ナチス政権の真っただ中ですね。
ナチスはこの国民的作曲家を唱歌運動の「父」として祭りあげました。
写真は建造された当時のジルヒャー像。(ネットより拝借)
その背中には戦う勇敢な兵士の像が彫られていますね。まさにジルヒャー像を利用したプロパガンダ。
現在は4枚上の写真のように、ジルヒャーの音楽に心酔しているような青年の像に変えられています。
ジルヒャー自身も、まさか自分の曲が、100年以上もたってナチスのプロパガンダに使われようなんて、夢にも思わなかったでしょうね。
きっと草葉の陰で憤慨していることでしょう。
(上記写真の中の文章を一部記述しておきます)
Dieses Denkmal wurde 1941 zu Ehren des volkstuemlichen Komponisten Friedrich Silher(1789-1860)errichtet. Die Nationalsozialisten machten damit den "Vater"der Sangesbewegung zu einer Symbolfiguer ihres Gedankenguts, was der ideologischen Vorbereitung und Verklaerung des Kriegs diente.
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この旅行記へのコメント (7)
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- jijidarumaさん 2016/08/27 17:50:39
- Ich hatt' einen Kameraden(私には一人の戦友がいた)
- himmelさん
こんにちは。
Philipp Friedrich Silcher フィリップ・フリードリヒ・ジルヒャーの作品群を見ると、結構世に知られた作曲を残したようですね。
お聞きになったか、分かりませんが、
ご参考に、Ich hatt' einen Kameradenの曲(私には一人の戦友がいた)、The good Comrade 、Le Bon Compagnon
(3か国語)を添付します。なかなか荘重です。
今でもドイツ兵士が外地等で亡くなると、この曲でもって葬送されると聞きますから、しっかりドイツに根付いた曲のようです。
https://www.youtube.com/watch?v=8LOf4ci1_WU
ドイツロマン派の詩人ルートヴィッヒ・ウーラントの詩(1809年作)に、ジルヒャーが曲(1825年)をつけたもので、ナポレオン戦争(1803〜1815年)からウィーン会議後のウィーン体制下の頃にあたりますから、ドイツとして、ドイツ人としても中途半端な時期にあったと思われます。
作られた詞も曲も戦友の死を悲しむといった趣が顕著ですし、作られた時代も違います。第一次大戦、ワーマール時代から国家主義的なドイツに進むまで凡そ100年以上の長い時間があります。
ですから、ナチスとは無関係に、この歌は人々に歌い継がれたのでしょう。
Ich hatt’ einen Kameraden(私には一人の戦友がいた)と共に、世に知られている(私が知っている!)ジルヒャーの作品群は
Der Lindenbaum (Am Brunnen vor dem Tore; Bearbeitung der Komposition von Franz Schubertシューベルトの菩提樹)
Lorelei (Ich weiss nicht, was soll es bedeutenハイネのローレライ)
Muss i denn, muss i denn zum Staedtele hinaus(別れの歌 ムシデン、僕は町を離れねばならない)
Der Mai ist gekommen(麗しの五月がやってきた)
Alle Jahre wieder(年ごとに来たる)・・・があります。
また ドイツの愛唱歌にDie Wacht am Rhein(ラインの守り)があり、同志社大学の校歌の元になっているので、よく知られていますが、
https://www.youtube.com/watch?v=9JT-xxcD9_w
Was ist des Deutschen Vaterland(ドイツ人の祖国とは何ぞ・1813年)という歌をご存知でしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=xqAKJdv3fqU
これは作詞者Ernst Moritz Arndtエルンスト・モーリッツ・アルント(1769-1860)が作詞し、Gustav Reichardtグスタフ・ライヒャルトが作曲したものです。ナポレオン戦争(1803〜1815年)の真っ只中、ナポレオン軍のドイツ侵攻に際して反フランス活動に勤め、幾つもの愛国詩を残してドイツ・ナショナリズムの高揚に寄与しました。
ここに掲載した「ドイツ人の祖国とは何ぞ」(1813年)ほか、「真金練り給ひし大神」(1812年)などが有名だそうです。
歌詞の一番は
ドイツ人の祖国とは何ぞ。 そはプロイセンか、シュヴァーベンか。 或いはライン河畔 の葡萄の実るところか、 ベルト河畔の鴎の羽搏くところか。
おお、否、否、否! ドイツ人 の祖国はより大なるべし!
「ドイツ人の祖国とは何ぞ」の詩は、いまだ統一国家を持ち得なかったドイツ諸邦では統一運動の象徴として歌われ、幾つもの曲がつけられていました。その中でも1825年にグスタフ・ライヒャルトがつけた曲がもっとも好評で、今日ではこの曲にあわせて歌われているそうです(ドイツ国歌の一部が問題があると歌われていない番がありますが、さて、この曲も同じような点を抱えていますが、どうなのでしょうね。)
1871年、ドイツ帝国の成立。
一つの歌に拘り、いろいろと飛び、つい長いコメントとなりました。
ご容赦ください。
歌は歴史と共にありますね。
jijidaruma
- frau.himmelさん からの返信 2016/08/28 12:02:17
- RE: Ich hatt' einen Kameraden(私には一人の戦友がいた)
- jijidarumaさん、こんにちは。
いつも興味深いコメントありがとうございます。
拝見していてワクワクしてまいりました。
ジルヒャーの曲、菩提樹やムシデンもそうだったのですか?
ドイツの有名な唱歌作曲家だったのですね。
日本で言えば、滝廉太郎とか山田耕作と言った国民的な作曲家だったのですね。
それからジルヒャーとナチス、年代が違いますから関係なさそうに思えますが、やはりナチスのプロパガンダとして利用されていたようですね。
ワーグナーほど有名ではありませんが。
jjiidarumaさんからコメントをいただいた後に少し調べてみました。
そしてあの像はナチス政権時代に造られたもので、背中にはとんでもないものを背負っていました。
そのあたりは旅行記に追記しましたのでご覧になってくださるとうれしいです。
今後ともいろいろ教えてくださいませ。
himmel
- jijidarumaさん からの返信 2016/08/28 17:56:31
- Ich hatt' einen Kameraden(私には一人の戦友がいた)その2
- himmelさん
こんにちは。ご返信ありがとうございました。
また、お調べの上、旅行記内にも新たに追記された事、拝見しました。
参考になり、嬉しいです。
ドイツにはVolkstrauertag国民哀悼の日 (こくみんあいとうのひ:今年は 2016,Sonntag, den 13.11.2016)があり、この日はドイツの戦没者ならびにナチ党の暴力支配の犠牲者を追悼する記念日です。
1993年来、「国民哀悼の日」の中央式典 (Gedenkstunde) はベルリンの連邦議会で執り行われ、首相、閣僚、在ベルリン外交団の臨席の下に連邦大統領が式辞を述べ、国歌と葬送の歌である「Ich hatte einen Kameraden(私には一人の戦友がいた)」が演奏されます。この後、連邦大統領がノイエ・ヴァッヘに献花すると云う。
ドイツ各地にある戦没者追悼碑の前でも同様な式典が執り行われるのは言うまでもなく、あるいはBundesheerオーストリア連邦軍やBundespolizeiオーストリア警察でもこの歌が奏されるとあります。
「Ich hatte einen Kameraden(私には一人の戦友がいた)」は長く市民権を持っているわけです。
さて、K氏が、ドイツ現代史に興味を持っている私のためにこんな写真を撮ってきてくれました。=>
と書かれて、ジルヒャーの像設立時の写真が載せられていましたので、ナチスのプロパガンダとして利用されていた様子が写真を見ると勿論、分かりました。
気の毒にも時代に利用されたジルヒャー夫妻の写真なども見え、ドイツ語の題字もSilcherdenkmal(ジルヒャーの記念碑像)、Die Vereinnahmung der Kuenste im Nationalsozialismus(ナチスが芸術から受けた収益!・・・直訳ながら、意味はお分かりになるでしょう)とあります。
私の先のコメントが少々舌足らずだったようで、上述した理解の如く、この時期の国威高揚の為にしたナチスのプロパガンダを否定したわけではありません。
「ですから、ナチスとは無関係に、この歌は人々に歌い継がれたのでしょう。」のセンテンスは、
歌はその時代の人々と在り、国民的な作曲家ジルヒャーの評価、彼が作曲した歌の評価が、時代により大きく左右されたものではなく、その人々が支持して歌い継がれたのだと思ったのです。ワーグナー音楽が今も好まれるのも、同じだろうと思料しています。それだからこそ、その歌や曲が今に残る価値があるのでしょう。
「Ich hatte einen Kameraden(私には一人の戦友がいた)」は聴いてみれば、実に荘重であり、勇壮なものではありません。ジルヒャーの作曲は詩の趣によくあったもので、ローレライ、菩提樹、別れの歌 ムシデンなど、口ずさめば誰もが好ましく思われるでしょう。
この写真の如く、緑濃きチュービンゲンという最も文化的、知識的な地にジルヒャーの記念碑像が立っているのは至極当然のように思います。
第二次大戦後のドイツはとりわけナチスに対し厳しい対応をしてきましたし、贖罪もしてきたわけで・・・、それでも私見を言えば、このようなジルヒャーの記念碑像にあった背面像の取り換えは無用であったと思います。
歴史は手を加え過ぎると、真実が見えなくなります。
かつて黒い森にあるGutachグータッハの村を訪れた際、第一次大戦で倒れた兵士を悼むKriegerdenkmal戦争記念碑を見たことがあります。ただ銅像はよくある兵士の像ではなく、ボレン帽子と民族衣装の女性が悲嘆にくれる姿でした。
歌であれ、銅像であれ、栄誉の死は痛みや哀しみと共に在りますね。
これも長いコメントになりました。恐縮、恐縮です。
himmelさんの旅はいつも刺激があります。今回のやり取りだけでも纏めれば、私はドイツに関する一章がまた書けますよ。ありがたいことです。
それではまた。これに返信は不要ですよ。
jijidaruma
追伸:
このようなプログがありました。
著者は「学生時代(2005年)にオタク的な趣味の対象として扱おう。それが本サイト最大の方針でした」と書いています。
勇まし気な意訳を感じますが、既にこのプログは休止しています。以下はその引用です。
「西洋軍歌蒐集館」
http://gunka.sakura.ne.jp/mil/kameraden.htm
[.曲について]
まさにドイツ語版「戦友」です。原題は「私には一人の戦友がいた」ということですが、日本語風に「ああ我が戦友」と意味のない意訳。こんな題の軍歌もありましたね。ただ歌詞は日本と違って戦友が倒れても助けてはやらないみたいですけど。
第二帝国成立以前につくられた曲ですが、第三帝国時代にも葬送曲としてよく演奏されていました。「意志の勝利」といった有名プロパガンダ映画でも耳に出来ます。また、同じ枢軸国であるフィンランドやスペインでも、歌詞を代えて歌われていました。
ヒンデンブルク大統領死去の際も演奏され、当時の日本の新聞でも「多数の来会者はルーテルの『神はわが城』を合唱し、続いて故元帥の好んで口ずさんだ『イヒ・ハッテ・アイネン・カメラーデン』の軍歌奏楽とともに来会者一同が一斉に黙祷、国歌吹奏裡に式を閉ぢた」とあります(『朝日新聞』、1934年8月8日朝刊11面)。
ヒンデンブルク元帥が本当にこの歌を口ずさんでいたかどうかは謎です。
現在のドイツでは、学生歌としても歌われているようです。
1.
Ich hatt' einen Kameraden,
Einen bessern findst du nit.
Die Trommel schlug zum Streite,
Er ging an meiner Seite
|: In gleichem Schritt und Tritt. :|
我にひとりの戦友ありき。
彼は又となき益荒男。
いざ撃てとの合図に
戦友は傍らにありて
我と足並みを共にせり。
2.
Eine Kugel kam geflogen:
Gilt's mir oder gilt es dir?
Ihn hat es weggerissen,
Er liegt vor meinen Füßen
|: Als wär's ein Stück von mir :|
飛び来たる銃弾の
狙ひは我か将た君か。
弾は戦友を貫き
その体は足許に仆れぬ。
さも我が身のごとくに。
3.
Will mir die Hand noch reichen,
Derweil ich eben lad'.
"Kann dir die Hand nicht geben,
Bleib du im ew'gen Leben
|: Mein guter Kamerad!" :|
戦友は尚手を掲げるも
我は弾を込むるのみ。
「手はやれぬぞ。
君は悠久の生に生きよ、
おゝ我が戦友よ!」
・・・・・・・・・・・・・
-
- ベームさん 2016/08/27 13:31:11
- ヘッセの孫。
- himmelさん、
チュービンゲンの良い想い出、良かったですね。私もチュービンゲンはドイツの好きな町の一つです。
ヘッセの孫娘さんはハイナーの娘でエヴァさんと仰るのですか。若いころはさぞかしと思われる綺麗な方ですね。絵を描かれるのですか。やはり血筋ですね。ヘッセは勿論ですが、ヘッセの息子について触れた書物によるとハイナーは若いころ美術工芸学校に学び、インテリアデザイナーの仕事をしていたようですし、ハイナーの妻(エヴァの母)は絵描きで雑誌や絵本に挿絵を描いていたそうです。
ハイナーは1909年生まれで私の父とほぼ同じ歳なのでエヴァさんは私と同年代かもしれません。
それにしてもヘッケンハウアー書店に入り書店の方から話を聞きヘッセの資料をいろいろ見ることが出来たなんて羨ましい限りです。私は2度訪れていますがそういうチャンスに恵まれませんでした。
ネッカーミュラー醸造所私も行きました。川べりのテラス席、飲んだビール、ビールの後のワイン、ネッカーの眺め、全く同じです。私の旅行記の表紙の写真はその時のネッカーミュラーのビールです。何とも懐かしい。御三方の楽しそうに呑んでいらっしゃる風景が目に浮かんできます。
ベーム
- frau.himmelさん からの返信 2016/08/28 10:20:31
- RE: ヘッセの孫。
- ベームさん、おはようございます。
さすが、ベームさん!素晴らしいです。
私はエヴァ・ヘッセの父親がハイナーということをやっと突き止めたのに、ベームさんは父ハイナーや母親の職業までもお探しになるなんて。
そうですか、やはり両親ともに美術関係の仕事をされていたのですね。
それから、エヴァさんは1943年生まれだそうです。
本当に写真をみると、若いころはさぞや・・・と思わせるお顔立ち。ヘルマンヘッセもあのように「イケメン」ですから、こちらのほうも血筋ですね。
ベームさんもネッカーミューラーにいらっしゃったのですか。
前に旅行記を見せていただいていましたが、同じところだったとは。
ベームさんはテラス席で、私たちは室内の窓側で、チュービンゲン大学の学生さんが操る素朴な舟を眺めながらいただくビールとワインの味は格別でしたね。
ベームさん、本当に今回はスイス中隈なく旅していらっしゃいますね。
ベームさんの徹底ぶりには敬服いたします。
私もおっとり刀で、また参上させていただきます。
himmel
-
- ぶどう畑さん 2016/08/26 21:18:15
- 近道があるんですね!
- himmelさん
ぶどう畑です。
旅先での人との関わり、何気ない会話は、思い出に残りますよね!
レストランのビールはヴァイスビアでしょうか。
ワインが並々で、すごい!
どうも、美味しいマウルタッシェンに出会えていないので、テュービンゲンに行くことがあったら、あのお店に行ってみたいです。
中洲から駅に行くって、さすがhimmelさん!いいこと教えていただきました。
シュットハーカーン、乗りましたよ。
船頭さんが説明してくれるドイツ語が分からなかったけれど。(^^;
いつも取り留めないコメントでスミマセン。
シュトゥットガルト、気になります…。
- frau.himmelさん からの返信 2016/08/27 10:16:02
- RE: 近道があるんですね!
- ぶどう畑さん、おはようございます。
いつもコメントありがとうございます。
チュービンゲンって私にあっているみたい。
4年前の一人旅の時も、やさしい学生さんに親切にしていただきましたし、今回も全然いやな思いは見つかりません。
チュービンゲンのレストラン「ネッカーミューラー」。
人気店だから観光客でいっぱいでした。
ビールはおっしゃる通りヴァイスビア、自家醸造です。
ワインの写真を見たらホントなみなみですね。
邪道ですが、別な種類のワインも(!)飲みたかったら、大きなサイズのグラスワインを注文して、空になった3人のグラスに分けたりしていただくこともあるんですよ。どれだけ飲兵衛なのだか・・(笑)。
中州から駅に抜ける近道は前回知りました。
今回エバーハルト橋の写真がないと思いましたら、近道を通ったせいですね。
行きはお城までタクシーでしたし、帰りは近道。
チュービンゲンのハイライト、ネッカー川に架かるエバーハルト橋全体の写真がないのは悔しいです。
シュットハーカーン、お乗りになったのですか!?
あの風景を小舟で見て回るなんて、素敵だったでしょうね。
乗っているみなさん、一様に楽しそうでした。
シュトゥットガルト、期待せずにお待ちください(笑)。
himmel
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