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京都国立博物館に「国宝鳥獣戯画展と高山寺展」を見に行ってきました。<br />一言で言うと疲れました(笑)<br />

三十三間堂と「国宝鳥獣戯画と高山寺」展 

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2014/10/18 - 2014/10/18

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etoileさん

京都国立博物館に「国宝鳥獣戯画展と高山寺展」を見に行ってきました。
一言で言うと疲れました(笑)

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  • 蓮華王院 三十三間堂<br />本坊 妙法院門跡<br />http://sanjusangendo.jp/<br /><br />住所:〒605-0941 京都市東山区三十三間堂廻り町657<br />開門時間:8時〜17時(11月16日〜3月は9時〜16時)<br />       受付終了は各30分前(年中無休)<br /><br />同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、<br />同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂。<br />本尊は千手観音で、蓮華王院は千手観音の別称・蓮華王に由来する。

    蓮華王院 三十三間堂
    本坊 妙法院門跡
    http://sanjusangendo.jp/

    住所:〒605-0941 京都市東山区三十三間堂廻り町657
    開門時間:8時〜17時(11月16日〜3月は9時〜16時)
          受付終了は各30分前(年中無休)

    同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、
    同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂。
    本尊は千手観音で、蓮華王院は千手観音の別称・蓮華王に由来する。

  • 三十三間堂の名称は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることに由来する。<br />これは桁行三十三間の周囲四面に一間の庇(廂)を巡らせたという意味である。<br />つまり柱間が33あるのは本堂の内陣(母屋・身舎)で、建物外部から見る柱間は35ある。<br />正面に7間の向拝を付けるが、これは慶安2〜4年頃の増築である。<br />「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。<br /><br />ここで言う「間」は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。<br />三十三間堂の柱間寸法は一定ではなくその柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない.<br />

    三十三間堂の名称は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることに由来する。
    これは桁行三十三間の周囲四面に一間の庇(廂)を巡らせたという意味である。
    つまり柱間が33あるのは本堂の内陣(母屋・身舎)で、建物外部から見る柱間は35ある。
    正面に7間の向拝を付けるが、これは慶安2〜4年頃の増築である。
    「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。

    ここで言う「間」は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。
    三十三間堂の柱間寸法は一定ではなくその柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない.

  • 本堂<br /><br />国宝。現在の堂は文永3年(1266年)に完成したもので、洛中にある建物の中では大報恩寺本堂に次いで古く、<br />洛中で鎌倉時代にまで遡る建物はこの2棟のみである<br /><br />堂内中央に本尊千手観音坐像を安置。<br />その左右には長大な階段状の仏壇があり、1,000体の千手観音立像が各10段50列に並ぶ。<br />千手観音立像は本尊の背後にも1体あり、計1,001体である。内陣の左右両端には向かって左(南端)に風神像、右(北端)に雷神像を安置。<br />千体仏の手前には二十八部衆像が横一列に並ぶ。ただし、二十八部衆像のうち四天王像4体は本尊の周囲に配置されている。<br />昭和12年から20年計画で責任者の新納忠之介を中心に全1001体の修理が行われた。<br />昭和48年から美術院国宝修理所によって全1001体の修理が行われている

    本堂

    国宝。現在の堂は文永3年(1266年)に完成したもので、洛中にある建物の中では大報恩寺本堂に次いで古く、
    洛中で鎌倉時代にまで遡る建物はこの2棟のみである

    堂内中央に本尊千手観音坐像を安置。
    その左右には長大な階段状の仏壇があり、1,000体の千手観音立像が各10段50列に並ぶ。
    千手観音立像は本尊の背後にも1体あり、計1,001体である。内陣の左右両端には向かって左(南端)に風神像、右(北端)に雷神像を安置。
    千体仏の手前には二十八部衆像が横一列に並ぶ。ただし、二十八部衆像のうち四天王像4体は本尊の周囲に配置されている。
    昭和12年から20年計画で責任者の新納忠之介を中心に全1001体の修理が行われた。
    昭和48年から美術院国宝修理所によって全1001体の修理が行われている

  • 内部は撮影禁止のため外観のみです。

    内部は撮影禁止のため外観のみです。

  • 計1,001体もの仏像が並んでいる様は本当に圧巻です。<br />それぞれ表情も違いますし、何時間見ていても飽きません。<br />修復や貸し出しで1001体揃うのは難しいようですね。

    計1,001体もの仏像が並んでいる様は本当に圧巻です。
    それぞれ表情も違いますし、何時間見ていても飽きません。
    修復や貸し出しで1001体揃うのは難しいようですね。

  • 木造千手観音坐像(附 木造天蓋)<br />国宝。寄木造、漆箔、玉眼。十一面四十二臂に表す通有の千手観音像である。<br />像本体の高さは334.8センチ、台座や光背を含めた全体の高さは7メートルを超える。<br />作者は大仏師法印湛慶。<br />光背は宝相華文透彫の上に、観音三十三応現身を表したものである。<br />三十三応現身とは、法華経観世音菩薩普門品に説くもので、観音が衆生救済のために33種の姿に変じて現れる姿をいう。<br /><br />この扉の真正面にご本尊が安置されています。<br />

    木造千手観音坐像(附 木造天蓋)
    国宝。寄木造、漆箔、玉眼。十一面四十二臂に表す通有の千手観音像である。
    像本体の高さは334.8センチ、台座や光背を含めた全体の高さは7メートルを超える。
    作者は大仏師法印湛慶。
    光背は宝相華文透彫の上に、観音三十三応現身を表したものである。
    三十三応現身とは、法華経観世音菩薩普門品に説くもので、観音が衆生救済のために33種の姿に変じて現れる姿をいう。

    この扉の真正面にご本尊が安置されています。

  • 木造風神・雷神像<br />国宝。<br />鎌倉復興期の作。堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、<br />俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。<br />日本における風神雷神の彫像としては三十三間堂像が最古のものである。[13]<br /><br />木造二十八部衆立像<br />国宝。<br />寄木造、彩色、玉眼。像高は最大の大梵天が169.7センチ、最少の摩和羅女が153.6センチ。<br />『一代要記』には、建長元年(1249年)の火災では二十八部衆像は救い出されたことになっているが、<br />現存の像は技法・様式から鎌倉復興期の作とみなされている。<br />

    木造風神・雷神像
    国宝。
    鎌倉復興期の作。堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、
    俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。
    日本における風神雷神の彫像としては三十三間堂像が最古のものである。[13]

    木造二十八部衆立像
    国宝。
    寄木造、彩色、玉眼。像高は最大の大梵天が169.7センチ、最少の摩和羅女が153.6センチ。
    『一代要記』には、建長元年(1249年)の火災では二十八部衆像は救い出されたことになっているが、
    現存の像は技法・様式から鎌倉復興期の作とみなされている。

  • てっきりこの長さが三十三間あると思っていたのですが柱の数と知って<br />驚きました。<br />調べてみないと知らないことは多いです。

    てっきりこの長さが三十三間あると思っていたのですが柱の数と知って
    驚きました。
    調べてみないと知らないことは多いです。

  • 三十三間堂といえば新成人参加者が振袖袴姿で行射する「通し矢」が有名ですね。<br />江戸時代に各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となり、<br />縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのである。<br />「通し矢」の名もこの「軒下を通す」ということからきている。<br />強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことができない。それゆえ弓術家の名誉となったそうです。<br />現在の通し矢は60mの弓道競技の「遠的」の射程であり、軒高による制限もないから、かつての通し矢とはまったく違うものとのことです。<br />

    三十三間堂といえば新成人参加者が振袖袴姿で行射する「通し矢」が有名ですね。
    江戸時代に各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となり、
    縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのである。
    「通し矢」の名もこの「軒下を通す」ということからきている。
    強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことができない。それゆえ弓術家の名誉となったそうです。
    現在の通し矢は60mの弓道競技の「遠的」の射程であり、軒高による制限もないから、かつての通し矢とはまったく違うものとのことです。

  • 修理完成記念 国宝 鳥獣戯画と高山寺<br />2014(平成26)年10月7日(火)〜11月24日(月・休)<br /><br />http://www.kyohaku.go.jp/jp/special/koremade/exhibition20141007.html

    修理完成記念 国宝 鳥獣戯画と高山寺
    2014(平成26)年10月7日(火)〜11月24日(月・休)

    http://www.kyohaku.go.jp/jp/special/koremade/exhibition20141007.html

  • はっきり言って展示内容より馬鹿みたいに並んだ記憶しか残りませんでした。<br /><br />とにかく展示方法が悪い!!<br /><br />みんな見たいのは鳥獣人物戯画なのに途中の狭い部屋1つに展示していて<br />その行列が手前の展示室までずっと延びていたので、手前の部屋の展示すら<br />見えない状態に・・。<br />せめて経路を別にした展示室にするとか一番最後の展示室にして欲しかったです。<br /><br />東博では同じ展示内容でもここまで見にくい事態はないのでやはり京都の展示<br />方法が悪いんだと思います。<br /><br />他の展示は素通りして鳥獣人物戯画だけ見る人もいっぱいいるのだから<br />そういうの考慮した経路を考えるべきだと思いました。

    はっきり言って展示内容より馬鹿みたいに並んだ記憶しか残りませんでした。

    とにかく展示方法が悪い!!

    みんな見たいのは鳥獣人物戯画なのに途中の狭い部屋1つに展示していて
    その行列が手前の展示室までずっと延びていたので、手前の部屋の展示すら
    見えない状態に・・。
    せめて経路を別にした展示室にするとか一番最後の展示室にして欲しかったです。

    東博では同じ展示内容でもここまで見にくい事態はないのでやはり京都の展示
    方法が悪いんだと思います。

    他の展示は素通りして鳥獣人物戯画だけ見る人もいっぱいいるのだから
    そういうの考慮した経路を考えるべきだと思いました。

  • 並んだおかげで外に出るともう真っ暗でした。

    並んだおかげで外に出るともう真っ暗でした。

  • 京都タワーが見えました。

    京都タワーが見えました。

  • せっかくなのでお隣の豊国神社にも行ってみました。

    せっかくなのでお隣の豊国神社にも行ってみました。

  • 暗くてほぼ何も映りません・・。

    暗くてほぼ何も映りません・・。

  • 豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。<br />神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。<br />豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の指示により再興された。<br />

    豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。
    神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。
    豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の指示により再興された。

  • ひょうたん絵馬<br />豊臣秀吉の馬印であった千成瓢箪の形をした絵馬<br />豊臣秀吉は合戦の馬印として千成瓢箪を使用したことに因んで、<br />瓢箪の形に切り抜いた絵馬や瓢箪をかたどった形のお守りもあります。豊臣秀吉の出世にちなんで立身出世の祈願を絵馬に託す人が多いようです。<br />

    ひょうたん絵馬
    豊臣秀吉の馬印であった千成瓢箪の形をした絵馬
    豊臣秀吉は合戦の馬印として千成瓢箪を使用したことに因んで、
    瓢箪の形に切り抜いた絵馬や瓢箪をかたどった形のお守りもあります。豊臣秀吉の出世にちなんで立身出世の祈願を絵馬に託す人が多いようです。

  • 国宝<br />唐門 元は南禅寺塔頭金地院にあったもので、豊国神社再建にあたって金地院から移築された。以心崇伝が寛永4年に<br />幕府から二条城の唐門を譲り受けたもので、その前は伏見城にあったとも伝える。

    国宝
    唐門 元は南禅寺塔頭金地院にあったもので、豊国神社再建にあたって金地院から移築された。以心崇伝が寛永4年に
    幕府から二条城の唐門を譲り受けたもので、その前は伏見城にあったとも伝える。

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