2016/04/22 - 2016/05/02
141位(同エリア314件中)
アーサーさん
昨年 西地中海クルーズを初体験した。それから 東地中海 特にエーゲ海へのクルーズは ちょっとした夢になった。
今年 正月恒例のトラベルズーのセールで ベニス出航、サントリーニ島、アテネ寄港、モンテネグロのコトルにも立ち寄り ベニスに帰港する7泊8日の定番コースが発表された。価格も想像の範囲で早速 申し込みだけはする。
ゆっくり 他社のプランとも比較したが 一長一短があり 価格的に安い クルーズプラネットの当初案で決定。
実際の旅行は色々とトラブルもあり大変だったが、こうして終わってみれば「満足」。妻がどこかで見つけてきた「クルーズは旅のテイスティング。」のフレーズに妙に納得する結果だった。
サントリーニ島までの前編と それ以降の後編に分けて掲載。
表紙写真はモンテネグロのコトルに接岸した「オーケストラ号」
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 船
- 航空会社
- カタール航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
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(7)4月28日(木)
①
朝 目覚めると朝焼けの中で ギリシャ本土が 見えて来る。
ギリシャ文明の地、アテネの民主制の発祥の地、最近のユーロ危機の根源の地 様々な思いが渦巻く。 -
②
船は朝日輝く中を ゆっくりとピレウス港奥深く進む。 -
③
そして クルーズターミナルに 7時半頃接岸。ベランダから眺めるとピレウスは随分現代的な街と思える。( 昔 隣国のトルコを訪れた時 トルコは東と西が出会う所と言われ アジア的な要素があると言われたが ここは 街並みを見る限り西欧という感じ。) -
④
MAPSMEで画面中央に表示されている青い三角の 船の現在位置を確かめると ピレウスは自然の良港であることが分かる。 -
⑤
朝一番7:00に レストランで朝食を頂き、8:00にエクスカーションへ集合する。早速 下船してバスツアーに乗り込む。(本日は乗船券を入手していたので スムーズ。)
岸壁には 多くのツアーバスが待機していた。先頭を歩く 本日のガイドはテキパキとしたギリシャ人女性。 -
⑥
バスは一旦海岸沿いに出て 高速道路でアテネに向かう。
途中の海岸沿いの丘陵エリアは 高級そうなマンション群が立ち並ぶ。
高速沿いに 2004年開催のアテネオリンピック競技場のモダンな施設を幾つか見掛けるが どうも建物の 周辺も含め維持メンテは行き届いていなくて 祭りの後の感じ。
写真は陽光を浴びるマンション群。ギリシャ経済危機だが ゴミ回収も普通に維持されている風。 -
⑦
ただ 街中に入り 細かく見て行くと 道路の舗装の補修、路面電車の草取りなどに手が回っていないのが分かる。
(アテネはピレウス港から 思っていたより 随分近い。バスで20分位) -
⑧
ガイドさんに教えられ 示される方向を見ると 岩山の上に アクロポリスの遺跡が見える。突如の感じだったので驚く。 -
⑨
バスは最初にパナシナイコスタジアムに停車。
近代オリンピックが初めて開かれた場所で 2004年の第28回大会では男女マラソンのゴール地点だったところ。
野口 みずきがトップで駆け抜けたところで 私もテレビ実況で見たはずだが 10年以上前で この競技場の記憶は無い。
考えれば 12年前 ギリシャは アテネオリンピックの復活のようで 輝いていた。そのころから 問題は内在していたはずだが 私も一緒に浮かれていたようだ。 -
⑩
このスタジアムから アクロポリスの丘は随分近くに見える。
現在でも アテネの人口は36万人 広域を含めても300万人。現在の東京の感覚では随分小さい。(都市国家として成立したわけだから そんなものか。) -
⑪
バスは中心街のギリシャ学術院(アカデミー)の前を通る。
高校生の頃 習った ソクラテス プラトン アリストテレスを思い出す。
紀元前5世紀頃 アテナイの最盛期を過ぎた頃から 飯のタネにはならない ギリシャ哲学を考えた人たち。その風土が現在も残っているのだろうかと思った。
実際は建物の下部に あまり知的ではない 落書きが残されたままだった。 -
⑫
繁華街に入ると 近郊でも目についたが 空室・売出し中の看板が掲げられたスペース。綺麗とは言えない落書きが目立つ。
ただ ニュースなどで見ていた感じよりは 街は落ち着いているように見える。
街頭に ホームレスの人や物乞いの姿は見かけない。 -
⑬
バスは次に アテネ考古学博物館の前で停車する。 -
⑭
館内は 紀元前5000年前以上の新石器時代からの貴重な遺物が展示されている。
説明のガイドさんは 順序立て 誇りを持って熱心に説明してくれているのが分かる。英語の説明の後 ドイツ語の説明をして 質問にも丁寧に答える。私は ちょっと疲れた。 -
⑮
有名なポセイドーンの青銅像。(ギリシャ神話では海と地震を司る神とか。)
凄く人間の肉体美を表現していて 人間臭い文化であったことが理解できる。 -
⑯
ちょっと考えてみれば ルーブル美術館のミロのビーナスは フランス文化の象徴だけれども ミクロス島で発見された ギリシャ文化の産物。
やはり ギリシャ文明は西欧文明の母胎ということが納得できる。 -
⑰
考古学博物館には ギリシャらしい彩色された土器、金製品、等多彩に展示されていた。自由鑑賞時間も取ってくれたが 二時間位では 回りきれない。
圧倒されて 博物館を出て バスを待つ目の前は 写真のように 汚らしい落書き。この落差が私には理解不能。同じ民族?
東洋人で浅学な私は 紀元前5世紀当時のギリシャが世界の中心地であった時代から ユーロ危機の現在までの その間2500年間のギリシャの歴史を殆んど知らない。イオニア海を臨み その風土で ギリシャ語を話し 同じように暮らしてきた人々が居たはずだのに。 -
⑱
それから バスはアクロポリスの麓に駐車し、歩いて丘を登る。
眺め上げれば オデオンの遺跡の向こうに パルテノン 神殿が見える。結構高いところ。 -
⑲
オデオン(音楽堂)の入口から覗きこむと 5000人収容の音楽堂の観客席の遺跡が見え その背後に「アテナ・ニケ神殿」が見える。現在も夏場には音楽堂が使用されることもあるとか。 -
⑳
神殿のチケット売り場の入口から入り、観光客で混雑する前門を通り、パルテノン神殿が現われてくる。現在も何か修復工事中でクレーンが設置されている。遮るものが無いと 結構暑い。 -
21
確かに 巨大な廃墟で何もないと言えば何もない。大理石の柱のみ。
東西破風の彫刻類や内部に飾られていたレリーフ等は ロンドンの大英博物館にあるとか。 -
22
写真のように エレクテイオンの裏側の小さなポセイドン・エレクテウスの神殿を見上げると 一部木製の屋根が残っていた。
アクロポリスの丘の 全ての建物がこのような構造の屋根だったのだろうと想像できる。 -
23
写真は そのエレクテイオンの神殿。柱として屋根を支える6体のコレー(乙女)像で有名。(でも複製だとか。) -
24
パルテノンの丘から アテナイの町を見渡すと 結構狭い。日本の地方都市ぐらい。
この 風景・地形は2500年前も同じような感じだったろうなと想像する。アテナイの都市国家の後背地はあまり広がらなくて むしろ 海がその広がりの手段だったのかと思える。 -
25
丘の眼下には 色々な遺跡が見える。アクロポリスの神殿を中心に 街は広がっていたのだろうと思う。ただ 農業などの産業が栄えるには限界があったのではないか。(面積的に、又 少雨の気候的に かつ 豊かな土壌を運ぶ 大きな河川もない。)
都市の発展には人口の増加に耐えなければならない。アテナイは 目前の海洋に向かい 文化を背景に 地中海に移民の手段を選択せざるを得ない。但しそれは その地の土着の民との軋轢を生む。また文化の伝播は アテナイの優越性を失くして行く。
丘から眺めながら ぼんやりと そんなことを思った。 -
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丘を降り 小規模商店や 土産物店を覗く。棚に商品が並び、店の人は親切だが 買おうと思う商品は無い。
それから 麓のカフェでお茶を戴く。観光客中心だが結構なお客の数。トイレを借りれば 清潔でゆったりしたスペース。 -
27
生ジュースとどろっとしたギリシャコーヒーを戴く。東京と同じかそれより安い値段。
店の人は忙しく動いている。ギリシャ人は必ずしも勤勉で無いと評価していたが ここでは違っていた。 -
28
それから アクロポリス博物館の入口のガラス越しに見える遺構を見物し、プラカ地区の土産物屋などを少しだけ見て バスに戻り 船に2時ごろ 戻った。アテネの表面をざーと見た感じだ。
写真はアクロポリス博物館の入口。 -
29
ビュッフェで軽くランチを食べ、それから 甲板を歩くと 多くの客が日光浴中。ジャクジー利用やプールで泳ぐ人も。やはり暖かいのか それとも 太陽が好きなのか。東洋人は誰も裸にはなっていなかった。 -
30
船からは ギリシャ正教の教会が見えた。我々東洋の異教徒には キリスト教の東西の分裂は本当の所は分からない。ただ この地では11世紀頃から ギリシャ正教が生活と結びついた宗教となったとか。
そして 15世紀から19世紀のオスマントルコの支配下でもイスラム化しなくて キリスト教文化の東端の境界・防波堤となった。(イスラム教の東側はインドネシア迄広がったが。)
青いドーム屋根の可愛らしい教会を眺めていると ギリシャの地でギリシャ正教の果たしている役割の大きさも 感じられた。
(蛇足だが 新約聖書はギリシャ語で書かれているとか。ギリシャ神話の多神教の地に 苛酷な中東の地で生まれた 絶対的な一神教のキリスト教が伝播し、当時の先進文化地域のギリシャに深く根付き 現在に至るわけだ。) -
31
4時半頃 オーケストラ号はピレウス港を出港して行く。島々に向かう多くのフェリーの列に続くように。
風景を眺めていて 港湾部とその背後に 通常よく見られる 臨海工業地帯は皆無だと気が付いた。この国は 工業生産を諦めてしまったのか?軽工業も育たなかったのか。 -
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遠くに 最近のニュースで中国の取得で話題になった ピレウス港のコンテナ埠頭が見える。大東亜共栄圏のようなスローガン「新シルクロード(一帯一路)構想」の一環らしいが 実際は小さく見えた。 -
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ディナーの席で 最後にミネラルウオータのボトルの支払い確認のサインをするとき 昨夕まで問題なかったが 何か不都合みたいに言われて レセプションに行くよう促される。 食後 レセプションに行くと クレジットカードの登録が未了であると言われ 慌てて登録手続きをする。このオーケストラ号では船内でカード登録をするらしい。それで昨日 エクスカーションデスクでトラブったのかと気づく。日本語の船内説明会をパスした為 私達は知らなかった。
そのあと 夕方船室にVOYAGERS CLUBの招待カードが配られたので 指定のラウンジに行き 女性係員に招待状を渡すが 怪訝な顔をされ 指定の日時が翌日であることを示される。ちょっと恥ずかしかった。妻はダンスレッスンに参加して それから引き上げる。 -
(8)4月29日(金)
①
朝 目覚めると 同じイオニア海でも アドリア海に近づいて 雲も出て来て どんよりした海の色。今日の午前中は航海時間。 -
②
9時30分から 30分程の 日本語下船説明会に 私一人で参加。別に目新しいことはなかったが 荷物の整理など参考にはなる。
写真はその説明会会場。
説明会後 てるみくらぶの参加者は別に集まって 添乗員の方からお話を聞いていた。お年寄りなど不慣れの人には 適切な方法だろうと思う。私も下船後の行動について疑問を持っていたが 添乗員の方がいないので聞くわけにはいかなかった。 -
③
それから 船内をぶらつくが 曇りで 本日はプールサイドに人影は見あたらない。やはり この期間は 季節的に繁忙時期とならないのも頷ける。安いには安いだけの理由があると思う。 -
④
12時過ぎ 現在ギリシャ領のコルフ島のケルキラに近づいて行く。
ケルキラはギリシャやイタリア(ベネチア共和国)、フランス、トルコなどの国々から支配を受け、それぞれの街並みが少しずつ残って調和している珍しい町だとか。 -
⑤
船でランチを軽く食べ、歩いて ターミナルビルに行き 乗合バスに乗る。
(船とターミナルとの間には無料バスがあったようだ。)
写真はキルケラ港新港に停泊するオーケストラ号。 -
⑥
バスは海沿いの公園の外れで停まり、歩いて旧市街の坂道を登る。狭い路地で 両側に土産物屋が連なり トルコのバザールを歩いている気分。 -
⑦
坂道には オープンカフェの店が並び パリの雰囲気も。 -
⑧
最初に 坂を下りて アジア美術館に寄る。古ぼけた建物で 人の出入りもなく パスしようかと思ったほど。
入口の係りの人にも あまり知的な感じを受けなかった。 -
⑨
ところが 2階の 日本の浮世絵のコーナーに入ると 目を疑う絶品が次々と展示されている。東洲斎 写楽の別の大作「仮名手本忠臣蔵」もあり。 -
⑩
歌麿の「美人画」?
版画だがら 作品の価値は素人目には分からないが その展示作品数には驚く。
日本に帰り調べてみると ギリシャの外交官がオーストリアで収集したらしい。
10年前位から 日本の学術員が調べている様子。
いずれにせよ 思いがけないところで日本に出会った感じ。 -
⑪
そして 美術館の近くの入口から 8世紀初頭から築造され始めたビザンティン帝国の「旧要塞」を見に入る。 -
⑫
ガリツァ湾を背景に 歴史遺物が混在して風靡豊かなゾーン。 -
⑬
砲台の横から 後ろの見張り台のような所に登る。 -
⑭
頂上近くの 突き出たところで見かけた灯台。今も現役? -
⑮
頂上から眺めた ケルキラの街。遠くにオーケストラ号が接岸している。 -
⑯
それから旧市街の中心テオトキ広場に歩いて行く。公園には テントが張られカフェになっている。 -
⑰
その内の一つ 地球の歩き方に乗っていた「ブーゲンビリア」に入る。
店名の通り赤い花が咲いている。 -
⑱
店は活気のある雰囲気だった。
そこで ギリシャ料理のムサカとコーヒーなどを頼む。
出されたムサカは田舎風のたっぷりして 挽肉の美味しい料理だった。
周辺のテーブルではカップルや家族連れが 豊かな食事やワインを楽しんでいる。各テーブルで 饒舌というかおしゃべりが大好きなギリシャ人らしく話し込んでいる。
どこが ギリシャは経済危機に襲われて 委縮した社会という感じだろうか?日本より楽しそうに見える。 -
⑲
食後 鐘の音に誘われ 近くの教会を訪れる。
入ると 多くの人が祭壇で軽く祈っている。教会内は静粛にという常識と異なり、町の集会場の雰囲気で あちらこちらでお喋りしているグループがいた。(祭壇には聖職者の方がいるのに。)
後日確認すると 本日はギリシャの祝祭日で 正教会では「聖大金曜日」と呼ばれる日。イエス・キリストの受難と死を記念する日だとか。 -
⑳
祝祭日のせいか 街では 音楽隊のパレードに出くわす。 -
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こちらのグループも。
街は楽しい雰囲気に溢れている。「受難の日」だけれども??? -
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街角の小公園に たまたま 若い人物像があったので写す。碑文はギリシャ文字で分からない。ただ 1948−1970の生没年が気になり 写した。
周りでは お喋り中の人達。
ギリシャの失業率は 現在も25%だが 5年も続けば慣れて来るのだろうか?破産した国、世界から財務規律を強制監視されている国のある日の実態?? -
23
船への帰り道 新要塞を見かけたが 疲れたので 写真だけを撮って 登らず。 -
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歩いて帰ったので 岸壁の船まで遠かった。
やはり 公園の端のバス停で バスを待って乗って帰るべきだった。歩いていて二回ほどバスに追い抜かれ悔しい思いをしたので。バス便は結構ありそう。
船は見えているが歩くと遠い。 -
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18:30 船はコルフ島を出港。最後の経由地 モンテネグロのコトルへ向かう。
これで ギリシャともお別れ。
ギリシャはよく分からない国だった。現代において世界共通の国の概念がそれなりにあるけれど、ここギリシャでは 国民と国の関係がちょっと異なる風に思えた。民は民で独特の価値観と考えを持ち、国家とは離れている。それで長年やってきて 過去にも色々あったけれど(被支配など) この風土の中で 暮らしてきた重みが随分違うように思われた。現代国家の枠組みの方が ひょっとしたら間違っているのかもしれないと思わせるものが有った。
欧米に追い付き、追い越せの統一国家のスローガンでやってきた我々には 理解が困難だが。
-
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ディナーの後 VOYAGERS CLUBの招待のパーティに初参加。最初船長たちも参加していたが 直ぐに引き上げ。 ポテトチップスとグラスアルコール、オレンジジュースだけの しょぼいパーティになる。それでも 家族や仲間内でお喋りは盛り上がっていた。
ジュースだけ飲んで 翌日の荷物の整理もあるので引き上げる。 -
(9)4月30日(土)
目覚めると 船は湾内をゆっくり航行中。海上には静かに朝霧が立ち込めていた。随分不思議な光景。 -
②
しばらく幻想的な風景が続くうちに 明るくなり、ゆっくりと霧が晴れてくる。船は湾の奥に静かに進む。岸には可愛らしい家々が。 -
③
7時頃 モンテネグロのコトルに接岸。
私はモンテネグロという国も知らなかった。後日調べてみると 昔のユーゴスラビアの一員だった。かってヨーロッパの火薬庫と言われたバルカン半島に位置する共和制国家。2006年6月独立。人口62万人。日露戦争では1905年に日本に宣戦布告したこともあったとか。
コトルも調べると 人口23千人、ヴェネツィアの強い影響が市内の建物に残されている世界遺産都市。
写真の 中央山腹に そのヴェネツィアによって築城された城壁が見える。 -
④
船で 6時半から朝食を食べ、7時半頃下船して 街内見物へ。城壁の門入口の案内所は 既に開いていて 日本語の案内地図も戴けられた。街中はまだ眠っている様だった。それで MAPSMEを見ながら 山腹の城壁に行くことにする。 -
⑤
坂を少し登った所に 仮設のようなテントの入場券売り場が有り 公的なものかどうかと疑ったが 仕方が無いので支払う。 -
⑥
坂からは フィーヨルド湾と街並が見渡される。小さな街だけれど 古い中世の雰囲気が残り周辺の景観に溶け込む。 -
⑦
ジグザグの階段道も整備され それなりの数の観光客が登って行く。 -
⑧
途中で見かけた「救世聖女教会」。まだ 朝が早いのか開いていなかった。 -
⑦
かなり登ってきて 砦跡のような遺跡も見えるところから写す。 -
⑧
道端に花も咲いていた。 -
⑨
ここで 転倒。
先を行く 白人男性が飛び降り気味に降りたので 私も気を付けて足を運んだが、自分を支えきれずに 前のめりに転倒。
額の辺りを打つ。
(68歳の私は写真の方のように腰を下して 降りるべきであった。) -
⑩
意識は明瞭。痛いことは痛いが、激痛ではない。手で押さえた指の間から鮮血は流れる。
妻と 居合わせた若い日本人女性、西欧の婦人達が 応急止血処理をしてくれる。ただティッシュペーパーは赤く染まる。皆の「動くな。」の指示通り 恰好悪いが 暫くその場で座り込む。
私は 自分が見えず 事情をよく理解できないが みんなが私の顔を見て驚くのだから やっぱり酷いのだろうかと思う。通りかかる人も 水やティッシュやアルコールを差し出してくれる。言葉を掛けてくれる。
座ったまま 写真機を取出し、転倒した現場を写し、もう少しの所で行けなかった城壁の頂を写す。(手足の骨の類は大きな異常は無さそうだ。) -
⑪
救助を頼むほどのことでは無さそうと 判断して ゆっくり立ち上がり、慎重に岩の階段を降りる。
途中出会った いつもディナーで同席の方から バンドエイドを貰い、張り替える。大きな出血はどうやら止まった。
坂の最後の方で 追い抜いて行った犬が 怪訝そうに私を見るので 写真に写す。 -
⑫
街に戻り まず洗面所を探し トイレに入る。鏡を見て 額にたんこぶが出来、傷は 岩にぶつかって出来たような 小さな三角状の表皮のめくれがあった。そこから流れ出た血液が 首の所に留まり 見た目は確かに悲惨。
でも 精神的ショックは大きいが 傷を自分で確認出来て 一安心。
洗い流し 身支度を整え トイレを出る。
写真はトイレの有った路地。(トイレは有料だが清潔であった。) -
⑬
少し 元気も出たので 街の中心広場の前の聖ニコラス教会の辺りを歩く。
写真は 午前の陽光を浴びる コトル中心街。 -
⑭
正教会系の教会内には 多くのイコン(聖画)が飾ってあった。
このコトルの街はローマ・カトリックに属する教会と東方正教文化圏の教会が併存していた。 -
⑮
街の入口にあって今も時を刻んでいる 大時計は17世紀初頭に作られたものとか。 -
⑯
大時計前のカフェで ジュースとケーキを頼んだ。オレンジジュースは美味しく、ケーキは甘ったるかった。
支払う時 この地でも通貨はユーローなのだと言うことに気付いた。
(後刻 船で この近辺のお土産屋さんで買い物中に財布を掏り取られた婦人客の話を間接的に聞いた。これだけ観光客が訪れるのだから スリも狙って集まるのだろう。 実際 この地では 旅の終わりだと 私も気分的にもゆったりとしてしまっていた。) -
⑰
ちょっと 早いが大事を取って 11時前に 船に帰る。まだまだ下船して観光に出かける人達がいた。(停泊地は 街に近い。)
街路樹も南国風。 -
⑱ 本日は船の後方デッキに近い ビュッフェの窓際でランチを戴く。12:30のコトル出航を眺めながらランチにする。
-
⑲
テーブルはポルトガル在住の中国人夫妻と同席。知的な感じだったが 話は弾まず。
写真は 今回のクルーズの最後のランチ。美味しくはなっていたが やはりビュッフェは落ち着かない。それと食べ過ぎる。(写真は二人分) -
⑳
船の進行方向を写す。(現在は船尾方向)
船は狭い湾内で 回転して 方向を変えた。 -
(21)
船は 思い出のコトルを出港して 離れて行く。 -
(22)
そして 遠ざかって行く。 -
(23)
ランチの帰りに プールサイドを通ったら 去り行くコトルの風景を 手摺から名残惜しむ人と 最後のクルーズの日を目一杯太陽の光で楽しむ人と両様居て 写真に撮る。 -
(24)
1時間ぐらいかけて 船は 運河のような所や また再び広い 太陽を一杯浴びた白い砂浜の別荘地のような所を通る。突き出した丘の上には灯台も見える。 -
(25)
部屋に帰り MAPS MEで調べると もうすぐアドリア海。画面の左上の入り江の奥深い港から出発し 狭い運河のような所を抜け、現在は青い三角印しのところを航行している。随分複雑な地形。昔から天然の良港だったのだるうと思う。
写真のピンク色のタグは今晩 荷造り準備し 明日使う下船用タグ。私は遅い順番のピンク色のグループだった。 -
(26)
しばらくして 部屋のデッキから 最後に 昔の要塞の様な遺跡が見え、そしてアドリア海に 船は入った。一路ベニスへ。
私達はちょっと早いが 船で捨てて行くものを選別し、荷造りに取り掛かった。
(クルーズ生活の私の知恵で 使い古して廃棄寸前の 衣料品等を持参して 最後の利用後 船に残していき 帰りの荷物を少なくしていた。) -
(27)
最後のディナーを 美味しく戴く。メインはいつもの ベジタリアン料理を止め
て 肉料理に。
(家に帰って 体重を測ったら 旅行中よく動いたせいか 増えてはいなかった。安堵。)
最後のショーはマイケルジャクソンのトリビューとかで 去年面白くみた記憶が有ったので 期待したが アクターが異なるのかもう一つだった。
部屋に帰り、スーツケースに詰め込み 12時前にドアの外に出す。 -
(10)5月1日(日)
①
目覚めたら もうベニスの島が見えていた。道を歩く人が傘をさしているのが見える。今日もベニスは雨だった。 -
②
大急ぎで 6時から6時半までしか開いていない ビュッフェで 朝食を戴く。(慌ただしい。)
朝食後 部屋で身仕舞をしていると デッキからサンマルコ広場の情景が見えて来る。
「遊んでいると時間の経つのが早い。」とのいつものフレーズが口に出る。1週間前に この前を通り出航していったのに もう帰ってきたと感じる。やっぱり一週間は 見どころの多い所なので 短すぎたと思う。 -
③
船は 8時過ぎに 出発したクルーズターミナルに着岸。 -
④
9時には部屋を空けねばならず、私のピンクの番の集合時間は11時10分。手荷物を船内の一時預かり所に預け、9時半まで開いてるはずの レストランに行ってみたが クローズと冷たく言われる。(9時10分頃)
売店も閉鎖し 船内のパブリックの主要なところは 降りる客で満杯状況。有料のカフェだけが営業している。仕方が無いので ロビーの椅子に夫婦別々に座り、二時間以上待つ。確か 去年は ビュッフェが開いていたので コーヒにピザで時間を潰したが 今年はままならず。今年は クルーズの優雅さを欠落してしまっている。
船会社手配のトランスファーの客を優先し、次に団体客を優先し、個人客は最後の下船順位。このコースの客の大半がベニス発着で 人数が集中していることもあるのだろうが 無為に待つ身にはだるい。
写真はロビーの待ち合わせスペース。 -
⑤
やっと時間になり 待機集合スペースのシアターに行ったが 少し下船は遅れている様子。前部上方にスクリーンがあり、そこに現況が表示される。
メインスクリーンでは 前年と同じビックリカメラのシーンが映し出されている。仕方が無いので 見るともなく見ていて 可笑しくて笑い出す。さすがに 馬鹿らしくて 腹が立ってくる。
そして 予定より15分遅れで 下船が始まる。
下船はスムーズに行き、ターミナルでスーツケースのピックアップもいち早く出来て、建物出口のちょっと混乱しているあたりを 良く確認せずに 人の流れに従って歩き始める。
(ここで やはり ツアーの他の人達を待って いっしょに行動すべきだったと 後で反省。) -
⑥
一週間前 乗船時イタリア人男性のガイドさんが 下船時の行動の説明をしてくれた時 最初の部分が聞こえなくて 指さす方向の右側にスーツケースを預ける所があり、一個幾らで預かってくれると 説明してくれているように 夫婦共に聞いてしまった。
それで 人の流れに沿って その預かり所を探して 20分程歩き、それらしき所が無く 敷地の出口まで来て 警備員に尋ねるが 英語を理解出来ないようで困惑。 後から歩いてきたツアーの同じメンバーの方に尋ねると 船を降りたところにあったとのこと。慌てて今来た道を引き返す。すると 下船出口の右側後方にテントの預かり所が有った。スーツケースを預け 身軽になり ベニス観光に出直す。(後から考えると ガイドさんの指さしたのは ヴァポレットの切符売り場?)
写真は そのヴァポレットの乗り場。私はこの乗り場を超え 右折して敷地の外れの モノレールの駅に通ずる門まで歩いてしまった。人の流れのある部分は モノレール駅に向かう人の流れ? -
⑦
1時間程 ロスをして ヴァポレットで1時前にサンマルコ広場に着く。集合が4時なので 滞在できるのは 2時間しかない。写真右側のトッカーレ宮殿見学は無理と諦め、左側のサンマルコ寺院の見学の列に並ぶ。 -
⑧
今日も日曜日の為か 列はユックリ進み 30分程して入場できる。
寺院のバルコニーから ちょっと悔しい思いで 隣りのトッカーレ宮殿を写す。 -
⑨
サンマルコ広場は今日も多くの観光客。 -
⑩
寺院の中は さすが歴史を経たカトリックの教会。観光の施設であると共に信仰の場。日本の善光寺や本願寺の伽藍を思い出した。内部は撮影禁止なので外から写す。
そして 慌ただしく見学して 外に出た。(見落とした所が有ったかもしれない。) -
⑪
ちょっと時間が有るようなので また直行コースでクルーズターミナルに帰るのもしゃくに思い、「大運河」航行の各駅経由のヴァポレットに乗船する。 -
⑫
船は補修中のリアルト橋など 見どころを経由して ローマ広場に戻る。 -
⑬
当初 ローマ広場からクルーズ船まで 歩いて30分位の距離だろうと思っていた。直線距離はそうかもしれないが ローマ広場でMAPSMEを拡大して 道路を探すと 運河等の為か 迂回した車両専用道路らしきものしか 見当たらない。
焦った時 妻が頭上にモノレールの駅が有ることを教えてくれる。ネットでクルーズターミナル迄一駅の短距離と モノレールに乗った人のブログを読んでいたことを思い出し、早速 モノレールに乗車。助かった。
写真はそのモノレール駅の乗り場。 -
⑭
集合時間の4時までに クルーズターミナル出口に無事戻れて ツアーの皆さんと合流。そして迎えのバスに乗車して ベニス空港に向かう。
空港到着時も 現地添乗員の不手際で ちょっとしたトラブルはあったが、グループの一団と一緒なので 無事にチェックイン出来て 定刻6時半に飛行機はベニスを離陸してドーハへ向かう。
写真は 離陸後1時間後に出された機内食。早朝以来何も食べていなかったので ホッとして美味しかった。
飛行中 隣りの席に移ってきた太った白人が ひじ掛けを超えて乗り出して来るので トラブル。大人げないので我慢していたが 肘が私の脇腹をつつくので 眠れず。英語で抗議。その白人が元の席に戻って一件落着。血圧は上がったが。 -
⑮
ドーハに深夜1時過ぎに到着し、2時40発の成田行きに乗り換える。
写真は ワンワールドのラウンジで 来た時と同じように 軽食を食べ 乗り換えの息抜きする様子。
(深夜なのに ラウンジの従業員は 驚くほど沢山いて 手持無沙汰の様子。産油国では 仕事をつくり 与えることが優先されているのかとさえ思える。) -
(11)5月2日(月)
① 成田への飛行は 三人席の 隣りの席が空席だったので楽だった。ウトウトとよく眠れた。
18時40分 成田に着陸。スムーズに入国し、皆さんと挨拶後 アクセス特急で日暮里まで乗り 22時頃自宅に帰れた。留守宅も何事もなく 久しぶりに風呂に入って バスタブで足を伸ばし 満足して眠った。
(翌朝遅く 庭に出ると プランターのジャガイモが大きく育っていた。)
今回の旅では 色々とトラブルや嫌なことがあった。
転倒して 怪我をしたこと。カジュアルクラス船を選択している為の 仕方のないいらだち。帰りの飛行機の中の白人との小競り合い。歳の所為だろうけれど これからの旅に自信を失わせる出来事が増えた。楽しみに行って 楽しめないなら もう潮時かなと弱気になる。 -
(余禄)
数日後 散歩に出かけ、立ち寄った図書館の書棚で 写真の本を見つけ、借り出す。
ギリシャを愛する日本人女性から見たギリシャ像が描かれていた。ギリシャ旅行から帰ったばかりだったので 参考になった。損得が動機の瞬間蒸発的なギリシャ報道に慣れていた我が身には 納得がいくところが多かった。
やはり 旅の面白さは自分で体験できるところに在る。それが動機付けとなり 広がって行く。
年齢のリスクを慎重に判断しながら もう限られた旅を 大切に続けて行きたいと思った。(時差ボケからの復調がなかなか直らない日々で 記す。)
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この旅行記へのコメント (2)
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- 小江田さん 2016/06/04 23:57:58
- 不思議ですねwww
- 2016年 オーケストラ号 で検索したら出てきました。
同じ船にのっていたので思わずコメント☆
同じ船、同じ場所には行っているものの
人それぞれの過ごし方をしていてログを見ていて楽しかったです。
また次回のご旅行楽しんで!!
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- UNIT23Bさん 2016/05/22 14:41:36
- 前後編、興味深く拝見しました。
クルーズファンは大抵同じ船会社の船を繰り返し乗ることになる気が
します。クルー・食事などサービス内容のことや客層が分かっていて
安心感がありますから。
怪我をされたこと 私も心しなければ と思いました。70台後半ですが
この秋 ローマから乗船する前に フィレンツェ近辺を夫婦2人で数日間
回る予定を立てたりしていますので。
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