2009/10/31 - 2009/10/31
1118位(同エリア2178件中)
マローズさん
[脱藩の道沿いにある中高年専用花街]
坂本龍馬が属していた土佐勤王党は、龍馬が脱藩してから約2週間後の文久2年(1862)4月8日の雨の降る夜、佐幕派の藩政、吉田東洋を東洋の自宅近くで暗殺し、その首を雁切刑場側の街道沿いに吊るした。
刑場跡は鏡川の護岸工事で跡形もなくなっているが、東洋の首を仲間に渡した地、「加納院観音堂」は明治初年、廃仏毀釈で廃寺になったものの、昭和期、近くの鏡川沿いに再建された。
その再建地側の鏡川では龍馬が少年時代、よく泳いでおり、泳ぎ疲れると堤に上がって居眠りをしていたという。数年前、現在の観音堂境内に「龍馬居眠りの堤」の看板が建った。
旧観音堂は思案橋の東向かいにあった。ここで龍馬の脱藩時、途中まで道案内した那須信吾が東洋の首を河野敏鎌に渡し、敏鎌が首を晒し首にした。
脱藩の道の起点は龍馬邸だが、街道に於ける起点は思案橋の西にあった思案橋番所だった。
思案橋から西を玉水町と言うが、ここには高知城下三大花街の一つ、玉水新地があった。その地の遊郭で最大のものは、映画や小説でも知られる陽暉楼。
玉水新地は公娼街だったが、昭和33年、売春防止法が施行されても何割かの置屋は営業を続けた。平成になっても警察や自治体の黙認のもと、営業を続ける置屋は全国各地にあるが、その大半が藩政期に遊郭街だった場所。四国では松山市の道後が有名だったが、’00年代に入り、自治体が方針転換をしたため、置屋は消えた。全国一有名だった三重県の渡鹿野島も同様。
が、玉水町では写真(‘09年時)を見ても分かるように、未だ何軒かの置屋が営業している模様。当方が利用したのは’99年。但し、好きで利用した訳ではなく、関西の取引先の者に頼まれ、嫌々利用しただけ。その者は神戸のJA関係者の高知旅行を手配するとのことで、安価で楽しめる置屋を紹介してほしいとのことだった。サンガ何とかという阿漕な仕事をする兵庫県の悪徳探偵業者だった。当方も結局、騙されて損することになった。
置屋は皆、夜になると玄関先に赤や緑の電球を灯し、老婆が出て、椅子に腰をかけている。老婆に声をかけると部屋に案内されるが、玉水町の置屋の女は皆、40代以上。スリップは着用したままで愛想も悪い。料金は20分か30分かで3,000円で、時間になるとブザーが鳴る。延長は15分毎だったと思う。
置屋街へは土佐電鉄(通称・とでん)旭町一丁目電停から徒歩2分ほど。
それからほどなくしてその探偵業者とは契約を打ち切り、郷土書制作事業を始めた。翌年になると県内の山間部へと移り住み、健全な日々を送ることになった。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通手段
- 自家用車
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観音堂は土佐西国三十三ヶ所観音霊場第33番札所
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観音堂
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龍馬居眠りの堤跡
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水丁場標柱・・・藩政期、高知城下の鏡川流域の洪水による災害を防ぐために設けられた受け持ち区域の境界標。武士や町人らが12の組に分かれて水防にあたっていた。防に
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今は橋には見えない思案橋。この西側にあった番所は、土佐西街道と松山街道の起点になる。
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旅館おきなと旅館若松。「旅館」となっているが、当然宿泊することはできない。
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旅館すずのや
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旅館都
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吉田東洋の首が晒されていた付近
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雁切刑場跡
鏡川 自然・景勝地
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雁切橋。藩政期は橋がなく、渡しだった。橋を渡った先で、脱藩の道と土佐西街道は分かれる。
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郡頭神社。通称「鴨部の大国さん」。脱藩の道沿いではなく、龍馬が16歳の時、四万十川の堤普請補佐として出張する際、歩いた土佐西街道沿いにある。
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