2016/05/02 - 2016/05/02
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montsaintmichelさん
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奇遇にも吉備路の旅は、岡山城に始まり、備中松山城でフィナーレを飾ることになりました。
岡山県高梁市にある備中松山城は、日本三大山城(備中松山城、大和高取城、美濃岩村城)のひとつに数えられ、兵庫県朝来市にある竹田城跡と並んで雲海に浮かぶ幻想的な「天空の山城」として一大ブームを巻き起こしています。備中松山城は日本屈指の山城とも言われ、歴史ファンの方であれば今年に入ってからその姿を何度も見られているはずです。それも備中松山城に縁も所縁もない真田家「六文銭」の旗印が翻った雄々しき姿を、毎週日曜日の夜に…。
そんな現実離れしたあり得ない備中松山城の奇跡の光景が見られるのが、NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像です。真田家が拠点とした岩櫃(いわびつ)城は天険の山城として知られますが、残念ながら現存していません。オープニング映像のテーマを「信繁の描いた夢の城」と位置付け、真田家ゆかりの山城のイメージに相応しい城を探し回った結果、備中松山城に白羽の矢が立ったのです。
「真田丸」の題字に続いて大手門北側のダイナミックかつ優美な石垣群が映し出され、その石垣の天辺には真田家の家紋「六文銭」の軍旗が翻っています。壁の色は白壁から土壁を思わせる黄土色にCG加工され、本来流れていない小川が合成される大手門枡形部の映像に切り替わり、出演者が紹介された後、ハイライトとなる屹立する堅牢な石組みから白壁の天守が覗くカットが挿入されます。そして天守の屋根を上空から捉えた迫力あるシーンは、ハリウッドクラスの高精細カメラとドローンで撮影されたそうです。
プロの映像には到底敵いませんが、憧れの備中松山城の素晴らしさを余す所なくレポしたいと思います。
高梁市のHPです。
http://www.city.takahashi.okayama.jp/soshiki/9/shiro4240131.html
備中松山城のマップです。
http://www.geocities.jp/senokatsu5555/hobby/castle/037bicchumatsuyamajyo/image002.gif
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- タクシー 新幹線 JRローカル
PR
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高梁川
高梁大橋から望む臥牛山方面です。橋の下を流れるのが県下三大河川のひとつの高梁川です。左端にあるこんもりした山の上に備中松山城があります。
JR倉敷駅から伯備線の普通を利用して40分弱でJR備中高梁駅に着きます。高梁駅から備中松山城にアプローチするにはタクシー利用が便利です。観光乗合タクシーを利用すれば、片道¥500で済みます。一般タクシーなら¥1500は下りませんから割安です。前日17時までに備中高梁駅前観光案内所に往復便の予約をすればOKです。
乗合タクシーは観光案内所の前から発車します。案内所の場所は、JR備中高梁駅西口の階段を降りた所にある、高梁大橋に通じる県道196号線沿い、大橋に向かって左手にあります。ロータリーのコーナーから20m程の距離です。ただし現在は仮事務所のようで、暫くしたら現在GOOGLEで示された正規の観光案内所の場所に戻るそうですので予約時にご確認ください。
乗合タクシーの予約サイトです。
http://www.city.takahashi.okayama.jp/site/bichu-matsuyama/matsuyamajou-noriaitaxi.html -
鞴(ふいご)峠
ふいご峠駐車場は臥牛山の8合目に当たり、ここが登城の拠点になります。この先は車両進入禁止ですので、一寸したハイキング気分が味わえます。
天守までの距離は700m程ですが、勾配があるため20分程の山歩きになります。山道は整備されていますが、急な坂や石段、砂道もありますので、運動靴をお勧めします。そして忘れてはならないのが、水分補給です。ふいご峠を最後に、自販機はありません。古来より城とは戦うための砦です。また昔日のつわものどもが舌を巻いた難攻不落の城郭でもあり、登りの厳しさにはそれなりの覚悟が求められます。その道程を歩くことで、よくぞこんな所へ城を建てたものだと身に染みて感じ入ることができます。
観光案内所の方によれば、ゴールデンウィーク中は1000人/日のペースで登城されているようですが、昨年に比べて多少減っているとのことです。 -
臥牛山(がぎゅうざん)
標高480mの臥牛山は、大松山、天神の丸、小松山、および前山の4峰からなり、牛がひれ伏したような姿に見えることからその名があります。急傾斜の断崖が多く、地質は黒雲母花崗岩からなります。大部分が国有林ですが、山全体に樹齢400以上の巨木に覆われた大原始林が広がっています。550種類を超える植物が自生し、そのうち235種類が大木に属するそうです。
因みに、天然記念物の猿生息地としても国から認められています。ですから、野生の猿と遭遇することがあるかもしれませんので留意ください。もしも遭遇してしまったら、猿と目を合わさないようにしてください。野生動物の世界では、相手の目をじっと見るのは、敵意を示すのと求愛表現以外にありません。 -
中太鼓丸櫓跡の石垣
最初に現れる遺構が中太鼓丸櫓跡の石垣です。
端正に組まれた雰囲気のある高石垣です。かつて石垣の上には、中太鼓丸櫓が建てられており、城内あるいは城下へ情報伝達するための太鼓の音を中継する通信施設のひとつでした。標高355mの地点にあり、小松山から南へ延びる尾根上に当たるため、別名「上太鼓丸櫓」と呼ばれ、ふいご峠を少し下った所に次の中継点の「下太鼓丸櫓」があったそうです。
手前にある野面積の石垣の下部は、目立たないですがモルタルで覆ってあります。石垣が崩れる危険性があるための苦肉の策と思います。 -
中太鼓丸櫓跡の石垣
備中松山城は、日本に現存する12天守の中で唯一の山城です。中世〜戦国時代の城は純粋な軍事施設だったため、防衛に有利な山上に築かれる山城が主流でした。
では、何故備中松山城は山城にして天守を持ったのでしょうか?それは、中世の城郭から近世のスタイルへとリノベーションされた、新旧ハイブリッドの城郭だからです。中世には峻険な全山を要塞化した巨大な山城でしたが、太平の世となると領主の居館、政治や経済の中心としての役割が重要になり、山城の一部を現在の姿に大改造し、その際に天守や石垣が築かれたのです。
備中松山城はめまぐるしく変遷する時代に応じて多様に変化を遂げ、しかも各時代の片鱗を今に残す、全国でも類稀な城郭です。お城ファンを虜にする見所満載の城と言えます。 -
中太鼓丸櫓跡
丁度ふいご峠から天守までの中間地点に当たりますので、櫓台の上で下太鼓丸櫓跡や城下町を一望しながら息を整えるのに適しています。ただし、安全柵などは一切ありません。転落する危険もありますので、自己責任でお願いいたします。
登りは結構しんどいのですが、登城心得という城主からのメッセージが書かれた札が要所に立てられ、和ませてくれます。
「松山城へは 右手の道を 進むべし」。
「よくぞ まいられた」。
「タバコの ポイ捨て 固く禁ず」。
「このさき足もと 悪しきにつき 気をつけて歩むべし」。
「あわてず ゆっくり 歩むべし」。
「この辺りが ちょうど中間地点である しばし休まれよ」。
「本日の登城 大儀であった」。 -
中太鼓丸櫓跡
櫓は老朽化によって自然に朽ち落ちたため、櫓台付近にはその瓦礫が埋まっています。
表面に露出している瓦礫を踏んでしまってもよいものか、思わずためらってしまうほどです。 -
中太鼓丸櫓跡
備中松山城は中世城郭を江戸時代に近代城郭にリノベーションしたものですが、山頂にある天守と城下との標高差は300m以上にもおよびます。これでは往来が不便で増築スペースも乏しいため、江戸時代には中腹に御根小屋という館が増設され、藩主の生活や日常の政務に当てられていたそうです。
現在、それらは廃却され、その跡地に県立高梁高校が建てられています。 -
大手門跡
鬱蒼とした樹木が天空を覆う薄暗い山道をあえぎながら登ると急に前方が開け、眩しさにハレーション気味の石垣群が忽然と現れます。この意表を突く石垣群の出現の演出は、只者ではありません。
久々のワクワク・ドキドキ体験です。 -
大手門跡
山道の右側は急な斜面となり、流土の堆積によってやや不明瞭で獣道と化していますが、かすかに犬走りの痕跡が見受けられます。
この犬走りは大手門を迂回して裏門へ至るための横道であり、犬走り口はその虎口(入口)に当たります。土塀の痕跡が途切れる大手門の下から、天守裏の搦手門(からめてもん)に通じています。 -
大手門跡
石垣群が突如出現する演出も、侵入者へ精神的な威圧感を与えるための戦術です。
古絵図を見ると、かつてはここに大手門と呼ばれる巨大な櫓門があったようです。非常に複雑な形をした石垣が幾重にも高く組上げられ、行く手を阻みます。往時はどのような櫓や門が建ち並んでいたのかと想像を掻き立てられる風景です。 -
大手門跡
誰もが固唾を呑んで立ち止まり、無言で暫し見上げる凄まじい石垣群です。ここは備中松山城へやって来たということを最も実感できる場所です。
臥牛山の岩盤は、強度の高い黒雲母花崗岩のため、削り出してそのまま台座として利用できたそうです。岩盤の尖った部分に石材を接ぎ合わせるようにして築かれていますが、このような天然の岩盤の上に石垣を築こうという斬新な発想が生まれたこと、そしてそれを現実のものとしたことに改めて感心いたします。 -
大手門跡
石垣群にもう少し近づいてみましょう。
岩盤の上にそそり立つ三の丸と厩曲輪(うまやくるわ)の高石垣は見る者を圧倒する迫力です。
この城の最大の魅力は、峻険な断崖絶壁に重畳して築かれた巨大な石垣群の雄々しさとその構造美です。大手門を越えると石垣群が迫り、守りの堅牢ぶりが見て取れます。また、天然の岩盤の上に人工の石垣を巧みに組上げたダイナミックなコラボレーションの見事さには、目を瞠ります。岩盤と石垣がしっくりと融合しており、自然の地形を上手く活かして築かれた城塞であることが判ります。 -
大手門跡
左側の石垣台の上は大手櫓跡、奥が二の平櫓跡になります。
かつて黒澤明監督がこの備中松山城の景観を気に入って映画のロケ地に選んだそうですが、あまりにも急峻な地形であるためにスタッフの猛反対に遭い、その話は闇に消えたとの逸話があります。
映像的には申し分ないのですが、当時の重い機材を担いで登るスタッフにしてみればごもっともな判断です。
因みに、「真田丸」のオープニングではこの岩盤に滝をCG加工し、山城の雰囲気を強調しています。 -
大手門跡
大手門跡の後方にそそり立つ巨岩と、その上に載る厩曲輪の石垣の威容は圧巻ですが、巨岩の割れ目に侵入した樹木の根の成長に伴い、割れ目が徐々に大きくなっているそうです。更に巨岩の上に載る石垣の重みで岩がズレを生じています。こうした影響もあり上部の石垣が変形しつつあり、将来、崩落する危険を孕んでいるそうです。
何とか、歴史あるこれらの石垣を後世に残していただきたいものです。 -
大手門跡
石垣の直下まで行ってそこから見上げると、一部崩落してしまったような岩盤も見られます。 -
大手門跡
大手門から枡形に入った所からのアングルです。
大手門の内側には上番所、下番所とあり、城郭正面の守りの鉄壁さが窺えます。
正面にある石段を上がると大手門を守っていた足軽箱番所跡があります。
しかし、こんな素晴らしい石垣も、地球の地殻変動等によって地盤が年間十数mmずつ動くのは避けられず、近年は岩盤の崩壊が懸念され、計器で精密測定されています。案内板によると、ペルーのマチュ・ピチュ遺跡と同様の「不安定岩盤斜面監視システム」を導入して監視しているそうです。 -
足軽箱番所跡
足軽箱番所跡に立って石垣群を見上げたアングルです。
右側面は、ほとんど天然の岩盤でできていることが判ります。 -
大手門跡
敵を「漸く大手門に着いた!」と安堵させながら、足元には何時の間にか歩き難い歩幅の石段が設けられています。あと少しの所で焦らせてジラす、心理作戦も半端ではありません。
備中松山城は自然の地形を巧みに利用して築かれていますが、大手門はその典型です。山麓から続く登城道に対し、大手門が東を向いて構えているため、侵入が矩(かね)折りとなり、内部は踏面(ふみづら)の長い石段を高石垣で囲こみ、半ば枡形構造(敵の直進を防ぐことを目的に設けた長方形の空間)となっています。城内へ押し寄せる敵軍の勢力を削ぐための工夫を駆使し、大手門は実践向きに築かれていることが窺えます。
大手門は、小松山城全体の正面玄関に当たる場所で、攻撃あるいは防御の重要な軍事施設であると共に、城下に威厳を奮う統治上の象徴的存在だったとも考えられます。そのため城内に6つある門のうち、最も複雑な進入形態を採ると共に、最大の規模を誇ります。是非、大手門の復元を実現していただきたいものです。 -
大手門跡
大手門を入ると半ば内枡形構造とも言え、ジグザグに入り組んだ進路になります。周囲を高石垣が囲み、これでもかと言わんばかりの外敵侵入を防ぐ構造になっています。
兵法の基本である「戦わずして勝つ」を極めるとこうしたものになるのかも知れません。
余談ですが、「真田丸」のオープニングでは、左手の枡形となる石垣の上にも土塀と樹木がCG加工され、六文銭の旗印が翻っています。また、枡形部に滔々と小川が流れる様もCG加工です。石垣に生した苔の具合などは、ありのままを使っているように思います。 -
三の平櫓東土塀(重文)
大手門の枡形を左に折れて石段を上がると、前方に四角と丸の狭間が交互に切り込まれた三の平櫓東土塀が見えてきます。
この土塀は土を練り上げて造った土塊を積み重ね、それを芯にして外側に漆喰を塗って仕上げられ、特に控柱のない形式の現存土塀は珍しいものです。
手前の一部(左端から9m程)が現存土塀です。途中からは復元土塀ですが、壁の段差で現存部分と復元部分を区切っています。よく見ると途中から壁が奥に少し窪んでいるのが判ります。
明治維新から復旧が始められた1929(昭和4)年までは、破却はされなかったものの荒れるに任せた状態で、ほとんどの建造物が朽ちて崩落する中、この土塀は長年の風雪に持ち堪えたそうです。 -
三の平櫓東土塀
曲輪の端に土塀・平櫓を多く備えることから、側面防御に力点を置いていたことが窺えます。また、四角い矢狭間や丸い筒狭間が延々と続き、ここを突破するのは並大抵なことではありません。
通路は復元されたものですが、道幅などは忠実に再現されているそうです。道幅は広いものの、ここだけ歩幅が広くなるため、歩くリズムが乱れて疲れます。一気に駆け上がれないようにする工夫です。
また、土塀は真っ直ぐではなく、登城道に沿って緩くカーブを描くのが心憎い演出です。
余談ですが、備中松山城の土塀の狭間には、丸と四角のものしかありません。「真田丸」のオープニングではフルCG加工されており、丸と四角の狭間の他に三角のものも見られます。探してみてくださいね! -
三の丸
土塀の前から天守方面を見上げると、そこにも石垣群があり、今度は上へ上へと重畳して聳え立つ様が壮観です。
野面積石垣の上が三の丸、その上が厩曲輪(うまやくるわ)、二の丸と続きます。このような段々に築かれた石垣は山城ならではの醍醐味と言えます。 -
三の丸
右奥にある白壁の土塀は厩曲輪の現存土塀です。大手門から見上げた時に見える土塀です。
石垣組もこれまた芸樹的で圧巻です。奥に向かって、積み方が違うのが判るでしょうか?
この広い三の丸には、上番所や足軽番所がありました。番所とは、境界や要所に設けた見張り所のことです。足軽番所は足軽の詰所で、ここで寝泊まりもしていたそうです。 -
三の丸
岩盤の上に組まれた石垣群が見られる端まで行ってみます。
思ったより高さがあり足が竦む思いです。
石段の脇にある長方形のスペースが足軽箱番所跡です。 -
三の丸
秋冥菊(しゅうめいぎく)は、天守台の周辺を中心に群生し、毎年秋になると花が咲き乱れます。しかし何故か赤色の花しか咲かせないそうです。これには、備中兵乱で滅んだ三村氏一族をはじめ、戦で散った歴代城主やこの城で不幸な目に遭った人達の怨念が込められているからという伝説があります。
しかし、実際には鮮血のような赤色ではなく、ピンク色に近いそうですのでご安心ください。 -
厩曲輪(うまやくるわ)
城内唯一の公衆トイレがある御膳棚跡の向かい側の奥に続く曲輪が厩曲輪です。
厩曲輪は、二の丸への侵入攻撃を防ぐ要の曲輪です。その前には厩門が建っていたそうです。奥には現存する白壁の土塀が見られます。
厩曲輪はその名の通り、荷馬を繋いでおく場所です。つまり、往時はここまでは馬で上がることができたことになります。馬もこんな高所まで登らされるのは迷惑千万なことだったでしょうね! -
黒門跡
左に御膳棚跡、右下に厩廓曲輪を見ながら二の丸へ上がるカーブを描いた石段を登ると黒門跡があります。
御膳棚とは食事を作る場所です。そんな場所に公衆トイレを造ってしまうとは、デリカシーが疑われるところでもあります。 -
鉄門跡
この石段を登り切ったきった所が、二の丸への大手虎口となる二の櫓門「鉄門」跡になります。
ここの石垣は野面積と言い、大きな自然の岩を加工せずにそのまま積んだもので、城内最古の石垣になります。毛利氏が造らせたと考えられる唯一の部分です。
もう少し先に行くと、上部に加工した石を積んだ「打ち込みハギ」が混在する様子が見られます。 -
与謝野寛の歌碑
鉄門跡の脇に立てられています。背後にあるヤマフジも花を添えています。
1929年(昭和4)年の秋、歌人の与謝野夫婦が備中松山城を訪れています。その時に与謝野寛が詠んだ歌が石碑になっています。
「松山の渓を埋むるあさ霧に わが立つ城の四方しろくなる 」。
与謝野晶子も次の歌を詠んでいます。
「瀬戸の海伯耆に霧の分れ去り あらはになりぬ傷ましき城」。
2人は油屋旅館を宿にして、備北路の紅葉をめぐる6日間の旅を愉しんだそうです。当時はまだ天守も修復されていませんでしたが、早朝から臥牛山に登り、雲海の湧き立つ備中松山城や高梁の情景を詠んでいます。
因みに、この与謝野寛の歌の典拠は不明だそうです。高梁市教委によると、事情を知っていたと見られるキーマンが既に他界し、手がかりがない状態だそうです。
どなたか資料をお持ちの方は、高梁市教委にご連絡をお願いいたします。 -
二の丸
ここが備中松山城天守の鉄板ビュースポットです。
左から六の平櫓(復元)、本丸南門(復元)、五の平櫓(復元)、天守と連なっています。
天守は修復されていますが、現役時代の姿を留めています。高所に建てられたために小ぶりですが、天守が残されたことは奇跡と言えます。しかし、改修される以前の天守は満身創痍の様相で傾いて今にも崩落しそうにけなげに建っていたようですので、改修でかなり手が加えられ、かつての面影が薄れている点は生粋のお城ファンには残念な点かもしれません。 -
二の丸
南西角には、雪隠(トイレ)跡が2ヶ所ありました。
雪隠跡も珍しいもののひとつですが、何故こんな所にあるのか不思議です。
数人入れるほどの大きさを持った四角い穴を石積みで補強しており、手の込んだものです。それ故に、有事に伏兵を置くための場所だったとか、すぐ横は断崖絶壁なので抜け道の入口だったなど諸説あります。 -
本丸の石垣
本丸南東側下の石垣と帯曲輪が延びる中、その上方に天守が顔を覗かせています。
天守へ登城したい気持ちを抑え、本丸の右横から裏手へ回り込みます。本丸の裏手には、やはり石垣で固められた後曲輪等が残されており、見逃せません。
こうして見ると石垣と土塀のラインの雰囲気が絶妙です。
この景色も「真田丸」のオープニング映像で流されています。ここから天守に迫り、上空から天守の瓦を舐めていくシーンです。「六文銭」紋が入った鬼瓦のアップのシーンは、真田家所縁の上田市 廣山寺で撮影されたものに差し替えられています。 -
本丸の石垣
天守は2層2階で、西面に半地下のようにして附櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守です。天守の高さは11mと現存12天守の中では最小規模です。外観は、白漆喰塗りの壁と黒い腰板張りからなり、初層の大きな唐破風出格子窓や2層の折れ曲がり出窓などはいずれも連子窓(忍者窓)となっており、初重の屋根には、西面に千鳥破風、北面と東面に入母屋破風、南面に向唐破風が付けられています。 -
本丸東御門
木造、本瓦葺の棟門様式です。唯一の引戸で、本丸の勝手口に当たります。
小さな穴に棒を通して小猿鍵を落とす引戸構造になっており、閉門後に誰も城内に残らないで済む仕掛けになっています。江戸時代の本丸には、数人の番人が常駐する程度だったようです。夜間は無人だったのかもしれません。
よく観ると門の前には電柵のようなものが張り巡らされています。臥牛山には野生の猿が生息しており、建造物に登って壁や瓦を破損させるなどの被害が報告されており、この電柵は猿除けのために設置されたものです。
皮肉なことに、現代の備中松山城は猿軍団に攻め落とされないよう守りを固める必要に迫られているようです。ただし、登城の時間帯は高電圧が流されていないので、誤って触れても大丈夫だそうです。 -
本丸東御門
東御門とそこから流麗に婉曲する芸術的な天守曲輪石垣です。
しかも隅石の所から左右で石垣の様相ががらりと変わるのもユニークです。
左側は緩いカーブを描いた優美な石垣なのに、右側は天然の岩盤を剥き出しにした荒々しい形相です。 -
搦手門(からめてもん)跡
大手門下の犬走口と繋がる横道の出入口となる本丸裏手の搦手門跡から眺めると、このように崖のように険しい地形が連なっています。
苔生した石垣が荒々しいです。 -
腕木御門
二重櫓の手前に腕木御門があり、ここが本丸の裏門に当たります。
棟門様式で東御門とほぼ同じ形をしていますが、こちらは開き戸です。ここを降りた所が搦手門の前になります。 -
二重櫓(重文)
搦手門跡を抜け、水曲輪・後曲輪へと回ってきました。
天守の後方を守るようにして建つのが二重櫓です。入母屋造、本瓦葺で、入口は南北の2箇所にあります。南口は天守の裏手に繋がり、北口は後方支援櫓として搦手門へと繋がり、臥牛山の相畑城戸、天神の丸、大松山城へと続く城郭の中継の役割を担っていました。有事の避難経路としても重要な役割を担う櫓だったと窺えます。
二重櫓のさらに奥に位置する後曲輪跡には井戸の遺跡があります。山城で重要なことは水の確保です。貴重な水源だったのだろうと思います。
山道は後曲輪の奥に続き、さらに古い時代の城塞の遺跡が点在しています。備中松山城の前身となる城は、奥にある大松山に建てられたものが最初だそうですが、現在は跡地には何も遺されていないそうです。 -
二重櫓
天然の岩盤を櫓台に利用してその上に築かれ、小ぶりながら敵を威圧する、勇猛ないでたちです。天守を背後で守り抜こうという、強い気迫すら感じさせるけなげな櫓です。
本丸天守に劣らず、この断崖絶壁の上によくぞ建てたものだと吃驚ポンです! -
天守
天守の土台も、荒々しい天然の岩盤の上に石垣が積まれています。先人の知恵に頭が下がり、驚嘆に値する技術だと思います。
2層2階の天守は、唐破風の曲線美を強調し、縦板を並べて張り継ぎ目を桟木で押えた「堅板張り」の腰板の黒と漆喰壁の白のコントラストが美しく、どこか女性的な雰囲気を湛えています。2003年からの保存修理を終え、まさに化粧直しを終えた天守と言えます。
備中松山城の創築は、鎌倉時代の1240(延応2)年に承久の乱の戦功で備中有漢郷の地頭に任ぜられた秋庭重信が臥牛山の4峰のひとつの大松山に砦を築いたことに始まります。
やがて、城の場所は小松山に移り、縄張りは時代と共に変化しました。戦国時代には、三村氏と権謀術数のあらゆる手段を駆使して勢力を伸ばしてきた宇喜多氏との争いの場ともなり、一時は備中松山城を攻め取られる事態となるものの、毛利氏の支援を得て奪還に成功しています。その後、城主 三村元親の時代に要塞化した戦国の山城が築かれました。しかし、元親は、織田信長の勢力が中国地方におよぶと毛利氏から離反して信長と手を結び、その結果、毛利輝元の軍勢に攻め込まれ落城の憂き目をみました。その後は毛利氏の東方進出の拠点となるも、毛利氏が関ヶ原の戦いに敗れて萩に移封されると備中国奉行として赴任した小堀正次・正一(遠州)父子により修改築がなされ、備中の天然要衝としての役割を担ってきました。以降、池田、水谷、安藤、石川、板倉氏と城主が遷り変わって明治維新を迎えました。
その間、1683(天和3)に水谷勝宗により、3年間に亘る大改修が行われて現在の形を整えています。 -
天守
天守が今に残されたのは、幾つかの偶然が重なった奇跡です。
幕末の領主 板倉勝静(かつきよ)は、老中筆頭として政界の中心人物のひとりでした。勝静の祖父もまた老中筆頭として寛政の改革を行った松平定信でした。つまり、備中松山藩の領主であると同時に、徳川家に近い立場の人物でした。その因果か、徳川慶喜の側近として鳥羽伏見、東北、函館と転戦し、結果的に「朝敵」の代表的人物になってしまったのです。当然、新政府は武力制圧を前提に備中松山藩に開城を迫りました。
その頃の備中松山藩は20万石の大名に匹敵する農兵を中心にした鉄砲組を持っていたのですが、5万石の小国に独自の軍事行動を起こす力はありませんでした。そこで、備中松山藩は無理やりに藩主を説得して降伏させ、無血開城することを新政府軍に約束し、言わばクーデターでこの難局を乗り切りました。
幕末の戦乱の中で多くの城が破壊され、また廃城令によって旧体制の象徴たる城郭は解体されていきました。
では、何故「朝敵の城」が生き残れたのでしょうか?実は備中松山城も競売にかけられて落札されたのですが、天守が山上にあるため跡地の再利用の目途が立たず、解体費用も嵩み、落札者は「取り壊しました」と虚偽の報告をしてそのまま放置したのです。木々に覆われて外部からは見えず、山上ゆえ確認に来られることもなかったのが幸いし、備中松山城はひっそりと生き続けたのでした。そして、戦禍にも晒されることなく残されたのです。
山城だったことが意外なところで「天然の要害」の威力を発揮し、山城唯一の現存天守を後世に残すことになったとは…。波瀾万丈の世を生き抜き、長年じっと身をひそめて耐え忍び、そして今ここに甦った名城なのです。多くは語らずとも静かに語りかけてくるような、そんな風格に満ちた城です。 -
本丸
天守へ向かう途中には、八の平櫓台が残されています。高梁市HPによると、本来の天守の構造はこの八の平櫓から廊下を伝って入る「連郭式天守」だったそうですが、昭和の大修理の際にこの八の平櫓の荒廃がひどく、原型復元が困難だったことからやむなく断念したようです。いずれはこの八の平櫓も復元され、往時のように連郭式の雄姿を見せてくれるかもしれません。 -
天守1階
珍しいのは天守に囲炉裏があることです。この城は山上という不便な場所にあるため、江戸時代には普段の執務には使われていなかっのですが、板間に板石造りの長さ一間幅三尺(195cmX90cm)の囲炉裏があったりする不思議な城です。
籠城時の城主の食事や暖房用など、万が一に備えた設備だったそうです。実際には城内で火を使うことは禁じられ、実際に使われることはなかったそうです。天守の中にこのような切り込みの囲炉裏があるのは全国的にも珍しく、戦国時代、備中国の首都としてこの城が激しい争奪戦に見舞われたことから生まれた知恵の産物だそうです。
現存天守は江戸時代初期の建造とされ、内部は質実剛健な造りです。現存天守の中でも比較的時代が新しい部類ですが、徳川幕府による管理体制が厳しくなってから建てられた天守自体珍しいものです。
天守は毛利時代から存在したとも伝えられますが、その構造などは不明だそうです。1600(慶長5)年に小堀遠州が建てたものを水谷(みずのや)勝宗が改修して現在の姿にしたとも伝えられます。 -
天守1階 装束の間
引戸2枚で仕切られ、1段高くなった部屋があり、「装束の間」と呼ばれています。籠城時の城主一家の居室となる部屋で、籠城時には床下ギリギリまで隙間無く石を敷き、忍びなどが侵入できないようにするそうです。
そもそも江戸時代に山城に設けられた天守ゆえに実戦を想定した構造ではないのですが、それでも戦いが起きたら籠れる部屋を準備していたようです。そして落城の際には、ここが自刃する部屋に早変わりします。
今は観光客が遠慮なく立ち入れますが、往時は最期を覚悟した時にしか入れない特別の部屋だったことでしょう。 -
天守1階 装束の間
装束の間に設けられた扉の先に通じるのが二重櫓です。
天守と同じく現存する建造物で、天守の北側にはみ出すように築かれています。つまりここは、天守から城外へ脱出するための隠し扉がある部屋だったのかもしれません。
現在は、椅子に腰掛けて観光ビデオを鑑賞する場所になっているため、全体を写す気にはなれません。 -
天守 2階 御社壇(ごしゃだん)
奥は舞良戸という引戸で仕切られた御社壇(神棚部屋)になっており、1683(天和3)年に松山藩主 水谷勝宗が守護神として三振りの宝剣を奉納したことに始まり、歴代藩主もそれに倣ったそうです。
水谷氏の守護神「羽黒大権現」をはじめ、天照皇大神や摩利支天、八幡大菩薩、毘沙門天、愛宕権現、成田明神など十柱の神を祀る神聖な領域です。天守に宗教的施設があるのも珍しいですが、これぼど多くの神を祀っているのも珍しいです。今でも厳かな雰囲気があります。
因みに、三振りの宝剣をこの地の刀工につくらせるために大きな「ふいご」が設置されていたことから、その峠に「ふいご峠」の名が付いたそうです。宝剣(県指定重要文化財)は、高梁市歴史美術館に収蔵されています。 -
天守2階
天守の天井は、お城マニアには堪らない絶景だそうです。城の絶対領域と言っても過言ではありません。
2階は、1階にも増して暗い殺風景な空間ですが、その分、曲がった大木を巧みに組み合わせた梁が印象的です。僅か2層の小さな天守とは言え、立派な木組みでしっかり造られていることが窺えます。木組みには、美しい手斧(ちょうな)や槍鉋(やりかんな)の跡も見られます。 -
天守2階
連子(武者)窓越しに城下を俯瞰します。正方形の角材の角を外側に向けて並べ、外からは中が見え難く、中からは広く見渡せるようになっています。
備中松山藩は5万石の譜代で、幾度か城主が遷り変わっています。ですから、時には城の受け渡しを巡って新旧両派の衝突が起きるケースもあったそうです。そこで幕府は監視役を置いたそうです。水谷勝美が死去した際、跡継ぎがなくお家断絶となるのですが、その時の監視役が赤穂藩 浅野内匠頭でした。一時は家臣たちが武力抵抗のそぶりを見せましたが、赤穂から派遣された大石内蔵助の説得で無血開城に応じたそうです。その時の備中松山藩側の責任者が家老 鶴見内蔵助でしたので、「二人内蔵助」の美談として語り継がれたそうです。
「松の廊下の刃傷事件」が起きる7年前のことでした。 -
本丸
本丸南御門と五の平櫓(左)、六の平櫓(右)を内側から見下ろした様子です。
南御門は、本丸の正面玄関に当たり、大手門に次いで格式の高い門でした。
門扉の意匠は一般的なものです。目釘は、壺金を八双という鋏形の金具を通して打ち込こまれています。また、肘金は鏡柱の後方から打ち込こまれ、柄の先端が鏡柱の表側に突き出すため、乳形の乳金物を打って隠しています。 -
二重櫓
右側に見えるのが腕木御門です。
二重櫓は大松山方面への見張りを兼ねる小天守でもありました。天守の背後にあるため、かつては天守と廊下塀で結ばれていたそうです。
二重櫓は、1929(昭和4)年に改修されていますが、「造林人夫収容小屋兼火の見台」の名目とし、六の平櫓の古材を利用したそうです。その後、1939〜40年、1957〜60年に解体修理されています。
因みに、一般公開はしていませんが、5月3日に特別公開されていました。 -
二重櫓
天守および二重櫓の鯱瓦は、「昭和の大修理」の際に昭和時代に製造されたものに載せ替えられています。元々載せられていた鯱瓦は、「平成の大修理」の際の発掘調査で出土しなかったため、鯱瓦のみ現存ではないとの断りがなされています。
尚、鬼瓦は発掘調査で出土したため、そのレプリカを載せています。 -
大手門跡
帰途にもう一度振り返って見上げた勇壮な石垣群です。
何度見ても迫力に満ち、暫し足を止めさせるのはさすがです。
名残が尽きませんが、乗合タクシーの時間が迫っているため、後ろ髪を引かれる思いで下山しました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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