2016/05/02 - 2016/05/02
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montsaintmichelさん
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倉敷と聞けば、条件反射的に美観地区をイメージされる方がほとんどではないでしょうか?その美観地区の北東側には、鬱蒼とした木々が生い茂った小高い丘があります。鶴形山と言われる山で、その上に鎮座するのが阿智神社です。倉敷の古名は「阿知」と呼ばれ、阿智神社は倉敷総鎮守の神社に当たります。この神社は地元の方には馴染深く、そもそも美観地区はこの神社の門前町として栄えました。阿智神社には、興味深い歴史があり、境内にはそれを裏付ける痕跡が随所に残されています。今回はそんなメジャーではない阿智神社にスポットを当ててレポしてみたいと思います。
上古の時代、「内亀島」や「鶴形島」などと呼ばれたこの島(鶴形山)に住み着いた阿知使主(あちのおみ)一族が造った古代の斎庭が阿智神社の起源と伝わっています。かつて岡山平野は「吉備の穴海」と呼ばれた海域であり、鶴形山周辺は海運の要衝であり、そのために海上交通の守護神 宗像三女神を祀って航海の安全を祈願したものと考えられています。
境内には蓬莱思想に基づいた日本最古の鶴亀様式と呼ばれる古代庭園「天津磐境(あまついわさか)」をはじめ、盤座(いわくら)が点在し、中腹の斎館の風雅な庭には陰陽の盤座や水琴窟もあり、神秘的な雰囲気に満ちた異空間になっています。
また、本殿北側にある樹齢500年とも伝わる曙藤「阿知の藤」は、日本一の大きさと古さで知られており、毎年5月1~5日には藤祭が開催され境内が多くの人で賑わいます。
境内の案内図です。
http://www.geocities.jp/kibi_setouchi/achi/achi99e.jpg
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 新幹線
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東の鳥居
美観地区の観光名所の多くは9時オープンですので、大原美術館のオープンまで付近を散策することにします。
阿智神社へのアプローチは西参道と東参道がありますが、せっかくですので東参道を選ばれることをお勧めします。
東参道は階段が連なる厳しい参道になり、その数197段あります。しかし、全て連続しているわけではありませんので、自分のペースで無理なく登ることができます。
阿智神社の創建は不詳ですが、応神天皇の時代(270〜310年)、『日本書紀』応神記に「阿知使主(あちのおみ)が韓国より17県の人達を率いて帰化してきた」とあり、百済系の渡来人 東漢氏(やまとのあやうじ)の祖先とされる阿知使主一族がこの地に住み着き、養蚕や絹織、縫製、鉄文化等の先進技術を日本へ伝えて大いに繁栄し、ここに祖神を祀ったのが始まりと伝えられています。
この神社が阿知使主一族の奉斎するものであることは、承平年間(931〜38)に源順が編纂した『和名類聚抄』に阿智の明神と記されていることからも推定できます。
そうであれば、創祀1700年を超える上古の社と言えます。 -
米寿段
最初の鳥居を潜ると、まずは88段の「米寿段」、次に61段の「還暦段」、そして33段の「厄除段」を上って隋身門を潜ると正面に拝殿が出迎えてくれます。そして随神門の7段、拝殿の5段、荒神社の3段(七五三)で母なる神の身の内に至り、生命力の根源に達するとされています。これは古伝承に基づく信仰だそうです。
登り切ると長寿のご利益にあやかれたような感覚になります。 -
還暦段
古来、倉敷一帯は吉備の穴海と称され、『備中府志』等では阿知潟(あちがた)と呼ばれた浅瀬であり、当時内亀島と呼ばれた小島の頂(鶴形山)に漁民たちが社殿を寄進したと伝えられ、日本古来の自然崇拝の象徴とも言える磐座と大陸からの影響が強い蓬莱思想が習合し、独自の巨石や庭園の石組みが造営されたと考えられています。この辺りが陸地になったのは江戸時代初期になってからのことだそうです。 -
絵馬殿
厄除段を登る前に絵馬殿の雄姿を崖下から仰ぎ見ておきましょう。
1682(延宝2)年の拝殿新築で境内規模を拡大した際、旧社殿を移築して懸造の絵馬殿が建造されています。 -
絵馬殿
社記には、神功皇后が三韓征伐の途上、暗闇に航路を見失い、宗像三女神に祈願したところ、三振りの剣が雷鳴と共に天空から明るく輝いてこの地に降って航路を照らして難を逃れたたため、応神天皇の御代に明剣宮(妙見宮)と称してこれを祀ったと記されています。
こうした歴史から、海の交通交易の守護神である宗像三女神を奉斎したとも伝えられています。 -
高燈篭
絵馬殿の隣に立てられた高燈篭は、かつては倉敷川畔の中橋の付近にあったとの説があります。阿智神社が貿易の守護神として船人の信仰を集めていたことから、奉納灯として現在の場所へ移設したものと考えられています。
この周辺は江戸時代にはすでに陸地になったそうですから、灯台代わりの燈篭として立てられた訳ではなかったようです。雰囲気は燈台そのものなのですが…。 -
阿知の藤(クローン)
階段を挟んで反対側の右手には、接木や取木などにより、阿知の藤のクローン(2世)がすくすくと育っています。
花の付け方は親より勢いがあるようにも思えます。これで、1代目は漸く安泰な老後が送れそうです。 -
阿知の藤(クローン)
花の特徴は、開花当初は淡紅色の花が咲き、次第に白色に変わるところです。
花色がしっかりしているので、咲き始めと思われます。 -
厄除段
石柱から注連縄が吊るされた注連縄鳥居です。
左側の石柱には、「天壌無窮}と彫られています。
「天壌(あめつち)窮(きわ)まり無し」と訓読みし、天地は永遠に極まりなく続くことを表しています。『日本書紀』の天孫降臨の際、天照大神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に賜ったという「天壌無窮の神勅」の中に記されています。
そして時は流れ、この「天壌無窮」の四字熟語が1890(明治23)年に『教育勅語』の中に蘇りました。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」。
「国に危機があったなら勇気をもって国に尽くしましょう。永遠に続く皇室の運命を助けるようにしましょう」と言う意味です。
石鳥居の両脇には、1817(文化14)年に奉納された浪速狛犬が佇みます。吽形の頭には小さな突起が見られます。浪速狛犬としては端整な顔立ちをしており、均整のとれた狛犬です。 -
随身門
随身門の中には木彫りの狛犬2頭が守っています。 -
随身門
蟇股の下には「うさぎ」が彫られています。
何故うさぎがこの門にいるのかには諸説あります。
1.随神門を寄進した植田武右衛門の生まれ年の干支が『卯』だった。
2.寄進した年が『卯』年だった
3.説話の中で、十二支の動物が神様に捧げ物を行なった際、うさぎが自らの身を火に投じて自らを捧げた事により、神様がうさぎを最も信心深い動物とされた事から。
因みに、御朱印帳はこのうさぎをモチーフにしたかわいらしいデザインです。 -
拝殿
朝から忙しそうにしていると思ったら、日供祭という神事でした。
日供祭とは神様にお食事を差し上げ、諸願成就と弥栄を祈念する神事のことです。
阿智神社では毎朝8時より拝殿が公開され、日供祭に参加し玉串を捧げるという体験ができます。 -
拝殿
通常のものより太い三本の縄で作られている注連縄は、毎年11月中旬から御神田で作られた藁から氏子や崇敬者有志によって作られ、12月13日に奉張されます。 -
本殿
拝殿の背面には、飴色をした味わい深い入母屋、流造の檜皮葺の本殿が佇みます。山上に社らしきものが建立されたのは1594(文禄3)年のことと伝承され、現在の本殿は1620年頃に建てられたと言われています。
社号は中世以降は「妙見宮」と呼ばれて1869(明治2)年の神仏分離令まで観龍寺が別当を務めていましたが、その後、阿智神社に改称されました。
元宮は九州福岡の宗像大社と説明されています。
本殿、幣殿、拝殿が少し離れている造りは、珍しい構造です。 -
本殿
阿智神社が祀る宗像三女神は、オリオン座の三ツ星となって航海の安全を見護る海の神様です。そのため、ここのお守りは、人生の航路を導いてくださる真・善・美のお守りになっています。
祭神:宗像三女神:市杵嶋姫命(いちきしまひめ)、田心姫命(たごりひめ)、湍津姫命(たぎつひめ)
ご利益:海上守護、航海安全の神、水の女神、財宝の神、学芸/芸能、美の神
3柱の女神、宗像三女神を祀っているはずなのですが、何故か屋根の千木は外削ぎ(縦にカット)にされた男神の形になっています。 -
絵馬殿
一見木造に見える建物ですが、柱に鉄骨が入れられているそうです。
扁額「絵馬殿」は、白い文字で控えめに小さく書かれています。その両側には、恐らく絵馬殿の改修時に寄付をされた人たちと思しき名札がずらりと並んでいます。
また、絵馬殿の前には、多くの方の願いが込められた絵馬が並んでいます。 -
絵馬殿
天井にはカラフルに装飾された干支恵方盤がありますが、その干支をよく見ると立体造形になっている珍しいものです。
昔は五行十干十二支等を組み合わせて恵方を知り、季節を分けて刻みました。
この干支恵方盤は、内側に東西南北の方位を表わし、外側には十二支を配し、恵方(縁起の良い方角)を知るためのものです。毎年大晦日には新しく迎える年の干支に矢印を合わせ、その年の恵方の方位が示される干支暦です。 -
絵馬殿
境内西側の崖の上に位置するため、美観地区の白壁の建物が並ぶ町並みが眼下に広がり、座って一息つくことができます。家並みの屋根の美しさに感激です。
手前から、倉敷考古館、倉敷館、倉敷民藝館の特徴ある屋根を俯瞰できます。 -
絵馬殿
絵馬殿に奉られていた絵馬です。
岡山の伝説「桃太郎」ではなく、「金太郎」のような子どもが描かれていて意表を突かれましたが、色が褪せていてどんな絵なのかは定かではありません。ネットにもそれらしき情報はありません。 -
絵馬殿
1796(寛政8)年に倉敷在住の算学者 石井源蔵が2問の算術課題を掲げ、1問については自答し、残る1問の解答を問う形でこの扁額を阿智神社に奉納しました。 -
絵馬殿
石井の問題は長い間、誰も解くことができませんでしたが、1830(文政13)年にこれを解いた人物が現れました。石井没20年後に生れた、塩飽経治という弱冠9歳の天才少年でした。正五角形だけでなく、正n角形に拡大した一般解として解いたその解答も扁額にして奉納されています。
経治は、「三備武田流和算師」の看板を上げた内藤真矩が開いた算学塾の門人のひとりでした。門人は1000人を超え、その中で真矩の息子の直信と2人合わせて「藤門の2天才」と呼ばれていたそうです。直信は1893(明治26)年まで存命でしたが、経治は惜しくも14歳で早世したそうです。 -
能舞台
1893(明治26)年、氏子篤志の方々により寄進された、入母屋造、本瓦葺の立派なものです。最近では2004年に修復されています。春秋の大祭では、氏子崇敬者の方々による芸能の奉納が行われます。
端午祭にも近いため、五月人形や兜、弓等を飾り、菖蒲酒、菖蒲よもぎを授与しています。
また、元旦の歳旦祭では、ここで優美な三女神の舞、子供備中神楽の奉納があるそうです。 -
鶴石組
本殿裏を左側に向かうと石で囲まれた古代庭園があり、この山の名前にもなっているシンボリックな鶴・亀石組があります。天津磐境(あまついわさか)とも呼ばれる鶴石組は、あたかも鶴が羽を広げた形を彷彿とさせることからそう呼ばれており、その奥には亀石と呼ばれる石群があります。しかし、これらはスケール的には、神々しい磐座や磐境というよりは石庭に近いイメージがあります。陰陽思想を取り入れたニュータイプの磐座と定義され、創建された時期が明確になっている珍しい磐座だそうです。
元々あった日本古来の自然信仰に由来する磐座に、大陸文化の鶴亀石をはじめとする神仙蓬莱思想や陰陽思想といった様式を融合させたものと考えられています。こうした独特の石組様式は、日本庭園の石組のルーツを探る貴重な存在とも言われており、文化財としても注目を集めています。 -
鶴石組
阿知一族は、帰化するに当たってその帰属意識を表すため、日本に古来より伝わる磐座や磐境を設け、更に彼ら民俗の先進的文化を盛り込むために中国から伝来した鶴亀の神仙蓬莱思想や陰陽思想を導入したものと考えられています。
これらの磐座や磐境が後世の日本の石庭を構成する石組に多大な影響を及ぼしただろうことは、これを見れば容易に納得できます。
神仙思想とは、中国から伝わった考え方で、『史記』によると、遠い海の彼方に3つの神山があり、そこには神仙(仙人)が住み、不老不死の霊薬があって、この薬を飲むと未来永劫の繁栄が約束されるというものです。この神仙島を庭に模し、不老不死と永遠の繁栄を願って作庭したのが神仙思想による庭園です。
蓬莱思想とは、亀は仙人の住む蓬莱山を背負い、蓬莱山には不老長寿の薬を作るのに適した洞窟があり、また薬効の高い薬草や鉱物が豊富にあるというものです。蓬莱山は理想郷であり、仙人の使いとされる鶴と亀は長寿の象徴となります。 -
亀石組
日本の近代造園界の鬼才 重森三玲氏は、日本庭園の源泉として磐座・磐境と呼ばれる石組や神池、神島などの祭祀空間のエッセンスに注目した造園家のひとりです。美玲氏は、『日本庭園史大系』第一巻で阿智神社の石組を次のように解説しています。
「阿智神社の石組は、本殿に向かって右側に磐座的、磐境的なものを保存し、左側に鶴石組と亀石組と園を構成し、下部斎館付近に陰陽的磐座を保存している。既にこのように、一面において蓬莱思想を根幹とする亀石組のあることによって、阿智神社の石組は、最早ただ単に磐座磐境と見ることは出来ないのみか、明らかに庭園的存在であり、原始庭園として一考することができる」として、特に本殿左側の石組群を庭園的石組と位置付けています。
このように阿智神社の石組は、1940(昭和15)年に美玲氏によって調査され、庭園的石組と結論付けられました。少しでも手が加えられた石組は、磐座・磐境にあらずと言うことです。立石を「蓬莱石組」、本殿裏側の斜面にある石組も「滝石組」と後世に定義された石組の分類を無理やり当て嵌めています。
あくまでも個人の感性ですので是非は問いませんが、この頃の三玲氏はアートディレクターとして「守・破・離」の「破・離」部分が未発達だったのかもしれません。勿論、この解説を行なったのは40年代のことですので、それ以後に「破・離」の境地に至り、鬼才と称せられるに至ったものと窺えます。 -
戎大黒社
大国主命は大黒天と習合し、えびすと大黒は親子になっています。
この手前にも石組みらしきものが見られます。 -
阿知の藤
岡山県の天然記念物「阿知の藤」は、古来から生命力や生成発展、豊穣と深く関わる信仰の場となっています。品種は、曙藤(アケボノフジ)という珍種です。根回り約1.5m、根元周囲約2.2mあり、同種の藤としては全国一の巨樹とされています。20m四方に枝を広げ、時季には淡紅色の花が藤棚に咲き誇り、見応えがあります。また、この「阿知の藤」が由来で、倉敷市の市花には藤が認定されています。
1本の木がこのようなスケールの藤棚を作っているとは吃驚ポンです。写真では伝え切れませんが、独特の雰囲気を漂わせる樹です。周りには注連縄が巡らされていましたので、御神木と思われます。根を痛めさせないためにも結界は必要と思います。 -
阿知の藤
5月5日まで藤祭りが開催されるようですが、すでに散り初めています。
今年は春先が温かかったので開花が早かったようです。
この辺りは咲き始めたばかりのようですが、全体的に白っぽくなっているのは花が終わりに近いためです。 -
阿知の藤
推定樹齢は300とも500歳とも言われ、寄る年波には勝てず、一時は枯死寸前に陥ったそうですが、地域住民らの働きかけによって活性剤を注射したり、剪定、棚改修など、樹勢回復に取り組んだ結果今があるそうです。未来に残したい日本の花風景をテーマにした『池坊花逍遥100選』にも選ばれています。
お守り「阿知の藤実守」には阿知の藤の実が入れられており、お守袋には可憐な曙藤があしらわれています。藤には、不死(健康長寿)と不二(和合)という意味があり、加えて宗像三女神のご加護のある幸福守です。また、藤まつりの期間限定の「藤絵馬」も人気です。 -
阿智神社
境内の一画にある売店です。
その前にある自動販売機に注目です。曙藤をあしらったペインティングは、阿智神社専用のもののようです。 -
陰陽石
東参堂右手の新道中腹にある斎館の庭には陰陽石があります。
一対の石組は一般的に夫婦石とも呼ばれます。女石と呼ばれる陰石と男石と呼ばれる陽石で構成され、道祖神として祀られていたそうです。 -
陰陽石
高浜虚子に師事し、龍安寺の石庭を「寒庭に 在る石更に 省くべき」と詠んだ俳人 山口誓子は、「倉敷へ行った。…市内の鶴形山の上にある阿智神社の石組を見た。それは上古の磐境で、神として祀られた大石である。…阿智神社の磐境は神の現れというより神そのものなのだ。私はいきなり神を見た」とその境地を綴っています。 -
水琴窟
斎館の古代庭園にあります。
柄杓で水をすくって流し込むと、コロコロコロといった心地よい音が響きます。地下には備前焼の甕が埋められており、水滴がその水面を打つことで琴の音に似た神秘的な響きを発する仕組みです。昔の人は手水の水でさえ、このような愉しみ方をされたのですね!
水琴窟は、茶人 小堀遠州が考案した蹲踞廻りの排水装置「洞水門」が起源とされ、江戸期になって「水琴窟」として全国各所に作られました。
この続きは、青嵐薫風 吉備路逍遥⑩倉敷 大橋家住宅でお届けいたします。
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