2016/05/03 - 2016/05/03
8位(同エリア633件中)
わきさん
憲法記念日の5月3日
学生時代は毎日通った御茶ノ水駅、
その御茶ノ水駅近辺から、
北は本郷台等、南は神保町界隈まで
久方ぶりに歩いて見た。
憲法記念日らしく、
少しばかり憲法のことを考えながら
歩いてみた。
昭和22年5月3日に施行された現行憲法、
決まってこの日になると大新聞論説などでも
1面を憲法論議が飾っている。
マスメディアすべて、
立憲主義、立憲主義とかまびすしいほどである。
因みに
立憲主義とは、周知のように、
文字通り「憲」法に「立」脚して
政治を行わねばならぬという建前である。
具体的には、皆さんご存知の通り
国の最終的な力の在りどころが
国民にあること(国民主権)を
前提に、現行憲法103条すべてを適用して
政治が行われて行くべきだと
宣言しているのである。
例えばほんの一例を挙げれば、
憲法29条は、私有財産を保障するが、
この私有財産制度の具現化が
民法1044条という膨大な条文である。
そして民法177条は、
不動産物権変動の対抗要件を定め、
市民間を規律して予めの赤裸々な揉め事が
起こらぬように予防しているのである。
また、憲法31条は所謂デュー・プロセス・オブ・ロー
Due process of law法の適正手続き条項であり、
この条項から、刑法の全条文264条が具体的に帰結されている。
このように
現代の全ての法の淵源は憲法に由来し、
憲法からの重畳構造に
なっている。
それが法治国家たる所以である。
立憲民主制の背姿は、
それがきちんと適用されればの話だが、
幾分美しいのではないだろうか。
余談になるが、明治憲法下では、
憲法上思想良心の自由が保障されず、
学問の自由もなく、
職業選択の自由さえ明文化されず、
憲法上保障されていなかった。
勿論 国家賠償請求権など「臣民」にはなかったのである。
そして、法律の留保条項が横溢し、
法律をもってすれば
臣民(国民ではない!)の権利は
思うがままに制限できた。
極論すれば、臣民は生かすも殺すも
君主のほしいままに出来たと言えよう。
(明治憲法も立憲主義に基づくものだったが、
立憲君主制であり、暴走を招いたのは、周知のところである。
この点立憲主義とは、国家権力を憲法に封じ込め、
国民の人権を守ることであるとは、一義的には言えないのだ。
あくまで、「立憲民主制」で、「人権規定が行き届き」権力分立等
で歯止めの規定がきちんと出来ているかが鼎の軽重であろう)
現在とは天地ほどの差があろう。
そのためか、現行憲法の第十章最高法規の章立てのところには、
第97条が掲げられている。
即ち次のようにである。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、
人類の多年にわたる自由獲得の成果であって、
これらの権利は、{過去幾多の試練}に堪え、
現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない
永久の権利として信託されたものである」と。
表題の写真は、
人間に取って欠かすことのできぬ水、
江戸・東京の水道給水の歴史を
少しばかり今一度確認したかったためもあって
覗いてみた本郷の給水公苑案内図である。
とりあえずは、聖橋を北へ歩いて
湯島聖堂へ行ってみた。
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
-
現在の聖橋は、関東大震災後昭和3年に架けられた。
湯島台と駿河台を結んでいる。
ひじりばしとは、
北に孔子を祀る湯島聖堂があり、
南側にはロシア正教のニコライ堂があって、
この両者を橋1本にて結んでいることを洒落て
そういう風に名付けられた。
下は渓谷で神田川が流れている。
この堀削は江戸初期である。
家康入国以来江戸で行われた土木工事は
途方もないものだった。
施工一切、伊達政宗が請け負った。
着工は1617年
完全に工事が終わったのは、1659年だった。
歳月を経て見ると、意外に美しい景観である。
深く削られた崖には草木が生い茂り、
後に建てられる湯島聖堂が
見え、謂わば当時の都市美だった。
やがて江戸名所のひとつに数えられ
多くの絵師に描かれることとなる。
諸橋轍次の大漢和辞典には、「茗渓」として、
「東京都文京区御茶ノ水の雅称」となっているようだ。 -
家康は、晩年を駿府城でくらすが、その死後
家康側近の旗本衆が江戸に移るというので、
幕府が用意した屋敷土地が神田山だった。
いつしか駿府衆が神田山に集まって住んだところから、
そこは、「駿河台」と呼ばれるようになった。
写真の右に下ればそこが駿河台である。
駿河台には、昭和53年まで、中央大学があったが、
今は損害保険会社が建っている。 -
湯島側には、聖橋を挟んで、
現在は東京医科歯科大学がある。
その左手は順天堂である。 -
今現在の東京中央線(東京駅1番線2番線)は、
四谷から御茶ノ水までを、江戸時代の外堀の真上を走っている。
外堀を埋め立てて中央線があるのである。 -
湯島聖堂パンフである。
湯島台昌平坂
言うまでもなく孔子を祀っている。 -
同上パンフ。
-
昌平坂は、孔子が生まれた郷里の名をとったと言われる。
-
大きく拡大。
湯島聖堂昌平坂 -
孔子が生まれたのは、
現在の山東省、曲阜県の中の昌平である。 -
聖堂の門を
-
入徳門である。
聖堂内唯一の木造建築 -
その門の一部
-
杏壇門。
杏壇とは、孔子が弟子に教授したところをいうらしい。 -
西門
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向こうには大成殿が見える
-
大成殿が大きく見えてきた。
-
同上
-
同上
元禄年間5代将軍綱吉のとき、
林家に湯島の地六千坪を下賜して
ここに孔子廟を建てて大成殿と名付けた。
林家は上野からこの地に移り
学寮を設けた。
林家の私塾だったものが、
官学となるのは、寛政2年1790年11代将軍家斉のときである。
昌平坂学問所となる。
敷地も倍近くの11600坪となった。 -
大成殿右屋根部分
-
同上左屋根部分
-
同上大成殿全体
-
大成殿を大きく
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大成殿展示配置図
-
中に入って、孔子を
-
左右に孔子の弟子
顔子 曽子 子思 孟子
の4賢像があった。 -
林家
系図
時代とともに、林家は
人材が枯渇し、一時湯島聖堂廃止論さえ出た。
朱子学本山の林家を救ったのは、
再興させた松平定信だったようである。
寛政の改革渦中の人だったが、
江戸の庶民はあまりの緊縮財政に悲鳴をあげる。
狂歌がある。
万代(よろずよ)もかかる厳しき御代ならば
長生きしてもたのしみはなし
(こんな世の中生きていたくないという狂歌である。) -
湯島聖堂略史説明
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説明その2
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その3
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以下大成殿の中を
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同上
-
同上
-
同上
-
同上
-
同上
-
同上
-
同上
-
同上
-
大成殿展示物説明
これは、きぎんとうの説明 -
きりゅうし の説明
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鼎型展示物
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大成殿外観を違う角度より撮影
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また戻って入徳門
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入徳門の右側上部分を
-
孔子建立の説明
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孔子の銅像である。
高さ約4、57m
重量は、1、5トン
孔子銅像としては、世界最大と言われる。
昭和50年台北市のライオンズクラブからの寄贈 -
大きく顔を
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胴部分
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その下部分
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もう一度全体を
-
湯島聖堂内に大きなハゼの木があった。
-
その由来が
-
同上
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仰高門を出た
-
神田明神へやってきた。
神田神社(正式名称)の祭りは、
京の祇園祭、大阪の天神祭と並んで
三大祭りといわれる。 -
同上
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神田明神案内図
-
説明書き
江戸時代は、神田明神は
歴代将軍の尊敬を集めていた。
がしかし、明治時代になると
祭礼は相変わらずだが、社の格からすれば
東京の府社にすぎないようになる。
一つの理由は、祭神が朝敵「平の将門」だったということから
明治時代にあわなかったようである。 -
同上、
江戸は天下晴れての日本の首都だったが、
平将門のような朝敵を江戸の総鎮守にしていたのは、
幕府でも一部に後ろめたさがあったのかかもしれない。 -
同上
明治7年突然、平将門を祭神より外し、別殿に移し、
茨城県大洗磯前神社から少彦名命すくなひこなのみこと
の分霊を招くという祭神変更が行われる。
そして、昭和59年になって、全氏子の要請で
平の将門も正式な祭神として復活を果たすという神社の史実が
あるようだ。 -
日本三大祭り神田祭の説明書き
-
同上
祭神の説明書きである -
同上
由緒書き -
道路の南側は
湯島聖堂である。 -
道路から大鳥居をくぐっていく参道は平坦
だが、それはまぎれもなく江戸時代大勢の土工達が
大変な思いをしながら山を削って作業していたのに相違ない。
楼門・社殿ともに素晴らしい。
写真は、随神門である。 -
同上
総檜入母屋造り -
同じく
-
同上
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正式には神田神社である
-
たくさんの人が何かを祈っていた。
-
石造りとして日本一のだいこく像
-
同上
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えびす尊像
-
御神殿 実はSRC造りである。木造ではない。
-
左は、鳳凰殿
-
狛犬とともに
-
御神殿を大きく。
木造ではなく、何度も言うようだが
鉄骨鉄筋コンクリート造りである。 -
ずらっと並んで
願い事を頭に浮かべて -
東京の10神社の案内板があった。
-
もう一度随神門を
-
神田神社から、
水道歴史館へやってきた。
この裏側に昭和62年に偶然発見された
江戸時代の水道管、
神田上水石樋があった。 -
東京都水道歴史館のパンフ
-
水は人間が生きていく上で欠かせぬものである。
その上水道は江戸時代、江戸住民をどのように潤していたかの
説明書き
爆発的に人口が増えた 江戸は、
もともと海岸に近い湿地を
埋め立てた造成地が多かったため、
井戸を掘っても塩分の強い水が出るなどして、
当初から飲料水の確保に悩まされていた。
そこで1590年、井之頭池を源泉とする日本最初の上水、
神田上水(当初の小石川上水から発展したもの)を、
1654年には玉川から四谷の水門まで43キロメートルに達する玉川上水を
開設。
ポンプなどを使わず、高低差のみで水を運ぶしくみ
「自然流下式」をあみだした、その技術の高さがうかがえる。
それでは、江戸庶民へは、
どのように上水は供給されたか。
上水水門から引いた水は、
地下に埋め込んだ
石樋(せきひ)や木樋(もくひ)の水道を使って
江戸の町に分配された。
中央線の駅名である「水道橋」は、
神田上水の水門から、神田川対岸に水を渡すための
懸樋(かけひ)の名残である。
大名や商人など、大口の消費者には
専用の呼び井戸へ水が送られたが、
長屋へは、木樋からさらに細い竹樋(たけひ)を通して、
共同の上水井戸に貯水されたという。
明治維新後も神田上水は
東京市民の飲料水であることは変わらなかった。
明治新政府は1868年(慶応4年)6月に
神田・玉川両上水の管理を新設された市政裁判所に委ねた。
その後同年8月に東京府の開設ととも府の所管となった。
だが、水道料金の徴収は江戸期の上水組合が消滅したため、
移管当初は大きく混乱した。
しかし、水道料金の徴収よりも深刻だったのは
神田上水の汚染が進んだことである。
江戸上水道は構造が脆いため度々修復しなければならない。
江戸から明治と時代が移り変わったため、
上水の管理体制が整うまでには時間を要した。
そのため、上水の修復が疎かになってしまい
汚染が進行する起因の一つとなった。
ましてや江戸上水道は浄水を行っていないため
良水を安定して供給することができなかった。 -
現代の東京の上水道の成り立ちなどのパンフ
ここには、記載がないが
上水を塩素消毒するようになるのは、
東京都1922年のことだそうである。
無論、水系の感染症(赤痢・腸チフス・コレラ)を
封殺するためである。
塩素消毒を推進したのは
当時の東京市長の後藤新平だった。
後藤は細菌学者で、医者でもあった。
現在、簡易な水質検査法は、
残留塩素測定器 DPD法 である。
これにより、色が変わるので、飲料水に適しているかを見る。
平成14年まではオルトトリジン溶液による
比色法が通常だったが、発ガンに疑問なしとしないため、
DPD法に変更となっている。
余談だが、幕末期1858年コレラが猛威を
ふるう。コレラで急死した者に、
薩摩藩主だった島津斉彬がいた。 -
パンフ大写し
-
同上
-
同上
-
同上
-
歴史館横に
神田上水石樋の現物があった。 -
その案内図
-
拡大版
-
水道歴史館前道路にあったもの
各時代ごとの水道の局面を絵柄にてわかりやすく描いたもの。 -
同上である
-
本郷給水所公苑内に入って見た。
バラ園が綺麗だ。バラの種類は52種に及んでいる -
同上
-
世界各国のバラの種類で溢れ、咲いていた。
-
同上
-
同上
薔薇ごとに命名されていたが、その名を
撮影するのを失念してしまった。 -
同上である
-
神田上水説明書き解説等
-
その白堀部分を拡大して
-
江戸時代の上水の道の現物である。
400年を経ても、当時のままの姿をとどめる。
大変な技術である。
外堀工事中、たまたま昭和62年から平成元年にかけて
発見された。 -
東京都水道歴史館裏側にある神田上水石樋。
昭和62年から平成元年にかけて発掘された。
神田上水幹線水路を移築復元したものである。
水路内部の寸法は、120〜150cm。
石垣の高さも同様で、ほぼ正方形。
蓋石の厚さは30cm。今見ても頑強な作りといえる -
同上
-
神田上水石樋説明
-
油坂を北へ上ると、
本郷台南はしの本郷給水所公苑である。
公苑という形で、東京都が江戸時代の遺構を残しているのである。 -
同上
家康江戸入府の草創期の
最大の事業のひとつが上水道を設けたことだった。
設計施工は、家臣大久保忠行である。
井戸と水道の話(論創社)によれば、
大久保忠行は、小石川にまず水源を求め、
最初は小石川上水を作り、それを神田方面へ導いた、
とある。 -
壱岐坂にたどり着いた。
「壱岐坂は、御弓町へのぼる坂なり。 彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。 按に元和年中(1615〜1623) の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。 おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)
御弓町については 「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」とある。(旧事茗話)
文京区の標識(昭和48年3月)より。 -
現在は本郷1丁目28番に
樹齢650年という「本郷のクスノキ」があるというので、
それを見に行ってみた。
所謂弓町の樟(クスノキ)である。 -
誠に悠然とそびえ立っている。
家康が未だ浜松城主の頃、
河内国錦織(にしごり)郡の
甲斐庄兵右衛門正治という者が
浜松に来たので、その家臣団に
加えたという。
甲斐庄氏が江戸幕府になってから
ここに屋敷地をもらうのである。
既にクスノキは、樹齢当時200年を超えていた。
この木は、幕府瓦解までもつぶさに見ていたこととなろう。 -
同上
-
クスノキ樹齢650年あまり。
現在は文京区で保護 -
注連縄が幹周りに付されている。
幹の回りは、8,4メートルとか。 -
この際何枚も撮影
-
同上
-
同上
-
違う角度からも撮影
-
これも同上
-
注連縄部分を
-
更に拡大して
-
くすのきを撮影して、
大きさを目に焼き付けたあと、
昼食に行った。 -
神田須田町の蕎麦処
まつやにて、
昼食をと、思っていたが
行列が出来ていたので、
ここは諦めた。 -
神保町川府(せんふ)にて、
四川料理の麻婆豆腐を喰らうこととなった。
その帰り、ニコライ堂近辺を通った。
ニコライさんは、1861年日本に来日。
箱館のロシア領事館付けの司祭だった。
箱館で日本を勉強し、一旦ロシアに帰国、
再度来日したとき、御茶ノ水駿河台を根拠地とした。
ニコライ堂起工は明治17年、
設計はロシア人であるが、
施工したのは英国人ジョサイヤ・コンドルである。
竣工は明治24年だった。
因みにコンドルは、東大工学部にて、建築学
を教えた。
ニコライ堂の正式名称は、
日本ハリストス正教会東京復活大聖堂である。
ハリストスとは、キリストのロシア語発音である。
因みに聖母マリアは、
ロシア正教では「至聖生神女(しせいしょうしんじょ)」と呼ぶ。
ついでだが、Protestant(新教)では、マリア崇拝は全く無い。 -
清水坂にやってきた。
江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。
この霊山寺の敷地は、妻恋坂からかんだ神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永6年(1853)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になってその敷地は清水精機会社の所有となった。
大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。
そこで、町の人が、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。 -
清水坂を歩いて、次は実盛坂まできた。
実盛坂(さねもりざか)
「江戸志」によれば「…湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり…」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。
この実盛のいわれから、坂の名がついた。
実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。
寿永2年(1183年)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。
斎藤別当実盛は出陣に際して、
敵に首をとられても見苦しくないようにと、
白髪を黒く染めていたという。
この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。
湯島の「実盛塚」や「首洗いの井戸」の伝説は、
実盛の心意気にうたれた土地の人々が、
実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。
文京区教育委員会からの抜粋 -
急激に落ち込んで段差になっていた。
昔は、崖に近かったのではないかと想像された。 -
湯島神社にやってきた
湯島で、思い出すのは
幕末期たまたま通りがかった神田孝平が、湯島露店で、
蘭学事始の写本を見つけ出したことである。
大槻家に伝わる蘭学事始の写本は、
1854年安政の大地震で、散逸。
どこをどう売られてきたのか、湯島の露店にホコリまみれに
なっていたという。
杉田玄白によるこの本、
解体新書を出版するに当たっての苦労などが偲ばれる。
但し、杉田玄白その人は、オランダ語は全く出来なかった。
解体新書を和訳したのは全部中津藩江戸詰め藩医の前野良沢である。
因みに前野良沢は、解体新書のどこにも名前はない。前野自身の希望による。 -
湯島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建。
天之手力雄命を奉斎したのがはじまりである、
降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、
文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、
文明10年(1478)十月に、太田道灌がこれを再建、
天正十八年(1590)徳川家康が江戸城に入るに及び、
特に当社を崇敬すること篤く、
翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、
もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと
菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。 -
湯島天神の鳥居
銅製で、寛文7年(1667)同8年の刻銘があり、
この時期に寄進された物 -
鳥居の右横が
この湯島神社の写真
大きく写してみた -
湯島神社の境内図
-
湯島天満宮の説明
-
これは、何の筆塚だったか?
不明である。忘れてしまった。 -
新社殿は、本殿と、参拝する人のための拝殿が
幣殿で結ばれている「権現造り」の建築様式で、
日本古来の「木の文化」を象徴する純木造である。
現在の建築基準法では、たとえ社寺建築であろうと
防火地域では新たに木造建築は認められていないのだが、
万全の防災設備をととのえ、
(財)防災性能評定委員会の一年近い慎重審議を経て、
建設大臣認定第一号として特に木造建築が許可された -
同上
-
きえんひょうじんせき と読める。
迷子がでたとき、子の名を書いた紙を右側に貼って探し、
迷子がいた時、その子の特徴を書いた紙を貼って知らせた
「迷子しらせ石標」の名残り。
このことからも、境内が人で賑わい、
江戸有数の盛り場であったことがわかる。 -
菅家遺戒(かんけ いかい)碑である。
菅家遺戒は、
菅原道真が残した
公家の家訓をまとめた書 -
境内には、文京区によって保護された木が。
-
本殿を違う角度から
-
菅公一千年祭記念碑
この石碑は、明治35年(1902年)の菅原道真の
一千年忌を記念して建てられた -
同上
-
泉鏡花の筆塚があった。
-
同上
-
湯島神社を出て、さらに歩いて
これから枳殻寺に行く。 -
枳殻(からたち)寺にやってきた。
入口は狭く、扁額には海東法窟とあって、
臨済禅にふさわしい雰囲気だった。 -
正式には、からたち寺は、江戸時代3代将軍家光の乳母
春日局の法号を取って、麟祥院である。 -
東京都心にあって、ここだけが極めて閑寂で、
夕闇が漂うような雰囲気で、殆ど人もいなかった。 -
明治期の鴎外の雁や、漱石の三四郎にも
出て来るからたち寺である。 -
春日局が、自己の菩提寺にするために、
麟祥院と改めた。
言うまでもなく、春日局は3代将軍家光の乳母である。 -
本名は、斎藤福。
父の斎藤利三は、あの本能寺の変を起こす明智光秀の主席家老である。
家光の乳母は、公募されたという(明良洪範による)
京都所司代板倉勝重のめがねに適い、福は家光の乳母となる。 -
寛永4年即ち1627年紫衣事件が起こる。
大徳寺の沢庵宗彭などは、流罪となった事件であるが、
この事件は、秀忠を慌てさせ、みかどへの使者として、
なぜか福が選ばれた。
当時は身分制秩序で、拝謁を許されるのは三位以上のものでなければ
ならなかった。
朝廷では1私人の福に昇殿拝謁の資格を急ごしらえで誂え、
先例を探したところ、足利義満の乳母に春日局というものが
参内したことが分かり、以後福は春日局と呼ばれるようになる。 -
そして、寛永9年には、従二位のくらいをもらうのである。
当時大大名の百万石の前田家でも従三位だったから、
福の従二位はとてつもなかった。
彼女の縁故でその後旗本に取り立てられたり大名に
なったりしたものもかなりの数に昇る。 -
麟祥院は、臨済宗妙心寺派である。
-
臨済宗妙心寺といえば、算盤づらと言われるように
大学の経営をおこなっている。花園大学である。 -
麟祥禅院と記載されている
-
全体を
-
以下麟祥院枳殻寺の庭である。
閑静そのものだった。
人一人さえいなかった。 -
同上
-
同上
-
同上
-
同上
-
麟祥院の墓地の中へ入る
-
春日局の墓地説明
-
春日局の墓である
-
同上
-
同上
-
同上
-
同上
-
同上
-
説明書き
-
墓地から出ると、
石仏が並んでいた -
同上
-
枳殻寺は、哲学では一目おかれる東洋大学発祥の地でもある。
憲法記念日の本日、
憲法記念日らしく?
少し、時系列にて、
現行憲法即ち
日本国憲法 生誕史を記載してみたい。
1945年7月26日ポツダム宣言に遡る。
極めて重要なのは、宣言中
13項目の内の第10項であろう。
第10項は次のように記載されていた。(抜粋)
第10項・・・・日本政府は
日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、
これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、
言論、宗教及び思想の自由並びに
基本的人権の尊重は確立されるべきである。
(以下時系列にて
現行憲法誕生するまでを
客観的史実のみを記載してみる。)
同年8月14日ポツダム宣言受諾が連合国側へ到達
同年9月2日ミズーリ号にて、降伏文書調印(正確且つ正式な終戦日)
同年10月9日幣原内閣成立
同年10月11日マッカーサーが幣原内閣へ憲法問題を指示
その後、憲法問題調査委員長には、
国務大臣松本烝治がなる。
11月以降続々と諸政党誕生
そして、憲法草案を諸政党は作ったが、
国民主権原理に基づく草案は殆どなく、
マッカーサー総司令部側を落胆させ、
深く失望させた。
日本政府案は、所謂松本私案と呼ばれたが、
1946年2月1日
マッカーサー総司令部側は、
これを拒否する。
けだし日本側の提示した草案は、明治憲法と
基本的な性格において変更がなかったからであった。
マッカーサーは、それまでの4ヶ月間
即ち1945・10月から1946・2月まで
日本側と幾度となく新憲法について
協議してきたのにも関わらず
ポツダム宣言の内容(民主主義)
に沿った草案を出さなかった日本政府側への
瞋恚に燃えていた。
そこで、上記日本の松本私案への
拒否文書の作成を総司令部民政局に命ずる
が、その二日後には、
最も効果があるのは、
憲法草案を総司令部自らが作成することでは
ないかと気付くのである。
そして2月10日民政局長ホイットニーの手になる
所謂ホイットニー草案が出来上がる。
これを日本側に
提示したのは、2月13日だった。
日本側は、驚愕したようである。
1946年
昭和21年4月10日
衆議院議員総選挙がおこなわれた。
論議されたのは、正に憲法問題だった。
実際には、ホイットニー草案発表されるや
諸政党(自由党・進歩党という保守党)は、
以前の態度をたちまち翻し
ホイットニー草案に
両手を挙げて賛成している。
こうして、昭和21年11月3日に公布され、
昭和22年(1947年)5月3日から
現行憲法は施行された。
その後、日本は経済大国となっていくのである。
今、改憲論議が凄まじい。
それなればこそ、
現行憲法生誕史の経緯を探り
原点に立ち返って
憲法問題を考えてみようと
思った一日だった。
再度憲法第97条を読んで終わりにしようと思う。
この憲法が
日本国民に保障する基本的人権は、
人類の多年にわたる自由獲得の成果であって、
これらの権利は、
{過去幾多の試練}に堪え、
現在及び将来の国民に対し、
侵すことのできない
永久の権利として
信託されたものである
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 黒田(温泉)さん 2016/09/03 23:41:52
- 素晴らしいです!
- わきちゃん様
今晩は!
拙「4トラ」をご覧頂き、ありがとうございました。
>本郷給水所公苑内に入って見た。
「本郷給水所公苑」を初めて知りました。
他にも、「貴4トラ」で、いろいろ名所を初めて知りました。
ありがとうございました。
これからも、よろしくお願いします。
- わきさん からの返信 2016/09/04 00:18:48
- RE: 素晴らしいです!
- こんばんは。
いつも、奥多摩ばかり仲間と毎年登っておりますが、
陣馬山登山を拝見して、
次回は高尾から同じルートで
登ることをたった今決心したところで、
実にタイムリーでした。
いつも当方が仲間には今度はどこへ行くからと言っております。
詳しく手に取るように記載いただき
ありがとうございます。
実行は、9月下旬か10月上旬あたりです。
景信山727mは、その昔高校時代に登りましたが、
もう記憶の彼方ですので、
とても、力強い後押しの旅行記で嬉しい限りでした。
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