2016/02/18 - 2016/02/18
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ムッシュさん
東海道53次、2回目,日本橋から八つ山橋を越えて、いよいよ品川宿へ。
昔は海岸沿いに街道が伸びていた。そして宿場の中央部を鉄道を敷設され、京浜道路も出来、南北に分断された。
現在は、京浜急行沿いに古道が残る。しかし、海は埋め立てにより全く見えない。一部運河から海を見る。
往時は海を眺めながら、街道には松林が続き、潮干狩りや海苔のひびが広がっていたそうな。
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
【東海道五十三次 品川宿 広重画】02
【品川宿】
品川宿は、旅人だけでなく、見送りや迎えの人で賑わった。桜の名所御殿山、紅葉の名所海晏寺、潮干狩りの袖ヶ浦等江戸近郊の遊興地として大変繁盛した。
天保14年(1843頃)、品川宿は本陣1、脇本陣2、旅籠93軒、人数は6,800人位。
【広重の浮世絵】東海道五拾三次之内 【品川】 日之出 広重画
*広重は宿口の左に品川沖を、そして右に宿並に迫る御殿山を描いていル。
現在は、御殿山も鉄道で大きく削られ、海岸も埋め立てにより海も離れた。
*当時の品川宿は広重の絵に見られるように、宿の裏手はすぐ海岸沿いで茶屋や旅籠が並び、二階にでも上がれば江戸湾の大海原が望めたようである。しかし、明治に入って鉄道が敷かれ、裏手にあった海は埋め立てられ、海岸はずっと奥のほうに後退してしまった。
品川宿内の東海道の距離は一般的には八ッ山から大井村境(現在の北品川一丁目から南品川三丁目)までの約2km(19町)余をいう。
宿機能の中心である本陣は北品川宿にあり、脇本陣は南品川宿と歩行新宿に各1、旅籠屋は計93軒、他に人馬継問屋場1(南品川宿)、荷物貫目改所1(南品川宿)、宿高札場1(北品川宿)などがあった
【関連旅行記】
1.旧東海道を歩く。川崎六郷橋~第一京浜を主に品川宿の品川駅まで。
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10841867/
2.東海道歩き no1.ゆっくりに日本橋起点より新橋まで。昔の面影は全くない銀座を歩く。
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10670942/
- 旅行の満足度
- 4.5
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八つ山橋の京急踏切を渡ると、品川宿に入る。
「土蔵相模」と呼ばれた。御殿山に建設中だったイギリス公使館を襲った高杉晋作、伊藤博文らが前夜泊まったことで有名だった。
「土蔵相模跡」
旧東海道に面した飯売旅籠屋「相模屋」は、外装が海鼠(なまこ)塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれていた。土蔵相模は品川でも有数の規模を誇った妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀を行った場所。
文久2年の長州藩士による英国公使館焼き討ち事件の際は、ここ土蔵相模から出発。安政7年(1860)には桜田門外の変で襲撃組主体をなした水戸浪士17名がここで訣別の宴を催したのだと。 -
「聖蹟公園」という小さな公園があり、その入り口に真新しい「品川宿本陣跡」の石碑が建っていた。
【品川宿本陣跡】
品川宿は江戸四宿の一つで、東海道53次の第1番目の宿駅(初宿)として発達した。本陣は品川3宿(新、北、南)の中央である北品川にあり、参勤交代の諸大名や公家、問跡などの宿泊、休憩所として利用されていた。
明治元年、明治天皇の行幸の際の行在所(あんざいしょ)となったことを記念して聖跡公園と命名された。 -
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【品海公園】
本来なら一里塚のあったあたりである。ここに公園が作られ、「日本橋より2里」との道標が立てられている。この品海公園の横の海に通じる坂道が江戸時代の護岸用の石垣の名残が残されているところだ -
【鯨碑】 品川区指定有形文化財(平成18年11月28日指定)
この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(1798)五月一日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約16.5メートル)高さ六尺八寸(約2メートル)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには十一代将軍家斉(いえなり)が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。
全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。
平成十九年三月一日 品川区教育委員会
鯨塚は、神社の境内ではなく、社殿西側の敷地内に祀られていた。
品川の漁師たちが捕獲したクジラを弔った鯨塚。『この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(一九七八)五月一日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約十六・五メートル)高さ六尺八寸(約二メートル)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには十一代将軍家斉が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。
また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。』と説明板に。 -
【一心寺】
江戸時代、大老井伊直弼により開山。本尊は不動明王。品川の庶民に愛された一心寺。小さくても地元に馴染んだ寺。
1855年、山村一心によって成田山分身の不動明王を本尊として洲崎弁天境内に堂を建て安置したのが始まりという。昔より延命・商売の守りといわれ東海七福神の寿老人に指定されている。
【一心寺之由緒】
安政二年(西暦1854年)日本開国之気運高まり国運の境目に接面し時、大老師にある井伊直弼公が縁起に依り、江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて、鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄安泰の願へとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に依って建立されたと伝えられております。
当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、豊盛山延命院一心寺と云う寺格を拝受し成田山分身の不動明王を本尊とし、延命、商売の護りとして今日に続いております。
昭和六十一年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺院に認定されしことは誠に意義深く、亦、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依るものと称せられており、内陣には両大師、中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光霊作観音像、寿老人等が祀られております。
江戸三十三観音札所、また、寿老人を祀る東海七福神の一つでもある。 -
49番目の土山宿がある滋賀県土山町から寄贈された「街道松」が旅人に話しかけている
【品川宿本陣跡(聖蹟公園)/北品川宿】
江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところで、品川宿には、初め南北品川宿に一軒ずつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。大名などが宿泊すると、本陣には大名の名を記した関札を立て、紋の入った幕をめぐらしました。明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)にもなった
【土山町から寄贈された松】
この松は旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、四十九番目の宿場(=土山宿)があった滋賀県甲賀郡土山町より品川区に寄贈されたものです。
今後、品川宿の松として三十年、五十年と地域の方々と共に育てていきたいと考えています。
また、旧東海道の南「街道松の広場」には浜松市から、「南品川二丁目児童遊園」には三島市より、同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。 -
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品川橋の手前を目黒川に沿って右に入ると【荏原神社】があり、品川宿の総鎮守です。
荏原神社は709年創建と伝えられている。現在の建物は1844年に再建されたもの。
*源頼義、義家父子が後三年の役で東北に向かう際、府中の大国魂神社とこの荏原神社を参詣し、戦勝を祈願した。
【荏原神社神輿海中渡御】 品川区認定文化財
毎年六月七日に行われる祭禮の一行事で、神輿を海中に入れもみあうものである。江戸時代に海中から出現した神面を年一回神輿につけて海中に入れ、ノリの豊作と魚貝類の豊漁を祈願したことに始まる。
現在は、海岸が埋め立てられたため神輿を船にのせて海上に出て、浅瀬のきれいなところで、海中渡御を行っている。
昭和四十七年三月十五日認定 東京都品川区教育委員会 -
品川 荏原神社 参道
左に恵比寿さん -
社号碑には郷社の文字がある【荏原神社】
荏原神社は毎年6月初旬に行われる、海に入って神輿をかつぐ海中渡御が有名。
毎年六月七日に行われる祭禮の一行事で、神輿を海中に入れもみあうものである。
江戸時代に海中から出現した神面を年一回神輿につけて海中に入れ、ノリの豊作と魚貝類の豊漁を祈願したことに始まる。
現在は、海岸が埋め立てられたため神輿を船にのせて海上に出て、浅瀬のきれいなところで、海中渡御を行っている
東海七福神の恵比寿
東海七福神
布袋 :北品川の養願寺
大黒天 :北品川の品川神社
恵比寿 :北品川の荏原神社
毘沙門天 :南品川の品川寺
福禄寿 :南大井の天祖諏訪神社
弁財天 :大森北の磐井神社 -
品川 荏原神社本殿
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『東海道 品川宿 これより南 南品川宿』。
品川橋を渡ると南品川の商店街に入って行くが、商店街入口左側に建つ「城南信用金庫」の角に是より南品川宿の説明板が立つ。
「日本橋から東海道を上り、目黒川を渡ると南品川宿に入ります。
この高札の場所は、脇本陣跡(現、城南信用金庫)で、百足屋(広瀬)浜兵衛が営んでいました。品川宿を南北にわけていた目黒川は、大正時代末頃まで大きく蛇行し、荏原神社の北側を流れていた。東海道から神社への道を天王横町といい、今の鳥居の向きから往時が推定できます。
東海道を南に進み、先に見える信号の左角が継立業務等を行なう宿場の役所問屋場跡(現、製菓実験社)で、その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所も設けられました。」 -
【品川の松】
説明板によると、この松は旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として植えられたもの。旧東海道が取り持つ縁で、29番目の宿場である浜松(浜松宿)より品川区に寄贈された樹齢約80年の松とのこと。
斜めに傾いた幹は、風雪に耐えながら旅人を見守った当時の松並木を偲ばせる見事な枝ぶりとか。
『「この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、二十九番目の宿場があった静岡県浜松市の有賀慶吉氏より品川区に寄贈された樹齢約ハ十年の黒松です。斜めに傾いた幹は、風雨に耐えながら旅人を見守った当時の松並木を忍ばせる見事な枝ぶりです。
松の名称は、寄贈された有賀氏より「品川宿の松」と命名されました。
また、約百五十メートル南の「南品川二丁目児童遊園」には、三島市より同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。』 -
【品川寺(ほんせんじ)】品川神社ではない。
寺伝によると、弘法大師空海を開山とし、大同年間(806-810年)に創建されたという。長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌により伽藍が建立され、寺号を大円寺と称した。その後戦乱により荒廃するが、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、現在の寺号となった。スイスジュネーヴ市と深い縁を持つ梵鐘を始め、江戸六地蔵の第一番にあたる地蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがある。(Wikipedia)
参考までに
品川神社ではない。
北品川に鎮座する品川神社は鎌倉時代からの古社で、徳川家光が東海道の鎮守と定めた。
神社の南側にある東海寺は、家光が創建し、開基は沢庵禅師である。当時は上野の寛永寺、芝の増上寺と並ぶ巨刹(きょさつ)であった。
東海寺を訪れた家光が、船で帰るとき、見送りの沢庵禅師に「海近くして 如何かこれ東(遠)海寺」と問うと、禅師は「大軍を指揮して将軍(小軍)というが如し」と答えたという逸話が残されているところである。
品川神社。源頼朝が安房国の洲崎明神を勧請して、創建したという歴史を持ち、徳川氏の厚い崇敬を受けた。現在東京十社の一社に指定されている。また、ここには江戸時代盛んに作られた●富士塚が残っている。富士塚は江戸の各地に作られ、富士塚に登れば直接富士登山をしなくても登ったのと同じような御利益が得られると信じられていた。
江戸時代には品川大明神、北品川稲荷社と呼ばれた。本殿裏には、板垣退助の墓がある。
江戸三十三箇所観音霊場の第31番が品川寺。
寺伝では大同年間(806年~810年)に空海(弘法大師)開山??という古刹。
しかし空海(弘法大師)は江戸のこの地まで来たのであろうか?長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌が伽藍を建立。銅造地蔵菩薩坐像は、江戸六地蔵の第一番 -
【品川寺】は、大仏かと見まがう【品川寺大地蔵菩】
品川寺(ほんせんじ)は、京浜急行の青物横丁駅の前にある。露座の大地蔵は、江戸六地蔵の1番で、神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀の作とある。
その他、海蔵寺は品川の溜牢(ためろう)の獄死者を葬った無縁首塚(通称頭痛塚)、225人塚や、品川娼妓の霊位大位牌などがある。
妙蓮寺には丸橋忠弥の首塚、妙国寺にはお富与三郎のモデルとなった芳村伊三郎夫妻の墓、海雲寺には・・・等々
【銅造地蔵菩薩坐像】 東京都指定有形文化財(昭和45年8月指定) 江戸六地蔵第一番
像の高さ2.75m。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得、江戸六地蔵第一番として、宝永五年(1708)に造立したものである。
像の衲衣(のうえ)部をはじめ蓮辨、石基などに寄進者等の名を陰刻し、奉賛者がいかに多かったかがしのばれる。
なお、江戸六地蔵は次のとおりである。
東禅寺 台東区東浅草二丁目
太宗寺 新宿区新新宿二丁目
真性寺 豊島区巣鴨三丁目
霊厳寺 江東区白河一丁目
栄代寺 江東区=消滅
昭和五十四年三月二十日建設 東京都教育委員会 -
【海安寺】
紅葉が有名。
執権北条時頼が、鎌倉建長寺の蘭渓道隆を迎えて開山したと伝える。墓地には、幕末の福井藩主松平春嶽、土佐藩主山内豊信、それに岩倉具視などの墓があるが、一般の参拝は認められていない。
山門の奥に見えるのが【千躰荒神堂】(次のフォト) -
【千躰荒神堂】
海雲寺は、頂いた略縁起によると、建長3年(1251)僧不山によって開基。
当初は臨済宗で庵瑞林(あんずいりん)といい、海晏寺境内にあった。
慶長元年(1596)海晏寺五世の分外祖耕大和尚を開山として曹洞宗に改められ、
寛文元年(1661)に寺号を改め「海雲寺」となった。 -
【蕎麦の吉田屋】
安政3年(1856年)に鮫洲に開業。大正時代に今の地に移る。老舗の美味な蕎麦屋さん。蕎麦懐石が有名。 -
勝海舟、山岡鉄舟、ら明治維新に活躍した人々のご贔屓であったとのこと。
こちらで、ランチに、蕎麦をいただきました。 -
【勝島運河】
旧東海道をさらに歩き、京浜急行の鮫洲駅付近からはこの勝島運河に平行した道となる。
以前、旧東海道は文字通り海岸沿いの道であったのであるが、今では街道筋からは海は全く見ることが出来ない。
浜川橋のたもとから立会川が海にそそぐところが土佐藩の抱屋敷であった。幕府への「差出」によると869坪が抱屋敷の広さである。ペリー来航の嘉永6年(1853)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府に提出し、許可を得て翌年砲台を造った(浜川砲台) 警備陣は品川下屋敷を宿舎としてこの砲台に配置されたいた。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ連絡路は現在の立会川商店街の道路にあたり、その距離は約200mである。若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっておりこの道を毎日歩いていた。 -
【品川橋】
東海道五十三次では、日本橋の次の本格的な橋が品川橋
【品川橋の今昔】
この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次1番目の宿」として、上り・下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。
「品川橋」は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には「境橋」と呼ばれていました。また別に「行合橋」「中の橋」とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。
「品川橋」がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。
平成三年四月一日 品川区 -
現在の品川街道
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「立会川」に掛かる【浜川橋】に至る。
この橋は別名「涙橋」と呼ばれるそうで、鈴ケ森で処刑される罪人が身内と、最後の別れとなる 橋であることから、こう呼ばれる。
勝島運河に流れ込む立会川に架かる浜川橋である。
と言うより泪(なみだ)橋の方が分かりやすい。江戸時代は品川宿の外れに、「鈴ヶ森刑場」があった。
刑場に引かれる罪人と家族がここで泪の別れをしたところである。村松友硯原作の映画「泪橋」の舞台となったところでもある。
浜川橋を渡ると、10分程で、鈴ヶ森刑場跡に着く。 距離にして700m弱のところである。
【涙橋の由来】
慶安四年(1651)、品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。
平成十三年三月三十一日 品川区教育委員会 -
現在の【浜川橋(通称:泪橋)】
江戸時代は品川宿の外れに、鈴ヶ森刑場があった。
刑場に引かれる罪人と家族がここで泪の別れをしたところである。
涙橋と呼ばれる橋は江戸に二つある。ひとつは千住にある小塚原刑場跡近くの思川(おもいがわ)橋で、もう一つが、この品川、鈴ヶ森刑場跡付近の立会川に掛かっていた橋である。
いずれも刑場跡近くにある。品川の涙橋は現在浜川橋と名を変えて、今も橋としての役割を果たしている。 -
【涙橋のいわれ】
立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。現在の橋は、昭和9年(1934)に架け替えられたものです。
【涙橋の由来】
慶安4年(1651)、品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。(品川区教育委員会) -
少し進むと、街道沿いにこんもりした森がある。
【鈴ヶ森の刑場跡】である。
見せしめのため、刑場は街道沿いにあった。
日光道中の小塚原(千住)とともに江戸時代の仕置き場である。江戸時代の刑罰は厳しく10両盗めば死刑であった。普通は伝馬町の獄内で処刑(打ち首)された。そして獄門の場合は、この鈴ヶ森か小塚原で首を3日間晒した。
磔、火炙りの場合は、江戸市中引き回しの上、ここで処刑された。 -
【鈴ケ森刑場跡】に到着する。
処刑第一号は由比正雪の乱で有名な「丸橋忠弥」であり、他に歌舞伎で有名な「八百屋お七」などが露と消えた。
白木屋お駒、天一坊など、よく知る人物もここで処刑されている
見せしめのために人通りの多い街道筋に刑場が置かれた。
*由比正雪の生家は、由比宿本陣公園の真前にある染め物やさん。今も店は現役。 -
【鈴ケ森刑場跡】
鈴ヶ森処刑場は、慶安4年(1651)に芝高輪にあった仕置場(処刑場)を、処刑者の増加に伴って移転して作られました。
ここで処刑された人数は10万人とも言われていて、そのうち4割は冤罪だったと。処刑された有名人には、由井正雪の慶安事件に関わった丸橋忠弥を始めとして、平井権八、天一坊、八百屋お七、白木屋お駒などがいた。
【丸橋忠弥(まるはしちゅうや)】
江戸時代の浪人で、由井正雪の片腕。友人の世話で、江戸に宝蔵院流槍術の道場を開く。その後、由井正雪と出会い、正雪の幕府転覆計画に加担する。しかし、忠弥が計画を喋ったため、幕府に計画が露見。そのため捕縛され、磔処刑された。(慶安事件)
辞世の句は、
「雲水の ゆくへも西の そらなれや 願ふかひある 道しるべせよ」 -
【鈴ケ森刑場跡】
寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写によると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では、間口40間(74m)、奥行9間(16.2m)であったという。
東京都教育委員会の案内板によると、
【都旧跡 鈴ヶ森遺跡】
寛政十一年(1799)の大井村「村方明細書上」の写によると、慶安四年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄八年(1695)に実施された検地では、間口四〇間(74メートル)、奥行九間(16.2メートル)であったという。
歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄六年(1693)池上本門寺日頭の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。大経寺境内には、火あぶりや、はりつけに使用したという岩石が残っている。
ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによってよく知られている。
江戸刑罰史上、小塚原とともに重要な遺跡である。 -
【鈴ヶ森遺跡】 東京指定旧跡 昭和29年11月3日史跡指定、昭和30年3月28日旧跡指定)
鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安四年(1651)に開設された御仕置場の跡です。大井村鈴ヶ森の刑場は、東海道に面し、規模は元禄八年(1695)実施の検地では間口四〇間、奥行九間であったとされます。東海道(現在は第一京浜)の拡幅等により旧態を留めていません。大経寺は御仕置場に隣接し処刑者の供養のために建てられた寺で、髭題目を刻んだ石碑は池上本門寺二五世管主日顗(にちぎ)の筆によるもので、元禄十一年(1698)若しくは元文六年(1741)の建立とされます。
この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされます。江戸の刑制史上重要な遺跡です。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会 -
【鈴ケ森刑場跡】
「火焔台」
磔台の支柱基礎.磔に供する柱を立てる穴。火焔台。これを見ると、何だか磔の姿がイメージ出来て、少し現実的な重ーい気分になる。柱の穴は意外と小さい。
「火炙台、磔台」
火炙(ひあぶり)台の史跡保存会の説明板によると、
「八百屋お七を初め火炙りの処刑者は、皆この石上で生きたまま焼き殺された。真中の穴に鉄柱を立て足下に薪を積み、縛りつけて処刑された」とある。
さらに左側の磔台の説明は「丸橋忠哉を初め罪人がこの台の上で処刑された。
真中の穴に丈余の角柱が立てられ、その上部に縛りつけて刺殺した」とある。
柱の穴は意外と小さい。穴の大きさから判断すると、ほぼ等身大の柱を用い処刑したのであろう。
死刑の方法は6種類あった。
軽い順番から、下手人、死罪、獄門、磔(はりつけ)、鋸挽(のこぎりびき)、そして最も重い罪に対する処刑法、火あぶりだ。
江戸時代で最も重い罪、それは放火だった。
100万都市の江戸は、267年間に49回もの大火事を経験。明暦3年(1657年)の「明暦の大火」では、10万7千人もの死者を出したとさえ言われている。
関東大震災の死者数が約10万5千人だから、それ以上。 -
処刑された人々を供養した●髭題目碑や当時の●磔柱用の四角い台石、●火焙り用の丸い鉄柱の台石などが残されてい
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【髭題目の碑】
歌舞伎でも御馴染みの「南無妙法蓮華経」と書かれた髭(ひげ)題目の碑。処刑者の供養のため、元禄11年(1698年)、池上本門寺の貫主(かんじゅ)日凱(にちがい)が建てたものである。
歌舞伎の舞台(鈴ヶ森)では、この碑が大きく舞台中央に建てられ、幡隋院長兵衛が白井権八(実名平井権八)に「お若いの、待たっせえやし」と声をかける所である。
歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄6年(1693)池上本門寺日顗の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。
歌舞伎の舞台、『(鈴ケ森)』で有名な供養塔。高さ3m余りの石塔に極太のひげ文字で「南無妙法蓮華経」と書かれ、裏面には「元禄11年(1698)の年号とこの供養塔を建立した「法春比丘尼」「谷口氏」の名が刻まれていた。
宝暦年間(1751~64)に書かれた随筆『江戸真砂六十帖』によると、法春は本郷の商人だった
谷口与右衛門の母。「生類憐れみの令」のしかれていたころ、与右衛門が酒に酔って犬を切り、小塚原の刑場で処刑されたことを悲しんで、小塚原と鈴ケ森の刑場にこの供養塔を建てた
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鈴ヶ森を後にします。
品川には、土佐藩邸があり、坂本竜馬も出入りしていたので、それに因んで仲町稲荷神社横の広場には【坂本龍馬像】があります。
【坂本龍馬像】
ペリーが来航した嘉永6年(1853)土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷警備の為、江戸詰めの藩士を動員しました、江戸で剣術修行中の龍馬もその中に加わっていました。
【立会川 二十歳の龍馬像】
嘉永6年(1853)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬(1835-1867)は土佐品川下屋敷近くにあった浜川砲台の警護にあたります。
当地は後に海運貿易の亀山社中の設立・薩長同盟などの斡旋など、近代を切り拓いた龍馬が志を立てたゆかりの地と言えます。
地元有志、品川龍馬会の人々のはたらきで、桂浜にあるものと同じ姿の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、近頃の時代の閉塞感とあいまって、龍馬の事跡に思いを致す人々の、ブロンズ像であればとの強い願いを受けて、東京京浜ロータリークラブは関係者と密に語らい議って、二十歳の龍馬像としてここに建立したものです。
なお、この像には、平成11年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。
平成22年11月15日
この辺りには土佐藩の鮫洲抱屋敷があった。この屋敷内には浜川砲台が築かれ、
若き坂本龍馬もこの地で守備についたと。
龍馬にとって浜川砲台は、人生のターニングポイントとなる大切な場所。
『立会川 二十歳の龍馬像』
「嘉永6(1853)年、黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬は藩からの許可を得て立会川河口付近にあった下屋敷で剣術始業中。
立会川は後に海運貿易の亀山社中の設立、薩長同盟の斡旋など、近代を切り拓いた
龍馬が志を立てたゆかりの地といえます。
北浜川児童遊園には地元有志、品川龍馬会の人々のはたらきで、桂浜にあるものと
同じ姿のプラスチック製の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、
平成22(2010)年11月15日、東京京浜ロータリークラブが関係者と共にブロンズ像の二十歳の龍馬像として建立されました。
なお、この像には平成11(1999)年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。龍馬像の履物はブーツではなく草履で、土佐藩の下屋敷にいた頃の龍馬を表しています。」
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀沖に午後5時に現れ、停泊した。
日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。
黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。浦賀沖に投錨した艦隊は下の写真の如く、旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマウス」(同)の4隻からなっていた。 -
「嘉永6年(1853)6月、アメリカ合衆国はペリー提督の率いる4艘の艦隊を
日本に派遣して 開国を迫った。国書を幕府に渡すと、来春、再来航するとしてペリーは去った。
日本側は、次回は戦争になると想定して、江戸湾の防備に力を入れることになる。
土佐藩はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出た。
嘉永7年(1854)1月、ペリー艦隊が再来航した時、急遽、土佐藩が造ったのが、浜川砲台である。
6貫目ホーイッスル砲 1門(復元)
1貫目ホーイッスル砲 2門
鉄製5貫目砲 5門
計8門を配備した砲台だった。ここに復元したのは6貫目ホーイッスル砲である。
実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藩の装備は江戸っ子の評判も上々で、次のような 狂歌も作られている。品川の固めの出しのよくきくは 下地もうまく なれし土佐武士[品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ]
これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くは、料理の下ごしらえも、
上手くできる土佐ぶし(鰹節) だからだという意味である。
この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだ20歳の坂本龍馬がいたのである。」 -
梅屋敷は、明治元年(1868)から明治三十年(1897)の間に明治天皇の九度行幸がありました。
【明治天皇と梅屋敷】
天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、明治六年(1873) 三月六日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、この梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたといわれています。その後、昭和八年(1933)に史跡として保存指定を受け、昭和十三年(1938)に東京市へ寄付され、現在に至っています。 -
多摩川に近づいたころ、旅人の常備薬の「和中散」を販売していた山本家が開いた茶屋がある。
屋敷内には多くの梅を植えていたため、現在では「梅屋敷公園」となっており、京浜急行の駅名にもなっている。 当時は大名も立ち寄るほどに繁盛したとのこと。
●梅屋敷公園は広重の「江戸名所百景」に描かれている「梅屋敷と和中散売薬所」の跡である。和中散薬とは腹痛や暑気あたりによく効く漢方薬で、本家は東海道石部宿の「梅ノ木立場」にある大角家であり、本家にちなんで「梅の木」を集めて植えて、いつしか「梅屋敷」と呼ばれるようになったそうだ。
【梅屋敷の由来】
梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(1818~1829)に、梅の木数百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています。当時は、後の十二代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、 とくに梅の開花期には非常なにぎわいを見せたようでした。 大田区
【梅屋敷と和中散売薬所跡】 大田区文化財
「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(1688~1716)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。
このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。
文政年間(1818~1830)の初め、忠左衛門の子久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。
亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会 -
【梅屋敷と和中散売薬所跡】 大田区文化財
「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(1688~1716)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。
このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。
文政年間(1818~1830)の初め、忠左衛門の子久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。
亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会 -
【六郷神社】
【神門前の太鼓橋】
文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉例にならい、白旗を立てて戦いでの勝利を祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営した。 現在、社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれております。 -
【六郷神社】 多摩川の近く。ここで東京都お別れです。
源義家・頼義父子が京都の石清水八幡宮の分霊を勧請したのが当社の創建とされる由緒ある神社。東北地方の乱の平定に向かう頼義と義家父子が、ここにあった大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢をつのり、岩清水八幡に戦勝祈願した。
六郷地区の総鎮守。
六郷橋は度々洪水で流され、架け替えられた。神社境内には、親柱が祀られている。また、門前には、梶原景時寄進の太鼓橋がある。
【六郷神社由緒】
当社は、多摩川の清流に南面する古い八幡宮であり、六郷一円の総鎮守としてひろく崇敬されています。
社紀によれば、源頼義、義家親子が、天喜五年(1057)この地の大杉に源氏の白幡を掲げて軍勢をつのり、岩清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いにふるい、前九年の役に勝利をおさめたので、その分霊を勧請したのが、六郷神社の創建とされています。
文治五年(1189)源頼朝もまた奥州制定のみぎり、祖先の吉例にならって戦勝を祈り、建久二年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。今なお境内に残る大きな手水石は、このとき頼朝が奉納したものであり、神門前の太鼓橋は景時の寄進と伝えられます。
天正十九年(1591)十一月、徳川家康は十八石の朱印地を寄進し、慶長五年( 1600)六郷大橋の竣工に際しては、神威をたたえて祝文をたてまつり、当社の神輿をもって渡初式を挙げました。また、鷹狩りの途中にもしばしば参詣したと史書にみえます。当社が巴紋とともに葵紋を用いている所以で す。
江戸時代には六郷八幡宮とも呼ばれていましたが、明治五年(1872) に東京府郷社に列し、同九年より六郷神社と改称して今日に至っています。
なお当社には、毎年一月七日に行われる流鏑馬(東京都無形民俗文化財)と六月の祭礼時に少年少女が奉仕する獅子舞が伝承されています。 -
【六郷神社の本殿】
慶長5年(1600年)、家康は神社近傍を流れる六郷川に架橋(六郷大橋)を命じ、その竣工を祈って願文を奉り、またこの神社の神輿によって渡初式を行ったと伝えられている。徳川家との縁が深いため、神紋として八幡宮の巴紋と三つ葉葵紋を用いている。(webより)
祭神は応神天皇。頼朝が安房(千葉)から鎌倉入りの途中に立ち寄ったところと伝えられている。六郷一円の総鎮守で、江戸時代は六郷八幡宮と呼ばれていた。
鎌倉時代から伝わる子供流鏑馬(やぶさめ)は、都の無形文化財指定。
入口には「東海道跡の碑」と神社の由来を書いた案内板がある。これによると、源頼義、義家の父子が、ここで源氏の白旗を掲げ、軍勢を募り、石(いわ)清水八幡に武運長久を祈ったところ、前九年の役で勝利を得たので、その分霊を勧請して創建したとある。
【社殿】 すがすがしい檜の香りにみちています。拝殿、幣殿、本殿と続いています。 -
玉川の土手下には、
【北野天神社、通称 止め神社】
*江戸時代、八代将軍吉宗の乗馬が暴走した時、落馬を止めた神社として有名。
【北野天神社】が正式であるが通称を「止め神社」と言う。災いを止める祈りをするため多くの参拝を集めた
【落馬止め天神 由来】
此処からほど近い旧東海道の一角に土地の古老達が"柳生様"と呼んでいたところがあります。
将軍指南役柳生家の留守居役馬別当の屋敷と馬屋があった跡です。
八代将軍吉宗公の御乗馬が暴走してあわやと云う時に将軍の"落馬を止めた"北野天神の御加護にあやかったものと云われています。
昔から馬の乗り方を"天神乗り"と云うように天神様は乗馬の師でもありました。
馬術の基である馬のために馬屋を此処においた柳生家の心情がうかがわれます。
将軍の"落馬を止めた"天神様の評判は東海道を行き来する旅人達に依り遠くまで広がり、大名や武士は"落馬止め天神"と呼び文武の拠り所としました。然し近郷の村人や町人は敢えて落馬という呼び名をはぶいて"止め天神"と呼ぶようになりました。
人の身にふりかかる悪い事を一切"止め"て下さる天神様として、昔から 今日まで多くの人に崇敬されております。 昭和六十年五月吉日
北野神社(きたのじんじゃ、正式社号は北野天神(きたのてんじん))は、
東京都大田区仲六郷にある神社(天満宮)。「落馬止め天神」「止め天神」と
称されるほか、地名から仲六郷北野神社とも呼ばれる。六郷神社の兼務社。 -
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「本堂」
江戸幕府第 8 代将軍徳川吉宗の乗馬が暴走した際に落馬を止めたことから、
東海道を往来する武士から「落馬止め天神」と称されるに至り、この加護にあやかり将軍指南役の柳生家留守居役が近くに屋敷を構えた。農民や町民は「止め天神」とのみ呼んだという。
天満宮本来の学問のみならず、災いや痛みを止め、「落ちない」ことを祈願する者の参拝を受ける。毎月 25 日を縁日とし、この日には、木馬にまたがり祈願する江戸時代から伝わる神事が執り行われているとのこと。 -
「落馬 止め神社」
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六郷橋の欄干です。
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六郷の渡し船のオブジェ
【六郷の渡し】
徳川家康が征夷大将軍に任ぜられる前の慶長五年(1600)に、東海道の多摩川に橋が架けられた。その後何回かの補修や、洪水により流失すると、以後は架橋することなく渡船場が設けられ、船で川を往来するようになった。
最初は江戸町人が請負っていたものが、元禄四年(1691)からは今の大田区の八幡塚村の請負いとなり、人が六文、本馬が十五文、軽尻が十文と渡船料を徴収した。
??『旧東海道を歩く』ブログ 目次?
六郷橋北詰の交差点を過ぎると、前方に第1京浜・六郷橋への導入路が見えて来た。
『六郷の渡し跡』の説明板。
慶長5年徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けられ、以来修復やかけ直しが行われた。元禄元年7月の大洪水で六郷大橋は流され、幕府は架橋をやめ、明治に至るまで船渡しとなった。
当初渡船は、江戸の町人が請け負っていたが、宝永6年3月川崎宿が請け負うことになり、それによる渡船収入が宿の財政を大きく支えた。現在では、川崎側に渡船跡の碑と、明治天皇六郷渡御碑が建ち、欄干に渡船のモニュメントが。 -
当時の多摩川の渡し。江戸の初期には橋が架かっていたが、たびたび起こる洪水で流され、元禄2年(1689)以降は船渡しとなった。元禄四年からは有料。
家数は541軒、うち本陣2、脇本陣0、旅籠72軒で宿内人口は約2,400人。
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
【東海道五十三次 川崎 広重画】03
広重は川崎宿の舟渡し風景、そして川崎宿の舟会所を描いています。
安藤広重の東海道五拾三次の内・川崎『六郷渡船』
富士山を望みながら、川崎宿へ向う行商人や旅人、川崎大師参りの女達が乗っているところを描いている。 -
いよいよ多摩川を越えて、川崎宿(川崎市)に入る。
六郷橋を歩いて渡り中。
「旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所などの公的施設をはじめ、旅籠や商家など350軒程の建物が約1400mの長さにわたって軒を並べ、賑わいを見せていた。
古文書や絵図から宿の町並みを探ってみると、旅籠は約七十軒を数え、油屋・煙草屋・小間物屋・酒屋などが店を広げる一方、大工・鍛冶屋・桶屋ほか多くの職人や農民も居住しており、活気にみちた都市的景観を認めることができる。
もともと、川崎宿のあたりは砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には、冠水の被害に見舞われる地域であった。そのため、旧東海道は砂州の微高地上を通るように配慮がなされ、さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛土が施されたという。
現在でも砂子(いさこ)から小土呂(こどろ)辺りを歩いていると旧街道筋が周囲よりも幾分高いことが良く分かる。
川崎宿は、慶安・元禄年間の大地震や宝暦十一年(1761)の大火など度重なる災害に見舞われ、明治維新以降も関東大震災や空襲などで、往時の景観は全く失われてしまった。
しかし、大きな変貌を遂げてきた今日の町並みの中に、宿の成立にかかわる地形や寺院の配置など、川崎宿のおもかげを見ることができる。 -
振り返ると、品川方面が見えている。これで、東京都ともおさらば。次は神奈川県方面へ。
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