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[風光明媚な架橋島と死者を呼ぶ神木]<br />坂本龍馬記念館の建つ浦戸城跡側と種崎千松公園を結ぶ浦戸大橋から北方の浦戸湾を見下ろした時、西岸(横浜東町)から架橋島と、それから続く飛石のような小島群が視界に入る。架橋島を続島と言い、その東に衣ヶ島(長続島)、少し離れて玉島と続く。続島には浦戸城を一時期居城としていた長宗我部元親が崇敬した仁井田神社があり、島は昭和7年、高知新聞が読者から募集して選定した「浦戸湾十景」の一つになった。玉島は神功皇后が土佐巡幸時に名付けた島名。<br /><br />続島より1.3kmほど南の海岸には、夜な夜な刃物を供えて祈願する、昔から有名な「縁切りさん」の墓標があるが、その手前にある、当方が「浦戸湾の宮島」と呼んでいる深浦神社は、無名の高知市一の心霊スポット。社殿側の神木では戦後、20人以上(‘06年時)が首吊り自殺をしたと言われているが、首を吊った枝は次第に枯死するという。しかしほどなく別の場所の枝が成長する。一定の太さになればまた首吊り自殺があり、また枯死して再生、というサイクルを繰り返している。<br /><br />縁切りさんとは、白鳳時代(673〜710年)、現在の墓標の前にあった底なし沼に投身自殺した、宇賀長者の娘・おぬいと乳母、山伏の三体の墓標。<br />宇賀長者は浦戸城跡から西方の花街道沿いに広大な土地を所有し、土佐一の長者と言われていた。<br />ある日、長者は伊勢参りを思い立ち、旅に出る。そして伊勢神宮に参拝時、「日本一の神様じゃ言うきに、さぞかし立派な社かと思うちょったら、おらんくの牛だや(牛小屋)ばあ(くらい)もないじゃいか。」と神前で悪態をついてしまう。<br /><br />不満を抱き、帰路に着くと、自分の屋敷や蔵の大半が失火で焼失していた。更に病弱の妻と一人娘のおぬい、その乳母もいない。家の者に尋ねると、長者が出かけていた頃、一人の若い山伏が訪れ、厄介になることになった。山伏はおぬいに一目ぼれし、何かにかこつけてはおぬいの部屋に入ろうとする。乳母はそれを案じ、おぬいを連れ出し、自分の弟の元に匿って貰おうとする。<br /><br />しかし長浜の深浦の沼まで逃げて来た時、おぬいの足が萎えて倒れてしまう。後からは血相を変えて山伏が追いかけてくる。最早これまで、とおぬいは沼に投身。乳母も後を追った。それを見た山伏は初めて我に返り、己が犯した罪を悔い、同じく沼に飛び込んだ。<br />それを知った長者の妻はショックで死去。その後、屋敷内で火事が起こった。<br />更に有史最古の南海トラフ地震である「白鳳の大地震」が起こり、長者の海岸沿いの土地は海没し、長者は没落してしまった。<br /><br />後年、沼跡の畔に三人の墓標が建立されたが、おぬいと乳母の墓に夜、刃物を供えて祈願すると縁切りにご利益があるとされ、山伏の墓に祈願すると恋愛成就にご利益があるとして、有名になった。<br /><br />[探訪アプローチ]<br />続島・・・角にローソン高知横浜店と「横浜」バス停がある交差点から東に進む(川の南岸の道)。これを終点まで行った所に、続島に架かる衣ヶ橋がある。私が訪れた時は終点手前の車止め辺りか排水機場近くに駐車したと思う。<br /><br />深浦神社と縁切りさん・・・満潮時には探訪不可。現在、車止めが設置されているかも知れないが、精神病院の精華園入り口(最寄のバス停は「東団地第二」)から南東に向う車道を進み、精華園グランド南端向いから東に折れる林道に入る。車は手前の路肩に駐車。<br />荒れた林道は海岸沿いの旧精華園跡に下っており、そこから磯伝いに西進して行けば、湾状になった上に縁切りさんの小屋があり、その西に深浦神社がある。<br /><br />尚、満潮時、精華園が敷地の通行を許可すれば、深浦神社と縁切りは徒歩二分ほどで済む。<br />因みにこの探訪時より12年後、旧精華園跡東方で、防衛省所蔵資料から海軍特攻の震洋基地跡(自著に収録)を発見し、赤旗新聞四国支局長を案内することになる。<br />続島と深浦を探訪後、13年ぶりに桂浜に寄った。<br /><br />PS:現在、今まで使用していたパソコンが故障中につき、古いパソコンを使っているため、地図の図示ができません。

浦戸湾十景の島と恐怖の「浦戸湾の宮島」

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1994/03/11 - 1994/03/11

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マローズ

マローズさん

[風光明媚な架橋島と死者を呼ぶ神木]
坂本龍馬記念館の建つ浦戸城跡側と種崎千松公園を結ぶ浦戸大橋から北方の浦戸湾を見下ろした時、西岸(横浜東町)から架橋島と、それから続く飛石のような小島群が視界に入る。架橋島を続島と言い、その東に衣ヶ島(長続島)、少し離れて玉島と続く。続島には浦戸城を一時期居城としていた長宗我部元親が崇敬した仁井田神社があり、島は昭和7年、高知新聞が読者から募集して選定した「浦戸湾十景」の一つになった。玉島は神功皇后が土佐巡幸時に名付けた島名。

続島より1.3kmほど南の海岸には、夜な夜な刃物を供えて祈願する、昔から有名な「縁切りさん」の墓標があるが、その手前にある、当方が「浦戸湾の宮島」と呼んでいる深浦神社は、無名の高知市一の心霊スポット。社殿側の神木では戦後、20人以上(‘06年時)が首吊り自殺をしたと言われているが、首を吊った枝は次第に枯死するという。しかしほどなく別の場所の枝が成長する。一定の太さになればまた首吊り自殺があり、また枯死して再生、というサイクルを繰り返している。

縁切りさんとは、白鳳時代(673〜710年)、現在の墓標の前にあった底なし沼に投身自殺した、宇賀長者の娘・おぬいと乳母、山伏の三体の墓標。
宇賀長者は浦戸城跡から西方の花街道沿いに広大な土地を所有し、土佐一の長者と言われていた。
ある日、長者は伊勢参りを思い立ち、旅に出る。そして伊勢神宮に参拝時、「日本一の神様じゃ言うきに、さぞかし立派な社かと思うちょったら、おらんくの牛だや(牛小屋)ばあ(くらい)もないじゃいか。」と神前で悪態をついてしまう。

不満を抱き、帰路に着くと、自分の屋敷や蔵の大半が失火で焼失していた。更に病弱の妻と一人娘のおぬい、その乳母もいない。家の者に尋ねると、長者が出かけていた頃、一人の若い山伏が訪れ、厄介になることになった。山伏はおぬいに一目ぼれし、何かにかこつけてはおぬいの部屋に入ろうとする。乳母はそれを案じ、おぬいを連れ出し、自分の弟の元に匿って貰おうとする。

しかし長浜の深浦の沼まで逃げて来た時、おぬいの足が萎えて倒れてしまう。後からは血相を変えて山伏が追いかけてくる。最早これまで、とおぬいは沼に投身。乳母も後を追った。それを見た山伏は初めて我に返り、己が犯した罪を悔い、同じく沼に飛び込んだ。
それを知った長者の妻はショックで死去。その後、屋敷内で火事が起こった。
更に有史最古の南海トラフ地震である「白鳳の大地震」が起こり、長者の海岸沿いの土地は海没し、長者は没落してしまった。

後年、沼跡の畔に三人の墓標が建立されたが、おぬいと乳母の墓に夜、刃物を供えて祈願すると縁切りにご利益があるとされ、山伏の墓に祈願すると恋愛成就にご利益があるとして、有名になった。

[探訪アプローチ]
続島・・・角にローソン高知横浜店と「横浜」バス停がある交差点から東に進む(川の南岸の道)。これを終点まで行った所に、続島に架かる衣ヶ橋がある。私が訪れた時は終点手前の車止め辺りか排水機場近くに駐車したと思う。

深浦神社と縁切りさん・・・満潮時には探訪不可。現在、車止めが設置されているかも知れないが、精神病院の精華園入り口(最寄のバス停は「東団地第二」)から南東に向う車道を進み、精華園グランド南端向いから東に折れる林道に入る。車は手前の路肩に駐車。
荒れた林道は海岸沿いの旧精華園跡に下っており、そこから磯伝いに西進して行けば、湾状になった上に縁切りさんの小屋があり、その西に深浦神社がある。

尚、満潮時、精華園が敷地の通行を許可すれば、深浦神社と縁切りは徒歩二分ほどで済む。
因みにこの探訪時より12年後、旧精華園跡東方で、防衛省所蔵資料から海軍特攻の震洋基地跡(自著に収録)を発見し、赤旗新聞四国支局長を案内することになる。
続島と深浦を探訪後、13年ぶりに桂浜に寄った。

PS:現在、今まで使用していたパソコンが故障中につき、古いパソコンを使っているため、地図の図示ができません。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通手段
自家用車

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  • 続島に架かる衣ヶ橋

    続島に架かる衣ヶ橋

  • 浦戸湾十景碑

    浦戸湾十景碑

  • 衣ヶ島と玉島

    衣ヶ島と玉島

  • 島のようなゴウシ山。精華園の東にある。

    島のようなゴウシ山。精華園の東にある。

  • ゴウシ山側から見た精華園

    ゴウシ山側から見た精華園

  • 深浦神社西の浜。浦戸湾沿いで最も自然が残る地の一つ

    深浦神社西の浜。浦戸湾沿いで最も自然が残る地の一つ

  • 浦戸湾にはこのような岩礁が多いため、慶長元年(1596)、イスパニア船が座礁した。長宗我部元親はその措置を豊臣秀吉に仰ぎ、積荷と乗組員の所持金を没収、大坂に送った。

    浦戸湾にはこのような岩礁が多いため、慶長元年(1596)、イスパニア船が座礁した。長宗我部元親はその措置を豊臣秀吉に仰ぎ、積荷と乗組員の所持金を没収、大坂に送った。

  • 袙(あこめ)碑。イスパニア船の積荷である白衣(袙)が漂着したことから、深浦周辺はかつて袙と呼ばれていた。

    袙(あこめ)碑。イスパニア船の積荷である白衣(袙)が漂着したことから、深浦周辺はかつて袙と呼ばれていた。

  • 深浦神社の桟橋。「浦戸湾の宮島」の所以。

    深浦神社の桟橋。「浦戸湾の宮島」の所以。

  • 鳥居上の枝の一つは先端部がなくなっている。もしかして・・・・。

    鳥居上の枝の一つは先端部がなくなっている。もしかして・・・・。

  • 深浦神社

    深浦神社

  • 縁切りさんの小屋

    縁切りさんの小屋

  • 左がおぬいの墓、真ん中が山伏の墓、右が乳母の墓。この世話をしている大夫(祈祷師)は、供えられた刃物(主に包丁)を見つけると回収、御祓いをした後、妻に渡し、妻は勤務先である精華園調理場で使用していたという。何ともエコな話(かつての話)。

    左がおぬいの墓、真ん中が山伏の墓、右が乳母の墓。この世話をしている大夫(祈祷師)は、供えられた刃物(主に包丁)を見つけると回収、御祓いをした後、妻に渡し、妻は勤務先である精華園調理場で使用していたという。何ともエコな話(かつての話)。

  • 衣ヶ島等の島群

    衣ヶ島等の島群

  • 林道はこの切通しを越えて旧精華園跡へと下りる

    林道はこの切通しを越えて旧精華園跡へと下りる

  • 坂本龍馬像

    坂本龍馬像

    坂本龍馬銅像 名所・史跡

  • 桂浜

    桂浜

    桂浜 自然・景勝地

    ポケモンGOスポットの桂浜は無料駐車場を by マローズさん
  • 竜王岬の竜王宮

    竜王岬の竜王宮

    桂浜 竜王宮 寺・神社・教会

  • 高知灯台。元々明治14年、竜頭岬に「竜頭岬灯台」として建設されたが、台風で倒壊、明治27年に現在地に移転され、昭和41年、「高知灯台」に改称された。

    高知灯台。元々明治14年、竜頭岬に「竜頭岬灯台」として建設されたが、台風で倒壊、明治27年に現在地に移転され、昭和41年、「高知灯台」に改称された。

    高知灯台 名所・史跡

  • 竜頭岬西方の岩間

    竜頭岬西方の岩間

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