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今川義元の手に落ちた大高城を牽制し、尾張への侵攻を防ぐために築いた鷲津砦跡の紹介です。丸根砦と同じく、大高城からは800メートルの距離にあります。

2016春、信長所縁の史跡・鷲津砦(1):鷲津砦公園、史跡・鷲津砦跡、慰霊碑

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2016/03/10 - 2016/03/10

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旅人のくまさん

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今川義元の手に落ちた大高城を牽制し、尾張への侵攻を防ぐために築いた鷲津砦跡の紹介です。丸根砦と同じく、大高城からは800メートルの距離にあります。

交通手段
自家用車
  • 永禄2年 (1559)、織田信長が今川氏に対抗するために丸根砦とともに築いた鷲津砦です。大高城から見て、丸根砦が東に800メートル、鷲津砦が東北に800メートル、そしてこの二つの砦の間隔が400メートルです。

    永禄2年 (1559)、織田信長が今川氏に対抗するために丸根砦とともに築いた鷲津砦です。大高城から見て、丸根砦が東に800メートル、鷲津砦が東北に800メートル、そしてこの二つの砦の間隔が400メートルです。

  • 『鷲津砦公園』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。その前で菜の花と水仙が咲いていました。

    イチオシ

    『鷲津砦公園』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。その前で菜の花と水仙が咲いていました。

  • 石碑の前で咲いていたナノハナ(菜の花)の光景です。春の風物詩の一つ、菜の花はアブラナ科の植物です。

    石碑の前で咲いていたナノハナ(菜の花)の光景です。春の風物詩の一つ、菜の花はアブラナ科の植物です。

  • こちらは白い水仙の花のズームアップ光景です。野趣味を感じるニホンズイセン(日本水仙)のようです。丸根砦の麓でも見かけました。

    こちらは白い水仙の花のズームアップ光景です。野趣味を感じるニホンズイセン(日本水仙)のようです。丸根砦の麓でも見かけました。

  • 鷲津砦の登り口付近の光景です。一五五九年に建設され、1560年の桶狭間の戦いで攻略された鷲津砦は、役目を終えた後、そのまま放棄されていたようです。それから450年余りが経ちます。丸根砦跡と同じような工法で、上り坂が整備されていました。

    鷲津砦の登り口付近の光景です。一五五九年に建設され、1560年の桶狭間の戦いで攻略された鷲津砦は、役目を終えた後、そのまま放棄されていたようです。それから450年余りが経ちます。丸根砦跡と同じような工法で、上り坂が整備されていました。

  • 椿の赤い花が散り敷いた砦に向かう登り道の光景です。鷲津砦は、丸根砦と同時に国の史跡に登録されています。昭和13年(1938年)のことです。

    イチオシ

    椿の赤い花が散り敷いた砦に向かう登り道の光景です。鷲津砦は、丸根砦と同時に国の史跡に登録されています。昭和13年(1938年)のことです。

  • 落葉が降り積もった、鷲津砦跡への登り道の光景です。周りは、落葉樹も常緑樹も育った森林のようでした。

    落葉が降り積もった、鷲津砦跡への登り道の光景です。周りは、落葉樹も常緑樹も育った森林のようでした。

  • 振り返って眺めた、鷲津砦跡への登り道の光景です。麓から砦の頂上に向かう途中、誰とも出会いませんでした。

    振り返って眺めた、鷲津砦跡への登り道の光景です。麓から砦の頂上に向かう途中、誰とも出会いませんでした。

  • 地面に落ちた無数のドングリ(団栗)の光景です。ドングリは、ブナ科の中でも、特にカシ(樫)、ナラ(楢)、カシワ(柏)など、コナラ属樹木の果実の総称とされます。

    地面に落ちた無数のドングリ(団栗)の光景です。ドングリは、ブナ科の中でも、特にカシ(樫)、ナラ(楢)、カシワ(柏)など、コナラ属樹木の果実の総称とされます。

  • 鷲津砦跡への登り道の脇方向の光景です。堀跡らしい窪地が続いていました。

    鷲津砦跡への登り道の脇方向の光景です。堀跡らしい窪地が続いていました。

  • 先ほどの堀跡らしい窪地を上から眺めた光景です。1979年に発行された『日本城郭体系』には、堀があったことが記述されているようです。

    先ほどの堀跡らしい窪地を上から眺めた光景です。1979年に発行された『日本城郭体系』には、堀があったことが記述されているようです。

  • この場所も、堀の続きのように見えます。掘り上げた土は、土塁として使われたかも知れませんが、何しろ450年前のことです。

    この場所も、堀の続きのように見えます。掘り上げた土は、土塁として使われたかも知れませんが、何しろ450年前のことです。

  • 山道を通り抜けて達した場所です。こんもりとした樹木と、その周りに石の杭が使われた柵が見えてきました。

    山道を通り抜けて達した場所です。こんもりとした樹木と、その周りに石の杭が使われた柵が見えてきました。

  • 石の杭の囲いの中心部にあった、大きな石碑です。『表忠碑』の文字がありました。その後に、『陸軍大将伯爵・寺内正毅』の落款がありました。寺内正毅(1852〜1919年)は、山口出身の軍人で、第18代の寺内内閣を組閣しました。

    石の杭の囲いの中心部にあった、大きな石碑です。『表忠碑』の文字がありました。その後に、『陸軍大将伯爵・寺内正毅』の落款がありました。寺内正毅(1852〜1919年)は、山口出身の軍人で、第18代の寺内内閣を組閣しました。

  • 『史跡・鷲津砦趾』の文字が刻まれた石碑の光景です。永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いの緒戦には、飯尾宗定らが立て籠もりましたが、今川勢の朝比奈泰能の軍勢に攻め立てられ、全滅したとされます。先ほどの『表忠碑』もその慰霊のようです。

    イチオシ

    『史跡・鷲津砦趾』の文字が刻まれた石碑の光景です。永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いの緒戦には、飯尾宗定らが立て籠もりましたが、今川勢の朝比奈泰能の軍勢に攻め立てられ、全滅したとされます。先ほどの『表忠碑』もその慰霊のようです。

  • 『史跡・鷲津砦趾』の文字が刻まれた石碑の側面の光景です。昭和28年(1953年)の日付がありました。第二次大戦後の建立でした。

    『史跡・鷲津砦趾』の文字が刻まれた石碑の側面の光景です。昭和28年(1953年)の日付がありました。第二次大戦後の建立でした。

  • 『史跡・鷲津砦址』の石碑の先にも道が続いていました。行きつける先まで歩くことにしました。この写真では、左が『表忠碑』、中央奥が『史跡・鷲津砦趾』の石碑があった場所です。

    『史跡・鷲津砦址』の石碑の先にも道が続いていました。行きつける先まで歩くことにしました。この写真では、左が『表忠碑』、中央奥が『史跡・鷲津砦趾』の石碑があった場所です。

  • 少し歩いただけで小公園のような場所に出ました。その公園の端にあった『鷲津砦跡』の説明看板です。砦の規模は、東西25メートル、南北が27メートルであったことなどが解説されていました。

    少し歩いただけで小公園のような場所に出ました。その公園の端にあった『鷲津砦跡』の説明看板です。砦の規模は、東西25メートル、南北が27メートルであったことなどが解説されていました。

  • ベンチが置かれた公園の光景です。この場所も『鷲津砦公園』の一部らしく、国の史跡の『鷲津砦跡』を含めて、『鷲津砦公園』と呼ばれているようでした。

    ベンチが置かれた公園の光景です。この場所も『鷲津砦公園』の一部らしく、国の史跡の『鷲津砦跡』を含めて、『鷲津砦公園』と呼ばれているようでした。

  • 樹木が茂っているエリアが、国の史跡の『鷲津砦跡』、その周囲に小公園と、周回道路の散策路があった『『鷲津砦公園』の構成のようでした。

    樹木が茂っているエリアが、国の史跡の『鷲津砦跡』、その周囲に小公園と、周回道路の散策路があった『『鷲津砦公園』の構成のようでした。

  • 鷲津砦公園の東北方面にある小公園の光景です。国の史跡といっても、目立った遺跡は残されていませんから、訪問者は少ないようでした。

    鷲津砦公園の東北方面にある小公園の光景です。国の史跡といっても、目立った遺跡は残されていませんから、訪問者は少ないようでした。

  • 『鷲津砦公園案内図』です。最初に入場した場所にあった標識と同一で、現在場所の表示だけが異なっていました。そろそろ更新してもらいたい標識です。

    『鷲津砦公園案内図』です。最初に入場した場所にあった標識と同一で、現在場所の表示だけが異なっていました。そろそろ更新してもらいたい標識です。

  • 往きに前を通過した、鷲津砦跡に隣接する長寿寺を見学する予定でしたから、同じ道を引き返すことにしました。その途中の光景です。ここは、『表忠碑』の近くです。

    往きに前を通過した、鷲津砦跡に隣接する長寿寺を見学する予定でしたから、同じ道を引き返すことにしました。その途中の光景です。ここは、『表忠碑』の近くです。

  • 桶狭間の戦いの前哨戦の時、鷲津砦を守った、飯尾宗定の軍は400名ほどとされます。攻める側は、今川勢の朝比奈泰能の軍勢2千名以上です。所詮多勢に無勢の砦の攻防戦だったようです。この辺りも、飯尾宗定の軍が立てこもった場所かもしれませんが、鷲津砦の正確なエリアは特定されていません。

    桶狭間の戦いの前哨戦の時、鷲津砦を守った、飯尾宗定の軍は400名ほどとされます。攻める側は、今川勢の朝比奈泰能の軍勢2千名以上です。所詮多勢に無勢の砦の攻防戦だったようです。この辺りも、飯尾宗定の軍が立てこもった場所かもしれませんが、鷲津砦の正確なエリアは特定されていません。

  • 前方に見えてきたのは、堀跡のようです。今川勢に対する急拵えの砦ですし、あっという間に攻略、廃棄されましたから、発掘調査をしても、ほとんど成果は期待できないような気がします。

    前方に見えてきたのは、堀跡のようです。今川勢に対する急拵えの砦ですし、あっという間に攻略、廃棄されましたから、発掘調査をしても、ほとんど成果は期待できないような気がします。

  • 往きにも眺めた堀跡の光景です。水を貯めるのも難しそうな場所です。堀と合わせて、土塁や逆杭などが砦を守ったのかもしれません。

    往きにも眺めた堀跡の光景です。水を貯めるのも難しそうな場所です。堀と合わせて、土塁や逆杭などが砦を守ったのかもしれません。

  • 振り返って眺めた、最初に上った階段付近の光景です。清州城を出た信長が、二つの砦が落ちたのを知ったのは、南下する途中で火の手を見た時のようです。この地形では、火責めもあったかもしれません。

    振り返って眺めた、最初に上った階段付近の光景です。清州城を出た信長が、二つの砦が落ちたのを知ったのは、南下する途中で火の手を見た時のようです。この地形では、火責めもあったかもしれません。

  • 最初に入場した出入口の場所です。ここにも赤い椿の花が散っていました。前方には、知多街道と呼ばれる通りが見えています。

    最初に入場した出入口の場所です。ここにも赤い椿の花が散っていました。前方には、知多街道と呼ばれる通りが見えています。

  • 最初に入場した出入口の光景です。鷲津砦公園のほぼ西側に位置する場所です。

    最初に入場した出入口の光景です。鷲津砦公園のほぼ西側に位置する場所です。

  • 最初に入場した場所まで引き返してきました。長寿寺は、前方に見える知多街道を左に少しだけ歩いた場所です。

    最初に入場した場所まで引き返してきました。長寿寺は、前方に見える知多街道を左に少しだけ歩いた場所です。

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