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大高城が今川義元に落とされた後、尾張への侵攻をとどめるために信長が築いた二つの砦のうち、丸根砦跡の紹介です。

2016春、信長所縁の史跡・丸根砦(1):桶狭間の戦いがあった丸根砦跡、慰霊碑、椿

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2016/03/10 - 2016/03/10

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

大高城が今川義元に落とされた後、尾張への侵攻をとどめるために信長が築いた二つの砦のうち、丸根砦跡の紹介です。

交通手段
自家用車
  • 丸根砦への登り口付近での撮影です。真っ赤な実を付けたクロガネモチ(黒鉄黐)です。野鳥さんにとっては、格好の餌になりそうです。

    丸根砦への登り口付近での撮影です。真っ赤な実を付けたクロガネモチ(黒鉄黐)です。野鳥さんにとっては、格好の餌になりそうです。

  • 丸根砦跡らしい小山が左手前方に見えてきました。その小山は、木々や竹林で覆われていました。このあたりの山は、知多半島から続く丘陵の北端になるようです。

    丸根砦跡らしい小山が左手前方に見えてきました。その小山は、木々や竹林で覆われていました。このあたりの山は、知多半島から続く丘陵の北端になるようです。

  • あまり手入れがされていないように見受けた、竹林の光景です。茶色になった古株が多く、伐採された枝などが放られていました。

    あまり手入れがされていないように見受けた、竹林の光景です。茶色になった古株が多く、伐採された枝などが放られていました。

  • 丸根砦跡の麓で咲いていた赤いツバキ(椿)の花です。照葉樹林の代表的な樹木です。

    丸根砦跡の麓で咲いていた赤いツバキ(椿)の花です。照葉樹林の代表的な樹木です。

  • 丸根砦跡の麓で咲いていた赤い椿の花のズームアップ光景です。サザンカ(山茶花)とよく似ていますが、ツバキの花は、完全には平開しない特徴があります。

    イチオシ

    丸根砦跡の麓で咲いていた赤い椿の花のズームアップ光景です。サザンカ(山茶花)とよく似ていますが、ツバキの花は、完全には平開しない特徴があります。

  • 丸根砦跡の麓光景です。案内看板らしいものが立っていました。近寄って確認です。

    丸根砦跡の麓光景です。案内看板らしいものが立っていました。近寄って確認です。

  • 『丸根砦跡』のタイトルがあった、名古屋市教育委員会名の説明パネルの光景です。現況は、『東西36メートル、南北28メートルの砦の周囲に幅3.6メートルの外堀をめぐらしている』と紹介されていました。

    『丸根砦跡』のタイトルがあった、名古屋市教育委員会名の説明パネルの光景です。現況は、『東西36メートル、南北28メートルの砦の周囲に幅3.6メートルの外堀をめぐらしている』と紹介されていました。

  • 丸根砦跡の麓から眺めた、西方面の光景です。400メートルくらいの距離で、鷲津砦が築かれました。

    丸根砦跡の麓から眺めた、西方面の光景です。400メートルくらいの距離で、鷲津砦が築かれました。

  • 鷲津砦跡の頂上方面の光景です。長い年月で雑木林になっていました。砦が築かれたのが1559年のことですから、450年以上前のことになります。

    鷲津砦跡の頂上方面の光景です。長い年月で雑木林になっていました。砦が築かれたのが1559年のことですから、450年以上前のことになります。

  • 砦の西側方面の光景です。急傾斜地のためでしょうか、コンクリートの擁壁が砦跡を取り囲んでいました。

    砦の西側方面の光景です。急傾斜地のためでしょうか、コンクリートの擁壁が砦跡を取り囲んでいました。

  • 砦の東側方面の光景です。前方に見える小山は、大高緑地公園の一部です。緑地公園の駐車場に駐車して、ここまで歩いてきました。3〜4百メートルの距離だったようです。

    砦の東側方面の光景です。前方に見える小山は、大高緑地公園の一部です。緑地公園の駐車場に駐車して、ここまで歩いてきました。3〜4百メートルの距離だったようです。

  • 丸根砦跡は、円形に近い楕円形をした敷地を持つ小山です。その頂上に向けて続く登り坂の光景です。標高は35メートルとされます。

    丸根砦跡は、円形に近い楕円形をした敷地を持つ小山です。その頂上に向けて続く登り坂の光景です。標高は35メートルとされます。

  • 土留めを兼ねたような階段は、踊り場の先にさらに続いていました。

    土留めを兼ねたような階段は、踊り場の先にさらに続いていました。

  • 丸根砦跡の頂上に到着しました。あまり広くない台地に、石の柵で囲われた慰霊碑がありました。

    丸根砦跡の頂上に到着しました。あまり広くない台地に、石の柵で囲われた慰霊碑がありました。

  • 丸根砦跡の頂上の慰霊碑には、『岩根砦戦殉難烈士之碑』の文字がありました。建立者名は、『丸根砦慰霊奉仕会』でした。

    イチオシ

    丸根砦跡の頂上の慰霊碑には、『岩根砦戦殉難烈士之碑』の文字がありました。建立者名は、『丸根砦慰霊奉仕会』でした。

  • 『岩根砦戦殉難烈士之碑』の文字が刻まれた石碑のズームアップ光景です。『戦殉難烈士』とは、永禄3年 (1560年)の桶狭間の戦いの時、砦を守る戦いで全滅したとされる、佐久間盛重(生年不詳〜1560年)とその手勢七百人を指すようです。信長の家臣で、佐久間大学の名前も持ちます。

    『岩根砦戦殉難烈士之碑』の文字が刻まれた石碑のズームアップ光景です。『戦殉難烈士』とは、永禄3年 (1560年)の桶狭間の戦いの時、砦を守る戦いで全滅したとされる、佐久間盛重(生年不詳〜1560年)とその手勢七百人を指すようです。信長の家臣で、佐久間大学の名前も持ちます。

  • 『岩根砦戦殉難烈士之碑』の裏側に刻まれた文字です。昭和54年(1979年)4月の日付と善光寺住職らしい落款がありました。信州善光寺から大高善光寺を名乗ることを許されている、白祐山・海岸寺の住職ようです。2016年現在は、第二十一世の川口圓玄氏ですから、代替わりされているようです。

    『岩根砦戦殉難烈士之碑』の裏側に刻まれた文字です。昭和54年(1979年)4月の日付と善光寺住職らしい落款がありました。信州善光寺から大高善光寺を名乗ることを許されている、白祐山・海岸寺の住職ようです。2016年現在は、第二十一世の川口圓玄氏ですから、代替わりされているようです。

  • 側面から眺めた、『岩根砦戦殉難烈士之碑』の光景です。柵の石柱には、寄進者の名前が刻まれていました。

    側面から眺めた、『岩根砦戦殉難烈士之碑』の光景です。柵の石柱には、寄進者の名前が刻まれていました。

  • この角度から眺めますと、随分と狭隘な砦跡の中心部のように見えます。佐久間盛重の手勢七百人が守ったとは信じがたい砦の規模でした。

    この角度から眺めますと、随分と狭隘な砦跡の中心部のように見えます。佐久間盛重の手勢七百人が守ったとは信じがたい砦の規模でした。

  • 『史跡散策路』の案内標識です。右向きの矢印で、『鷲津城跡』が記され、散策ルート図も表示されていました。

    『史跡散策路』の案内標識です。右向きの矢印で、『鷲津城跡』が記され、散策ルート図も表示されていました。

  • 幅3.6メートルの濠で囲われていたとされる丸根砦の中心部の光景です。関連する、大高城、鷲津砦と、この丸根砦にはいずれも石垣の跡はありませんでした。自然の地形と、濠と土塁が主な防御策だったようです。

    幅3.6メートルの濠で囲われていたとされる丸根砦の中心部の光景です。関連する、大高城、鷲津砦と、この丸根砦にはいずれも石垣の跡はありませんでした。自然の地形と、濠と土塁が主な防御策だったようです。

  • 史跡散策路の案内標識からの眺めです。一段低くなった場所に石碑のようなものが見えました。

    史跡散策路の案内標識からの眺めです。一段低くなった場所に石碑のようなものが見えました。

  • 『史跡・丸根砦跡』の文字が刻まれた石碑の光景です。丸根砦と鷲津砦は、大高城を牽制する役割のほかに、同じ今川側の鳴海城との間を遮断する目的もあったようです。

    イチオシ

    『史跡・丸根砦跡』の文字が刻まれた石碑の光景です。丸根砦と鷲津砦は、大高城を牽制する役割のほかに、同じ今川側の鳴海城との間を遮断する目的もあったようです。

  • 1559年に鷲津砦とともに築かれた丸根砦ですが、桶狭間の戦いの前哨戦の1560年5月には。松平元康(のちの徳川家康))軍に攻め落とされました。この砦攻めには鉄砲も使われたようです。

    1559年に鷲津砦とともに築かれた丸根砦ですが、桶狭間の戦いの前哨戦の1560年5月には。松平元康(のちの徳川家康))軍に攻め落とされました。この砦攻めには鉄砲も使われたようです。

  • 地上に落下した椿の花の光景です、サザンカ(山茶花)は花びらが1ずつ散りますが、花びらごとの落花です。

    地上に落下した椿の花の光景です、サザンカ(山茶花)は花びらが1ずつ散りますが、花びらごとの落花です。

  • 丸根砦から見下ろした周囲の光景です。西南側方面の光景だったようです。攻め落とされた丸根砦は、今川家から独立した徳川家と、織田家が、同盟関係になったため存在意義を失い、そのまま放棄されました。

    丸根砦から見下ろした周囲の光景です。西南側方面の光景だったようです。攻め落とされた丸根砦は、今川家から独立した徳川家と、織田家が、同盟関係になったため存在意義を失い、そのまま放棄されました。

  • 徳川家と織田家の同盟関係は、清州同盟と呼ばれています。桶狭間の戦いの2年後の1562年、松平元康が清州城に赴き締結されました。織徳同盟(しょくとくどうめい)や尾三同盟(びさんどうめい)とも呼ばれます。この同盟を機に、元康は家康と名を改めました。

    徳川家と織田家の同盟関係は、清州同盟と呼ばれています。桶狭間の戦いの2年後の1562年、松平元康が清州城に赴き締結されました。織徳同盟(しょくとくどうめい)や尾三同盟(びさんどうめい)とも呼ばれます。この同盟を機に、元康は家康と名を改めました。

  • これで丸根砦跡の中心部の見学はおしまいです。大高方面の二つの事業所には、合計4回の勤務で15年ほどを過ごしましたが、丸根砦や鷲津砦の見学は、今回が初めてでした。

    これで丸根砦跡の中心部の見学はおしまいです。大高方面の二つの事業所には、合計4回の勤務で15年ほどを過ごしましたが、丸根砦や鷲津砦の見学は、今回が初めてでした。

  • 丸根砦跡から見下ろした、麓に向かう階段の光景です。砦は城と違って、居住性は重視されませんでしたから、通路なども簡単な造りだったかも知れません。防御のためには、逆杭などは使用されたかもしれません。

    丸根砦跡から見下ろした、麓に向かう階段の光景です。砦は城と違って、居住性は重視されませんでしたから、通路なども簡単な造りだったかも知れません。防御のためには、逆杭などは使用されたかもしれません。

  • 下ってきた、丸根砦跡の麓から見上げた、砦跡の出入口の階段光景です。この場所以外にも、南側に出入口がありました。

    下ってきた、丸根砦跡の麓から見上げた、砦跡の出入口の階段光景です。この場所以外にも、南側に出入口がありました。

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