2016/02/27 - 2016/02/27
992位(同エリア2166件中)
マローズさん
高知市の三大観光地の一つ、五台山の南東中腹、鳴谷という集落は、竹林寺東参道であるお馬路の起点にあった家(現在中庭に復元された「お馬生家の井戸」があるが、そこは生家ではない)に、よさこいのお馬一家が引っ越しする前、居た集落(そこも生家の里ではない。本当の故郷は旧葉山村)だが、鳴谷とその周辺集落での葬式時、お棺を東上の墓地に運ぶための道がある。それは鳴谷の東の山際道と、新田からお馬路に上がる道とを結ぶ「とどろ」という道。この道は涸れ沢を掘り下げた道で、藩政期から昭和5年まで使用されていた「死者の道」。
その道を探訪する際、県道高知南インター線の坂本橋の東下に駐車したが、その県道32号を挟んだ北向かいの坂本集落には藩政期、楊梅(やまもも)軒茶屋の一つ、半船楼という二階建ての茶屋があった。ここは坂本龍馬が暗殺される約二ヶ月前、最後の帰国時に滞在した場所の一つ。ここで龍馬は藩の要人と極秘に会談し、藩に新式銃一千丁を売却する契約を交わした。尚、集落名の「坂本」は、竹林寺の参道の一つの「坂の本(もと)」にあることから名付けられた。
龍馬の街道本の第一作目製作時の2008年以来となる半船楼跡探訪を終えると、鳴谷の山際の道から、全長80メートル超のとどろを登って新田から上がってくる道に合流。そこの東上の墓地には大野姓の墓が多いが、お馬の独身時の正式な名前は「大野馬」という。お馬の親類らの遺体もとどろを通って運ばれたのだろう。
お馬路に出た後、マンガン鉱山跡の坑道を探してみたのだが、残念ながら発見できなかった。
お馬が慶全(お馬にかんざしを買った僧)や純信に会いに行くために歩いたお馬路を牧野植物園敷地境界まで上った後、国分寺への古い道しるべから「五台山地四国(じしこく=ミニ八十八ヶ所霊場のこと)」霊場道に右折し、牧野富太郎展示館横に出て、階段を下りて梅や早咲きの桜を愛で、敷地境界のロープから東に下り、植物園ゲートと農地ゲートとの間を抜けて道路へ下り立つ。尚、そのゲート脇や国分寺道しるべからの道を辿れば、植物園の入園料を支払わずに済むが、展示館や温室への入館は遠慮すべき。
果樹畑沿いの狭い道路を数分東進すると、右急カーブで道路の向きが反転するが、そこは三叉路になっており、そこを北東に折れて墓地に行けば、お馬と純信が逢引していた「お馬逢引岩」や、お馬の父・大野新平が墓守を務めていた小倉家墓所がある。小倉家墓所から下る道はお馬邸(お馬が純信と脱藩するまで居住していた家)の裏手に通じている。
逢引岩は過去、二度訪れているため、そのまま本道を南西に進み、お馬路に戻る。
お馬路に出た三叉路の東側に往路へショートカットする踏み跡があったので、これを辿って往路に出、途中の別の三叉路からは、大正末に開通したコンクリート小径を下って鳴谷川沿いに出る。
この小径が鳴谷川から離れる地点は、川の上に岩が被さり、洞門風になっているが、そこを抜けると川床は崖となり、下方には砂防ダムが建設されている。ダム工事が始まる前の昭和59年まで、ダムの箇所には落差十数mの「鳴谷滝」があり、五台山の景勝地の一つだった。
とどろ入口前を走る道路の終点に下り立つと、往路、探すことを忘れていた鳴谷の住宅街にあるという「かあかあ様」と呼ばれる岩を探すことにした。
岩らしい岩が見当たらないので住民に尋ねると、それは塀と一体化していた。かつて、カラスがこの岩の上に止まり、カァカァと鳴いていたとのことだが、千年以上前、五台山が大島という離島だった頃、かあかあ様は波打ち際にあったという。
尚、藩政時代初期の絵図でも五台山を離島として描いたものがあったと記憶しているが、その頃、鳴谷集落は既に陸地になっていた。
車に戻ると五台山へと移動した。五台山の中腹や山上駐車場その他に多くの野良猫がいるとのことだったが、三ノ台駐車場周辺や山上駐車場にも全く見当たらなかった。観光客のために、自治体が一斉捕獲したのだろうか。
三ノ台駐車場の南西の分岐に伊達政宗の末子で奥州一ノ関の城主でもあった伊達兵部宗勝の墓の道標が立っていたので寄ってみた。
五台山山上一帯にも猫の姿は見えず、竹林寺西門近くの道路を歩いていた猫は警戒心が強かったので帰ろうとしたところ、五台山展望台バス停に一匹のドラ猫が現れた。近寄ると体を摺り寄せてきたので、餌を与えた。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通手段
- 自家用車
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半船楼があった時代、ここには竹内氏が経営する二軒の旅籠があり、竹林寺参拝客で賑わっていた。
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半船楼時代、竹内旅籠の路地を挟んだ東隣には菊屋という魚屋があった。
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工事中のバイパス高架の橋脚西側の県道沿いが半船楼跡。戦後は天理教布教所になっていたが、'00年代に入り、バイパス工事のため、周辺一帯の民家が立ち退かされた。
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土佐西国三十三ヶ所観音霊場第17番観音磯ノ堂。詠歌に「法の水弘く流れて鳴谷の ひびきも清し 磯の砂子地」とあるように、千年以上前、堂の下は磯だった。昔、その磯の側の砂地から観音像が出土したため、ここに堂宇を建立することになったという。その観音像は神亀時代(724〜729)のものと言われている。
現在の堂宇は昭和2年に改築されたもの。
このやや手前から、かあかあ様と一体化した塀に下りることができる。但し、道路下は石段がない。 -
とどろの入口から少し入った所。上に歩道の橋が架かる。
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とどろに現れる二つ目の橋。道には土砂が堆積しているため、四つん這いでないと抜けられない。
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とどろは二つ目の橋を過ぎると、竹の倒木だらけで通りにくい。
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かなり古い大野家先祖之墓
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往路のお馬路と帰路の道路が合流する三叉路に立つ大木
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五台山地四国第55番石仏
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お馬路の牧野植物園敷地境界に立つ、国分寺への道しるべ
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板根になっているツブラジイ
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地四国第59番石仏
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牧野富太郎展示館北の広場に立つ肉食恐竜像
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早咲きの桜
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花越しに鉢伏山西の140m峰を望見する
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一瞬桜かと思ったが、ズームにすると梅だった
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地四国第79番石仏が鎮座する巨岩
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洞門風になった鳴谷川
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洞門の出口側
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鳴谷滝跡上部の滝状になった流れ
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かあかあ様
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観音磯ノ堂南からかあかあ様(写真中央)を抱合した塀を見下ろす
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伊達兵部宗勝墓。伊達綱宗の嗣子の後見人に宗勝と甥の田村宗良がなり、老臣・原田甲斐が補佐役となったが、所領の境界争いを幕府に提訴中、原田は殿中で国老・伊達宗重を斬ってしまい、自らも殺害されてしまう。
幕府はこれを宗勝の執政の悪さと断じ、寛文11年(1679)、宗勝は土佐に配流されてしまう。
宗勝は高知城下西方、新屋敷の田畑を埋め立てて建設した屋敷に幽閉されたが、9年後、58才で没した。 -
五台山展望台
五台山公園 自然・景勝地
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竹林寺の仏陀瞑想像
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竹林寺五重塔。昭和55年12月に完成。
竹林寺 寺・神社・教会
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明治32年、台風によって倒壊した三重塔跡礎石群
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五台山山上駐車場からの夜景
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餌を食べる五台山猫
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お帰りはあちらです
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羞恥心のない猫
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お馬の五台山周辺史跡、本当の故郷である旧葉山村の史跡や伝承地、東京へ引越す前まで居住していた須崎市の邸跡、半船楼跡での龍馬の行動等を探訪コース図入りで解説。
画像は登山雑誌「岳人」の新刊コーナーでの紹介記事。
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