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ベトナムハノイ旧市街以外の街歩きを。<br />初日4日目5日目の順に。<br />(2日目ハロン湾3日目旧市街地歩きは、下記のように、公開させて頂きました。<br />2日目こちらです。⇒http://4travel.jp/travelogue/11096416<br />3日目こちらです⇒http://4travel.jp/travelogue/11096839)<br /><br /><br />ベトナム漢字導入は、一説によれば、<br />3世紀に遡る。<br />「士えん」という者が漢字を導入したという。<br />ベトナムは、中国・日本についで第3の漢字国でもある。<br />通常は、後述のクォツク・グー(国語)を使用するが、<br />漢字が表面に現れるのは、日本で言う冠婚葬祭のときだという。<br />(韓国もそうであるが、15世紀ハングル文字の発明により<br />かなり漢字を使用することが激減した)<br /><br />また、漢字使用国で忘れてはならないのは、<br />台湾と香港である。<br />ことによったら世界中で「本来の姿の漢字」<br />をそのまま使用し続けているのは台湾と香港だけかもしれない。<br />なぜなら、ベトナムは歴史的には漢字使用を禁止されたこともあり、<br />韓国はナショナリズムの観点から教育体系の端へ漢字を追いやり、<br />日本は米軍占領下で漢字の簡略化を推進し、<br />中国に至っては略字の発明に忙しかったからである。<br /><br />ベトナム歴史を概観すると、<br />中国支配千年を経て、独立後李朝・陳朝・黎朝と続くが、<br />黎朝時代に一つの大きな文字革命が起こる。<br />17世紀フランス人宣教師、アレクサンドル・ドゥーロードが、<br />1651年、漢字をローマ字表記する後年所謂、クォツク・グ(国語)<br />と呼ばれるものを考案したからである。<br /><br />そして、19世紀後半フランス植民地となったあと、<br />科挙試験でも、このローマ字(ラテン文字も取り入れてある)<br />表記での試験となり、<br />漢字使用は、フランス当局から禁じられる運命を辿った。<br />このローマ字表記のクォツク・グ(国語)は、<br />当時文字(漢字)を読めない庶民の間にも広まっていくこととなった。<br /><br />これを、逆手に取って、歓迎したのが、他ならぬ<br />ホーチミン(胡志明)だった。<br /><br />ホーチミン(胡志明)<br />本名は、グエン(阮)・シン・クン、1890年生まれ。<br />1911年21歳時ベトナムを出て再び戻るのは1941年、<br />30年間海外暮らし。<br />ホーチミンの名は、1942年中国に潜入するため中国人を<br />装おうために作った名だと言われる。<br /><br />他に、グエン・アイ・クォツク(阮愛国)が極めて有名である。<br />1931年には、香港で英国警察に逮捕され、死刑を宣告されるが、<br />ホーチミンを救い出したのは、英国の弁護士フランク・ローズビー<br />だった。ローズビーこそ、ホーチミン最大の恩人かもしれない。<br /><br />1969年9月2日死去79歳。<br />遺言は、「遺体は焼いて灰にして、それを全国各地に<br />撒いてくれ」というものだったが、彼の意志に反して<br />そうはならなかった。<br /><br />この写真の右手のバーディン広場にて、<br />1945年9月2日にベトナム独立宣言のための有名な演説を行った。<br />しかし、その後フランスはこれを無視。周知のようにインドシナ<br />対フランス戦争に陥っていくこととなる。<br />(1945年9月2日は、ミズーリ号上で日本が正式に降伏文書に<br />調印した日でもある。これにより第2次世界大戦は完全に終結した。)<br /><br />1990年代から、ベトナムは汚職でも悪名が高くなっている。<br />特に2006年PMU18という汚職事件は、ベトナム国内では、<br />激震をもたらした。<br /><br />ベトナムは、アジアの国では珍しく公衆トイレは、有料である。<br />フランス植民地だった影響だと思われる。<br /><br /><br />動画ベトナムハノイ<br />グエンタイホック通りとハンボン通りと<br />ディエンビエンフー通りの交差点の様子。<br />横断するのにも一番勇気のいる交差点だった。<br />https://www.youtube.com/watch?v=zRpMGxQT8Ls<br /><br />

ベトナムハノイ街歩き(旧市街以外後篇全部)

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2016/01/13 - 2016/01/17

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わき

わきさん

ベトナムハノイ旧市街以外の街歩きを。
初日4日目5日目の順に。
(2日目ハロン湾3日目旧市街地歩きは、下記のように、公開させて頂きました。
2日目こちらです。⇒http://4travel.jp/travelogue/11096416
3日目こちらです⇒http://4travel.jp/travelogue/11096839


ベトナム漢字導入は、一説によれば、
3世紀に遡る。
「士えん」という者が漢字を導入したという。
ベトナムは、中国・日本についで第3の漢字国でもある。
通常は、後述のクォツク・グー(国語)を使用するが、
漢字が表面に現れるのは、日本で言う冠婚葬祭のときだという。
(韓国もそうであるが、15世紀ハングル文字の発明により
かなり漢字を使用することが激減した)

また、漢字使用国で忘れてはならないのは、
台湾と香港である。
ことによったら世界中で「本来の姿の漢字」
をそのまま使用し続けているのは台湾と香港だけかもしれない。
なぜなら、ベトナムは歴史的には漢字使用を禁止されたこともあり、
韓国はナショナリズムの観点から教育体系の端へ漢字を追いやり、
日本は米軍占領下で漢字の簡略化を推進し、
中国に至っては略字の発明に忙しかったからである。

ベトナム歴史を概観すると、
中国支配千年を経て、独立後李朝・陳朝・黎朝と続くが、
黎朝時代に一つの大きな文字革命が起こる。
17世紀フランス人宣教師、アレクサンドル・ドゥーロードが、
1651年、漢字をローマ字表記する後年所謂、クォツク・グ(国語)
と呼ばれるものを考案したからである。

そして、19世紀後半フランス植民地となったあと、
科挙試験でも、このローマ字(ラテン文字も取り入れてある)
表記での試験となり、
漢字使用は、フランス当局から禁じられる運命を辿った。
このローマ字表記のクォツク・グ(国語)は、
当時文字(漢字)を読めない庶民の間にも広まっていくこととなった。

これを、逆手に取って、歓迎したのが、他ならぬ
ホーチミン(胡志明)だった。

ホーチミン(胡志明)
本名は、グエン(阮)・シン・クン、1890年生まれ。
1911年21歳時ベトナムを出て再び戻るのは1941年、
30年間海外暮らし。
ホーチミンの名は、1942年中国に潜入するため中国人を
装おうために作った名だと言われる。

他に、グエン・アイ・クォツク(阮愛国)が極めて有名である。
1931年には、香港で英国警察に逮捕され、死刑を宣告されるが、
ホーチミンを救い出したのは、英国の弁護士フランク・ローズビー
だった。ローズビーこそ、ホーチミン最大の恩人かもしれない。

1969年9月2日死去79歳。
遺言は、「遺体は焼いて灰にして、それを全国各地に
撒いてくれ」というものだったが、彼の意志に反して
そうはならなかった。

この写真の右手のバーディン広場にて、
1945年9月2日にベトナム独立宣言のための有名な演説を行った。
しかし、その後フランスはこれを無視。周知のようにインドシナ
対フランス戦争に陥っていくこととなる。
(1945年9月2日は、ミズーリ号上で日本が正式に降伏文書に
調印した日でもある。これにより第2次世界大戦は完全に終結した。)

1990年代から、ベトナムは汚職でも悪名が高くなっている。
特に2006年PMU18という汚職事件は、ベトナム国内では、
激震をもたらした。

ベトナムは、アジアの国では珍しく公衆トイレは、有料である。
フランス植民地だった影響だと思われる。


動画ベトナムハノイ
グエンタイホック通りとハンボン通りと
ディエンビエンフー通りの交差点の様子。
横断するのにも一番勇気のいる交差点だった。
https://www.youtube.com/watch?v=zRpMGxQT8Ls

旅行の満足度
4.0
同行者
友人
交通手段
観光バス タクシー 徒歩
  • ハノイデウーホテルの銘板を斜めより。<br />韓国系デウーホテルであるが、<br />韓国とベトナムの関係を思い起こすと、<br />どうしても、1960年代の出来事が気になる。<br />所謂ライダイハン問題その他のことである。<br />ベトナム戦争時、韓国兵とベトナム女性との間に<br />ある強制行為(直接的な表現は回避します)の結果<br />生まれた子供達のことである。<br />その数実数は、不明だが、2千人から3万人と幅が大きい。<br /><br />韓国完全民主化された後、<br />1999年ハンギョレ社のライダイハン掲載その他の記事は<br />韓国社会のみならず内外に衝撃を与えた。<br />人権も何もかも、即ち、生命・身体・自由・名誉・財産などの、<br />人間が固有に有している生活保護法益に丸ごと壊滅的打撃を与え、<br />取り返しのつかぬ結果を生じさせるのが<br />戦争である。絶対にあってはならぬことであろうと思う。<br /><br />それを乗り越えて、二国間は今は表面上は平静のようだ。

    ハノイデウーホテルの銘板を斜めより。
    韓国系デウーホテルであるが、
    韓国とベトナムの関係を思い起こすと、
    どうしても、1960年代の出来事が気になる。
    所謂ライダイハン問題その他のことである。
    ベトナム戦争時、韓国兵とベトナム女性との間に
    ある強制行為(直接的な表現は回避します)の結果
    生まれた子供達のことである。
    その数実数は、不明だが、2千人から3万人と幅が大きい。

    韓国完全民主化された後、
    1999年ハンギョレ社のライダイハン掲載その他の記事は
    韓国社会のみならず内外に衝撃を与えた。
    人権も何もかも、即ち、生命・身体・自由・名誉・財産などの、
    人間が固有に有している生活保護法益に丸ごと壊滅的打撃を与え、
    取り返しのつかぬ結果を生じさせるのが
    戦争である。絶対にあってはならぬことであろうと思う。

    それを乗り越えて、二国間は今は表面上は平静のようだ。

  • デウーホテルを違った角度から撮影。<br />朝食は、バイキング、毎日フォー(米で作ったうどん)<br />などを食べた、鶏肉入りはフォーガー、牛肉入りはフォーボー。<br /><br />右側高層ビルは、ロッテセンター百貨店<br />地階は、ロッテマートのスーパーだった。<br />毎日買い出しに出かけた。<br />その都度道路横断に決意が必要だった。

    デウーホテルを違った角度から撮影。
    朝食は、バイキング、毎日フォー(米で作ったうどん)
    などを食べた、鶏肉入りはフォーガー、牛肉入りはフォーボー。

    右側高層ビルは、ロッテセンター百貨店
    地階は、ロッテマートのスーパーだった。
    毎日買い出しに出かけた。
    その都度道路横断に決意が必要だった。

  • 13日初日、ホテルチェックインは、午後3時過ぎ。<br />ここから北西、距離にして約2kmのところに、<br />ベトナム民族学博物館があるので、徒歩にて<br />行ってみた。普通に歩けば20分もかからぬが、<br />交差点毎にバイクの洪水で、交通秩序も崩壊に近く、<br />交差点渡るたびにかなりの神経を使ったので、<br />到着するまで、50分近くもかかってしまった。<br /><br /><br /><br /><br /><br />https://www.youtube.com/watch?v=1cbxqBpmm-w<br />ベトナム民族学博物館斜め前の交差点より、<br />横断歩道の信号標識もない。<br />ここをどうやって横断するか、決断がいった。

    13日初日、ホテルチェックインは、午後3時過ぎ。
    ここから北西、距離にして約2kmのところに、
    ベトナム民族学博物館があるので、徒歩にて
    行ってみた。普通に歩けば20分もかからぬが、
    交差点毎にバイクの洪水で、交通秩序も崩壊に近く、
    交差点渡るたびにかなりの神経を使ったので、
    到着するまで、50分近くもかかってしまった。





    https://www.youtube.com/watch?v=1cbxqBpmm-w
    ベトナム民族学博物館斜め前の交差点より、
    横断歩道の信号標識もない。
    ここをどうやって横断するか、決断がいった。

  • 民族学博物館チケット。<br />4万ドン(ドンの漢字表記は銅)

    民族学博物館チケット。
    4万ドン(ドンの漢字表記は銅)

  • 博物館の正面玄関前<br />南北に細長い国ベトナム、民族は54に上る。<br />9割弱は、キン族であるが、<br />その他53の部族に分かれている。<br />そのため色々な国内問題を抱える。<br />ここ数十年間、少数民族は多数派キン族からの<br />様々な虐げを受けたようだ。<br />2000年代に入って、山岳少数民族の反政府デモや、<br />散発的な暴動さえ起こった。<br />一言で言えば、抑圧の移譲とでもいう現象から<br />起こっているようである。<br />即ち、貧しいキン族の農民が、更に弱者の少数民族を<br />差別化し、虐げるという現象である。

    博物館の正面玄関前
    南北に細長い国ベトナム、民族は54に上る。
    9割弱は、キン族であるが、
    その他53の部族に分かれている。
    そのため色々な国内問題を抱える。
    ここ数十年間、少数民族は多数派キン族からの
    様々な虐げを受けたようだ。
    2000年代に入って、山岳少数民族の反政府デモや、
    散発的な暴動さえ起こった。
    一言で言えば、抑圧の移譲とでもいう現象から
    起こっているようである。
    即ち、貧しいキン族の農民が、更に弱者の少数民族を
    差別化し、虐げるという現象である。

  • 館内に入ると、右側に受付があり、<br />日本語のパンフがあったので、それをもらった。

    館内に入ると、右側に受付があり、
    日本語のパンフがあったので、それをもらった。

  • 博物館全体図

    博物館全体図

  • パンフのアクセスマップ

    パンフのアクセスマップ

  • 54の民族の説明の一部

    54の民族の説明の一部

  • 山岳少数民族の建物 家

    山岳少数民族の建物 家

  • 同上

    同上

  • 少数民族の住まい、<br />ビルマ語グループ、ハーニー族の住居。<br /><br />このあと、暗くなってきたので、<br />(午後5時半過ぎには日没だった)<br />地元レストランに入って夕食を食べた。<br />ビールはハノイビールを飲んだ。<br />ビールの値段は、2万ドンだった。

    少数民族の住まい、
    ビルマ語グループ、ハーニー族の住居。

    このあと、暗くなってきたので、
    (午後5時半過ぎには日没だった)
    地元レストランに入って夕食を食べた。
    ビールはハノイビールを飲んだ。
    ビールの値段は、2万ドンだった。

  • ここからは、4日目。<br />すなわち、1月16日である。<br />以下3枚の地図<br />どう歩いてどこへ行くか決めた。<br />まず、鎮国寺へ、<br />ホテル正面玄関にて<br />タクシーに乗る。<br />鎮国寺へ、15分ほどで、到着。<br />タクシー代は、72000銅(ドン)だった。<br />日本円360円といったところ。<br />10万ドン札出したら、<br />運転手は、きちんと2万8千ドンのお釣りをくれた。<br />カームオン(ありがとう)と言って降りる。<br />この日は、昨日来の雨だった。

    ここからは、4日目。
    すなわち、1月16日である。
    以下3枚の地図
    どう歩いてどこへ行くか決めた。
    まず、鎮国寺へ、
    ホテル正面玄関にて
    タクシーに乗る。
    鎮国寺へ、15分ほどで、到着。
    タクシー代は、72000銅(ドン)だった。
    日本円360円といったところ。
    10万ドン札出したら、
    運転手は、きちんと2万8千ドンのお釣りをくれた。
    カームオン(ありがとう)と言って降りる。
    この日は、昨日来の雨だった。

  • ごめんなさい。<br />きたなく汚れて書込などで、<br />いっぱいであるが、<br />上記地図とこのページを頼りに、<br />歩いて行った。<br />上下3枚の地図で、本日訪問する箇所は<br />網羅されていた。

    ごめんなさい。
    きたなく汚れて書込などで、
    いっぱいであるが、
    上記地図とこのページを頼りに、
    歩いて行った。
    上下3枚の地図で、本日訪問する箇所は
    網羅されていた。

  • この地図も使用したが、<br />使い勝手があまりパッとしなかった。

    この地図も使用したが、
    使い勝手があまりパッとしなかった。

  • 鎮国(チャンコック)寺の塔を外側より。<br />ハノイ最古の仏教寺院である。6世紀に遡る。<br />元は、開国寺といった。そして、安国寺と改名され、<br />17世紀に現在の鎮国寺と命名された。<br />この頃、中国から曹洞宗がベトナムに伝わり、<br />その拠点となった寺でもある。<br />鎮国寺は、タイ湖に突き出た小島金魚(キムグー)島にある。

    鎮国(チャンコック)寺の塔を外側より。
    ハノイ最古の仏教寺院である。6世紀に遡る。
    元は、開国寺といった。そして、安国寺と改名され、
    17世紀に現在の鎮国寺と命名された。
    この頃、中国から曹洞宗がベトナムに伝わり、
    その拠点となった寺でもある。
    鎮国寺は、タイ湖に突き出た小島金魚(キムグー)島にある。

  • 鎮国寺の正面<br />この日は、小雨だった。<br />タクシー降りるとすぐに現地の女性売り子が、<br />傘はどうですか。<br />当方は、ごめんなさい、とリュックサイドポケットから<br />傘を取り出した。

    鎮国寺の正面
    この日は、小雨だった。
    タクシー降りるとすぐに現地の女性売り子が、
    傘はどうですか。
    当方は、ごめんなさい、とリュックサイドポケットから
    傘を取り出した。

  • 大写しにて

    大写しにて

  • 左の入口部分

    左の入口部分

  • 右の入口部分

    右の入口部分

  • 誰も居ないところを更に一枚

    誰も居ないところを更に一枚

  • 仏塔である

    仏塔である

  • 仏塔構図を違う角度から

    仏塔構図を違う角度から

  • さらに、仏塔を

    さらに、仏塔を

  • 大きく拡大して仏塔を

    大きく拡大して仏塔を

  • 更に拡大

    更に拡大

  • もっと拡大

    もっと拡大

  • 間に、仏さんたちが。

    間に、仏さんたちが。

  • 更にもう一枚

    更にもう一枚

  • ダメ押しでもう一枚撮影

    ダメ押しでもう一枚撮影

  • 違う構図で、墓塔を<br />手前仏塔

    違う構図で、墓塔を
    手前仏塔

  • 内部から見たもの<br />鎮国寺の入口は遠方に見える

    内部から見たもの
    鎮国寺の入口は遠方に見える

  • ベトナムの英雄、<br />チャン・フン・ダォ(陳興道)<br />三蔵法師<br />三国志蜀の猛将関羽雲長<br />などを祀っている。<br />特に、チャン・フン・ダォ(陳興道)は、<br />13世紀後半、当時の元寇(ベトナムは、3度元寇があった)<br />を、バクダン(白藤)江の戦いで、元を撃退したことで英雄となった。<br /><br />因みに、元の当時の旗印は、日の丸である。<br />蒙古襲来絵詞には、元の船が日の丸を使用していた<br />れっきとした証拠がある。<br />日本だけが、日の丸を使用していたというのは、<br />誤解があろう。<br />日の丸が、対外的に日本で正式に登場するのは、<br />江戸時代の幕末期、日米和親条約時、阿部正弘政権のときに、<br />これからは、「日の丸」を対外的にも使用するという政策が<br />決められてからである。<br /><br />写真は、達磨(奥中央)<br />と歴代の住職らしい。

    ベトナムの英雄、
    チャン・フン・ダォ(陳興道)
    三蔵法師
    三国志蜀の猛将関羽雲長
    などを祀っている。
    特に、チャン・フン・ダォ(陳興道)は、
    13世紀後半、当時の元寇(ベトナムは、3度元寇があった)
    を、バクダン(白藤)江の戦いで、元を撃退したことで英雄となった。

    因みに、元の当時の旗印は、日の丸である。
    蒙古襲来絵詞には、元の船が日の丸を使用していた
    れっきとした証拠がある。
    日本だけが、日の丸を使用していたというのは、
    誤解があろう。
    日の丸が、対外的に日本で正式に登場するのは、
    江戸時代の幕末期、日米和親条約時、阿部正弘政権のときに、
    これからは、「日の丸」を対外的にも使用するという政策が
    決められてからである。

    写真は、達磨(奥中央)
    と歴代の住職らしい。

  • 同上

    同上

  • 仏国から来た団体客と<br />一緒になった。<br />ガイドは、フランス語、<br />同行の株屋氏によれば、<br />完璧なフランス語や、<br />ということだった。<br /><br />https://www.youtube.com/watch?v=GlgoRj-Ilss<br />動画、鎮国寺にて。↑

    仏国から来た団体客と
    一緒になった。
    ガイドは、フランス語、
    同行の株屋氏によれば、
    完璧なフランス語や、
    ということだった。

    https://www.youtube.com/watch?v=GlgoRj-Ilss
    動画、鎮国寺にて。↑

  • 墓塔だと思われるが?

    墓塔だと思われるが?

  • 大きく一枚

    大きく一枚

  • こちらは、間違いなく墓塔である。

    こちらは、間違いなく墓塔である。

  • ベトナム仏教寺院でよく見られる<br />左は、ヌイノンボ(仮山)

    ベトナム仏教寺院でよく見られる
    左は、ヌイノンボ(仮山)

  • ヌイノンボ(左)と<br />仏塔を

    ヌイノンボ(左)と
    仏塔を

  • 石碑1

    石碑1

  • 石碑を拡大

    石碑を拡大

  • 同じく拡大して

    同じく拡大して

  • 全体を

    全体を

  • 鎮国寺本堂の屋根部分

    鎮国寺本堂の屋根部分

  • 本堂を。<br />小雨降る寒い日だった。

    本堂を。
    小雨降る寒い日だった。

  • 遠目に仏塔を

    遠目に仏塔を

  • 椰子などを交えて一枚

    椰子などを交えて一枚

  • 鎮武観にやってきた。<br />道教寺院である。<br />鎮国寺より、徒歩にて約5分くらいのところにある。

    鎮武観にやってきた。
    道教寺院である。
    鎮国寺より、徒歩にて約5分くらいのところにある。

  • 鎮武観正面

    鎮武観正面

  • 拡大して

    拡大して

  • さらに拡大したが<br />余りよくない構図

    さらに拡大したが
    余りよくない構図

  • 北敵(中国)から国を守った玄天鎮武神を祀る。

    北敵(中国)から国を守った玄天鎮武神を祀る。

  • 同上

    同上

  • 自分を一枚。

    自分を一枚。

  • さらに歩いて<br />北門教会へやってきた。<br />南側側面。<br />手前は、マリア像。<br />旧ハノイ城の北門にあたる位置にあるので、<br />この名称となった。

    さらに歩いて
    北門教会へやってきた。
    南側側面。
    手前は、マリア像。
    旧ハノイ城の北門にあたる位置にあるので、
    この名称となった。

  • 同上

    同上

  • 左は、鐘楼。

    左は、鐘楼。

  • 遠目に撮影

    遠目に撮影

  • 鐘楼部分

    鐘楼部分

  • さらに一枚

    さらに一枚

  • ここを左に行けばバーディン広場である。

    ここを左に行けばバーディン広場である。

  • バーディン広場到着。

    バーディン広場到着。

  • ホーチミン廟。

    ホーチミン廟。

  • 同上である。<br />バーディン広場側より撮影。

    同上である。
    バーディン広場側より撮影。

  • こちらは、遠方にベトナム外務省だと思われる

    こちらは、遠方にベトナム外務省だと思われる

  • ホーチミン廟

    ホーチミン廟

  • 同じく右も入るように

    同じく右も入るように

  • 二人の衛兵?が佇立している

    二人の衛兵?が佇立している

  • 左がホーチミン廟、<br />右はバーディン広場

    左がホーチミン廟、
    右はバーディン広場

  • 違う角度から

    違う角度から

  • さらに一枚

    さらに一枚

  • 一柱寺にやってきた。<br />正式な名称は、延祐寺の楼閣である。<br />1049年建立。<br />一本柱の部分は、蓮花台。

    一柱寺にやってきた。
    正式な名称は、延祐寺の楼閣である。
    1049年建立。
    一本柱の部分は、蓮花台。

  • 真後ろから一柱寺撮影

    真後ろから一柱寺撮影

  • その屋根部分を

    その屋根部分を

  • 違った角度で

    違った角度で

  • 一本柱を拡大してみた

    一本柱を拡大してみた

  • 違う角度から、更に

    違う角度から、更に

  • 左横からも撮影<br />柱は<br />直径1,2メートル<br />高さ4メートル

    左横からも撮影
    柱は
    直径1,2メートル
    高さ4メートル

  • 斜め前より撮影

    斜め前より撮影

  • 正面はこういうふうになっていた。

    正面はこういうふうになっていた。

  • 後ろの樹木は、菩提樹

    後ろの樹木は、菩提樹

  • 同上である。

    同上である。

  • 八本手の観音像が飾られていた。

    八本手の観音像が飾られていた。

  • ホーチミン博物館<br />正面

    ホーチミン博物館
    正面

  • 違う角度で<br />ホーチミン博物館外観を

    違う角度で
    ホーチミン博物館外観を

  • やっと文廟に到着した。<br />ヴァンミュウ(文廟)<br />李朝第3代の李聖宗(リータイントン)<br />により、1070年建立。

    やっと文廟に到着した。
    ヴァンミュウ(文廟)
    李朝第3代の李聖宗(リータイントン)
    により、1070年建立。

  • 文廟は、5つの区画に分かれていた。<br />これは、正面門文廟門である。<br />この真下にチケット売り場があった。

    文廟は、5つの区画に分かれていた。
    これは、正面門文廟門である。
    この真下にチケット売り場があった。

  • 入り口部分を大きく

    入り口部分を大きく

  • 正面門入り口の上部

    正面門入り口の上部

  • 大中門。朱塗りが印象的である。<br />屋根には、一対の鯉が尻尾を上に<br />跳ね上げている。<br />中国の後漢書に、黄河に三段の瀑布激流があり、<br />これを昇りきれば龍になると言われた。<br />これを昇った魚が鯉で、龍になったと言われる。<br />そのため龍門とも言われ、これが後々<br />「登竜門」の言葉の謂れとなったようだ。

    大中門。朱塗りが印象的である。
    屋根には、一対の鯉が尻尾を上に
    跳ね上げている。
    中国の後漢書に、黄河に三段の瀑布激流があり、
    これを昇りきれば龍になると言われた。
    これを昇った魚が鯉で、龍になったと言われる。
    そのため龍門とも言われ、これが後々
    「登竜門」の言葉の謂れとなったようだ。

  • 大中門をくぐると、漢字6文字が<br />2列に並んでいた。<br />

    大中門をくぐると、漢字6文字が
    2列に並んでいた。

  • それぞれの文字を1字づつ撮影

    それぞれの文字を1字づつ撮影

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 同上。<br />中国の影響の深さが窺われる。

    同上。
    中国の影響の深さが窺われる。

  • 大学の卒業生達の姿が現れた。<br />文廟は、儒教の孔子を祀っているはずだが、<br />いつしか勉学の神様にもなっているようだ。

    大学の卒業生達の姿が現れた。
    文廟は、儒教の孔子を祀っているはずだが、
    いつしか勉学の神様にもなっているようだ。

  • さらに進むと、<br />奎文閣があった。<br />ベトナムを代表する建築形式の建物らしい。

    さらに進むと、
    奎文閣があった。
    ベトナムを代表する建築形式の建物らしい。

  • ちらほら、女子学生の姿も見えてきた。<br />因みに、ベトナムの卒業シーズンは、<br />3月ではなく、1月6月9月と分かれているらしい。<br />ベトナム教育制度、<br />5・4・3そして3〜6(小学・中学・高校・大学の順に)制である。

    ちらほら、女子学生の姿も見えてきた。
    因みに、ベトナムの卒業シーズンは、
    3月ではなく、1月6月9月と分かれているらしい。
    ベトナム教育制度、
    5・4・3そして3〜6(小学・中学・高校・大学の順に)制である。

  • 彼女たちのマントの下は、<br />鮮やかすぎるアオザイだった。<br />

    彼女たちのマントの下は、
    鮮やかすぎるアオザイだった。

  • 奎文閣をくぐると、<br />天光(ティエンクエン)池があった。<br />その横は、石碑。

    奎文閣をくぐると、
    天光(ティエンクエン)池があった。
    その横は、石碑。

  • 池の両側に、<br />82の石碑がある。<br />進士題名碑というそうだ。<br />科挙の合格者。

    池の両側に、
    82の石碑がある。
    進士題名碑というそうだ。
    科挙の合格者。

  • 進士題名碑、<br />科挙試験の合格者達の名が刻んである。

    進士題名碑、
    科挙試験の合格者達の名が刻んである。

  • 同上である。

    同上である。

  • 同じく。<br />亀跌(きふ)に乗せられて置かれてあった。<br />ベトナムでは亀に関する言い伝えが多いと聞く。<br />亀は、龍の仮の姿で、神聖なものと信じられている。<br />やはり、中国の影響か、台湾でも同じような<br />ものを、チーカンロウ(赤嵌楼)でも見た。

    同じく。
    亀跌(きふ)に乗せられて置かれてあった。
    ベトナムでは亀に関する言い伝えが多いと聞く。
    亀は、龍の仮の姿で、神聖なものと信じられている。
    やはり、中国の影響か、台湾でも同じような
    ものを、チーカンロウ(赤嵌楼)でも見た。

  • 奎文閣を違った角度より撮影。

    奎文閣を違った角度より撮影。

  • 卒業記念撮影?

    卒業記念撮影?

  • ティエンクエン(天光)池が写っている。

    ティエンクエン(天光)池が写っている。

  • 進士題名碑、が建物の中に<br />雨で濡れぬように、厳かに置かれていた。

    進士題名碑、が建物の中に
    雨で濡れぬように、厳かに置かれていた。

  • 同上である。

    同上である。

  • 進士題名碑、を置いてある建物の左側

    進士題名碑、を置いてある建物の左側

  • 進士題名碑、を置いてある建物の右側

    進士題名碑、を置いてある建物の右側

  • 獅子の姿もこのような形で

    獅子の姿もこのような形で

  • 松の大きな盆栽?

    松の大きな盆栽?

  • ここから先が、<br />いよいよ文廟である。

    ここから先が、
    いよいよ文廟である。

  • 少しづつ近づいてきた。

    少しづつ近づいてきた。

  • 中に入って見た

    中に入って見た

  • 横手にあった建物

    横手にあった建物

  • 屋根上には龍が

    屋根上には龍が

  • 門をくぐりながらの撮影

    門をくぐりながらの撮影

  • 屋根の龍を拡大

    屋根の龍を拡大

  • 同上

    同上

  • 右より、子思、顔子<br />孔子の弟子である。

    右より、子思、顔子
    孔子の弟子である。

  • 左より、孟子、曽子<br />やはり孔子の弟子である。

    左より、孟子、曽子
    やはり孔子の弟子である。

  • 孔子その人

    孔子その人

  • 孔子の下部分を

    孔子の下部分を

  • 孔子の弟子、<br />有名な孟子である。

    孔子の弟子、
    有名な孟子である。

  • 黄金の亀。<br />ガラスケースに収められていた。

    黄金の亀。
    ガラスケースに収められていた。

  • 孔子の別名<br />萬世師表

    孔子の別名
    萬世師表

  • くぐり門の右の漢字を

    くぐり門の右の漢字を

  • 拝堂の祭壇、<br />きちんと撮影できていない。<br />半分だけとは、トホホ。

    拝堂の祭壇、
    きちんと撮影できていない。
    半分だけとは、トホホ。

  • 女子学生たちの華やかな姿があちこちで見られた<br />片手に持っているのは、卒業証書みたいだ。

    女子学生たちの華やかな姿があちこちで見られた
    片手に持っているのは、卒業証書みたいだ。

  • マントに学帽姿がベトナムでは、<br />卒業の時のお決まりの儀式

    マントに学帽姿がベトナムでは、
    卒業の時のお決まりの儀式

  • 進士題名碑。<br />科挙の合格者。<br />大昔の合格者。<br />写真で壁に飾られていた。

    進士題名碑。
    科挙の合格者。
    大昔の合格者。
    写真で壁に飾られていた。

  • 同上

    同上

  • 同上、拡大してみた。

    同上、拡大してみた。

  • 左横には、ご覧の太鼓

    左横には、ご覧の太鼓

  • 右横には、鐘堂

    右横には、鐘堂

  • 国子監ーベトナム最古の大学の<br />教師だった朱文安(チュウ・ヴァン・アン)

    国子監ーベトナム最古の大学の
    教師だった朱文安(チュウ・ヴァン・アン)

  • 国子監ーベトナム最古の大学の<br />教師だった朱文安(チュウ・ヴァン・アン)<br />その人である。

    国子監ーベトナム最古の大学の
    教師だった朱文安(チュウ・ヴァン・アン)
    その人である。

  • 全体像を

    全体像を

  • 鐘堂をさらに一枚

    鐘堂をさらに一枚

  • 大きく拡大して

    大きく拡大して

  • 大太鼓

    大太鼓

  • さらに一枚

    さらに一枚

  • 違う角度より大太鼓を

    違う角度より大太鼓を

  • 男女学生たちの記念撮影風景

    男女学生たちの記念撮影風景

  • 文廟のあと、<br />クオックトウキアム通りの出口まで、出て<br />グエンタイホック通りまで戻り、デイエンビエンフー通りとの<br />交差点まで歩き、ハンボン通りを歩き始めた。<br />この後だんだん暗くなり始めて、<br />もう暗くなってきたので、フーゾン通りまで歩き<br />マダムヒエンにて、夕食を摂った。<br />マダムヒエンの正面玄関口。

    文廟のあと、
    クオックトウキアム通りの出口まで、出て
    グエンタイホック通りまで戻り、デイエンビエンフー通りとの
    交差点まで歩き、ハンボン通りを歩き始めた。
    この後だんだん暗くなり始めて、
    もう暗くなってきたので、フーゾン通りまで歩き
    マダムヒエンにて、夕食を摂った。
    マダムヒエンの正面玄関口。

  • ちょっと違う角度からマダムヒエンの入り口を。<br />ここまで、すべて徒歩だった。<br />2階に通されて、少しばかりホッとした夕食時間を<br />過ごす。<br />ハノイビール・333(バーバーバー)も<br />52000銅(ドン)。<br />先に、ビールを二人で4本ほど飲んで、<br />それから食事をした。<br />ワインのボトルまで、飲んでかなりいい気分になってしまった。

    ちょっと違う角度からマダムヒエンの入り口を。
    ここまで、すべて徒歩だった。
    2階に通されて、少しばかりホッとした夕食時間を
    過ごす。
    ハノイビール・333(バーバーバー)も
    52000銅(ドン)。
    先に、ビールを二人で4本ほど飲んで、
    それから食事をした。
    ワインのボトルまで、飲んでかなりいい気分になってしまった。

  • マダムヒエンに置いてあったレストランの紹介<br />ハガキ大のもの。<br />右下の方に<br />どこにあるのか、<br />アクセスマップ付。<br /><br />かなり、酔が来て、これから歩くと<br />ホテルまでは、多分約6km。<br />交差点の度に、その都度神経をすり減らす道路横断を<br />考えて、ここはやはりタクシーで帰ろうということに<br />なった。<br />大通り、ハンボン通りまで出て、タクシーを<br />待った。殆ど客を乗せている。頻繁にタクシー通るが<br />中々空車が来ない。<br />辛抱強く歩きながら、待つ。<br />漸く、つかまえる。<br />ハンボンから、キムマー通りときて、<br />瞬く間にホテルに到着。<br />6万ドンだった。日本円300円位。<br />

    マダムヒエンに置いてあったレストランの紹介
    ハガキ大のもの。
    右下の方に
    どこにあるのか、
    アクセスマップ付。

    かなり、酔が来て、これから歩くと
    ホテルまでは、多分約6km。
    交差点の度に、その都度神経をすり減らす道路横断を
    考えて、ここはやはりタクシーで帰ろうということに
    なった。
    大通り、ハンボン通りまで出て、タクシーを
    待った。殆ど客を乗せている。頻繁にタクシー通るが
    中々空車が来ない。
    辛抱強く歩きながら、待つ。
    漸く、つかまえる。
    ハンボンから、キムマー通りときて、
    瞬く間にホテルに到着。
    6万ドンだった。日本円300円位。

  • 翌朝、ホテル前の道路を散策した。

    翌朝、ホテル前の道路を散策した。

  • コウザイ通りを、西に進むと、<br />トウレ湖が広がっていた。

    コウザイ通りを、西に進むと、
    トウレ湖が広がっていた。

  • トゥレ湖である。<br />朝から、撮影場所の左側では、<br />地元の人たちが日曜日を<br />トゥレ湖で過ごすのか<br />沢山集まっていた。

    トゥレ湖である。
    朝から、撮影場所の左側では、
    地元の人たちが日曜日を
    トゥレ湖で過ごすのか
    沢山集まっていた。

  • トゥレ湖側より<br />右ホテル、左はロッテセンター

    トゥレ湖側より
    右ホテル、左はロッテセンター

  • もう一枚撮影した

    もう一枚撮影した

  • チェックアウト前に、<br />部屋より、外を撮影した。

    チェックアウト前に、
    部屋より、外を撮影した。

  • 同上

    同上

  • さらに一枚撮影した

    さらに一枚撮影した

  • チェックアウトする直前、<br />部屋を見渡すと、この紙切れが目に入った。<br />ハノイ滞在2日目ハロン湾訪問の時の、<br />夕食メニューだった。<br />一応コース料理だった記憶が蘇る。<br />これも、リュックにしまい、<br />ホテルを後にした。<br />我ら二人が、今回の旅行で最初に覚えたベトナム語は、<br />ニャーベンシー オウドゥ(トイレどこ?)と <br />ダックア(高すぎる)<br />の2語だった。<br />ハノイドイモイ空港までは、車で30分だった。<br />中途、同行株屋氏と、次回はどこに行こうかという話をし、<br />候補は、今度はリゾート・ボルネオコタキナバルが良いのでは<br />と決まった。今年になるか、来年になるかは不明である。<br />

    チェックアウトする直前、
    部屋を見渡すと、この紙切れが目に入った。
    ハノイ滞在2日目ハロン湾訪問の時の、
    夕食メニューだった。
    一応コース料理だった記憶が蘇る。
    これも、リュックにしまい、
    ホテルを後にした。
    我ら二人が、今回の旅行で最初に覚えたベトナム語は、
    ニャーベンシー オウドゥ(トイレどこ?)と 
    ダックア(高すぎる)
    の2語だった。
    ハノイドイモイ空港までは、車で30分だった。
    中途、同行株屋氏と、次回はどこに行こうかという話をし、
    候補は、今度はリゾート・ボルネオコタキナバルが良いのでは
    と決まった。今年になるか、来年になるかは不明である。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • trat baldさん 2016/04/01 06:29:40
    しっかり歴史を知って観るハノイは一味違う。
    かの地では多くの場面で国籍を尋ねられ日本人だと言うと顔が微笑みやたら親切でコミュニュケーションを取ろうとしてきます、自由行動に支障をきたします(^o^)
    そのくせ田舎に行くと両替はドルを要求します、どうなってんの!
    やはりしっかりと予備知識が有れば探検する場所や視点が変わりますよね。

    わき

    わきさん からの返信 2016/04/01 19:31:31
    RE: しっかり歴史を知って観るハノイは一味違う。
    メッセージ誠にありがとうございます。
    ネグレス島の現地の子供の笑顔、
    既に忘れてしまったような懐かしさを覚えました。
    ネグレス隣のセブマクタンには、過去二度行く機会がありましたが、
    ネグロスの農業漁業は、アジアの原点を感じさせました。
    ホセ・リサール、エミリオ・アギナルド等のフィリピン革命
    から110年余、フィリピンの今後の発展を期待していますが、
    大土地所有制からの農業改革は、進むのでしょうか。

    ベトナムハノイの旅行記見ていただき
    深い洞察に裏付けられたコメントをいただき恐縮です。
    更に、貴台のネグロス旅行記その他もまた拝見させて
    頂く予定ですので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
    わき

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