2015/07/31 - 2015/08/03
698位(同エリア1018件中)
ちゃおさん
モラエスとおヨネの結婚生活はそれ程長いものではなかった明治。神戸駐在領事モラエスは33年(1900年)生田神社で式を挙げ、おヨネとの結婚生活が始まったが、彼女は明治天皇が崩御された明治45年、僅か37歳の若さで亡くなった。この時モラエスは58歳だった。12年間の神戸での結婚生活。おヨネの死を期にモラエスは領事を辞め、翌年彼女の思い出を抱きこの徳島にやってきた。以後眉山の麓の陋屋で75歳で亡くなるまでの16年間、この町を終の棲家としていたのだ。
侯爵蜂須賀家の墓所がモラエスが生きていた時代に一般に開放されていたかどうかは知らない。が、この万年山の墓所入口から眼下の徳島の古い街並み、佐古の賑わいを見ていると、モラエスもきっとこの丘にやってきて、町を眺め、或は墓所に入り込み、日本風の壮麗なお墓を眺め、おヨネ、小春の二人の若死にした妻を思ったに違いない。「サウダーテ」。誰一人いないこの墓所で一人静かに「孤愁」を抱くモラエスが想像できた。
滝不動、「滝の焼き餅」は、この万年山を下り降りた所から眉山の山裾を時計回りに歩いて行けば、30分も掛からず行ける筈である。山裾に沿って佐古の古い街並み、今はその多くは郊外型の小奇麗な住宅に変わっているが、この辺り、江戸時代は商業の盛んな土地で、随分と栄えていたようである。街並みはどことなく今も当時の賑わいを残しているようだった。
その佐古の町中のほぼ真ん中辺りに諏訪神社がある。急な石段が道路から真っ直ぐ空に向かっているように見える。長崎諏訪神社にも幅広の長い石段があるが、ここのは、その長崎の倍位に急な角度だ。眉山に登り、万年山を下り、足は相当に疲れているが、諏訪神社の前を通って、お参りしないで素通りする訳にはいかない。由緒ある宮の前では、社殿に一礼するのを習わしとしている。一歩一歩石段を登って境内に行く。
山を削って平地にした高台にある神社からは、直ぐ下の佐古の街並みが一望できた。この神社も又蜂須賀の殿様の庇護を受けて来たが、それ以上に佐古の町衆に寄進によって、盛り立てられてきたのだろう。社殿の扁額に「渭津五社随一」とある。ああ、ここは「渭津」(いしん)なのだ。水に囲まれた湊町。
吉野川の豊富な水量を取り入れた支流新町川、佐古川に囲まれて水運も発達し、今はもう殆ど絶えてしまったが、その水を生かしての染め物産業も発達した。近くには国の史跡「佐古ポンプ場」もある筈だ。この町の出身で、前回選挙まで民主党の論客だった元官房長官仙谷由人もこの町の出身だ。石段の上の鳥居の前から佐古の町を見渡し、彼も又幼少の頃、こうして神社に遊び、石段の上から吉野の眺め、大志を抱いたのだろうか・・。
< 諏訪神社 石段喬し 吉野見ゆ >
- 旅行の満足度
- 4.5
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蜂須賀家墓所の低い部分には、歴代の中でも、時代の下った藩主の墓が祀られていた。
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殿様と奥方、夫婦の墓が仲良く並んでいた。
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最後にもう一度徳島旧市街、佐古の街並みを眺める。
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万年山史跡墓所の案内図。
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徳島藩主蜂須賀家18代のお墓がここにある。
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麓から万年山及びその奥の眉山を眺め、次の「滝不動」に向かう。
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「滝不動」に向かう途中、佐古の街中に由緒ある神社があった。
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ああ、諏訪神社。長くて急な石段だが、参詣しないで通り過ぎることはできない。
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参道横の「迷い子石」。江戸時代、ここ佐古の町屋は迷い子が出る程賑わっていた。
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かなり急峻な石段だ。
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急な参道の石段を登った先に社殿があった。「諏訪大明神」とある。
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「渭津五社随一」とある。・・ああ、ここは水の都だったのだ。
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諏訪神社由来。蜂須賀入府の時に建立されたようだ。勧神はどこからか・・。
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石段の上の鳥居の先に佐古の街並みが見える。
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元官房長官仙谷由人も子供の頃はこの宮で遊び、こうして街並みを眺めたのだろう。
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町の直ぐ横を流れる吉野川を眺め、神社を後にする。川の向こうは藍住町だ。
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