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< たゆたふと 四国三郎 雲の下 ><br /><br /><br />四国徳島に来たのは3回目か4回目か・・。人間古稀近くまで生きていると、記憶もあいまいになる。が、確実に言えるのは、過去2回眉山に登り、山頂のモラエス館を訪ねているので、今回は最低でも3回目になる。更に確実なのは、百名山の一つ剣山に登頂したのが2002年5月2日のことであり、百名山23座目の登頂だった。<br /><br />百名山をスタートしたのが2001年のことであり、先刻通り過ぎた富士山頂は、12座目としてこのスタート年に達成しているが、ここ剣山は翌年のことであった。比較的早い段階での達成は、それ以前に読んだ宮尾登美子さんの「天涯の花」に出てくる黄蓮華ショウマを見ることと、剣神社に参詣し、出来得れば宮司に挨拶したかった。勿論百名山登頂が主たる目的ではあったのだが・・。<br /><br />そして今回はモラエスの事績を尋ねる為にこの街にやってきた。前回、眉山山頂のモラエス館の展示物で、彼がこの町で亡くなったのは知っていたが、当時はそれ程強い関心を抱いていなかった。勿論、そのずっと以前に新田次郎氏が毎日新聞にモラエスの伝記を連載していて、「孤愁・サウダーテ」の題名で、毎朝配達される朝刊を楽しみにしていたのだが、今から35年ほど前、著者の新田氏は68歳の若さで急死してしまった。奇しくも今の自分と同じ歳である。<br /><br />当時の新聞連載で、モラエスとこの町徳島との深い繋がりがあったことは知ってはいたが、この町で亡くなったことは、このモラエス館に来て、初めて知ったことだったが、徳島にはモラエス以上に、吉野川、藍の町藍住町、うだつの町、潜水橋、吉野堰、或いは大歩危小歩危、祖谷の秘境、等々見るべき場所、物が数多くあり、モラエスについては、端の方に押しやられてしまっていた。当時は新田氏のモラエスよりも、司馬遼太郎の「街道を往く」の方により多くの関心を持っていたのだ。<br /><br />処が、新田次郎氏のご子息、藤原正彦氏が30年ぶりに続編を書き繋げ、つい最近1冊の本として出版され、読む機会があったが、全編を読むことにより、急にモラエスの事績を辿りたくなった。先ずは、日本へ来る以前のマカオへ行くことを計画したが、最近の急速な円安と一方の元高。2年程前には1万円が400元で両替できたものが、今では半分の200元。日本の円の価値が対中国元に対し、半分に目減りした現在、中国へ旅行する意欲は大きく減退し、であれば、国内からまずは優先して尋ねてみよう、とのことに相成り、この徳島に来ることになった。<br /><br />機は富士山周辺では厚い雲の上を飛んでいたが、伊勢湾、紀伊半島に進むうちに雲も薄くなり、紀伊半島では山上の聖地、高野山の真上を飛び、ほんの一瞬、山中の細長い宗教都市も眺めることが出来たが、直ぐに和歌山の海上に出て、1000年前の和歌にも謳われた和歌の浦の入り組んだ海岸線を眺め、機は間もなく徳島上空に達した。<br /><br />見える。眼下に見える。太い大河が平野部を貫流している。吉野川だ。剣山の山中に発した源流は、祖谷を潤し、大豊に至り、大歩危小歩危の峡谷を作り、幾つかの吉野堰を越えて、阿波の平野、徳島の地に至る。渭の国、徳島。<br /><br /><br />< 渭の国の 大河なりしか 吉野川 > <br /><br /><br />

モラエスと俳句(3)四国三郎雲の下。

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2015/07/31 - 2015/08/03

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ちゃお

ちゃおさん

< たゆたふと 四国三郎 雲の下 >


四国徳島に来たのは3回目か4回目か・・。人間古稀近くまで生きていると、記憶もあいまいになる。が、確実に言えるのは、過去2回眉山に登り、山頂のモラエス館を訪ねているので、今回は最低でも3回目になる。更に確実なのは、百名山の一つ剣山に登頂したのが2002年5月2日のことであり、百名山23座目の登頂だった。

百名山をスタートしたのが2001年のことであり、先刻通り過ぎた富士山頂は、12座目としてこのスタート年に達成しているが、ここ剣山は翌年のことであった。比較的早い段階での達成は、それ以前に読んだ宮尾登美子さんの「天涯の花」に出てくる黄蓮華ショウマを見ることと、剣神社に参詣し、出来得れば宮司に挨拶したかった。勿論百名山登頂が主たる目的ではあったのだが・・。

そして今回はモラエスの事績を尋ねる為にこの街にやってきた。前回、眉山山頂のモラエス館の展示物で、彼がこの町で亡くなったのは知っていたが、当時はそれ程強い関心を抱いていなかった。勿論、そのずっと以前に新田次郎氏が毎日新聞にモラエスの伝記を連載していて、「孤愁・サウダーテ」の題名で、毎朝配達される朝刊を楽しみにしていたのだが、今から35年ほど前、著者の新田氏は68歳の若さで急死してしまった。奇しくも今の自分と同じ歳である。

当時の新聞連載で、モラエスとこの町徳島との深い繋がりがあったことは知ってはいたが、この町で亡くなったことは、このモラエス館に来て、初めて知ったことだったが、徳島にはモラエス以上に、吉野川、藍の町藍住町、うだつの町、潜水橋、吉野堰、或いは大歩危小歩危、祖谷の秘境、等々見るべき場所、物が数多くあり、モラエスについては、端の方に押しやられてしまっていた。当時は新田氏のモラエスよりも、司馬遼太郎の「街道を往く」の方により多くの関心を持っていたのだ。

処が、新田次郎氏のご子息、藤原正彦氏が30年ぶりに続編を書き繋げ、つい最近1冊の本として出版され、読む機会があったが、全編を読むことにより、急にモラエスの事績を辿りたくなった。先ずは、日本へ来る以前のマカオへ行くことを計画したが、最近の急速な円安と一方の元高。2年程前には1万円が400元で両替できたものが、今では半分の200元。日本の円の価値が対中国元に対し、半分に目減りした現在、中国へ旅行する意欲は大きく減退し、であれば、国内からまずは優先して尋ねてみよう、とのことに相成り、この徳島に来ることになった。

機は富士山周辺では厚い雲の上を飛んでいたが、伊勢湾、紀伊半島に進むうちに雲も薄くなり、紀伊半島では山上の聖地、高野山の真上を飛び、ほんの一瞬、山中の細長い宗教都市も眺めることが出来たが、直ぐに和歌山の海上に出て、1000年前の和歌にも謳われた和歌の浦の入り組んだ海岸線を眺め、機は間もなく徳島上空に達した。

見える。眼下に見える。太い大河が平野部を貫流している。吉野川だ。剣山の山中に発した源流は、祖谷を潤し、大豊に至り、大歩危小歩危の峡谷を作り、幾つかの吉野堰を越えて、阿波の平野、徳島の地に至る。渭の国、徳島。


< 渭の国の 大河なりしか 吉野川 > 


旅行の満足度
4.5

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  • 伊勢湾を過ぎると、雲間に眼下の紀伊の山が見えるようになった。

    伊勢湾を過ぎると、雲間に眼下の紀伊の山が見えるようになった。

  • 熊野山中の山上都市、高野山か・・

    熊野山中の山上都市、高野山か・・

  • 紀伊山中の風力発電も見える。

    紀伊山中の風力発電も見える。

  • ああ、和歌山湾が見えて来た。

    ああ、和歌山湾が見えて来た。

  • 和歌山市、和歌の浦だ。

    和歌山市、和歌の浦だ。

  • 紀伊水道を越えると直ぐにも四国だ。

    紀伊水道を越えると直ぐにも四国だ。

  • 阿波の国、徳島だ。

    阿波の国、徳島だ。

  • ああ、街中を吉野川が貫流している。

    ああ、街中を吉野川が貫流している。

  • 四国三郎、雄大な川だ。<br /><br />< たゆたふと 四国三郎 大河なり >

    四国三郎、雄大な川だ。

    < たゆたふと 四国三郎 大河なり >

  • 徳島の上空を旋回して空港に向かう。

    徳島の上空を旋回して空港に向かう。

  • ほぼ7年ぶりに訪問する徳島。今回はどんな出会いがあるのだろう・・。

    ほぼ7年ぶりに訪問する徳島。今回はどんな出会いがあるのだろう・・。

  • 機は大きく旋回し、徳島郊外の空港に着陸した。

    機は大きく旋回し、徳島郊外の空港に着陸した。

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