2015/09/29 - 2015/09/30
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ANZdrifterさん
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関白になった秀吉は、私闘を禁じ(惣無事令)違反する大名を厳しく罰した。かねて秀吉に反抗的であった小田原の北条氏が群馬県の真田領を侵略したのをとがめ諸大名を動員して討伐(1590年7月)し、戦国大名の後北条氏は滅亡した。
引き続き7月26日、秀吉は宇都宮氏の城に入り小田原攻めに参陣しなかった東北地方の大名の所領を没収すべく蒲生氏郷や浅野長政らを主力として仕置軍を編成して東北地方を北進し、参陣しなかった大名の各城を制圧し領地を没収(改易)した。これが「奥州仕置」で、土地は中央政府のものであると示された。
遅参した伊達政宗は150万石から72万石、さらに58万石に減封された。
これで鎌倉時代から続いた 石川、江刺、葛西、大崎、和賀、稗貫、黒川、白河の諸大名は領地を没収され、参陣した最上、相馬、秋田、津軽、南部、戸沢(角館)の諸大名は領土を安堵された。
仕置軍は改易した稗貫氏の花巻城(鳥谷ヶ崎城)に浅野長政を置いて奉行とし、郡代・代官を置いて引き揚げたが、直後(1590年)に「奥州仕置」に対する不満から、葛西・大崎一揆、仙北一揆、和賀・稗貫一揆などが勃発し、仕置軍が配置した代官は各地で駆逐された。
一方、南部信直は小田原征伐に参加し、奥州仕置軍にも従軍していた。南部家は元来、一族の三戸南部氏、九戸氏、櫛引氏、一戸氏、七戸氏らの同族連合であり、室町時代の武将列伝では南部宗家と九戸氏は同列の武将とされていたが、策を弄して南部氏の棟梁となった入婿の南部信直が秀吉によって宗家とされ、他の一族は家臣とされたので九戸氏、櫛引氏ら諸将には不満が残った。
1591年、南部一族の三戸城正月参賀を九戸政実が拒否し、九戸政実の乱が勃発し、三月以後、九戸軍は三戸南部勢を各地で撃破して強大な勢力となった。
南部信直は使者を秀吉に送って(6月)援軍を要請する一方、一揆軍に包囲された鳥谷ヶ崎城の浅野長政を救出して南部氏の本城の三戸城に移した。
秀吉は6月20日に再仕置軍を編成、徳川家康、前田利家、石田三成を各方面軍の長とし、伊達、最上、秋田、津軽ら東北の諸将を先陣とする6万の再仕置軍を編成して派遣した。九戸政実以下の地元軍5000は九戸城に籠城、仕置き軍は6万の軍勢で包囲したが守りが固く犠牲が多く、冬も近づき食料も不足したので包囲軍から和議を申し入れた。
9月4日、籠城軍兵士の生命安堵の約束で九戸城は開城したが、約に違い城兵や女子供の多くは斬殺された。1995年の発掘調査では頭部のない骨や、刀創のある骨が多数発見されている。
九戸政実ら8名の将は、宮城県栗原市の仕置軍本陣で斬殺された。首級は乞食に身をやつした部下が密かに持ち帰ったと言われ、九戸村に首塚がある。
負け戦がなかった稀代の戦国武将・九戸政実の死で、東北の地方政権は消滅し、中世が終わった。
中央政権に対する組織的な反対はなくなり、諸大名は中央政権に配置された地方領主となり、同族連合であった伊達・南部なども近世大名に脱皮した。
なお、九戸政実が立て籠もった九戸城は、新幹線二戸駅の北東約1500メートル の二戸市内にある。落城後、蒲生氏郷が一部を改修して福岡城と改名し、南部家が盛岡城に移転するまで本城であったが、地元では九戸城と呼び続けた。
九戸政実の生地の伊保内村は二戸市の東隣で、旧九戸郡の戸田村・江刺家村と合併して昭和30年に九戸村が作られた。
九戸村には菩提寺の長興寺や祈願所の九戸神社があるが、九戸氏の姓は九戸郡に由来し、九戸村は昭和に作られた新しい村である。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー 新幹線
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
国指定史跡 九戸城跡の入り口。
中世の城跡としては最大規模だという。
遠くに、土日のボランティアーガイドのたまり場? 事務所?がある。
予約すれば平日でもガイドしてくれるという。 -
右が本丸跡。左が二の丸跡。
このような直線で仕切られた構造は九戸政実が兵士・女・子供の生命安堵を条件に開城した後、蒲生氏郷が改修した時に造られた。石垣は穴太衆が積んだという。
1995年の発掘調査では、二の丸跡から首のない遺骨が多数発見された。兵士・女・子供を二の丸に押し込めて火をかけ撫で切りにしたという言い伝えとの関連が注目される。 -
本丸の石垣。 石垣の上に土塁を盛ったように見える。
土塁の左端で人物が小さく映っているあたりが本丸隅櫓跡で、往時は8m前後の高さの櫓があったという。 -
二の丸から本丸に入るのに、このようなクランクカーブ(虎口・こぐち)が作られている。
おそらく蒲生氏郷の手による近世城郭の様式。 -
本丸、二の丸とも草地は機械で綺麗に刈り込まれていた。
挨拶したら 深く頭を下げて返してくれた。 -
二の丸の搦め手門。右奥に土井晩翠の歌碑が見えている。
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この地を訪れた土井晩翠が書き残したという。
「荒城の月」の詞碑は 大分県竹田市、福島県会津若松市、仙台市と、当地の岩手県二戸市の 4か所だけ とのこと。 -
晩翠の碑の後ろ側、濠を隔てた先の平地が外館の石沢館跡。
どのような建物があったか不明と言うが広い。 -
ガイドの石柱の頭部には地図がつけられている。
石沢館跡。 -
石柱についている地図。
中央、黄色の逆 L 字が濠で、その左が本丸。その下から右側が二の丸。
右上の白ぬきが石沢館跡で、小さい赤丸がこの石柱の位置を示す。
上部の黒は白鳥川。左端上部に馬淵川が描かれている。 -
刈り払いが進行中の三の丸。右端の斜面の上が 石館館跡。
蒲生氏郷の手が回らなかったのか、九戸政実時代のままと言われる。 -
自動車で城跡を訪れると最初に見える標識。
この辺りは宅地化されているが、この平地が三の丸で、右の崖の上が二の丸。 -
崖の上が二の丸。道路が三の丸。
凝灰岩の崖が天然の防壁となっている。 -
九戸政実が生まれ育った旧九戸郡 伊保内村は、昭和30年に山田村・江刺家村と合併して九戸村となった。
岩手県北バスで九戸村に行くには、二戸駅前から伊保内行きに乗るのだが、旅行者には九戸村の中心が伊保内だと説明されないと判らない。
九戸神社入り口というバス停で下車。 550円で、首塚まで1?地点に着く。 -
首塚の石碑が路傍に立っている。
ここから少し林の中を登る。 -
囲いのなかに首塚があった。
乞食に身をやつした部下の侍が、首を盗み出して持ち帰り、ここに葬ったという。
処刑の場となった寺の住職が首桶・塩などを提供してくれたと、小説「天を衝く」に描かれている。 -
上記の首塚が参拝に不便だということで、九戸神社の参道わきにも、
新しく作られたという首塚があったが、参拝者は少ないらしい。
首はひとつ・・・・・だもん ネ -
九戸神社。 九戸氏の祈願所という。
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拝殿と、後ろが本殿。
九戸神社は 承和9年(842年)の創建と伝えられる当地の総鎮守である。 -
境内には多くの小さい社があった。
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草地の向こうにあるのが、九戸政実を祀った政実神社。
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菩提寺の長興寺。曹洞宗。
屋根の棟の紋は中央が九曜紋。左右が永平寺ともう一つは聞き取れなかった。
1504年開山の古刹で当地の文化の中心であった。 -
本堂の中には九戸家を祀った一画がある。
像は政実公400回忌?に造られた政実公の4代前?の戦国武将。
絵もない武将のことで、はじめは ちょんまげ頭だったが、戦国武将がちょんまげではあるまいと、ちょんまげを外してもらったという。
和尚さんの方言が良く聞き取れなかったので、アヤフヤの記事です。 -
長興寺。この墓地の左奥に下記の九戸家の記念碑?が建てられている。
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これも4百年忌に建てられたという。
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九戸氏は、南北朝時代に陸奥守に任じられた北畠顕家に従ってきた甲斐源氏の南部師之から分かれたとされており、南朝が滅んだ後でも、師之の弟政長が当地方に根を張って有力な戦国大名として秋田、安東、津軽などと競って来た。
写真の下部には割菱(武田菱)、両側に九曜紋が配されている。
写真に写りこんだワラシは和尚の孫。二戸市金田一温泉で有名な座敷ワラシではない。 -
九戸政実が出陣の折(1591年?)に植えたと伝えられる長興寺の銀杏樹。雄樹。
最近は、葉が小さくなってきたと、和尚が心配していた。 -
駅前居酒屋の「きんじ」には、九戸政実を描いた小説「天を衝く」の著者、高橋克彦の色紙が残されていた。「政実の思いは今も我が裡にあり」と。
西国の政府から、食料と労働力の供給地としか扱われてこなかった東北に生まれた高橋克彦が胸に秘めた「政実の思い」とは、いかなる物であろうか?
天の時、地の利、ともに味方せなんだ剛毅・智謀の将に せめて心を と思う。
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2015/12/28 05:56:12
- 九戸政実
- ANZdrifterさん お早うございます。
冒頭の歴史の解説を読んでから拝見した史跡は、当時を思い起こすに十分なものでした。
九戸政実の武将としてのプライドが南部に従うことを許さなかったのでしょうね。
中央政権に逆らえば必ず滅ぼされるということはわかっていることでしょうに、犠牲を覚悟で戦ったのですね。
これだけ見れば果たして名将と言えるかどうかは意見の別れるところですね。それにしても和議の条件をことごとく破棄した中央軍の行動は後世に残る蛮行として語り継がれますね。九戸城の城主が代わっても、城の呼称を頑なに呼び続けて、悲劇の九戸政実を追悼し続けた地元の方々の行為は美しいですね。
史跡の歩き方 という本があるとすれば、これはその手本のような旅行記でした。
pedaru
- ANZdrifterさん からの返信 2015/12/29 11:28:23
- RE: 九戸政実のこと
- pedaru さん お早うございます。
ブログを読み込んでくださって お礼を申し上げます。
縄文の遺跡を中心に歩いていたので 八戸まで行っても 中世を見るために二戸市に行くという気持ちが起きませんでしたが、東北地方が中央政権にいじめられた5度の戦乱を訪ねる旅で、最後に残った秀吉の奥州仕置きを調べていたら 九戸政実の乱 を知りました。
それで、まず現地を見て歩いて 帰ってから高橋克実の「天を衝く」の文庫3冊を買って読みました。名将という評価は説明不足でしたが 高橋克実説の影響もありますが、負け戦がなかったことや、築城の細かい配慮など、次の時代を先取りしていたと思います。
<九戸城の城主が代わっても、城の呼称を頑なに呼び続けて、悲劇の九戸政実を追悼し続けた地元の方々の行為は美しいですね>
平将門や 明智光秀など 反逆の徒とされてきた武将が、地元では名君とされて敬愛されている例を いろんなところで見てきました。
平将門の命日には 酒が何本も供えられていましたが 1070年も昔の領主の命日が弔われていることに感動しました。
政実も、同じく地元に優しい領主だったのだと思います。
裏返せば 勝者によって書かれる歴史を どう読むかということが 後世に生きる者の生きざまにかかわっている ということでしょう。
<史跡の歩き方 という本があるとすれば、これはその手本のような旅行記でした。>
高い評価、有難うございます。そのまま有難く いただきます。
ANZdrifter
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