2015/09/19 - 2015/09/23
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彷徨人MUさん
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1). 旅の始めに
夢現 北京秋天 此処彼処
「上海ー北京」間を、中国版新幹線で行く、「高鉄の旅」を思い立ち、上海に向かった。上海到着後、予約した切符を貰うため、「高鉄」中央駅の「上海虹橋」駅へ向かい、長い列に並ばされ、発車間際に、プラットホームに入るという、慌しさであった。
2). 「上海」 から、高鐵で、「北京」へ
「1号車」の「02A席8」は、この列車の運転席がある先頭車両の、前から2つ目の席であった(上海-北京間の一等車の座席指定と、乗車券込みで、925元)。運転室との境には、磨りガラスの仕切りがあった。「上海虹橋」駅14時発の列車は、「南京南」駅以外は止まらず、終点の「北京南」駅へは、18時48分に到着した(所要時間4時間48分)。 駅から、ホテルへは、タクシーで向かったが、渋滞に巻き込まれ、午後8時に、「王府井大街」の『ルネッサンスホテル』(北京金茂万麗酒店)へ到着した。背景が、天井まで漢籍が並べられた本棚であるフロントで、チェックインをし、部屋に荷物を置くや、早々に街へ出かけ、遅い夕食をとった。食後、大きく変わった「王府井」をブラつき、露店で買った柘榴の生ジュースを飲みながら、夜遅くホテルへ、戻って来た。
3). 『北京魯迅博物館』(北京市西城区阜成門宮門口二条19号)
『北京魯迅博物館』内にある『魯迅故居』は、中庭を囲み、四方を建物で囲んだ小型の「四合院」であった。「四合院」は、南棟、西棟、そして正面に北棟があり、この北棟には、「母の寝室」、「正妻朱安の寝室兼居間」、そして「食堂」の3室があった。その後、この「食堂」の北奥に、魯迅の「書斎兼寝室」が、一間増築された。北京の人は、この部屋を、『老虎尾巴』(虎の尻尾)と呼んでいた。僕は、この『老虎尾巴』の中を見たく、裏庭に回り、出窓の下に置かれたブロックに上がり、『老虎尾巴』の窓から、書斎の中を覗くと、机の前の壁に、額が2枚掛っていた。上の額には、魯迅が医学を断念し、『仙台医学専門学校』を中退する際、恩師「藤野先生」から頂いた、先生自身の写真である。
魯迅は、役人をしながら、1920年頃から大学での講師もしており、この家には多くの学生が集まっていた。『北京女子師範』の女学生の「許広平」もこの家に来て、「老虎尾巴」で、魯迅の原稿の清書等を手伝っていた。軍閥政治による弾圧が厳しくなり、魯迅の身にも危険が迫った1926年8月、17歳年下の女子学生「許広平」(魯迅の一子海嬰の母)と北京を離れ、魯迅は『厦門大学』に、「許広平」は、故郷広州へ戻り、翌年の1月、魯迅は、広州の『中山大学』に移っている。
4). 『郭沫若故居 』(北京市西城区什刹海前海西街18号)
地下鉄6号線で「北海北」で下り、「前海西街」に向かった。「前海西街」を入って間も無く、中西融合の瀟洒な四合院造りの邸宅があった。文学者で、政治家の「郭沫若」が、1963年から15年間住んでいた。「郭沫若」は、1913年に来日、旧制第6高等学校から旧制九州大学医学部を卒業するも、耳が悪く、医業を諦めている。1921年、上海で文学団体「創造社」設立に参加し、当時中国を訪れた「谷崎潤一郎」と交流している。政治的には、当初は国民党に入るも、「蒋介石」と敵対し、その後共産党に入り、1928年2月、日本へ亡命、1937年まで亡命生活を送っている。日本では、中国の古代社会の研究をしながら、日本人妻と5人の子供と、千葉県市川市で暮らしている。1937年、単身中國へ戻り、毛沢東の革命に参加、後に「政務院副総理」となり、この家で、中国人夫人と住んでいた。
5). 『宋慶齢故居 』(北京市西城区后海北沿46号)
『郭沫若故居』を見学後、「前海」の湖岸道路を通り、「后海」の北東角にある『宋慶齢故居』へ、向かった。「宋家三姉妹」と言えば、若くしてアメリカに留学した仲の良い三姉妹であったが、その後、夫々の道を歩くことになった姉妹である。
長姉「靄齢」(あいりん)は、『金を愛した女』と言われている。孔子の末裔で、行政院長、中国銀行総裁となった「孔祥煕」と結婚し、上流夫人として終えている。
三女「美齢」(1897年ー2003年)は、『権力を愛した女』と言われている。「蒋介石」の妻となり、日中戦争末期に、アメリカ各地を回り,卓越した英語での名演説で、日本の侵略に対する、アメリカ国民の絶大な支援を、勝ち取った女傑である。
次女「慶齢」(1893年ー1981年)は、『国を愛した女』と言われている。1915年、二周り以上歳上の「孫文」(1866年ー1925年)と結婚したが、「孫文」の有力な支援者であった父は、この結婚には猛反対し、「孫文」と絶交した。(以下「写真説明欄」参照)
【表紙写真】は、北京の老舗料理店で食べた、本場の「北京ダック」
* Coordinator: H. ?Gu
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- 個別手配
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-
中國版新幹線(高鉄)
上海から北京までの所要時間、4時間48分 -
北京
宿泊した「ルネッサンス ホテル」
フロントの背後の壁は、漢籍を天井まで並べた書棚になっており、あたかも図書館のような雰囲気である -
北京 王府井
北京第一夜の食事①
ホテル近くの「王府井」にある飲食店に、閉店30分前に駈け込み、晩い夕食となった。 -
北京 王府井
北京第一夜の食事②
ホテル近くの「王府井」にある飲食店での、晩い夕食。 -
北京 王府井
北京第一夜の食事
-
北京 王府井
北京第一夜の食事
ホテル近くの「王府井」にある飲食店に、閉店30分前に駈け込み、晩い食事をとった。 -
北京 「王府井」
路上銅像 -
北京
魯迅記念館① -
北京
魯迅記念館② -
北京
魯迅記念館③ -
北京
魯迅記念館④
仙台医学専門学校(現・東北大学の医学部の前身)での魯迅(本名「周樹人」)の成績表(下から4人目) -
北京
魯迅記念館⑤ -
北京
魯迅記念館⑥ -
北京
魯迅記念館⑦ -
北京
魯迅記念館⑧ -
北京
魯迅記念館⑨ -
北京
魯迅記念館⑩ -
北京
阜成門内の【西三条胡同】の「魯迅記念館内」にある魯迅の旧居 -
北京
阜成門内「西三条胡同」の「魯迅記念館内」の、魯迅の「旧居」の「書斎」。
壁に掛っている本棚の隣の小さな額の写真は、日本の「仙台医学専門学校」(東北大学医学部の前身)時代の恩師「藤野先生」。 -
北京
阜成門内の「西三条胡同」の「魯迅記念館内」にある魯迅の「旧居」
魯迅の旧居の裏手に増築した魯迅の書斎で、「虎尾」と呼ばれた部屋。内部は見学出来ないので、裏手に回り、窓から部屋の中を眺めた。彼は、この部屋で終日過ごしていたようで、当時勤めていた「北京女子師範学校」の学生もしばしば訪ねてきており、後に、彼の夫人となり、一子海嬰の母となった「許広平」も訪れていた。
「許広平」 (1898‐1968)、魯迅夫人。広東省出身。字は漱園、筆名は景宋).北京女子師範在学中、学園の自由化を要求する運動に参加し、同校の講師でもあった魯迅の助言を仰ぎながらも、時に、この部屋で彼の原稿などの清書をも手伝っていたという。 -
北京
魯迅記念館、
「仙台医学専門学校」での恩師「藤野先生」の像 -
北京
郭沫若故居
入り口にある「郭沫若」像 -
北京
郭沫若故居 -
北京
郭沫若故居
若い時の郭沫若 -
北京
郭沫若故居
日本の亡命時代の写真
千葉県市川市での郭沫若と、日本人夫人佐藤富子と子供達 -
北京
郭沫若故居 -
北京
郭沫若故居 -
北京
郭沫若故居 -
北京
宋慶齢旧居 -
北京
宋慶齢旧居 -
北京
宋慶齢旧居
「孫文」と「宋慶齢」夫人(絵画) -
北京
宋慶齢旧居
「宋慶齢」夫人の若き日(写真) -
北京
宋慶齢旧居
宋慶齢、1949年の「天安門」で、毛沢東と周恩来と(絵画) -
北京
「悦賓食堂」
北京での小規模個人経営(個体戸)第一号の食堂「悦賓食堂」。この日の夕食を、ここで食べることにした。 -
北京
【悦賓食堂】
個人経営の店(個体戸)の「悦賓食堂」で注文した料理。
「面筋白菜」、「鍋〇豆腐」、「清炒蝦仁」、「冬瓜湯」等が人気のある料理 -
北京
ルネッサンスホテル
宿泊先の、「ルネッサンスホテル」の夜景と、その裏手、目の前に広がる庶民住宅の夜景とのアンバランスに、今の中国の一面を見たような気がした。 -
北京
北京南駅 -
北京
北京南駅
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