2015/09/19 - 2015/09/19
166位(同エリア596件中)
k.sさん
滋賀・蒲生野で詠まれた、額田王の歌について、この2年程両極端の評価の間(はざま)に迷い込み、歌が踊り出すどころか、一人悶々と悩んでいた。私を万葉の世界に案内していただいた、犬養孝氏は、万葉集で恋の歌は数多あるが、一二を争う名歌だ、とする。一方、否定的に評価する考え方は、酒宴の座興として詠われた歌で、真面目に考えない方がよい、とのこと。
否定派の池田弥三郎氏の「額田王」を読んだが、小気味よく話を展開し、成程と頷かないではおれない。
但し、どうしても理解できないことがあった。酒宴の座興として詠われた歌だとしても、どうして額田王が元夫である大海人皇子(のちの天武天皇)に恋の歌を送ったのか、ということだ。デリカシーに欠ける行動だ。
そもそも額田王は、大海人皇子の兄である天智天皇の後宮に入るとき、夫に対して、ある種の後ろめたさを感じなかったのだろうか?
少しでも後ろめたさが残っておれば、酒宴の席といえども、元夫を肴にした歌は詠めないものだ。
同じ問題を辛抱強く考え続けていると、ある日突然天啓のように、その答えが舞い降りてくる。今回も喉元まで私なりの答えが出掛かっているのだが...。
その歌が詠われた風景の中で、その答えを確かめようと蒲生野へ行って来ました。
最近、2度程滋賀には日帰りのバス旅行をしたのですが、今回は電車を使います。目的地は、近江鉄道の市辺駅近くに万葉の森・船岡山という、その歌が詠われた蒲生野を見渡せる小高い丘です。
ただし、駅から5分で船岡山に行けるとのことなので、折角行くのだから、その近くの他の場所も見てみたいと、観光情報誌「滋賀たび」をチェックすると、素晴らしい景色が見れる”太郎坊宮(たろうぼうぐう)”と船岡山がセットになったウォーキングを発見。予約不要で参加が可能で、地元の方が無料でガイドをしてくださる。
集合は、太郎坊宮前駅改札前(市辺駅の次の駅です)、10時30分。距離は4キロで、所要時間は約3時間。手頃なので、参加することにしました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- その他
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
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近鉄・西大寺駅
今回のスタートは、ここからです。6番線からは、橿原神宮前行きの電車が出ます。つまり、飛鳥に行くときには、6番線です。大和西大寺駅 駅
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近鉄・西大寺駅
家内に車で西大寺まで送ってもらったので、かなり早く出発することになりました。とりあえず、京都に行き、JRに乗り換え、近江八幡で、近江鉄道に乗り、集合場所の太郎坊宮前駅に行きます。2時間ぐらいの電車の旅です。 -
JR京都駅
京都駅 駅
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JR京都駅
新快速・米原行きに乗り、近江八幡まで行きます。 -
近江鉄道・近江八幡駅
近江鉄道を使うのは初めてです。停車している車両に乗り込みましたが、スピードを出すと、その振動の凄いこと。周りの人を見ましたが、涼しい顔をしておられました。馴れって怖いですね。近江八幡駅 駅
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近江鉄道・太郎坊宮前駅
駅員のいない、無人の駅です。太郎坊宮前駅 駅
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近江鉄道・太郎坊宮前駅
この前で集合ですが、1時間ほど余裕があるので、コンビ二でコーヒーを飲もうと駅周辺を歩きましたが、見当たりません。 -
近江鉄道・太郎坊宮前駅
付近のハイキング・コースが紹介されている案内板が駅前にありました。 -
近江鉄道・太郎坊宮前駅付近から
見えている山が箕作山(みつくりやま)で、山の中腹に太郎坊宮がある。箕作山は7000万年前に火山活動によってできた山で、標高372m。
中腹に見える大きな建物は、参集殿で、お宮の事務所。そこで結婚式もできるとのこと。 -
太郎坊宮 一の鳥居
今回のウォーキングの参加者は、地元ガイド2名と長岡京からの夫婦連れ2人に奈良から参加した私の、総勢5人。長岡京から来られたご主人が79歳なので、ゆっくりゆっくりと歩きます。
太郎坊宮は通称名称で、正式には「阿賀神社」。勝運の神様を祀る。 -
太郎坊宮 参道
桜並木になっているので、桜の季節は格別だろう、と思う。また、秋の紅葉も捨てがたいところだ。 -
太郎坊宮 二の鳥居
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太郎坊宮 二の鳥居付近の案内板
ここから本殿まで階段を742段登らないといけません。結構体に堪えます。 -
太郎坊宮への階段
階段はよく整備されているので、登りやすい方だと思う。ガイドの方は、冬もいいですよ、と言われていたが、石の階段が凍ると怖いですよ。 -
太郎坊宮 参集殿
麓から眺めて一番眼に止まる建物まできました。因みに車だと、ここまで登れます。 -
太郎坊宮 夫婦岩
この間を通って参拝するものには、即座に病苦を除き諸願が成就されるが、悪心あるものは「岩にはさまれる」といわれる。無事に5人とも通れました。 -
太郎坊宮 本殿手前の展望台から
湖東平野を望む。手前の大きな建物が小学校で本日、運動会が行われていました。ところで、小学校の運動場は芝生が敷かれていました。土埃防止ですって。 -
太郎坊宮 本殿手前の展望台から
展望台から左側の景色です。連なる山は、鈴鹿山系です。 -
太郎坊宮
本殿にお参りしたのですが、狭くってカメラを構えていると他の人に迷惑になるので、本殿の写真はありません。興味ある方は、紅葉の季節か桜の季節に行かれることをお勧めします。 -
太郎坊宮から万葉の森 船岡山への道
今回は、麓の道を通って船岡山へ行きます。箕作山の稜線を通っても船岡山まで行け、その間3ヶ所からは、琵琶湖が見えるとか。整備された道ですよ、と言われたが、742段の階段で十分です。それ以上は望みません。
眼の前のこんもりした山が船岡山かと思ったが、紅粕山で、紅粕山の向かって左にちょっとだけ顔を覗かせている山が、船岡山とのこと。山というより丘ですね。 -
太郎坊宮から万葉の森 船岡山への道 ふれあいの道
紅粕山の麓を半周する道です。 -
太郎坊宮から万葉の森 船岡山への道 ふれあいの道
竹林の中を進みます。ふれあいの道の入り口と出口に柵があったので、地元のガイドさんがいなければ、ハイキング・マップだけでは、この道は歩けなかった。入り口では柵をひょいと越え、出口では、開閉式になっている柵を当たり前のように開け、通行し終わったら、閉めておられた。 -
太郎坊宮から万葉の森 船岡山への道
眼の前の船をひっくり返したような形の山というか丘が、船岡山です。 -
太郎坊宮から万葉の森 船岡山への道
船岡山はもうすぐですが、昼食は、「万葉の郷 ぬかづか」で食べます。場所は、写真中央から左側にピンクの建物が見えますが、そこが「ぬかづか」です。
本日は助六を持参したので、新たに購入する必要はないのですが、「ぬかづか」では、米から作ったパンやデザートとしてアイスクリームが売られています。
テラスを提供していただいたので、アイスクリームを食べましたが、美味しかったですよ。 -
万葉の森 船岡山への道
目の前が船岡山です。彼岸花が咲く道を歩いて行きます。 -
万葉の森 船岡山
やっと着きました。万葉の森船岡山 公園・植物園
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万葉の森 船岡山
"薬狩り”を偲ばせる巨大な万葉レリーフや約100種類の万葉植物を植えた万葉植物園などを整備した公園です。 -
万葉の森 船岡山
自然の巨岩に「元暦校本万葉集」の原本そのままの文字を彫りこんだ石板がはめこんであります。歌はもちろん額田王と大海人皇子のものです。
10分ほど散策して、船岡山を去ろうとするので、同行の方に一人残る旨を伝え、ここから単独行動をします。
歌が詠まれた現地で歌の意味を整理するのが、今回の旅行の一番の目的なのですから。 -
万葉の森 船岡山からの風景
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万葉の森 船岡山の遊歩道
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万葉の森 船岡山からの風景
額田王については、記録が少なく謎に包まれている。日本書紀に、天武天皇が鏡王(かがみのおおきみ)という人の娘の額田王を妻にして、十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだ、と記録されているだけである。その人となりを推し測る術は、万葉集に収められた十二首の歌に頼らざるを得ない。 -
万葉の森 船岡山の遊歩道
問題の歌が詠まれたのは、天智天皇の7年、西暦でいえば、668年の5月5日の、蒲生野においての”薬猟り”の時です。
薬猟りとは、不老長寿の薬にするために、男は鹿の袋角を取り、女は薬草を採るという、年中行事の一つで、たくさんとれようがとれまいが、問題なく、宮廷をあげての一種のレクリエーション的色彩が強い行事だったようです。
即位したばかりの天智天皇は、その時、壮大な野外の宴を催し、額田王が即興で歌を詠みました。列席した諸王・内臣及び群臣が、その歌に対し、割れんばかりの拍手喝采を送っただろうことは容易に想像できます。 -
万葉の森 船岡山の万葉植物園
余り他人の文章を引用するのは、好きでないが、問題の歌を否定的に評価する池田弥三郎氏の文章を紹介します。
「野守は見ずや君が袖振る」というのは、大海人皇子が酔っ払って、 袖振っているんだと思うんですよ。... 中略 ... 額田王がそれを「みんなが見ているまん中で、わたしにいかにも気があって、恋をしかけているような様子に、みんなに見られたら困るじゃないの」てなこと言っている冗談の歌だと思うんです。
池田弥三郎氏自身、お酒が入っているような、品がない言い方だが、当時宮廷で大きな行事があれば、必ず宴会が行われる。宴会が行われれば、酒を飲む。酒を飲めば、男は女にからかいかけ、女は男にからかいかける。その時、歌がやりとりされ、そういう土壌で生まれた歌だと。
そして、年齢である。額田王は40歳近くになっていたか、皇極天皇から仕えていたとすると、40歳を越えた年齢になっていた。孫がいてもおかしくない年齢である。その女性が、若々しい恋の歌を詠ったら、矢張り違和感が残る。
その他、池田氏は示唆に富んだ指摘をしている。特別に神様を祀ることがうまかった、額田王の能力に注目し、その能力のため、天智天皇は、実弟である大海人皇子の妻である額田王を後宮に入れたのだと。神の言葉を操る額田王を握っておれば、政治的に非常に有利であったのだ。 -
万葉の森 船岡山からの風景
否定派の意見を紹介したので、肯定派の意見も述べないと、片手落ちになる。犬養孝氏の、問題の歌の楽しみ方を紹介しよう。
彼の現代語訳は、下記の通り。
紫草の生えている野を、か行きかく行きして、あなたさまは袖を
振っていらっしゃいますが、そんなことをなすっては、野の番人
が見るではございませんか。
そして、一歩進めて、”見ていたい見ていたい、けれど危ない危ないと、ハラハラした気持ちがこめられている”と解説する。この歌から女性の持つ媚態的表現が感じられると。
また、この額田王の歌に答えた、大海人皇子の歌も、”人妻のあなたを恋い焦がれないではいられない”と訳し、非常に豪放、堂々とした男らしい歌である、と評価する。
ちょっと待って下さい!これでは額田王、大海人皇子二人とも殺されてしまいますよ!と、私は悲鳴を上げてしまいそうになる。肯定派の弱点はここにある。 -
万葉の森 船岡山の遊歩道
額田王が生きた時代を考えてみよう。中大兄皇子(のちの天智天皇)らによる大化の改新のクーデターが西暦645年に起こったが、その前後に額田王が宮中に出仕した、と考えられる。恐らく神事を行い、その優秀さのゆえに目立った存在だったと想像される。
そのクーデターは成功したとはいえ、血なまぐさい事件はなおも後を絶たず、磐石の政権ではなかった。
その混沌とした時代の中で、額田王は、中大兄皇子の弟である大海人皇子と結ばれ、十市皇女をもうける。
都が難波宮に移っても、額田王は飛鳥で暮らしていたようである。大海人皇子は難波に移られているので、この時期は、いわば「通い婚」の時期である。
そして、額田王は、再び宮中に出仕している。女帝である斉明天皇に仕え、神事を扱い、女帝の側近歌人として活躍した、と推測される。
斉明7年(661年)1月6日、2万7千の軍隊は、百済救援のため、難波津を出航した。いわゆる新羅征討である。額田王も一行の船の中にあった。途中、現在の愛媛県松山市の辺りの熟田津に停泊していたが、この場所で、出航を促す歌を詠んでいる。
巻1─8
熟田津に 船乗りせむと 月待てば
潮も適ひぬ 今は漕ぎ出でな
新羅征討の結果は散々なものだった。663年に朝鮮の白村江で完敗する。また、斉明天皇は、九州の福岡県朝倉郡の大本営で既になくなられ、皇太子であった中大兄皇子は、すぐに天皇に即位せず、称制(しょうせい)として天皇の政治を行う。
ついては、いつ朝鮮がいつ攻めて来るかも知れないので、東国をも直ぐに動かすことのできる要害の地、近江大津に遷都した。西暦667年のことだった。
額田王は、近江大津宮に向かう際、次のような歌を詠んでいる。
巻1─18
三輪山を しかも隠すか 雲だにも
心あらなも 隠さふべしや
私は、上記の2首に神の存在を感じる。熟田津の歌では、神の声を高らかに伝え、三輪山の歌では、神と問答をしている。
額田王が飛鳥から近江に行くとき、恐らく天智天皇の後宮入りが決まっていたものと思われる。
では、何故天智天皇の後宮入りを承諾したのだろうか?権力者からの命令に背くのが怖かったのか?後宮入りを望まれたのが、愛しさからではないことは、額田王は十分承知していた。それは、自分の年を考えれば容易に察しがつく。世の中に、怯え戦く声が充満していた。国の安寧のため、自分が役に立つのならば、と承知したのだろうか?いずれにせよ、彼女は神の声を聞き、それに従ったまでだ。 -
万葉の森 船岡山の”薬狩のレリーフ”
天の声を聞くのと短歌を作るのは、非常に似ている、と思う。。インスピレーションが湧き、イメージを膨らませてゆけば、声が聞こえ、歌が生まれる。
さて、蒲生野で詠われた歌に戻る。
偶々大海人皇子が酔っ払って、千鳥足で歩く姿から、袖を振って、親愛の情を示している姿を連想し、それを歌にしようと考えた額田王は、酒宴の場に相応しい歌だと思った筈だ。一同を一瞬ドキッとさせ、その歌が千鳥足で歩く大海人皇子から生まれたと分かったとき、満場の哄笑を博す筈だ。あとは、どうイメージを膨らませるかだ。
その大海人皇子の姿は、馬上の人となり、蒲生野を駆けた。時々止まっては、大きく袖を振る。その姿を眼で追うと、時は20年程遡り、馬上の大海人皇子は、若々しく変貌した。恐る恐る皇子が見詰めている娘を見ると、そこに若かりし頃の自分が立っていた。
額田王は詠いだす。
巻1─20
あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
矢張り、この歌は私にとって名歌であり、恋の歌である。酔って千鳥足で歩く大海人皇子の姿から生まれたとしても、昇華され、恋の歌そのものになっている。歌からは、額田王が大海人皇子に抱いていた敬愛の念と清らかな額田王の心を感じないではおれない。
額田王の秘密は、彼女が聞いた神の声にある。その声によって翻弄されたが、誇りを持って生きられたのも、そのお陰だ。悔いはない筈だ。 -
万葉の森 船岡山からの風景
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万葉の森 船岡山からの風景
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近江鉄道 市辺駅
この駅も無人駅だった。市辺駅 駅
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近江鉄道 市辺駅からの風景
4人と別れてから、船岡山は私一人の貸切状態だった。寂し過ぎるので、いつか桜の季節に家内を連れて来ようと思う。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- ryujiさん 2015/09/28 10:15:43
- 「万葉ロマン 蒲生野」を興味深く拝読致しました
- こんにちは、ksさん。 ご無沙汰していました。
タイトルの旅行記を見ましたよ。 いゃ〜恐れ入りました、ksさんの洞察力に脱帽です。 何がと言ってその額田王と大海人皇子の事ですよ。(天智天皇さんはちょっとおいといて) そうですか犬養先生は違った見解をお持ちで、小生は初めて知りました。 現代の感覚・通念だとこの方が極々自然かもしれません。 (小生は池田・折口・両先生のおっしゃるんだからと思っていた) さりとて蒲生野で広げられた相聞歌?は事実の様です。 真実を隠しての宴会の戯言として考えても、小生はこの場面から逃げ出すに違いありません。 怖い怖い天智さんがお見えになりますよ、百も承知(有間皇子の変・異母兄も舅も殺された)の大海人皇子はよく切り抜けたと思っています。 小生はこの歳をしても恋愛感情に乏しいが、万葉の時代は幾分なりとも男の(男から見て)女の独占欲がなかったと見るべきかと考えます。 用意周到か又運もあり、歴史が天武天皇の時代を作り上げた事はksさんご存知で周知の事実です。
興味ある旅行記の出会いに感謝です、ありがとうksさん。 これからもこうした旅行記を期待しています。
ryuji
- k.sさん からの返信 2015/09/28 11:27:19
- RE: 「万葉ロマン 蒲生野」を興味深く拝読致しました
- ryujiさんへ
コメントありがとうございます。
「蒲生野」をアップして、まだまだ自分の思いが表現できていないのではないか、と反省をしておりました。が、開き直って、いまの自分のレベルで精一杯書いたのだから、次は比較的気楽に書ける題材を選び、気分転換を図ろうと考えておりました。
今回の「蒲生野」をryujiさんに理解していただき、もやもやとした気持ちが晴れました。こちらこそ有難うございます。
k.sより
> こんにちは、ksさん。 ご無沙汰していました。
>
> タイトルの旅行記を見ましたよ。 いゃ〜恐れ入りました、ksさんの洞察力に脱帽です。 何がと言ってその額田王と大海人皇子の事ですよ。(天智天皇さんはちょっとおいといて) そうですか犬養先生は違った見解をお持ちで、小生は初めて知りました。 現代の感覚・通念だとこの方が極々自然かもしれません。 (小生は池田・折口・両先生のおっしゃるんだからと思っていた) さりとて蒲生野で広げられた相聞歌?は事実の様です。 真実を隠しての宴会の戯言として考えても、小生はこの場面から逃げ出すに違いありません。 怖い怖い天智さんがお見えになりますよ、百も承知(有間皇子の変・異母兄も舅も殺された)の大海人皇子はよく切り抜けたと思っています。 小生はこの歳をしても恋愛感情に乏しいが、万葉の時代は幾分なりとも男の(男から見て)女の独占欲がなかったと見るべきかと考えます。 用意周到か又運もあり、歴史が天武天皇の時代を作り上げた事はksさんご存知で周知の事実です。
>
> 興味ある旅行記の出会いに感謝です、ありがとうksさん。 これからもこうした旅行記を期待しています。
> ryuji
>
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