2015/08/28 - 2015/08/31
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倫清堂さん
今年の宮城の8月は前半が猛暑、後半が冷夏と、極端に天候が変化しました。
最終的に1ヶ月の平均気温は例年並みになったということで、非常に不思議な気がします。
日本全体で見れば、7月から8月にかけて台風が多く発生し、そのうち3つが日本に上陸しました。
こういう不安定な天候の中、富山県に4つある一之宮のうちの一つ、雄山神社への参拝を目指すことにしました。
台風の直撃はまぬがれましたが、天気予報は雨。
荷物の中に折り畳み傘をしのばせて出発しました。
出発日にあたる金曜日、突然酒宴のお誘いが入りました。
夜行バスに遅れることのないよう、時間を気にしながら宴会を楽しみました。
21:50、仙台駅東口バス停を出発。
アルコールが入っているため、乗車時間の半分くらいは眠ることができたようです。
土曜日の6時に富山駅前に到着。
ここに来るのは2回目。
路面電車が走る風景が特徴的で、駅構内にはすでに多くの学生の姿が見えました。
簡単な朝食をとったりしながら時間をつぶし、8時にレンタカーの営業所へ向かいます。
弱い雨が降り始めていました。
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富山県はかつて越中国と呼ばれていました。
もとは北陸全体が越の国と称されていましたが、越前・越中・越後・能登の4国に分割されたという経緯があります。
4国それぞれに一之宮が鎮座していますが、越中国の場合は他と少し事情が違います。
普通は1国に1社ですが、越中国にはなんと4社の一之宮が存在しています。
本来は1社であった一之宮が、歴史を経るうちに忘れられ、他の神社が勢力をつけて一之宮を名乗るようになったと考えられます。
地名などを考慮すれば本来の一之宮が明らかになりそうなものですが、一之宮を名乗ることは神社にとってもプラスになる面が多いため、そう簡単に真実が受け入れられるとも思えません。
越中国一之宮とは、気多神社、高瀬神社、射水神社、雄山神社とされます。
これらのうち雄山神社以外の3社は、以前に参拝をしたことがあります。
今回目指すのは雄山神社。
しかしその雄山神社も、現在は3社態勢となっているから、なおさら分かりづらい。
雄山とは富山の象徴である立山の主峰であり、その山頂には雄山神社の峰本社が鎮座しています。
そして芦峅寺には中宮祈願殿、岩峅寺には前立社壇が鎮座しています。
まずは富山市内から最も近い前立社壇を目指しました。雄山神社 前立社壇 寺・神社・教会
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雄山神社前立社壇が鎮座する岩峅寺とは、その名の通り寺院が置かれていた場所です。
雄山は山岳修験者から信仰を集めた山であり、その信仰は神仏習合の形態でした。
立山信仰は特に地獄谷の信仰と結び付いているのが特徴で、立山には360もの地獄があると信じられていました。
前立社壇はかつては立山寺(岩峅寺)という寺院でしたが、明治政府が進めた神仏分離によって神社となり、現在は伊邪那岐神と天手力雄神の2神をお祀りしています。
前立社壇の本殿は、古くは源頼朝公によって再建されたという記録が残されています。 -
前立社壇の境内には、岩峅寺湯立の釜が置かれています。
かつて立山寺では、毎年4月8日の春の祭りにおいて、五穀豊穣を祈り湯立神事が行われていました。
そこで使われる釜は、加賀藩主から寄進されることが通例となっていました。
境内に置かれている釜は、13代藩主前田斉泰公が弘化2年に寄進したものであることが分かっています。 -
次に、前立社壇と峰本社の中間に位置する芦峅寺を訪れました。
ここには雄山神社中宮祈願殿が鎮座しています。
中宮祈願殿はかつて中宮寺という寺院でした。
立山は古くから女人禁制が守られていたため、山に入れない女性の救済のため芦峅寺では、毎年秋の彼岸の中日に布橋灌頂会という儀式が行われていました。
参詣者はまず閻魔堂に入って閻魔大王の裁きを受け、目隠しをして布橋を渡り、姥堂で勤行することで、救われると信じられてきました。
これら諸堂は豊臣秀吉公による佐々成政征討の際に全てが焼き払われてしまいました。
江戸時代に入ると、加賀藩主の寄進によって復興を果たしますが、明治政府が廃仏毀釈を進めたことで姥堂や布橋は廃され、根本中宮の境内だけが雄山神社として残されたのでした。雄山神社 中宮祈願殿 寺・神社・教会
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中宮祈願殿は昇殿参拝を受け入れています。
内部には神職の方が常駐しており、峰本社へ登拝する際の注意点などを教えてくださいました。
こちらでは、「立山之宝」と書かれた2種類の牛王宝印が頒布されています。 -
境内の杉林社叢は県の天然記念物に、天手力雄神を祀る若宮本殿は町の文化財に指定されています。
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立山の歴史を詳しく知りたいと思ったので、隣接する立山博物館を見学することにしました。
立山博物館では、立山の自然や風土や信仰の歴史などが、多数の展示物によって分かりやすく説明されています。
立山を開いた人物は越中守佐伯宿禰有若であると伝えられ、その時期は10世紀初めのことであると考えられます。
『伊呂波字類抄』によると、大宝元年のある日、有若は狩りを行いましたが、白鷹を逃したため、これを追って立山に分け入ったとあります。
白鷹を追う有若の前に熊が現れたため、彼は持っていた弓で熊を射ると、熊は血を流しながら山の中へと逃げて行きました。
有若は熊をしとめるために血の跡を追って山を登って行くと、それは窟屋へと続いていました。
窟屋へ入った有若は、熊が金色の阿弥陀如来に変化するのを目の当たりにし、菩提心を起こして僧になったのでした。
立山は初めは天台宗の拠点とされましたが、その後修験道の修行場として多くの山伏を集めるようになったのでした。
この日は企画展「女性たちの立山」が行われる期間に当たっていました。
多くの女性が描かれている立山曼荼羅も展示されていました。
立山に女性が入れるようになったのは、明治5年3月からでした。
現在は観光登山の山としてあらゆる人々を受け入れ、親しまれています。立山博物館 美術館・博物館
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天気が良ければ立山連峰が望めたはずですが、分厚い雲に覆われて遠くの山の姿は見えませんでした。
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次に高岡を目指しますが、その道のりの途中でいくつかの神社を参拝。
まずは全国でここ1社しかない珍しい名称の多久比礼志神社へ。
白鳳元年、林宿禰弥鹿伎という人物がこの地で白髪の老人に出会い、泉から湧き出る水に塩が含まれていることを告げられ、塩の生産を成功させることができました。
林宿禰弥鹿伎が老人を国魂神として祀ったのが、多久比礼志神社の始まりです。
御祭神は天津日高日子穂々出見尊(神武天皇の祖父に当たる山幸彦)、塩土老翁神、豊玉比売命の3柱。
塩の産出を教えた老人は、塩土老翁神の化身と考えられたのでしょうか。 -
次に大伴家持ゆかりの鵜坂神社へ。
前回の富山の旅の際にも目的地に予定していましたが、縁がなかったらしく参拝がかないませんでした。
今回ようやく参拝することができました。
鵜坂神社は第10代崇神天皇の御代に、四道将軍の一人として北陸を平定・開拓した大彦命によって創建されました。
御祭神として、神世七代の6代目に当たる面足尊・惶根尊の夫婦神、この地域の祖神である鵜坂姉姫神・鵜坂妻姫神、そして大彦命をお祀りしています。
奈良時代には行基によって寺院が整備され、神仏習合の信仰の聖地となりましたが、明治3年に寺は廃寺となり、その名残である五輪塔が境内に残されています。
天平20年に越中国司として巡察に訪れた大伴家持は、
鵜坂川渡る瀬多みこの吾が馬の
足掻の水に衣ぬれにけり
婦負川の早き瀬ごとにかがりさし
八十伴の男は鵜川立ちけり
の2首を詠みました。 -
高岡市に入り、二上射水神社へ。
越中国には4社の一之宮があることは説明しましたが、その一つである射水神社の元の鎮座地です。
古くは二上山を御神体とする信仰の場で、奈良時代に行基によって別当寺が建立され、やはり神仏習合の聖地とされました。 -
境内は広く、長く続く参道の奥に社殿が置かれています。
明治時代に神仏分離が進められると、仏教勢力の影響を削ぐために、射水神社は高岡城本丸跡に遷座されました。
しかし二上の氏子たちが神社の存続を強く訴えたため、分社として残されたのでした。
春の例祭では、全国的にも珍しい築山行事が行われます。 -
次に、加賀藩2代藩主前田利長公の菩提寺である瑞龍寺へ向かいました。
ついさっきまで降っていた雨はどこへ行ってしまったのやら。
気温も上がり、蒸し暑い中での参詣となりました。
国宝の山門は、その巨大さが訪れる者を圧倒します。
江戸時代初期、正保2年に建てられた山門は万治元年に移転されましたが、延享3年に火災によって消失してしまい、文政3年に再建されたのが現在の山門です。
山門の左右には金剛力士像が安置され、境内を邪気から守護しています。瑞龍寺 寺・神社・教会
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イチオシ
山門と同じく国宝に指定される仏殿は、その屋根が鉛瓦によって葺かれているという珍しい特徴を有します。
同じ瓦は全国でも他に金沢城石川門にしか例がありません。
一説によると、瑞龍寺を建立した前田利長公は、一国一城制によって高岡城が廃城とされたため、それに代わる防衛の拠点として瑞龍寺を整備したとされます。
鉛瓦はいざという時に弾丸を生産することが可能であるため、利長公によって採用されたと推察されます。
また軍事的な理由だけではなく、薄い鉛瓦は実は軽いため、豪雪地帯に位置する高岡では建築物の保護のために有効であるという考え方もあります。 -
瑞龍寺の伽藍は、シナ大陸の寺院建築を模した配置で、総門・山門・仏殿・法堂が一直線に並び、禅堂と大庫裏が左右対称に置かれています。
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高岡駅でレンタカーを返し、鉄道で金沢に入りました。
あいの風とやま鉄道は、もとはJR北陸本線の一部でしたが、北陸新幹線の開業に際し第三セクターへ移管されました。
1時間足らずの乗車時間で金沢に到着。
金沢は以前から人気の高い観光地でしたが、今は日本全国はもとより海外からも多くの観光客が集まっています。
美しい景観も多く料理もおいしいですが、それに加えて様々な伝統工芸を体験できるという魅力が、今どきの観光客のニーズに合っていると言えます。
そこで、金沢ではいくつかの体験施設をめぐり、経営者の方から情報を聞きながら、自らの手で体験してみようと考えました。
まずは九谷焼の工房、陶房長寿を訪れました。
明治17年に開かれた窯を持っており、自身で窯を持たない陶芸家のための共同窯場を運営しています。長寿堂 専門店
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九谷焼は江戸時代初期に成立した色絵の磁器で、大聖寺藩の藩士後藤才次郎が有田焼から学んだ技術と、この地方で採れる良質の陶石の組み合わせによって、見事な色彩の製品を産んだのでした。
今回の体験は、白い陶器に青一色で文字や絵を描くプログラムです。
まずは鉛筆で下書きをします。
伝統的な模様が描かれたサンプルも用意されていましたが、何を描いてもよいというので、我が家の飼い猫の肖像を描くことにしました。
鉛筆による下絵は焼くことによって飛ぶので、気にせず描いてよいとのことでした。 -
下書きが終わったら、いよいよ筆を使って塗料を塗って行きます。
塗料は茶褐色をしていますが、これは焼くことで鮮やかな青に変化するそうです。
出来上がりをきれいな線にするためには、途中で筆を上げずに一気に書き切ることが大事なのだそうです。
筆を一度上げてしまうと、その部分だけ塗料が濃く残ってしまうため、乱れた線になってしまうとのこと。
初めての体験なのでなかなか思うように描けませんでしたが、かろうじて猫であると分かる絵が描けました。
他の方の作品とともに一気に焼くため、届くまでは数ヶ月かかるそうです。
経営者の方のお話によると、体験に訪れる観光客は確かに増えているものの、無断でキャンセルするなどのマナーの悪い客もそれに比例して増えているそうです。
観光は決して明るい面ばかりではなく、暗い面もしっかり見つめて対策して行かなければなりません。 -
あくる日の天気は強い雨となってしまいました。
屋外を歩くだけでもずぶぬれになることを覚悟しなければならないほどの雨です。
ホテルでのんびり過ごして雨が弱まるのを待ちましたが、その気配はまったくありません。
金沢城は諦め、石川護国神社だけを参拝することにしました。
旧内務大臣指定護国神社はすべて参拝しましたが、石川護国神社は前回の参拝からしばらく時間が過ぎているので、もう一度訪れたいと思うようになっていたのでした。
駐車場へ車を停めて、いざ車外へ。
境内をあるくと、あっという間にズボンの裾が水浸しになってしまいました。石川護国神社 寺・神社・教会
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明治3年、戊辰戦争で戦没した加賀藩108名を祀った招魂社が始まりです。
昭和10年に小立野練兵場があった現在地へ遷座され、現在まで44889柱が合祀されています。 -
境内には大東亜聖戦大碑が建てられています。
先の大戦を聖戦と捉えることについて批判もありますが、毎年この碑の前では地元の企業が後援し、大東亜聖戦祭が行われています。 -
また金沢市出身の法学者、平泉潔博士の顕彰碑もあります。
平泉博士は終戦後の昭和22年9月25日、大日本帝国憲法に殉じて熱海の錦が浦で投身自決を遂げられました。
投身自殺を選んだ理由は、ご自身の立場を汨羅の淵に投身自決した楚の屈原に重ね合わせたためでした。
そしてまた平成23年12月8日、真珠湾攻撃のあった日には、この碑の前で金沢大学法学部在学中の大学生が割腹自殺を遂げています。 -
この日の昼にも1件の体験メニューを予約していました。
それは飲食店での押し寿司体験で、場所はひがし茶屋街にあります。
車でひがし茶屋街へと向かいましたが、駐車場がなかなか見つからず、迷い込んだ路地に神社の駐車場を発見しました。
宇多須神社、10年前に参拝したことがありますが、ほとんど記憶に残っておりません。
宇多須の初めの鎮座地は卯辰山。
養老2年の御創建で、小さな丘から発掘された古鏡に卯と辰の文様が刻まれていたため、卯辰山と名付けられたのだそうです。
石川護国神社の前身である招魂社も、卯辰山に鎮座していました。
加賀藩2代藩主前田利長公の時、金沢城の鬼門に位置するこの矢代に、初代藩主利家公の御霊が合祀されました。
御朱印をいただいた際、神主さんから短時間なら駐車していても構わないとのお言葉をいただきましたが、体験プログラムを予定しているため短時間というわけにも行かず、遠慮することにしました。宇多須神社 寺・神社・教会
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目指す金澤寿しは、細い細い路地にこじんまりと入口が設けられていました。
金澤寿しは開業から数年の新しいお店ですが、地元の食材を使った料理が好評で、石川ブランドに認定されており、最近はテレビ番組でも紹介されたとのことです。金澤寿し グルメ・レストラン
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押し寿司体験は二階の席で行われます。
茶屋街らしい粋な雰囲気。 -
材料が運ばれて来ました。
ご飯は1人1合半ほどでしょうか。
何に使うのかまだ分からない紙も置かれています。 -
具も1人前ずつ器に入って運ばれて来ます。
強烈な臭いを放つのは、フグの卵巣の糠漬け。
塩漬けにして1年間も寝かせると、毒はすっかり消えるのだそうです。 -
しっかりビニール手袋をはめ、まずは木枠にご飯を敷き詰めます。
そして3等分する位置に具材を乗せます。 -
その上からさらにご飯を乗せ、そしてショウガや小エビを降りかけます。
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正体不明だった紙を敷き、ご飯から同じことを繰り返します。
つまり押し寿司は2段できあがるということ。
全てのご飯と具材を木枠に詰めたら、上から全体重を乗せてしっかり押します。
木枠を外すと、ご飯が圧縮されて良い具合に固まっています。 -
ご飯の塊を包丁で3等分し、完成です。
お店の方から体験プログラムの終了証を頂きました。
金沢には体験プログラムを持つお店がたくさんありますが、このような取り組みはすべて経営者の自主的な努力によって作り上げられてきたものだそうです。
行政から何か指示があるわけではなく、逆に行政に対して要望を出すことが多いとも言っておられました。
そのあたりに、金沢が観光客から人気を集めるカギがあるのだと思います。 -
体験プログラムを利用した客は、特別料金で御膳を注文することが可能です。
金沢の郷土料理すべてを楽しむことができるメニューで、お目当ての治部煮も含まれていました。
治部煮は単品だと1000円近い金額ですが、それと変わらない値段で御膳がつくというのはお得です。
どの料理も味わいがあって、自分で作った押し寿司によく合っていました。 -
後日、絵付けした皿が宅配便で届きました。
思ったよりも色が薄く出てしまいました。
やはり何度も経験を重ねなければ、納得のゆく出来栄えにはならないものでしょう。
それにしても、こうして思い出が形として残るのは悪いことではありません。
これからの時代、地域が観光地として発展する道を選ぶのであれば、こういう体験と思い出の品という要素は絶対に欠かせないものになると思います。
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