2015/04/30 - 2015/05/03
37位(同エリア148件中)
のまどさん
5月は連休が多いのでナンシーに行くことにしました。
温泉街のアムネヴィルに一泊し、ナンシーのアール・ヌーヴォー建築物を探索しました。観光案内所にて無料の地図がもらえ、さらに有料でヘッドフォンを借りられます。ヘッドフォンの内容は今ひとつですが、主要な名所を回ることができました。
旅行中は雨・曇りでかなり気温が低く、写真が映えないのが残念ですが、ナンシーのアール・ヌーヴォーについて発見の多い旅でした。
<参考資料>
Frédéric Maguin 'Merveilles et Trésors de Nancy Art Nouveau'
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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今回は半ドンでアムネヴィル(Amnéville)という温泉町に一泊することにしました。こちらが温泉施設の入り口。清潔度、設備の充実度ではいつも行くアーヘンのスパに軍配が上がりますが、ジェットの勢いが良かったです。
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そして、湯上りのバッファローグリル。この町はレストランが多くあり、競争が激しいのでここの味は最高でした。
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翌日、ナンシーに移動。5月なのに雨天で寒いのが残念。
フランスで最も美しい広場の一つと言われるスタニスラス広場。広場の名前になっているのはポーランド王、スタニスワフ・レシチンスキです。この辺りの歴史は非常に複雑で、フランスと神聖ローマ帝国の間でロレーヌ地方が領土問題となっていて、それがポーランドに飛び火してフランスが後押ししたスタニスワフ公に一代に限って支配を認めたらしいです。 -
スタニスラス広場の観光案内所で無料の地図を手に入れて、探索開始です。
マジョレル邸
中を見学できる日は限られていて、かつ予約が必要。
建築家マジョレルが別の建築家に設計を依頼した作品。外見だけでもすごい貫禄がありました。 -
手始めにナンシー派美術館、ということで延々と歩いてきたのですが、この日はメーデーで休み。がびーん。観光案内所できいておけばよかったです。
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ということでスタニスラス広場に近くに戻って昼食。
http://www.letroistanislas.com/
この旅のヒットでした。 -
観光案内所に再び駆け込み、4ヶ国語を超人的に卒なくこなせるオランダ人、ヤン・ヤープ氏に相談。ナンシーカードは美術館2つ以上巡るならお得ということで購入。今日はどこも閉まっているのでヘッドフォンと地図を借りて徒歩で館を回ることにした。
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クレディ・タグリコール
依頼者はドイツ領だったメスから逃れてきたようです。 -
クレディ・リヨネ
パリの銀行家の以来で1901年に着工。ステンドグラスはシャルル・ゴーヴィエとジェック・グリュベによって手掛けられ、面積は250平方メートルです。 -
ソシエテ・ジェネラル銀行
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CCF銀行
1901年竣工。なるほど、ナンシーの依頼人は銀行家が多かったのですね。 -
現在はBNP銀行。中央の塔が印象的です。3人の建築家が手掛けました。
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ウオー邸
端正な構えです。 -
商工会議所。1907年着工。玄関ポーチ上のアイアンワークの存在感が際立っています。
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中のステンドグラスは巨匠グリュベが手掛けました。
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レクセルシオール・フロ
マジョレルとグリュベが関わった作品は現在レストランになっています。が、やはり我々は入りませんでした。 -
スタニスラス門。アール・ヌーヴォーではありませんが。
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その近くにあるマルゴ夫人邸。張り出し窓上のアーチが優雅です。
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一休み。
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アール・ヌーヴォーではありませんが、ナンシーには猫の顔のような建物や
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藤の花がきれいな一般邸宅など興味深い建物もあります。
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ロン邸
ナンシー派のヴァイセンブルガーが工場経営者ロンの依頼で建てました。 -
角度を変えて見ると、塔の屋根の部分の張り出し具合が斬新です。
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マルグリット邸
1904年竣工。
特徴的なのは壁の色と材質、斜めに取り付けられた赤い屋根。 -
グリシーヌ邸
堆積岩が材料になっているようです。蝶を模したような形が見られます。
この地区の邸宅を見て思ったのはナンシー派のアール・ヌーヴォーはお城を圧縮したような大胆で幻想的な外観が多いことです。 -
夕飯はガレットとクレープをスタニスラス広場近くのクレープレストランで。
残念ながらここ数年感動を覚えたガレットに出会ったことがありません・・・ -
画質がいまひとつですが、広場の夜景。きれいです。
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翌日。朝食はカフェで甘めに取ります。
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まずは観光案内所に昨日借りたヘッドフォンと地図を返しに行ってデポジット30ユーロを受け取ります。残念ながらヤン・ヤープ氏はいませんでした。
まずは広場に面したナンシー美術館を見学。シャンデリアを囲む螺旋階段、見事です。 -
見逃せないのは地下のガラス工芸。
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ドーム兄弟始め巨匠たちの作品が並べられています。
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例えば男爵に捧げられたエナメル作品。
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こちらは型にはめられて作られた作品。アール・ヌーヴォーを象徴する草花が描かれています。
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美術館見学の後は移動遊園地が開かれていたカルノ広場周辺の邸宅巡りです。
ケンプ邸 -
シャルド邸
既出ヴァイセンブルガー作。 -
シメット邸。
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ヴァイセンブルガー邸。
建築家自身が設計し、ステンドグラスをグリュベが手掛けました。 -
後半はナンシー派美術館とラリック美術館に続きます。
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この旅行記へのコメント (2)
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- jijidarumaさん 2015/09/13 14:30:17
- ナンシーのアール・ヌーヴォー建築物とポーランド王スタニスワフ1世
- のまどさん
こんにちは。
久しぶりにアール・ヌーヴォー建築物を拝見しました。
アルザス・ロレーヌとは独仏の歴史で学んだ地域ですが、ロレーヌのナンシーはかつての旅で通過した記憶だけが残りますが、これほどの建築物があるとは知りませんでした。名の知れた銀行が所有者というのも納得です。
さて、ここではロレーヌ公の地位にあったポーランド王スタニスワフ1世(スタニスラス)が自分の旅行記を思い出せました。
偶々、先日の?悲しい恋の伝説“王冠をいただく人魚姫”の話が残る古城ホテル ネッカービショフスハイム城のオーナーシェフの事を書いたばかりですが、
このシェフが以前グルメレストランのシェフをしていたのが、スタニスワフ1世ゆかりのRomantik Hotel Landschloss Fasanerieロマンティック ホテル ランドシュロス ファザネリ ・古城ホテル;4星S・50室。
D-66482 Zweibruecken 、Fasanerie 1
Tel:+49 (0)6332 9730 、Fax:+49 (0)6332 973 111
http://www.landschloss-fasanerie.de/
でした。
≪Das historische Gartendenkmal Tschifflick;歴史的記念碑たる庭園Tschifflick(Romantik Hotel Landschloss Fasanerie)≫
Ehrbrunnen 名誉の泉そばの最初の庭園は1589年、自然を愛したプリンセス・マグダレーナ(ユーリヒ・クレーフェ家・Prinzessin Magdalena von Juelich-Kleve)が建設した。
30年戦争(1618~48年)の以降、庭園は全く構われないまま過ぎ、部分的に破壊された。
その後はできる限り、園芸家エスキル・ヨハン・サンダールEskil Johan Sundahlのデザインの要素は今も踏襲されている。館前の池とテラス台地は以前のままになっている。
ファザネリ(雉の飼育場)では、バロック様式の庭園芸術の宝物を維持するために、必要な手入れは怠ってはいない。
<元ポーランド王・リトアニア大公スタニスワフ・レシチニスキ>
(1677〜1766年;王位1704~09、1733年。およびロレーヌ公在位;1737~66年)
我々は元ポーランド王スタニスワフ・レシチニスキが素晴らしい歴史的庭園を造ったことに感謝せねばならない。
彼の友人であり、支援者であったスウェーデン王カール12世Koenig Karl von Schweden(=プファルツ・ツヴァイブリュッケン公)が、王に彼のヴィッテルスバッハ公国ツヴァイブリュッケンZweibrueckenへの亡命を認め、スタニスワフ自身が 旧ルーマニア・ベッサラビアBesarabienでの幸せな時代を思い、ここに夏の離宮を建て、それにトルコ名Tschifflikチフリック?(トルコ語!は農場・ファームの意味)を与えたと云う。
(かつてのオスマントルコ帝国・現在はモルドバ共和国の領地であったBesarabienベッサラビアやBenderベンデルにスタニスワフ王が滞在し、良き思い出があったとか。)
スタニスワフ王、彼の妻キャサリン、2人の娘アンナとメアリーの絵画がグルメレストランTschifflikの壁を飾っているのも、ポーランド王への感謝の表れである。
王の長女アンナは若くして亡くなり、修道院Graefintalに埋葬されている。
次女メアリーは1725年にストラスブールで、後のフランス国王ルイ15世と結婚している。
1718年12月11日、スウェーデン王カール12世がノルウェー攻略の要となるフレデリクスハルド要塞を攻囲中、流れ弾に当たって落命した。
この為、ツヴァイブリュッケン公国はプファルツ伯グスタフ・サミュエル・レオポルドGustav Samuel Leopoldの支配に戻った。
それで元ポーランド王スタニスワフは亡命先であったツヴァイブリュッケンを去り、仏・アルザスのヴィッセンブールWissembourg(ドイツ語でWeissenburg)に新たな住居を求めた。
王の女婿であったルイ15世は王の亡命を認め、1735年には、公国ロレーヌLothringenをロレーヌ公に任じた(〜1766年)。
王の家族はナンシーに移住した。
スウェーデンの建築家サンダールの計画図:
1715年、バロック庭園の主要部分はスウェーデンの建築家サンダールにより作られ、18世紀半ばに有名な庭師ヨハン・ピーターJohann Petriよって眺望の良い庭園が建設された。
現在もなお使われているファザネリFasanerie(雉の飼育場)の名はクリスチャン4世公に由来する。
スタニスワフスはナンシーに移住した後、この地の木造建築物を壊しているが、1740年、ツヴァイブリュッケン家のクリスチャン4世公はファザネリ(雉の飼育場)をもった大庭園を造っている。
1801年 にナポレオン皇帝によって贈られた庭園をツヴァイブリュッケン市は獲得し、1897年1月1日、市はファザネリに州立馬飼育場を建てた。同時に住民用の近接したレクリエーションエリアも作ったのである。
現在、この地は40haの広さをもち、Romantik Hotel Landschloss Fasanerieの庭園は周囲を壁で囲まれている。
バラ園、池と歴史的なバロックの庭園、12世紀初期のフランケン王朝・Ehrwoogburgの城址跡、散策路も備えた眺望の良い庭園になっている。
(2010.09.05.;翻訳・編集)
少々長い引用になりましたが、歴史のご参考までに。
jijidaruma
- のまどさん からの返信 2015/09/13 22:27:23
- RE: ナンシーのアール・ヌーヴォー建築物とポーランド王スタニスワフ1世
- jijidarumaさん、こんにちは。
歴史解説、ありがとうございます。
> アルザス・ロレーヌとは独仏の歴史で学んだ地域ですが、ロレーヌのナンシーはかつての旅で通過した記憶だけが残りますが、これほどの建築物があるとは知りませんでした。名の知れた銀行が所有者というのも納得です。
ナンシーはかつてはパリと競っていたほど高い文化を持った街だそうです。アール・ヌーヴォーは元々ナンシーにいた芸術家とドイツから移住してきた職人の技術の融合だと思います。旅行記を書いてみたものの、まだまだ未消化なので今後時間のある時に資料を読んだりしてみたいと思います。
>
> さて、ここではロレーヌ公の地位にあったポーランド王スタニスワフ1世(スタニスラス)が自分の旅行記を思い出せました。
スタニスラスはjijidarumaさんが指摘した通り庭園を造ったり、フランスでは学術向上に関わったりとかなり文化的に貢献したようです。ナンシーの象徴とも言える広場がその名を冠し、大きな銅像が建っているのは外国人であるのにその功績が認められている証拠だと思います。
いただいたコメントはもう一度ゆっくり読み返したいと思います。
取り急ぎ、お返事まで。
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