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奥の細道を辿ります。<br /><br /><br />(奥の細道【十一】黒塚)<br />福島県二本松市庁舎に向かう。<br />鬼婆のいたという「黒塚」を訪ねるためだ。<br />黒塚は真弓山観世寺にあるという。<br />市庁舎で地図をいただき、<br />「駐車場は黒塚前の(ふるさと村)に置くと良い」と教わる。<br /><br />(天台宗 真弓山 観世寺)

鬼婆と黒塚(芭蕉の道を歩く 13)

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2014/06/30 - 2014/06/30

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hide-bach

hide-bachさん

奥の細道を辿ります。


(奥の細道【十一】黒塚)
福島県二本松市庁舎に向かう。
鬼婆のいたという「黒塚」を訪ねるためだ。
黒塚は真弓山観世寺にあるという。
市庁舎で地図をいただき、
「駐車場は黒塚前の(ふるさと村)に置くと良い」と教わる。

(天台宗 真弓山 観世寺)

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • <br /><br />(安達が原黒塚のあるお寺)



    (安達が原黒塚のあるお寺)

  • <br /><br />(真弓山観世寺本堂、右手に見える白い建物が宝物館)



    (真弓山観世寺本堂、右手に見える白い建物が宝物館)

  • 謡曲史跡保存会によれば、<br />(謡曲で名高い「安達ケ原」の鬼女縁起説は、<br />平安時代の平兼盛の歌、<br />「陸奥(みちのく)の安達ケ原の黒塚に<br />       鬼こもれりと聞くはまことか」<br />の詠歌を基として、その名は世に著(あら)われた。)と言う。<br /><br /><br />(平兼盛の歌碑)

    謡曲史跡保存会によれば、
    (謡曲で名高い「安達ケ原」の鬼女縁起説は、
    平安時代の平兼盛の歌、
    「陸奥(みちのく)の安達ケ原の黒塚に
           鬼こもれりと聞くはまことか」
    の詠歌を基として、その名は世に著(あら)われた。)と言う。


    (平兼盛の歌碑)

  • <br /><br />(白真弓如意輪観音堂)



    (白真弓如意輪観音堂)

  • 鬼婆の由縁について、そのあらすじを載せておく。<br /> (ここの「鬼婆」はその名を「岩手」といい、<br /> 京都のある公卿屋敷の乳母であった。<br /> 永年手塩にかけて育てた姫の病気を治したい一心から、<br /> 「妊婦の生き胆を飲ませれば治る」という易者の言葉を信じ、<br /> 遠くみちのくに旅立ち、たどり着いた場所が、<br />この安達ケ原での岩屋であった。<br /><br /> 木枯らし吹く晩秋の夕暮れ時、<br /> 伊駒之助(いこまのすけ)・恋衣(こいぎぬ)と名乗る若夫婦が一夜の宿をこうたが、<br />その夜、身ごもっていた恋衣がにわかに産気づき、<br /> 伊駒之助は薬を求めに出ていった。<br /> 老婆「岩手」は、待ちに待った人間の「生肝」を取るのはこの時とばかり、<br /> 出刃包丁をふるって、<br />くるしむ恋衣の腹を裂き「生肝」を取ったが、<br /> 苦しい息の下から<br />「私たちは小さい時、京都で別れた母を捜し歩いているのです。」<br />と語った恋衣の言葉を思い出し、恋衣が持っていたお守り袋を見てびっくり。<br />これこそ昔別れた自分のいとしい娘であることが分かり、<br /> 気が狂い鬼と化してしまった。<br /> 以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を喰らい、<br />いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」と言われるようになり、<br /> 全国にその名が知れ渡った。<br /> <br />(宝物館にある鬼婆の什器)

    鬼婆の由縁について、そのあらすじを載せておく。
    (ここの「鬼婆」はその名を「岩手」といい、
    京都のある公卿屋敷の乳母であった。
    永年手塩にかけて育てた姫の病気を治したい一心から、
    「妊婦の生き胆を飲ませれば治る」という易者の言葉を信じ、
    遠くみちのくに旅立ち、たどり着いた場所が、
    この安達ケ原での岩屋であった。

    木枯らし吹く晩秋の夕暮れ時、
    伊駒之助(いこまのすけ)・恋衣(こいぎぬ)と名乗る若夫婦が一夜の宿をこうたが、
    その夜、身ごもっていた恋衣がにわかに産気づき、
    伊駒之助は薬を求めに出ていった。
    老婆「岩手」は、待ちに待った人間の「生肝」を取るのはこの時とばかり、
    出刃包丁をふるって、
    くるしむ恋衣の腹を裂き「生肝」を取ったが、
    苦しい息の下から
    「私たちは小さい時、京都で別れた母を捜し歩いているのです。」
    と語った恋衣の言葉を思い出し、恋衣が持っていたお守り袋を見てびっくり。
    これこそ昔別れた自分のいとしい娘であることが分かり、
    気が狂い鬼と化してしまった。
    以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を喰らい、
    いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」と言われるようになり、
    全国にその名が知れ渡った。

    (宝物館にある鬼婆の什器)

  • 数年後、奥州安達ケ原で行き暮れた那智の山伏 東光坊祐慶の一行が<br />一つ家の燈火をしるべに宿を求めると、<br /> 女あるじは一旦は断るが、たってのの願いに山伏たちを家に入れ、<br /> 糸繰り車を回しながら定めなき身の上をかこち、<br /> 渡世の苦しさを嘆くが、<br /> 夜寒のもてなしに裏山に薪を拾いに出かける。<br />その時、自分の寝間をのぞくなと念を押す。<br />その言葉に疑いを持った能力は、<br /> 祐慶の目をぬすんでのぞき見をし、<br />おびただしい死骸に驚く。<br /> 能力の報告に驚いた山伏たちが逃げ出すと、<br /> 女は鬼女の本体を現わして襲い掛かる。<br /> 祐慶は背にする笈の如意輪観世音菩薩を念じ、<br /> 数珠をもんで一心に祈ると、<br /> 尊像は虚空はるかに舞い上がって、<br /> 一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺してしまったという。<br /><br />その後、東光坊の威光は後世に伝わり、<br />このあらたかな白真弓如意輪観音の功徳甚深なる利生霊験は、<br /> 奥州仏法霊場の随一と称する天台宗の古刹となり、<br /> 1260年に及ぶ今日までその名を遺したのであります。)とある。<br />(鬼婆の由縁おわり) <br /><br />(黒塚と言われる岩屋)

    数年後、奥州安達ケ原で行き暮れた那智の山伏 東光坊祐慶の一行が
    一つ家の燈火をしるべに宿を求めると、
    女あるじは一旦は断るが、たってのの願いに山伏たちを家に入れ、
    糸繰り車を回しながら定めなき身の上をかこち、
    渡世の苦しさを嘆くが、
    夜寒のもてなしに裏山に薪を拾いに出かける。
    その時、自分の寝間をのぞくなと念を押す。
    その言葉に疑いを持った能力は、
    祐慶の目をぬすんでのぞき見をし、
    おびただしい死骸に驚く。
    能力の報告に驚いた山伏たちが逃げ出すと、
    女は鬼女の本体を現わして襲い掛かる。
    祐慶は背にする笈の如意輪観世音菩薩を念じ、
    数珠をもんで一心に祈ると、
    尊像は虚空はるかに舞い上がって、
    一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺してしまったという。

    その後、東光坊の威光は後世に伝わり、
    このあらたかな白真弓如意輪観音の功徳甚深なる利生霊験は、
    奥州仏法霊場の随一と称する天台宗の古刹となり、
    1260年に及ぶ今日までその名を遺したのであります。)とある。
    (鬼婆の由縁おわり)

    (黒塚と言われる岩屋)

  • <br /><br />(黒塚と言われる岩屋2)



    (黒塚と言われる岩屋2)

  • <br /><br />(高さが観音堂の屋根まである)



    (高さが観音堂の屋根まである)

  • 恐ろしい伝説の所で、しかも秋の夜の話であるから、<br /> 芭蕉は「おくのほそ道」に<br />「日は山の端にかかりぬ。二本松より右にきれて、<br /> 黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」と簡単に書いている。<br /> 曽良の旅日記では、長々と道のりから阿武隈川の舟渡しの状況から、<br /> 黒塚の場所、鬼をウズメシ所、観音堂まで、<br /> 書き込んでいる。<br /> 伝説とは言え、各所にいろんな話が残っているものである。<br /><br />お寺の入口で拝観料をお支払いし、右手に宝物館に、<br /> 鬼婆のゆかりの品物が陳列されている。<br /> 1260年前の鬼婆が使用した遺品が保存されている。<br /> 左手に白真弓如意輪観音堂があり、<br /> 手前に鬼婆の岩屋がある。<br />ただ岩屋と書いたが、岩の大きさ、<br /> 屋根となる笠岩の半端でない大きさ、<br /> 阿武隈川岸にどのような自然現象で、<br />このような岩屋が出来たのであろうか。<br /> 伝説より、この岩屋がここにあること自体不思議でならない。<br /> 誰かが持ち運んだにしては、岩が大きすぎる。<br /> 伝説が生まれてもおかしくない岩屋である。<br /> (岩屋の大きさ、高さが観音堂の屋根まである2)<br />

    恐ろしい伝説の所で、しかも秋の夜の話であるから、
    芭蕉は「おくのほそ道」に
    「日は山の端にかかりぬ。二本松より右にきれて、
    黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」と簡単に書いている。
    曽良の旅日記では、長々と道のりから阿武隈川の舟渡しの状況から、
    黒塚の場所、鬼をウズメシ所、観音堂まで、
    書き込んでいる。
    伝説とは言え、各所にいろんな話が残っているものである。

    お寺の入口で拝観料をお支払いし、右手に宝物館に、
    鬼婆のゆかりの品物が陳列されている。
    1260年前の鬼婆が使用した遺品が保存されている。
    左手に白真弓如意輪観音堂があり、
    手前に鬼婆の岩屋がある。
    ただ岩屋と書いたが、岩の大きさ、
    屋根となる笠岩の半端でない大きさ、
    阿武隈川岸にどのような自然現象で、
    このような岩屋が出来たのであろうか。
    伝説より、この岩屋がここにあること自体不思議でならない。
    誰かが持ち運んだにしては、岩が大きすぎる。
    伝説が生まれてもおかしくない岩屋である。
    (岩屋の大きさ、高さが観音堂の屋根まである2)

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