2014/06/15 - 2014/06/18
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hide-bachさん
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奥の細道の須賀川を歩きます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
(須賀川 2)
可伸庵跡を出て本来なら、案内のある十念寺へ向かうのが良さそうであるが、
地図では長松院が近くにあるので、そちらへ先を急ぐ。
車を置いた市庁舎跡に戻り、
そこから長松院まで北へ歩いて数分で到着する。
入口には、大きな石柱があり、右手に万年山、
左側の石柱には長松院と刻まれており、
内側はかなり広くとられていて、車の駐車場になっている。
寺院らしく、鐘楼が見えるその脇に自分の車を駐車させてもらう。
資料では、ここに相良等躬のお墓があることで知られる。
(長松院の門柱) -
(長松院門前で鐘楼が見える) -
(本堂) -
芭蕉は、奥の細道で、
(すか川(がわ)の駅(えき)に等躬(とうきゅう)といふものを尋(たづね)て、
四・五日とどめらる。先(まづ)「白河の関いかにこえつるや」と問う。
「長途(ちょうど)のくるしみ、
身心(しんじん)つかれ、且は風景に魂うば々れ、
懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。
・風流の 初やおくの 田植うた
無下(むげ)にこえんもさすがに」と語れば、
脇(わき)・第三(だいさん)とつづけて三巻(みまき)となしぬ。)
と書いている。
須賀川の相良等躬を訪ねて、芭蕉は一週間も泊まっている。
よほど居心地が良かったに違いない。
等躬に「白河の関越えには、どんな句をお詠みになったのですか」と尋ねられている。
長い道のりを旅してきて、身も心も疲れ、また風景に見とれ、
白河での詩人たちの感慨が身に沁み、腸もちぎれる思いがして、
俳句を詠むまで思いがめぐりませんでした。とは言えと、
・風流の初めや奥の田植うた
の句を挨拶代わりに詠んだ。
長松院の門をくぐり、本堂に近づくと左手に等躬の句碑と墓所の案内がある。
句碑には
・あの辺ハ つくばね山哉 炭けふり 等躬
(等躬の墓所の案内と句碑) -
(等躬の墓所の案内) -
案内に沿って右へ行き、本堂裏手に向かう。
裏手には真新しい無縁仏の墓を積み上げたような巨大なピラミッドがあり、
最上部にはお釈迦様であろうか、銅像が建っている。
その裏手に相良等躬のお墓がある。
立派なお墓で、相楽家の代々のお墓が並ぶ一画に、等躬のお墓はあった。
上部に「心」の文字があり、その下に、「公雄萬帰居士」
隣に妻の「安室喜心大姉」の」法名が並んでいる。
(無縁仏か真新しいピラミッド) -
(相楽家の墓) -
(等躬の墓) -
(十念寺の案内) -
可伸庵跡に戻って、十念寺へ向かう。
古い宿場町であったはずの町には、新しい建物が多く、
案内地図にある家は、建物が新しく建て替えられているものや、
無くなって更地になっているものもある。
これも三年前の地震による影響であろう。
十念寺の手前には割烹旅館でもあったのであろうか、
古い案内地図には、××楼があるはずが、更地になっていて、
その道向こうに十念寺があるはずが、
お寺らしきものは見えるが、お寺らしき門構えが無い。
石柱はあるが、十念寺の文字もなく、
石柱の上にも笠がない。
しかし、十念寺はここしか考えられないので、無名の石柱の門を入る。
参道右手の植え込みの中に「十念寺」の控え目な小さな石柱がある。
その横に芭蕉の句碑はあった。
・風流の はじめや奥の 田うゑ唄 はせを
とある。
左手に市原多代女の辞世の句碑
・終に行く 道はいづくぞ 花の宴 多代女
とある。
(市原多代女は須賀川出身の江戸末期女流俳人として知られているという。
芭蕉の句碑はこの多代女によって建立された。)(須賀川市)とある。
(十念寺の石柱) -
(十念寺の文字も笠もない門柱と本堂) -
(芭蕉句碑) -
(市原多代女の辞世の句碑)
十念寺を出て、芭蕉が尋ねた「石河の滝」別名「乙字が滝」へ向かう。 -
(須賀川 3)
十念寺を出て、国道118号線にでる。
国道118号線を「乙字が滝」に向かって進むが、かなり遠い。
途中、牡丹の時期には混雑が予想される牡丹園を通り抜け、
まだ先かもうすぐか、距離としては10kmほどあろうか。
信号で(乙字が滝は左)の案内看板に沿って進むとすぐ赤い橋が見える。
橋を渡らず、手前左に駐車スペースを見つけ止まる。
すぐ横にバス停(乙字が滝)がある。
橋に向かって歩くと、橋より下流に滝があるようで、
川に入って釣りを楽しんでいる人がみえる。
赤い欄干の橋を渡ると、
「新奥の細道」として環境庁・福島県の案内看板がある。
左手に立派な駐車場とお手洗いが見える。
通路は奥に延びていて、進むと階段下にお堂が見え、
流れる河音が響いて聞こえる。
滝不動に違いない。
(乙字が滝の案内) -
(乙字が滝の入り口)
-
芭蕉に同行した曽良の旅日記(俳諧書留)によると、
(須賀川より東二里ばかりのところに、石河の滝あると言う。
この乙字が滝を見物に出かけようとしたが、
雨で水かさが増し、川を越すことが出来ないからと、止めている。
・さみだれは滝降りうづむみかさ哉 翁
と一句書いて、滝へ案内すると言っていた等雲という人のもとへ、
お送りになった。)(現代語に筆者訳)と書いている。
ボクが10kmほどあると思ったが、曽良も二里はあると書いているから、
およそそんな距離であろう。
通路の奥の階段を下ると不動堂が見え、
これを滝見不動堂という。
玉川村教育委員会の説明板によると、
(不動明王を本尊とする、和讃には大同三年(808)弘法大使の開基と伝える。
江戸時代初期には、代々の白河藩主が参詣探勝し、
堂宇修繕費として竹木資材を寄進した。)とある。
(滝見不動堂) -
この滝見不動の右手に「乙字が滝」が見える。
阿武隈川の底の岩盤に段差があって、
その段差の上を水が流れ、滝に見える。
その段差が10メートルから12メートルほどあり、
「乙」の字のように川底にできている。
玉川村教育委員会によれば、日本の滝百選入選と題して、
次のように書かれている。
(古くは竜崎滝・石河滝とも称した。川幅100メートル・
巨厳横に連なり乙字の形を成す。
川の中央を玉川村と須賀川市の境界とする。
江戸時代白河藩領の頃、遠く海より遡上した鮭、鱒、鮎が、
滝を飛び跳ねるうちに簗に落下する魚が多かった。
多い日には一日千尾を越えるほどで、
これの売買代金は漁猟者の収入になった。
また、ここでとれた初漁は白河藩主に献上することとされ、
藩役人がこの辺に番所を置き看視した。
この役人の食事、宿泊など賄は地元竜崎村が負担した。
その代りに藩に納入する雑税人夫役など免除された。)とある。
乙字が滝、滝見不動堂の案内がある。
(乙字が滝) -
(乙の字に繋がる岩盤) -
滝見不動堂の左手、杉木立の中に芭蕉句碑がある。
・五月雨の 瀧降うづむ みかさ哉 はせお
(芭蕉句碑) -
(俳句が読めるでしょうか) -
(奥の細道 石河の滝の石碑)
乙字が滝(別名:石河の滝)を出て、郡山に向かう。
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