2015/06/11 - 2015/06/12
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ANZdrifterさん
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10世紀から11世紀の社会は、律令制度の国守や鎮守府将軍以下の官僚が私財蓄積に執念をもやし、一方の庶民は極度に疲弊していた。庶民を救済すべく起ちあがった平将門や藤原純友(天慶の乱・939年)や、この圧政をヤマトの侵略ととらえる地元のエミシ(俘囚)の抵抗もある、という時代であった。
出羽の清原氏は10世紀に払田柵(ほったのさく)の現地人(えみし)の官人有力者として登用されて勢力を伸ばした辺境軍事貴族で、これは陸奥の安倍忠良が1036年(長元9年)に陸奥権守に任じられてから勢力を伸ばしたのと類似したエミシ(俘囚)豪族の成長パターンであった。
別旅行記とした前九年合戦(1051年?1062年)は、国守の記録や、京都の貴族の伝聞日記、物語、絵巻など資料が多いが、1083年から1087年の後三年合戦については絵巻物を元にした物語のような二次史料しかない。そのため不明点が多いが、合戦の大筋は次のようにまとめられる。
1083年当時の清原氏の棟梁は、清原武貞の嫡子・真衡である。父・武貞は前九年合戦で処刑された藤原経清の妻を子の清衡とともに得て家衡を生している。つまり、真衡はエミシから初めて鎮守府将軍になった清原武則の孫にあたり、清衡は義弟で、家衡は異母弟であり、みずからも鎮守府将軍であった。
真衡には子がなかったので海道平氏から養子をとったが、その結婚式に祝いの品を持参した叔父・吉彦(きみこ)秀武を無視、秀武は無礼を怒って贈り物を庭に投げ捨てた。それに怒った真衡が秀武を討つために軍を発したのが後三年合戦の発端となったとされ、この親族間紛争の主戦場は出羽国であった。
つまり、安倍氏の後をついで北部東北に覇を唱えた清原氏の内輪揉めに始まった内紛に、陸奥守として赴任してきた源義家(八幡太郎義家)が、清原家の嫡子:真衡に与して介入した争いである。
叔父を撃つべく出陣した真衡の留守を、清衡と家衡が襲ったので真衡は兵を戻して一時の安定を見たが、再度出撃した真衡は突然死してしまった。
陸奥守・源義家は清衡・家衡に安倍氏の遺領の奥六郡を分割統治させた。
この義家の裁定が不満の家衡は異父兄・清衡を襲撃して妻子を殺したが清衡はかろうじて生き残った。
源義家は清衡に与して家衡が籠った沼柵を攻撃したが冬のため敗退した。
という経緯を経て、横手市の北にあった堅固な金沢柵に立ち籠った家衡と叔父・武衡の連合軍を、清衡・吉彦秀武・源義家連合軍が兵糧攻めにして破った。というのが後三年合戦の概要である。
清原氏の内輪もめに義家が介入した後三年合戦のあと、清衡は安倍氏の遺領の奥六郡を領して姓を実父の藤原に戻し、奥州藤原氏を確立した。
平泉の柳之御所の構造は清原光頼・頼遠父子の本拠地・横手市大鳥井山遺跡に酷似しており、平泉の12世紀の出土品の白磁、かわらけ、鉄鍋、石硯などは、11世紀の大鳥井山遺跡出土品と種類・形状が類似しているなど、藤原清衡は青年期を過ごした清原氏の文化を受け継いで、平泉を建設し、東北の覇者となったことが推察される。
今回は横手市の清原氏の本拠地・大鳥井山遺跡と、沼柵跡、金沢柵跡、後三年合戦金沢資料館を訪れた。
なお、この戦いは私戦とみなされて朝廷からの恩賞がなかったが、義家は私財で部下に報償を与えたという。陸奥守という地位ではその程度の蓄財ができたということを示すかもしれない。
このことが武士の主従関係を示す初期の実例らしい。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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横手市内の清原氏の本拠だった大鳥井山遺跡です。北側の川は横手川です。
この地形は北上川畔に造られた平泉の高舘山によく似ているので、清衡は青年期を過ごしたこの遺跡に強い印象を受けていたと思われます。
横手市から市民プール(図の右下)までタクシーで行きましたが、横手バスターミナルから大曲行バスで新坂町下車、徒歩3分です。 -
簡単に登れる山頂には大鳥井山神社があります。祭神は月夜見大神ですが、社殿には遠藤三郎が彫った石仏も安置されているそうです。
このてまえの平地が発掘調査されて、平安時代に特徴的な四面庇建物跡が発見されています。(埋め戻してある)
遺跡空白の時代とされる11世紀の稀有な存在で、山全体が国指定の史跡となっています。この場所は絶対に見るべき見事な遺跡です。 -
大鳥井山神社の近くにはこのような人工的に作られた平坦地が 三段ほど認められた。
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社殿の後ろには仏像が並んでいました。
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円形に並べられた石仏です。
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綺麗な、見事な石仏が多かった。
これは斜めになったままの観音様? -
大鳥井山神社から東に延びる尾根には室町期から近世にかけての塚が並んでいる。
十三塚と呼ばれ市の指定文化財ですが、宗教と関係あるか不明だそうで、集落の境界に造られるとか 丘陵上に並べられるとかのものらしい。 -
山麓にある濠の跡。山を取り囲むように長く掘られている。
平安時代から、草に埋もれたまま残っていたとは思えないほど綺麗な濠です -
源義家が攻めきれなかった沼の柵を訪ねました。
横手駅の西南西 約12kmに沼館地区があり、横手市の分庁舎や郷土資料館などがあるが、アクセスは横手と本荘をむすぶバス(一日10本)の新道角から徒歩10分あまりと、かなり不便である。
今回は東京から新幹線で北上乗り換え、14:55分横手着で、15:30に駅前バスターミナル発の沼館行き(一日3本)に乗って16;16分着。770円でした。
1時間で回れば17:20分沼館発のバスがあるが、夢中になって乗り遅れたので横手駅西口までの4500円のタクシーという痛い出費でした。 -
バス終点から国道13号を少し北上して、上の写真の向かい側、パチンコ屋の隣道を入って「曲がりまっすぐ」で歩いてゆくと沼の柵跡です。
途中にはこのような案内表示があります。野球のスタルヒンの墓もこの地区にあります。
ここから蔵光院に向かいます。 -
沼の柵跡とされる遺跡の土塁です。高さは8mくらい、下幅は14mもあります。
最近の研究では柵の位置について異説もあるようですが、洪水による水没範囲の図面ではこの地区と、和鏡が出土した干刈田地区だけが水没をまぬかれているので、「湿地に囲まれて水柵と呼ばれた」沼の柵の有力な候補地であることは間違いないと思います。 -
かなり立派な土塁が寺を囲むように長く続いていました。
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蔵光院の入り口には立派な石碑が立っていました。
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とても立派な蔵光院の山門です。
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本堂は小さく整っていました。
この左側に窪地がありました。 -
本堂に向かって左側です。いくつもの石仏がありました。
その後ろは窪地で、小さな池がありました。
窪地を掘って土塁を作ったのかもしれない。 -
立派な 宝篋印塔もありました。
その後ろが人工的な窪地。 -
境内の奥にも 土塁が伸びていました。
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山門を内側から見ました。
両側に土塁があるので おそらく後世に土塁を切って山門を作ったのでしょう。 -
念のため、繰り返して山門と石碑です。
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沼の柵から、歩いて沼館八幡を訪れました。
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納豆発祥地と書いてあります。
沼の柵の家衡軍を攻めた清衡・義家軍が撤退するときに、馬上に置いた茹で豆が糸を引くようになったのが納豆の始まりだそうです。
お祭りでは納豆を配るとか -
最後に清原家衡と叔父の武衡が立てこもった要塞の金沢柵を訪れました。
これは金沢八幡宮で金沢柵跡と言われています。
源氏に八幡神社はつきものですが ここを攻撃し、のちに京都の石清水八幡を1093年に勧請したのが鎌倉八幡で、そこで元服した「八幡太郎義家」など いろいろな興味をそそる。
のちに城として整備され、この北に北の丸、東南側が本丸で、南に西ノ丸がある。 -
城跡には 分かりやすい案内版が建っている。
西ノ丸は 千任(ちとう)の口いくさ の場所である。
「前九年合戦のとき、源氏は清原に臣下の礼をとって応援を依頼して ようやく勝つことができたのに 今や弓を引くとは何ごとか」と 千任が源氏を罵った。
戦後 千任は舌を抜かれ 残虐に殺された。 -
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兜杉の根元が残されて保存されている。
源義家が兜を置いた場所を記念して 清衡が植えたという樹齢900年の杉があったが、失火で焼けた残りが保存されている。 -
山中には各所に防御のために掘られた空堀が残されている。
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わかりにくいが中央のくぼみが空堀。
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ここも 納豆発祥之地だそうです。
伝説は同じように 馬上で発酵して納豆ができたというものです。 -
鎌倉権五郎景正が 片目を射抜かれ その矢を抜くべく顔に足をかけたところ 景正がその戦友に刃を向け無礼をとがめた という逸話の地。彼は当時16歳であった。
伝説は東北地方から関東各地まで各地に広がっている。矢が刺さったのは右目とも左目ともいわれ、片目を洗った川のカジカが片目になったとか、カジカではなくてドジョウ、蛇、鯉、狐、狸であるとか、いくつものバリエーションがある。 -
後三年の役金沢資料館。金沢神社の宝物殿から発展したので神社が所有する遺物が展示されているため、中は撮影禁止となっている。
後三年合戦の資料がそろっているし、親切なキュレーターがいる。
後ろの山に陣舘遺跡があるが、発掘後に埋め戻したという。
陣舘遺跡と金沢神社の遺跡をあわせて 金沢柵 らしい。 -
国道沿い大曲方向に 500mの所に 道の駅がある。
稲庭うどんなど県内の名物だけでなく、山菜も売っている。
付近には商店がないが ここで食事をできるのがありがたい。 -
兜をイメージしてデザインされたという JR 後三年の駅。
上の道の駅からタクシーで1600円かかった。
途中何もない水田地帯を歩くのも芸がないので、やむを得ず・・・・でした。 -
後三年駅には合戦の絵が大きく書かれていた。
ミニ・バスセンターを作るなど、住民移動の便も考えて、これらの史跡をバスで回れるようにできれば、歴史好きにはたまらない場所です。
特に、源氏が東北に勢力を伸ばし始めたころの歴史と、先住民(俘囚・エミシ)の国との相克を自分の立場で考えることが 大切だと思いました。
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