2015/06/02 - 2015/06/04
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ちどり OYAJIさん
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1890年トルコの特使オスマンパシャの乗る軍艦エルトゥールル号が、明治天皇に謁見し帰国の途、和歌山県紀伊大島樫野崎にて台風により遭難して125年。今年も5年ごとに行われ追悼式典に参加してきました。
今年は洋上慰霊式典のためトルコからはるばる軍艦もやってきたのですが、式典の日は台風を思わせる雨と風、式典は大きく変更を余儀なくされました。それでも125年前の串本樫野の人達の献身的救助活動、そしてその恩を忘れないトルコの人々、そして1985年イラン イラク戦争が激化する中、日本本国からの救援はない中トルコの救援機が215人の邦人救出を行ってくれた素晴らしい歴史をまた実感し、涙涙の串本行きとなりました。
感動的な皆様からのお言葉、ご挨拶、追悼文を掲載します。 涙にかすむ目で一生懸命メモを取りましたが、一言一句までは正確ではありませんが、大意は外していないと思います。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 新幹線 JR特急
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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10:07品川発の新幹線で新大阪経由串本に向かいます。
例によって旅の安全祈願の写真です。 -
12:33 新大阪着、15:00の特急くろしおまで時間があります。新大阪で腹ごしらえです
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6月2日は18:18串本町に着きHTLへチェックイン。その後串本町文化センターで行われたトルコ軍楽隊(海上自衛隊呉音楽隊共演)のコンサートに参加しました。大音響のトルコ軍楽隊でした。
写真は翌日の朝・・・雨です 風も管理強いです
洋上慰霊式典は中止となり、陸上慰霊式典も殉難将兵慰霊塔前から串本文化センターに変更して行われました。 -
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慰霊式典 東京ジャーミーの方の慰霊
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串本町文化センタで行われた慰霊式典
彬子女王殿下お言葉(要旨)
125周年追悼式典の開催に感謝します。125年前に犠牲になったエルトゥールル号の乗組員の家族の皆様に哀悼の意を表します。
1890年の起きた痛ましい事件にたいし大島島民の皆様が献身的看護をされました。明治天皇のおぼしめしにより救助された兵士たちが、金剛・比叡によってトルコに送り返されました。このことを記念して日本トルコ友好の初年度とされました。
この両国の絆が1985年のテヘランにおける邦人215人の救出につながりました。3年前にお隠れになった父(寛仁親王殿下)は「海の恩の空で返すとは粋なことをするな」とおっしゃっていました。
5年前2010年の日本トルコ友好120周年記念式典にも父とともに参加致しました。手術によって声が聞きとりにくくなってしまった父は、私にお言葉の代読を申し付けました。考えてみればあの時父は「トルコのことは宜しくたのむよ」と私に言っていたのかもしれません。
時間の流れは時に残酷です。時の流れによって忘れ去られてしまうことがあります。でもトルコでは学校の授業でもエルトゥールル号の事を教えてくれて、串本のみなさんも5年ごとにこのような事業をやってくれております。
お集まりの皆様と一緒に、先人たちの心を紡いで、130周年140周年と心をつないでいきたいと思います。 -
慰霊式典 トルコ国民大議会議長あいさつ(要旨)
125年前に起きた事件によって遭難いたしましたことが友情の発端となっております。トルコ国民を代表して日本国民の皆様に感謝の気持ちを伝えたいと思います。
1887年小松宮殿下がトルコにお立ちよりになり、勲章をいただきました。その返礼として勲章 親書を明治天皇に謁見し帰国の途中、串本で事件に遭遇しました。オスマンパシャ以下532名が死亡しました。このとき大島島民が献身的救助に当たってくれました。大きな軍艦が遭難するような天候の中ですから、その救助はとても困難を極めたと思います。危険をおしての救助活動に感謝をいたします。
トルコ民族の一員として、島民の勇敢さを忘れることはありません。食べ物を与え、介護をしてくれて、亡くなった人に対しては慰霊をしてくれました。義援金も集めてくれました。そして救助した兵士をトルコに送ってくらました。
兵士をトルコに送ってくれた軍艦比叡・金剛の名をトルコ軍艦ゲリウスの2つのサロンに命名することとなっております。
69人と救助された兵士たちは日本人の事を広くトルコの中で伝えました。したがって我々はこの不幸な出来事が友情の発端になったと考えます。
殉難将兵の慰霊碑の清掃をしてくれている、大島小学校 大島中学校の校長先生、先生方、生徒の皆さんに感謝します。
トルコと日本の友情の映画も間もなく出来上がります。エルトゥールルのエピソード、テヘランから助けられた人々のエピソード、友情が深まると思います。
トルコと日本の深い友情は、2013年に戦略的パートナーシップの締結となりましたし、国交90周年にもなりました。世界平和と安定のために貢献している両国です。
目指すものはこの友好協力関係があらゆる場面で発揮されることでしょう。
最後に、この串本・日本の皆様に感謝いたします。祖先の大切な思いを将来につなげ、日本の祖先に安らかならんことを祈ります。 -
串本町大島小学校代表児童の献花
田嶋串本町長の挨拶
ここ串本町樫野崎の地で彬子女王殿下のご臨席の元日本トルコ友好125周年記念式典が開催されますことをうれしく思います。オスマンパシャ以下英霊に哀悼の意を表します
6月3日は昭和天皇が樫野崎に行幸をされて、殉難将校の慰霊碑に会釈を賜った日であります。
今日は両国の友好関係を願う人達と集い英霊に頭を下げるとともに関係の人達の悲しみに思いをはせています。
(トルコ語で)「勇敢なエルトゥールルの英霊たちへ、あなたたちが命をかけて築いた友好を引き継いでいくことを誓います。死してなお、日本トルコ友好の礎になっている皆様に敬意を表します。」 -
慰霊式典後トルコ海軍関係者と大島小学校の児童たちの記念撮影
トルコ海軍総司令追悼文
この海で永遠の眠りについた殉難将兵に哀悼の意を表すためにこの地にきました。殉難将兵に思いを寄せるこの式典に臨み、幸せ・悲しみ複雑な思いで、心は悲しみに包まれます。
トルコと日本の友好のために海軍が向かい、遠く祖国から離れたところで日本トルコの永遠の友情の礎になった将兵は将来の道を示しています。
エルトゥールル号が遭難し、日本海軍が示した寛大さ、島民の献身的救助、日本の勇敢な国民のことはトルコ国民の胸に刻まれています。 日本人はトルコ人にとって特別な民族です。日本国海軍に感謝します。
6月3日は昭和天皇陛下が会釈をいただいた感謝の日です。
兵士は、あなたたちをわが子のように大切にしてくれる日本の人達の元で安らかに眠ってください。
関係された各位に感謝を申し上げます。
海上自衛隊幕僚長 竹井海将追悼文
587柱に哀悼の意を捧げます。大役を果たされた後に串本にて事件に遭難し海底深く沈まました。
元より、海軍は千変万化の中で働き、国家国民を守ることを職責としております。エルトゥールル号も職責を果たし帰国するところでありました。
今、祖国を遠く離れた国に眠ることを考えると同じ職責の者として万感の思いを致します。
大島島民の皆様が献身的な救助活動をされたこの行動は変化する環境の中で両国を結びつける礎となってきました。
水平線の向こう1万キロメートルにエルトゥールル号の祖国はあります。今の平和な友好がエルトゥールル号の英霊と島民の力によって築かれているのです。
これからも日本トルコのために働く所存です。最後にこの日本トルコ友好125周年記念式典の開催に当たられた皆様に感謝申し上げます。 -
今回トルコ国防省からエルトゥールル号の銅像が贈られ除幕式が開催されました。
贈呈側 メリチ 駐日トルコ共和国全権大使挨拶
(日本語で)串本町はトルコと日本の友好に取って特別なところです。エルトゥールル号遭難から125周年という節目の年に当たり、トルコ国防省から友情の新たなシンボルとして銅像を送ります。串本町との末長い友好を祈念し挨拶とします。 -
送られたエルトゥールル号銅像(串本ロイヤルホテル内に設置されています)
田嶋串本町長謝辞
彬子女王殿下のご臨席の元、除幕式ができたことは町民の喜びであります。
尽力いただいたトルコ政府、トルコ海軍 関係者の皆様に感謝申し上げます。エルトゥールル号の遭難から125年、追悼を通じて両国の友好を発信する活動をこれからも続けてまいります。
樫野崎には慰霊碑、記念館などがありましたが、本土側にはありませんでした。トルコ国防省からエルトゥールル号の銅像が贈られる打診があった時この場所への設置を調整させていただきました。樫野崎を望むこの地に設置され、エルトゥールル号の舳は樫野崎に向けられています。
日本語で「船出」という言葉には「出港」という意味の他に「新たな出発」という意味があります。この銅像が日本とトルコの新たな友好の船出となることを祈っております。 -
6月3日19:30からの祝賀レセプション
メリチ大使挨拶 -
挨拶するメリチ大使
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6月3日 朝5時から洋上慰霊式典受付に望みましたが・・・悪天候で中止の張り紙・・・
この後ホテルの露天風呂に行きました。風呂の水が風で横に飛んでくるような環境で、外国人が入浴していました。クレージーなお方と思い話しかけたら・・・なんとパキスタンとアゼルバイジャンの駐日大使でした。「船には乗れなかったけど、いい風景を見ながら温泉に入れて最高、 雨?雨の中の温泉もいいじゃないか」とおっしゃっていました。 -
慰霊式典は大変な雨と風によっていろいろ変更を余儀なくされましたが・・・翌日は打って変わって最高の天気(くやしい)
串本町から電車に乗り紀伊勝浦で途中下車して温泉を楽しんで帰ります。
写真は橋杭岩に上る朝日 -
紀伊勝浦に向かう車窓から 美しい海の色
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紀伊勝浦 浦島ホテルでたっぷりと素晴らしい温泉に浸からせていただきました。
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勝浦でおいしいお魚とお酒をいただき、名古屋から新幹線で・・・・ 日常に戻ります。
今回はあいにくの雨で、予定通りのイベントの開催ではなくなり残念でしたが、ここまで準備されてきた関係者はもっと悔しい思いかと推察します(当日は環境変化への対応でそんな感傷に浸る時間もなかったと思いますが)125年目にエルトゥールル号の遭難者を救助した樫野の皆様 そしてその末裔の皆様、30年前に戦火のテヘランからトルコエアーによって救助していただいた皆様(私はその一人です)日本とトルコの友好関係がさらに深まることを願っています。 そしてこのことを世界に向けて発信してくれる映画「海難1890」の大ヒットを祈念しています。
串本の皆様大変お世話になりました。お疲れ様でした。
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この旅行記へのコメント (4)
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- ねんきん老人さん 2015/06/07 19:56:20
- 誠実なお人柄に感じ入りました。
- ちどり OYAJI 様、こんばんは。
イラクからの脱出行を経験された方の文に接し、東京にお住まいなのにわざわざ串本までお出かけになったその誠実さに胸が詰まりました。
また、多くの方々の挨拶をよくも克明にメモなさったものだと、その真摯な努力に深い敬意をいだきました。
私は千葉県在住で、トルコには何の縁もありませんが、エルトゥールル号のことは子供のころから知っており、深い関心をもっております。
そしてその私は、自分なりにあの事件のことを調べ、もちろん浅学のそしりを承知で申し上げるならば、日本に対するトルコ国民の謝意、尊崇などが実は過分な上にも過分であると思うようになりました。
日本はあの事件で、トルコ国民が思ってくれているように気高い対応をしたのでしょうか。
あの事件で本当に献身的な努力をしたのは紀伊大島の島民だけであり、日本政府や日本海軍はあの事件を利用しただけだったのではないか、と私は思っています。
トルコ機によるイラク脱出を恩義に感じ、わざわざ大島まで出かけて行かれたちどり OYAJI様のような誠実な態度でトルコに接している日本人が何人いるでしょうか。
トルコ国民の過分な親日感情に甘え、ときに優越感をもってトルコ国内を我が物顔で歩き回っている日本人観光客の唾棄すべきマナーなどを考えると、私はトルコ国民に申し訳ないという気持ちを抑えることができません。
ちどりOYAJI様の旅行記を読んで、これからのトルコと日本との良好な関係に、改めて思いを致した次第です。
よい旅行記を読ませていただきました。ありがとうございました。
なお、私は自身のいい加減なホームページにエルトゥールル号事件についての雑駁な考察を載せています。
もし退屈な時でもありましたら、暇つぶしにご一読いただけたら幸いと思います。URLは下記の通りです。
http://zatsunen4989.web.fc2.com/hitorigoto/033_ertugrul.html
ねんきん老人
- ちどり OYAJIさん からの返信 2015/06/07 21:36:40
- RE: 誠実なお人柄に感じ入りました。
- ねんきん老人様
ご丁寧な書き込み恐れ入ります。
ねんきん老人さんの手記のページも拝見させていただきました。おっしゃる通り、1890年の事件は日本の一大事でもなければ、和歌山の一大事でもなかったのだと、3回串本を訪れて正直感じております。当然当時は橋などがあるはずもなく、ひとたび海が荒れれば孤島となる紀伊大島樫野で起きた夜中の事件です。多くの日本人がエルトゥールル号の事件など知らないように、和歌山の市民も同じ状況だと思います。串本の本土側にも同じような状況があります。もっというなら、大島小学校では慰霊碑の清掃などを定期的に実施していますが、これも今までは樫野小学校の児童がやっていたこと。今になって小学校が合併して大島小学校の行事となったまでで、 紀伊大島の中でも全島挙げてということではなかったようです。
先日大島港で育ったという方とお話をする機会がありましたが、語り継がれるエルトゥールル号の話は小学校では聞いたことはないと言っておりました。
海に生きる島の人達が、海で遭難した人達をわが身のように思い助けたということでしょう。そこに幸せだったのは、良いリーダーの村長がおり、無償の救助をいとわない医者がいたことだったのではないでしょうか。
でも、そのことがあったおかげで、私は1985年に戦火が拡大し空襲が続くテヘランからトルコエアーによって救助されました。
飛行機の安全が保障できないから飛べないとか、労使の意地の張り合いで救援機を出せない祖国に対し、日本人の安全が脅かされているから救助に来たトルコエアー。それをエルトゥールルの恩返しだよと軽く言ってのけるトルコ人。
2010年にイスタンブールで(日本総領事の計らいで当時のトルコエアーのクルーとお会いしました。http://4travel.jp/travelogue/10508389
このとき、当時の客室乗務員の方から25歳になる娘さんを紹介され、「この子があの時私のおなかにいた子よ」と言われた時の感動・衝撃は忘れられません。妊娠初期の不安定な時期なのに、親にも夫にも妊娠を告げず危険極まりないテヘランへのフライトに自ら志願したのです。
まあ 政府やいろいろな団体にはいろいろな思惑もあるでしょうが、誰も手を差し伸べてくれない環境から救ってくれたのは「困っている友達を一人にしない」というトルコ人の心ですし、「エルトゥールルのことは忘れていないよ」と言ってもらえる下地を築いてきた紀伊大島樫野の皆様への感謝の気持ちは変わりません。
映画海難1890も12月5日に公開されます。
是非見ていただき、また感想などを交換できればと思います。
宜しくお願いします。 ちどりOYAJI
- ねんきん老人さん からの返信 2015/06/07 22:25:20
- またしてもショックです。
- ちどりOYAJI様
早速お返事をいただき、ありがとうございます。
私が少ない文献から知った「受け売り」の雑文を読んでいただいて恐縮です。
そして新たにちどりOYAJI様のお返事の中にあったいくつかの事実を知って、私などの浅い調べではたどりつけないことが沢山あるものだと痛感しました。
その中の、大島小学校の卒業生が、小学校でエルトゥールル号のことを教わっていなかったというのはショックでした。
慰霊碑の清掃も大島小学校ではしていなかったということですから、合併によって樫野小学校の地道な取り組みの「華」の部分を大島小学校が横取りしたような感じがしました。
また、トルコの日本領事館でのやりとりとそれに至ったいきさつなども感動しました。
もしお許しいただけるなら、私のHPの記事に、「ちどりOYAJI様の手記から新たに学んだこと」と注釈を加えた上で、いくつかの話を書き足したいものだと思いました。
あえてしばらく私の中で咀嚼した上で、書き足した部分を事前に見ていただき、ご許可をいただけたら更新したいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。
ネットサーフィン気分で拝読した貴旅行記ですが、今日は大きな収穫が得られました。ありがとうございました。
ねんきん老人
- ちどり OYAJIさん からの返信 2015/06/15 21:13:50
- RE: またしてもショックです。
- > ねんきん老人さん
すみません、すっかり返信をしたつもりでおりました。
ブログの件、事前に確認させていただけるならOKですよ。
よろしくお願いします。
チドリOYAJI
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