2015/04/24 - 2015/04/26
74位(同エリア160件中)
jugiさん
北陸新幹線開通ということで、注目を集める加賀一万石の都金沢。
それとずっと行きたかった倶利伽羅峠。
交通がお手軽になったついでに、金沢観光も交えて。
それから、弁慶が好きな連れのために義経記より勧進帳の舞台、安宅の関も。
☆4月23日 夜行バス
☆4月24日 義仲の倶利伽羅峠@1日目
4月25日 金沢普通の観光@2日目
4月26日 義経北行逃避行@安宅の関
☆旅にあたって読んだ本☆
もうまとめきれないので後日まとめマス。
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
朝7時金沢駅到着☆
駅ナカの喫茶店で朝食、近くのAPAホテルにて朝風呂をいただき、準備をしていざ倶利伽羅峠!
倶利伽羅峠まではあいの風とやま鉄道に乗って20分程、石動(いするぎ)駅で下車です。 -
レンタサイクルを借りるため、駅に併設されている案内所へ。
職員のおばさんと世間話程度に倶利伽羅峠へ行きたいとお話をしていたら義仲のことで超長話に…w
小さな部屋に義仲関係の文献の納められた義仲文庫が。
素晴しいのです。本当に。
読んだことないもの、たくさんありました。うらやましすぎて本の写真撮ったよね。後日探して読もうと思って…(笑)写真はその一部。
だってブックオフで探しても見つからないような古い少女マンガから、最近出た小説まで。果てはデアゴスティーニ的なムックまで義仲の関連のものはかなり揃ってました。素晴しい。全部読みたかったよ…!
なんていうか、地元の方はこの歴史をとても大事にしていて、それがとてもうれしかった…!
不遇の英雄、平家物語の中では礼儀を知らない田舎者、粗野で愚か、死に様もかっこ悪く生々しいくらいに記されているけれど、それでも尚なんかよくわかんないけど惹きつけて止まない魅力があると思う。
確かに田舎者ではあったけど、純朴で誠実な、やさしい人だったんじゃないかなーなんて。
わたしは平家物語だけを見てもそう印象を持っていたけど、さらに義仲視点での小説「義仲、これにあり」を読むと、本当に私欲のない、そして欲がないゆえに都の策謀に抗えずに成す術なく死んでいった…そんな彼を思い浮かべます。 -
お話で1時間ほどすぎた程、ようやく電動自転車をお借りして(なんと市の施設ということで無料でした)出発です。
まずは、埴生護国八幡宮へ向かいます。
道中見かけた排水溝の蓋。
源氏の笹竜胆と平氏の蝶紋、二つの家紋が並んでました。
でも正位置は反対なのね…。 -
進軍の始まり。
義仲が戦勝祈願したと伝わる埴生護国八幡宮。
その折、どこからともなく三羽の白鳩が源氏の白の御旗の上を飛び回ったとか。
八幡様はもともと武運の神様で、源氏にもゆかりの深い神社。氏神様です。
白鳩は八幡様のお使いです。 -
結構新しいと思われる一ノ鳥居を潜ると小スペースがあり、(観光センターの人曰く)銅像では日本最大級といわれる義仲さんの騎馬像があります。
(馬の)尻がぷりっぷり。
ちなみにすぐ隣には小さな資料館がありました。
倶利伽羅峠の戦いに至るまでとその後粟津で敗退するまでの木曽義仲の説明などの展示でした。
ここにも、義仲文庫がそろってました。素晴しい。 -
埴生護国神社には戦勝祈願のときの文書、木曽願文が残っているそうです。
見たい場合は事前に連絡だそうで…。
予約制の情報を知らず、宝物館の前の立札に書いてあった電話番号へその場で電話してみましたが、ご不在のようでした。
写真は観光案内所にあった木曽願文のコピーです。
そもそも残っているものも控だそうですが…、見たかったナー…(泣) -
のんびりしてるまもなく電チャリをこいでひたすら畑しか見えない道を行く(笑)自販機すらなくてどうしようかと思ったw
ちなみに普通のチャリで行くのはオススメしません。オススメしません。(大事だから二回言った)
倶利伽羅の山の上まで行くには、道が二つあり、一つは徒歩で行くために整備されている歴史国道。砂利道のため自転車ではつらいです。
一方は主に車のための道源平ライン。自転車ですがこちらを選択。
どちらかというと歴史国道は奈良万葉のころからの道として紹介されており、源平合戦の史跡は源平ラインの方に偏ってます。
写真は中腹の矢立山。
こちらはもともと今井兼平(義仲の乳母子)の陣があったところで、戦いの始まりに矢合わせをしたときに平家軍の放った矢がたくさん刺さったことから矢立山と名付けられたそうです。 -
GWには山頂にある倶利伽羅不動の桜まつりが開かれるそうです。
こちらの桜は八重桜。ちょうど見ごろでした。
写真は途中で源平ラインと歴史国道が交わるあたり。 -
さらに坂道を登っていくと、左手に源氏ヶ峰、の看板が。
こんなわかりやすく書かれちゃー行くしかないじゃないですか。
自転車を停めて錆びた階段を登り、道なりに沿っていくこと5分程。 -
最終的には特に何もない小さな平地部分に石碑がたってたくらいでした。
ちなみに源氏ヶ峰のあたりには平家の軍が布陣していましたが、義仲さんが占領したので、源氏ヶ峰、と名づけられた、とのこと。 -
寄り道も大概に、登っていくとようやく開けた場所へ。
こちらは猿が馬場。
平家本陣が布陣した場所です。
作戦会議をしたという軍議石。
びっくりするぐらい真っ平な石。 -
石には並びまで書いてありました。
総大将は維盛。
清盛の嫡男・重盛の嫡男です。
光源氏もかくやと謳われた美男子だったけど、戦のセンスはなかったみたいで、富士川・倶利伽羅とつづく敗戦ののち、ひっそりと戦線を抜けて熊野で補陀落渡海(捨身行)…というなんとも可愛そうなお方…。 -
案内板が義仲と巴!(たぶん)
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山頂付近の開花具合はこんな感じ。
-
倶利伽羅峠の戦いの概要を、かんたんに。
以仁王の令旨を受けて起った源氏の一人、木曽義仲。
各地で起きた反平家運動の一部です。
源平盛衰記によれば、当時まだ京都に在って勢力のあった平氏の軍は一説によれば10万余。
対する義仲率いる北陸軍は3万余。
数の上で圧倒的劣勢ではあるけれど、戦場が山であれば峠は狭く、一挙には押し寄せられない。義仲軍は、陣をいくつかに分け、山頂の東から南にかけてを包囲する形で布陣。
さらに樋口兼光(今井兼平の兄)を平家軍の後ろに回り込ませて退路を断つ陣形にした上で、夜襲+火牛の計としました。
夜になって、近隣より集めた松明を角にくくりつけた牛を平家の陣めがけて放つ、というのが火牛の計です。
元ネタが中国にあって、実はこれはそれをパクって脚色しただけ…というのが通説ですが、実際あったかどうかはこの際どうでもよろしい。
そんな、火牛の像。 -
山頂の物見やぐらより。
ちょっとした休憩スペースになっています。
山登った感ある。 -
すぐわきに源平供養塔。
芭蕉の句碑やら平家物語記念碑やら、このあたりにはやたら碑関係が多いです。 -
そして目的地、倶利伽羅不動尊。
-
時間が足りなくてよれなかったところ。
奥へ行くと巴塚・葵塚があろうそうで。
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