2015/04/24 - 2015/04/26
151位(同エリア270件中)
jugiさん
北陸新幹線開通ということで、注目を集める加賀一万石の都金沢。
それとずっと行きたかった倶利伽羅峠。
交通がお手軽になったついでに、金沢観光も交えて。
それから、弁慶が好きな連れのために義経記より勧進帳の舞台、安宅の関も。
4月23日 夜行バス
4月24日 義仲の倶利伽羅峠@1日目
☆4月25日 金沢普通の観光@2日目
☆4月26日 義経北行逃避行@安宅の関
☆旅にあたって読んだ本☆
もうまとめきれないので後日まとめマス。
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 高速・路線バス 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
-
金沢駅からJRで30分南下し、小松駅へ。
小松駅は小松空港への最寄り駅です。
駅の観光案内所で、再び電動チャリを借りてまずは多太神社へ。 -
敷地へ入るとすぐに見えるこちらの兜。
実際に奉納されたといわれる兜も宝物館にあるそうですが、こちらも無人のため見ること叶わず…!
(こちらも事前予約制だったようです) -
むざんやな 甲の下の きりぎりす
平家物語ファンの芭蕉さんも訪れてます。
そうだよね、とりわけ義仲が好きな芭蕉さんが来てないわけがない。(笑)
※芭蕉さんは望んで義仲の没地、滋賀の義仲寺に葬ってもらってるくらいの義仲ファン。
こちらは斉藤実盛ゆかりの神社ですが、実盛は義仲と深いゆかりがあるのです。 -
こちら斉藤実盛の像。
で、実盛がなんなのかというと…
義仲は命の恩人であった実盛を討って(正確には義仲の部下だけど)しまい大泣きするというイベントがあるのです。
※もう少し詳しく
源義朝(頼朝・義経の父)の弟、義賢は義朝の息子(義平)に襲撃されて亡くなります。
その時義賢の二男駒王丸は2歳。
そんな子供まで殺すことを不憫に思った実盛は義賢の妻と子を木曽の中原氏のところへ落ちさせます。
時は過ぎて義仲と名を改めた駒王丸は、挙兵し平家の軍勢と戦うことになります。
一方実盛は義朝が亡くなった後は平家方についていました。
平家は(鎌倉軍に)富士川の合戦で敗け、その後台頭してきた義仲勢と倶利伽羅峠で戦い、無惨なほどの敗北を蒙りました。
敗戦ののち篠原で追い打ちされ、それを防ぐために残ったのが実盛でした。
実盛は死を覚悟して赤い錦の直垂と萌黄の戦装束(つまり超ハデ)、さらに、白くなった髪を墨で黒に染めて戦いに挑んだのでした。
戦いが終わり、首実検した義仲はそれが見覚えのある顔だと思い、池で洗ったところ黒い髪は白髪になり、義仲は幼い時自分を助けてくれた恩人だと確信し、大泣きしたのでした。
その、実盛。(…うまく説明できませんでした、、興味ある方はググってください) -
多太神社から川沿いに電チャリを漕ぐこと30分ほどで、川は海にぶつかります。
日本海!
晴れ女すぎて雲一つないよ!
結果見事に手の甲が焼けました…。Oh…。 -
日本海のほとりにある安宅住吉神社。
こちらは難関突破の神社で有名だそうです。
なんで難関突破かというと…安宅、の名前でわかるとおり、安宅関があった場所なのです。
安宅といえばお能、さらに勧進帳といえば文楽や歌舞伎の演目で有名ですね。
平家を壇ノ浦にて滅ぼしたのちの頼朝・義経は不和となり、義経一行は兄の追手から逃げるために山伏に身を窶し、奥州平泉まで落ちようとしていました。
その道中、最大の難所だった安宅の関です。 -
勧進帳
それ つらつら 惟んみれば
大恩教主の秋の月は 涅槃の雲に隠れ生死長夜の 長き夢驚かすべき人もなし
ここに中頃帝おはします
おん名をば聖武皇帝と名付け 奉り最愛の夫人に別れ
恋慕止み難く 涕泣眼にあらく 涙玉を貫く
思を善途に翻して 盧舎那仏を建立す
かほどの霊場の絶えなんことを 悲しみて俊重坊重源 諸国を勧進す
一紙半銭の奉財の輩は この世にては無比の楽に誇り
当来にては数千蓮華の上に座せん
帰命稽首 敬って申す
文楽・歌舞伎の演目勧進帳の中で、弁慶が(実際には何も書かれていない)勧進帳を読みあげる、というクライマックスなセリフ。
そもそも勧進とは、お寺の修理などでお金が必要な時に浄財寄付を募ること。
具体的にこの場合重衡の南都焼討でウッカリ燃えちゃった東大寺の大仏さんとかその他もろもろの、勧進です。
その勧進の主となった人が、後半で出てくる俊乗坊重源という人なのです。この人は本当に東大寺の勧進をしていてそこそこ有名なお方。
で、なんか最初の方はようわからんことを言ってますが、勧進の対象東大寺の話をしてます。
よくかんがえてみると、大恩教主(釈迦)が亡くなってから結構長いことたってその教えもなんだかちょっとブレてきた。
それをただそうとする人もいないし。
ちょっと前に聖武天皇という帝がいたけど、奥さん死んじゃって悲しんだ挙句
その思いを徳に変えて盧舎那仏とかつくった。
これほどの霊場が(南都焼討で)焼けてなくなったことを悲しく思った重源は諸国を回って勧進を募った。
少しのお金でも寄付してくれた人は今生も来世も約束されたようなもんだよ
だからよろしくねー
って感じ? -
弁慶。
そもそも勧進帳ってベースが義経記なんですよね。
平家物語には義経の記述こそあれ鎌倉成立後の義経の行方とかほぼ端折られてるみたいなもんだもの。
義経記でキャラクター付された弁慶は、ちょっと頭よさそうに書かれてます。 -
境内の奥へ行くと小さな分社があり、富樫と義経が祀られています。
あれ…弁慶は…?
そういえば富樫は安宅の関を通した後、切腹したんでしょうかね…?
そもそも安宅関は義経追討のための臨時の関だったので、そこの関守だった富樫は義経を捕まえることこそが目的だったんだから気づかなったーゴメン☆じゃすまないわけで。
………史実じゃないんじゃ…という突っ込みはノーサンキューです。 -
さらに進むと弁慶と富樫と義経の像。(結構デカイ)
ちなみに最初は弁慶と富樫しかなかったらしい。
そういえば小松の駅にこの像のミニチュアがあったけど弁慶と富樫のみだった。
さらに来る途中にあった橋の両側にあったのも富樫と弁慶のみだった。(表紙写真)
義経空気…。
実はここから駅二つ分くらい北上すると弁慶謝罪の地という、やはり像のある場所があるのですが、交通の便が悪すぎて断念しました。
せめてレンタサイクルがあれば行ったんだけどな…(泣) -
奥にあった ものがたり館の展示。
そんなに大きな規模ではなく、ほかに客もいなかったので係員の方が丁寧に説明などいただけました。
写真OKでしたので文楽の人形。
歌舞伎の衣装なども展示されていましたよ。
どうでもいいですが文楽の人形って足短いよね。
右から富樫・弁慶・義経・義経一行の人
義経はもっと小柄でいいと思う。 -
境内にあった弁慶逆植えの松。
すったもんだの挙句ようやく安宅関を越えられることになり、祈願成就のお礼に松を植えたらしい。
でもなんでわざわざ逆さまにしたのかという疑問。
知っている方いたら教えてください。ぜひ。
そののち小松駅で自転車を返した後金沢駅より北陸新幹線にて東京へ帰宅。
やー新幹線早いね、京都へ行くのと同じくらいの手軽さで行けますね。
ちなみに帰りの新幹線での話題は、終始義経と頼朝はなぜ決裂したか、理想の理由を考えてみよう!でした。
20代OLの会話じゃなかったと思います…(笑) -
以下、おまけ。
二日目に行った金沢兼六園です。 -
個人的にここが一番きれいだと思った。
兼六園はちょっと小高い丘になっていて、眺めもいい。
つーかすごい庭だよね。 -
木札の文字、お見えになりますでしょうか。
熊谷桜とあります。
熊谷直実の桜って、、、もしかして。
先日文楽で見た一の谷嫩軍記の中で、「一枝を伐らば一指を剪るべし(一枝折ったら罰として一本指切っちゃうからね☆)」という制札を立てた若木。これって桜じゃなかったかしら…?
…気になって前田さんちのお庭どころじゃなかった。
帰宅してから調べました。
兼六園熊谷
兼六園に植生しているヤマザクラの園芸品種「兼六園熊谷」の原木。 水戸藩から贈られたと伝わり、樹齢は300年といわれる。色濃い紅色で、「平家物語」における熊谷直実の緋縅の鎧の色から名付けられたといわれる。
たしかに一の谷嫩軍記の中の若木は桜だったけどここからきてるのかどうかの記述がでてこない。
でも、関連はある…のかな? -
2日目は、午前に伝統工業体験、お昼はホテルニッコーの寿司をいただきました。
店名が弁慶だったからノリで決めました…(笑)
よく思い出してみたら弁慶っていろんなとこのニッコーにあったよね…w -
兼六園ののち急いでひがし茶屋街へ。
兼六園〜ひがし茶屋街を見てる間は着物着ていったらえらい目にあった…。(すごい写真撮っていいですかって聞かれた) -
ひがし茶屋街の志摩にて。
昼間の間のみ見学できるようになっています。
茶屋遊びというものは、しかるべき商家の旦那様しかできない(加賀藩のお侍は禁止されていたらしい)もので、一般の人はいくらお金を積まれたところで入ることはできないとか。
ものすごい京都染みたプライドを感じた。 -
奥に作られた喫茶室にて、生菓子と薄茶をいただけます。
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