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冬のドイツとオーストリアを6泊7日で旅行した。主な目的は、映画サウンド・オブ・ミュージックの舞台となったザルツブルクを尋ねることだった。ザルツブルクで2泊したが、泊まったところは「ヴィラ・トラップ」で、もともとはトラップ大佐の自宅だった。部屋や応接室には、トラップ大佐の写真や勲章、マリアの肖像画などたくさんのゆかりの品が飾ってあった。中学生の時、映画を見てあこがれ続けたザルツブルクに50年後に行くことができた。

ドイツとオーストリアの旅

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2015/02/10 - 2015/02/16

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Masahiro  Tanigawa

Masahiro Tanigawaさん

冬のドイツとオーストリアを6泊7日で旅行した。主な目的は、映画サウンド・オブ・ミュージックの舞台となったザルツブルクを尋ねることだった。ザルツブルクで2泊したが、泊まったところは「ヴィラ・トラップ」で、もともとはトラップ大佐の自宅だった。部屋や応接室には、トラップ大佐の写真や勲章、マリアの肖像画などたくさんのゆかりの品が飾ってあった。中学生の時、映画を見てあこがれ続けたザルツブルクに50年後に行くことができた。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
4.5
グルメ
3.5
同行者
家族旅行
一人あたり費用
25万円 - 30万円
交通手段
鉄道
航空会社
ルフトハンザドイツ航空
旅行の手配内容
個別手配

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  • 写真はミュンヘンのニンフェンブルク城<br /><br />  2月10日(火曜日)、関空を飛び立ち、2月17日(火曜日)午前9時5分関空に戻って来た。ドイツで4泊、オーストリアのザルツブルクで2泊の旅だった。全日程を通して天候に恵まれ、ヨーロッパの冬の寒さは想像していたほどではなかった。特にザルツブルクで過ごした2日間は青空が広がり、ベンチに座っていると日差しで顔がポカポカした。<br /><br />  初めて訪れたヨーロッパで学んだことはいくつもあるし、何人もの親切な人と出会うことができた。その意味で幸運に恵まれたいい旅だった。手帳に殴り書きしたメモやIPadで撮った300枚以上の写真、できるだけ取っておいた領収書を参考にしながら、自分自身のために記録を残しておこうと思う。ツアー客としてではなく、個人として初めてヨーロッパを旅行する者が、何を、どう準備したかについても書こうとおもっているので、少しは誰かの役にたつかもしれない。<br /><br />  山のてっぺんで転がった小さな石が大きな落石をひき起こすことがある。きっかけはある日のメールである。「○○さまへ、ルフトハンザからのお知らせです。」メールを開けると、「ミュンヘン往復、¥35,000〜」なんて書いてある。うそだろうとおもいつつ、目的地をフランクフルトにして、問われるままデータを入れていった。人数は?出発日は?現地の出発日は?−うん、せっかくだから1週間くらいは滞在したい。・・・最後にはじき出された金額は、税金・燃油追加料込み106,070円だった。<br /><br />  おもわず考え込んでしまった。これが15万円なら多分その場限りで終わっただろう。大金とはいえ10万円は、漠然と予想していた数字より低い数字だった。例えるなら、パチンコで3回棒に負けて10万円くらいスることは十分あり得る。ならば、パチンコを3回我慢すればなんとかなるのではないだろうか?!この論理はどこかに大きな穴があいているような気がするが、その時は十分合理的におもえた。次の瞬間申し込みのボタンをクリックした。冷やかしではじめたゲームが、実際に歯車が回り始めた瞬間でもあった。<br />

    写真はミュンヘンのニンフェンブルク城

      2月10日(火曜日)、関空を飛び立ち、2月17日(火曜日)午前9時5分関空に戻って来た。ドイツで4泊、オーストリアのザルツブルクで2泊の旅だった。全日程を通して天候に恵まれ、ヨーロッパの冬の寒さは想像していたほどではなかった。特にザルツブルクで過ごした2日間は青空が広がり、ベンチに座っていると日差しで顔がポカポカした。

      初めて訪れたヨーロッパで学んだことはいくつもあるし、何人もの親切な人と出会うことができた。その意味で幸運に恵まれたいい旅だった。手帳に殴り書きしたメモやIPadで撮った300枚以上の写真、できるだけ取っておいた領収書を参考にしながら、自分自身のために記録を残しておこうと思う。ツアー客としてではなく、個人として初めてヨーロッパを旅行する者が、何を、どう準備したかについても書こうとおもっているので、少しは誰かの役にたつかもしれない。

      山のてっぺんで転がった小さな石が大きな落石をひき起こすことがある。きっかけはある日のメールである。「○○さまへ、ルフトハンザからのお知らせです。」メールを開けると、「ミュンヘン往復、¥35,000〜」なんて書いてある。うそだろうとおもいつつ、目的地をフランクフルトにして、問われるままデータを入れていった。人数は?出発日は?現地の出発日は?−うん、せっかくだから1週間くらいは滞在したい。・・・最後にはじき出された金額は、税金・燃油追加料込み106,070円だった。

      おもわず考え込んでしまった。これが15万円なら多分その場限りで終わっただろう。大金とはいえ10万円は、漠然と予想していた数字より低い数字だった。例えるなら、パチンコで3回棒に負けて10万円くらいスることは十分あり得る。ならば、パチンコを3回我慢すればなんとかなるのではないだろうか?!この論理はどこかに大きな穴があいているような気がするが、その時は十分合理的におもえた。次の瞬間申し込みのボタンをクリックした。冷やかしではじめたゲームが、実際に歯車が回り始めた瞬間でもあった。

  • 写真はニンフェンブルク城の内部<br /><br />  私の役割は、何事もなく日本を出国し、かつ何事もなくドイツに入国できるよう準備することである。つまりごくあたりまえのことなのだが他人任せでない分不安はあった。まして初めてのヨーロッパである。まず、家人の航空券を追加で購入した。時期的には1週間ほど遅れただけだが価格は117,070円だった。(1万円アップ)。それに、隣り合わせの座席指定の費用がそれぞれ6,900円追加になった。座席は窓際の2列シートを予約したのだが、座席番号が21aと21cだったので、飛行機に乗り込むまで不安だった。ドイツ語のアルファベットに”b”が無いわけないだろうに、なぜaの隣がcなんだろう?<br /><br />  次に、ドイツ国内とオーストリアへ移動するため、高速列車ICEの切符を購入しないといけない。昨年、韓国を旅行した時にKTXの旅行者用パスを利用した経験があるので、RAIL EUROPEのホームページでGerman Rail Passについて調べた。私が選んだのは、有効期間1カ月のうち4日間の通用日を自由に選べるタイプで、ツインパス割引(二人が同一行程を旅行する場合の割引)を利用したあとの価格は54,600円だった。好都合にもこのパスでザルツブルクまで移動することが可能だった。<br /><br />  最後に、現地通貨への交換をどうするかという課題が残った。韓国へ旅行する場合は、たとえばソウルの東大門市場には個人の外貨交換所があって、銀行より有利なレートで交換してくれる。しかし、初めて旅行するヨーロッパでは知識がまったくない。いろいろ考えた末、海外専用プリペイドカード、「NEO MONEY」を利用することにした。仕組みは、日本で入金しておくと海外のCDから現地通貨で出金できるシステムで、宣伝を見る限り交換レートも銀行より有利だと書いてあった。<br /><br />  フランクフルト空港に着いたとき、ターミナルでさっそくカードを試してみた。するとスムースにユーロを手にすることができた。その点では確かに便利だったが、交換レートは、15万円に対して1,050ユーロだった。つまり1ユーロ、142円強で特別有利なレートとはいえなかった。それにしても、ユーロを財布にいれておおいに安心した。<br /><br />よく言うでしょう。「地獄の沙汰も金次第」<br /><br />

    写真はニンフェンブルク城の内部

      私の役割は、何事もなく日本を出国し、かつ何事もなくドイツに入国できるよう準備することである。つまりごくあたりまえのことなのだが他人任せでない分不安はあった。まして初めてのヨーロッパである。まず、家人の航空券を追加で購入した。時期的には1週間ほど遅れただけだが価格は117,070円だった。(1万円アップ)。それに、隣り合わせの座席指定の費用がそれぞれ6,900円追加になった。座席は窓際の2列シートを予約したのだが、座席番号が21aと21cだったので、飛行機に乗り込むまで不安だった。ドイツ語のアルファベットに”b”が無いわけないだろうに、なぜaの隣がcなんだろう?

      次に、ドイツ国内とオーストリアへ移動するため、高速列車ICEの切符を購入しないといけない。昨年、韓国を旅行した時にKTXの旅行者用パスを利用した経験があるので、RAIL EUROPEのホームページでGerman Rail Passについて調べた。私が選んだのは、有効期間1カ月のうち4日間の通用日を自由に選べるタイプで、ツインパス割引(二人が同一行程を旅行する場合の割引)を利用したあとの価格は54,600円だった。好都合にもこのパスでザルツブルクまで移動することが可能だった。

      最後に、現地通貨への交換をどうするかという課題が残った。韓国へ旅行する場合は、たとえばソウルの東大門市場には個人の外貨交換所があって、銀行より有利なレートで交換してくれる。しかし、初めて旅行するヨーロッパでは知識がまったくない。いろいろ考えた末、海外専用プリペイドカード、「NEO MONEY」を利用することにした。仕組みは、日本で入金しておくと海外のCDから現地通貨で出金できるシステムで、宣伝を見る限り交換レートも銀行より有利だと書いてあった。

      フランクフルト空港に着いたとき、ターミナルでさっそくカードを試してみた。するとスムースにユーロを手にすることができた。その点では確かに便利だったが、交換レートは、15万円に対して1,050ユーロだった。つまり1ユーロ、142円強で特別有利なレートとはいえなかった。それにしても、ユーロを財布にいれておおいに安心した。

    よく言うでしょう。「地獄の沙汰も金次第」

  • フランクフルトHBf(中央駅)この駅からドイツとオーストリアの旅は始まった。<br /><br />  搭乗まで23時間を切るとLufthansaからメールが来た。オンラインでチェックインし、搭乗券(Boarding Pass)をパソコンのプリンターから印刷することを勧めていた。大丈夫かな?という不安はあったが、空港でチェックインせずに済めば時間の節約になる。メールの指示に従ってチェックインし、E-ticketを印刷した。A4サイズのうすっぺらい紙だが、内容を見ると立派な搭乗券だった。−これで事前にできることはすべてやった。明日からは自分の体を動かす旅が始まる。<br /><br />  飛行機の出発時刻は午前10時35分、2時間前に空港に着くように逆算すると自宅を6時過ぎには出ないといけない。その時刻はバスも動いていないのでタクシーを前日に予約した。京阪電車の樟葉駅から朝一の快速急行に乗り、京橋でJRに乗り換えた。関西国際空港にはぴったり2時間前についた。(いまのところは順調だ。荷物をdrop offし、ゆっくりコーヒーでも飲もう)、と思っていたら、手荷物を預けたルフトハンザの職員から、「出国手続きに1時間以上かかります。いますぐ並んでください」と言われた。あわててターミナル1の出発ゲートに行くと、長蛇の列ができていた。<br /><br />  座席番号の21Aのとなりは21Cだった。予約した座席に並んで座り、ドイツまで12時間35分の飛行をひたすら耐えて過ごした。目の前にはタブレットがあり、映画やゲーム、クイズなどのメニューが準備されていた。また、Flight Informationの画面では、目的地までの距離と時間、現地時間などが逐一表示された。画面は地図になっていて、飛行機が現在どこの上空を飛んでいるかつねにわかるようになっていた。それを見ていると、朝鮮の羅先の内側からユーラシア大陸に入り中国、モンゴル、ロシアの上空を飛んだ。<br /><br />  飛行機の中で長時間座っているとお尻が痛くて苦痛だった。眠ることもままならず、2度の食事タイムを除けばほとんどモニターを見て過ごした。見た映画は「Fury」、「Lincoln」、「The Judge」、「The Artist」などで、「The Judge」は見ていなかったので、飛行機で見ることができたのはお得だった。<br /><br />  「Fury」は、封切りを待ちかねるように見た映画だった。第2次世界大戦末期の、ドイツ軍のティーゲルとアメリカ軍のシャーマンとの戦車戦を描いた映画で、戦闘をどのように映像化しているのかすごく興味があった。ティーゲルは、当時としては驚異的な88mm砲を積み、装甲も厚くて第2次世界大戦で登場した最強の戦車といえるだろう。88mm砲は、元々は高射砲で、それを戦車に積むというドイツ人の発想にはかねがねおどろかされていたところだった。<br /><br />  実戦でシャーマンのティーゲルに対するKill ratioは5対1だった。つまりティーゲル1台を撃破する間にシャーマンは5台撃破された。映画ではそのあたりが写実的に描かれていた。たった1台のティーゲルにシャーマンは次々に撃破され、最後に残ったFuryが、装甲の薄い背後に回って辛うじてティーゲルを仕留めることができた。しかし個人的な感想をいえば、戦闘場面を除けば見るところのない映画だった。ブラッド・ピットが演じた戦車長(軍曹)の人間像もいまいちつかめなかったし、もう一方の主役である新米兵士(a lookie soldier)の葛藤も感情移入できるほどではなかった。<br />

    フランクフルトHBf(中央駅)この駅からドイツとオーストリアの旅は始まった。

      搭乗まで23時間を切るとLufthansaからメールが来た。オンラインでチェックインし、搭乗券(Boarding Pass)をパソコンのプリンターから印刷することを勧めていた。大丈夫かな?という不安はあったが、空港でチェックインせずに済めば時間の節約になる。メールの指示に従ってチェックインし、E-ticketを印刷した。A4サイズのうすっぺらい紙だが、内容を見ると立派な搭乗券だった。−これで事前にできることはすべてやった。明日からは自分の体を動かす旅が始まる。

      飛行機の出発時刻は午前10時35分、2時間前に空港に着くように逆算すると自宅を6時過ぎには出ないといけない。その時刻はバスも動いていないのでタクシーを前日に予約した。京阪電車の樟葉駅から朝一の快速急行に乗り、京橋でJRに乗り換えた。関西国際空港にはぴったり2時間前についた。(いまのところは順調だ。荷物をdrop offし、ゆっくりコーヒーでも飲もう)、と思っていたら、手荷物を預けたルフトハンザの職員から、「出国手続きに1時間以上かかります。いますぐ並んでください」と言われた。あわててターミナル1の出発ゲートに行くと、長蛇の列ができていた。

      座席番号の21Aのとなりは21Cだった。予約した座席に並んで座り、ドイツまで12時間35分の飛行をひたすら耐えて過ごした。目の前にはタブレットがあり、映画やゲーム、クイズなどのメニューが準備されていた。また、Flight Informationの画面では、目的地までの距離と時間、現地時間などが逐一表示された。画面は地図になっていて、飛行機が現在どこの上空を飛んでいるかつねにわかるようになっていた。それを見ていると、朝鮮の羅先の内側からユーラシア大陸に入り中国、モンゴル、ロシアの上空を飛んだ。

      飛行機の中で長時間座っているとお尻が痛くて苦痛だった。眠ることもままならず、2度の食事タイムを除けばほとんどモニターを見て過ごした。見た映画は「Fury」、「Lincoln」、「The Judge」、「The Artist」などで、「The Judge」は見ていなかったので、飛行機で見ることができたのはお得だった。

      「Fury」は、封切りを待ちかねるように見た映画だった。第2次世界大戦末期の、ドイツ軍のティーゲルとアメリカ軍のシャーマンとの戦車戦を描いた映画で、戦闘をどのように映像化しているのかすごく興味があった。ティーゲルは、当時としては驚異的な88mm砲を積み、装甲も厚くて第2次世界大戦で登場した最強の戦車といえるだろう。88mm砲は、元々は高射砲で、それを戦車に積むというドイツ人の発想にはかねがねおどろかされていたところだった。

      実戦でシャーマンのティーゲルに対するKill ratioは5対1だった。つまりティーゲル1台を撃破する間にシャーマンは5台撃破された。映画ではそのあたりが写実的に描かれていた。たった1台のティーゲルにシャーマンは次々に撃破され、最後に残ったFuryが、装甲の薄い背後に回って辛うじてティーゲルを仕留めることができた。しかし個人的な感想をいえば、戦闘場面を除けば見るところのない映画だった。ブラッド・ピットが演じた戦車長(軍曹)の人間像もいまいちつかめなかったし、もう一方の主役である新米兵士(a lookie soldier)の葛藤も感情移入できるほどではなかった。

  • 青空が広がるザルツブルク市内<br /><br />  フランクフルト空港に到着したのは現地時間(Local time)の午後3時ころ。時差はマイナス8時間なので体内時計は午後11時、そろそろあくびの出るころである。しかし緊張でそんな余裕はなかった。フランクフルト空港は大きな空港で、案内板だけを頼りに歩くのは心もとなかった。危うく出発ゲートに並びかけたりして、私たちは文字通り「Stray sheep」だった。<br /><br />  最初の関門は入国審査(Immigration)で、いくつかの窓口のうち私たちが並んだところは若い女性が担当していた。受け答えは英語だった、というか、もしドイツ語なら完全にお手上げである。そういった意味では、英語を聞いてうれしく思ったのは初めてだったかもしれない。<br /><br />  当然のことながら事前に想定問答は練習していた。ネットを探せば役にたつサイトはいくつもある。しかし実際のところはやってみないとわからないので緊張する瞬間だった。やりとりははっきり覚えていないが、スムースに通過することができた。このとき、語学ではなによりまずlisteningが大事だとおもった。相手の話が理解できれば、それに対する受け答えはまずい英語でも相手が意味を汲んでくれる。<br /><br />  その次は手荷物の受け取りである。しかしこの場所が分かりにくかった。私たちに尋ねてくるドイツ人の老婦人がいたくらいで、エスカレーターを降りて地下にあるだだっ広い受け取り場所を探し当てたときはほっとした。<br /><br />  セキュリティチェックはそのまま通過し、最後に税関(Customs)での手荷物の検査である。ここでも担当官は若い女性ふたりだったが、そのうちの一人は防弾チョッキを身に着け、拳銃を腰にぶら下げていた。聞かれたのは、旅行目的、荷物の中身、そして所持金だった。やり取りはこんな感じである。<br /><br />What’s the purpose of your visit?<br />  We came here to see our daughter.<br />What do you have in your bag?<br />  Mostly foods and an I pad.<br />Please open your bag.<br />  Well, I have a packing list. Here you are.<br />How much euro do you have?<br />  I only have ○○Japanese yen.<br />Open your wallet please.<br /><br />  財布を見せると申告金額より少ないという。ふつう所持金をいう場合、大ざっぱに万単位で言うと思うのだが、そこでやりあっても仕方ない。何より、想定問答にそんな場面はなかった。Almost. とつぶやくとなんとなくそれでOKになった。ターミナルへ出るとき、拳銃をぶら下げたほうの女性がにこっと笑ってくれた。<br /><br />  彼女が所持金にこだわった意味は、確信があるわけではないが、少なすぎる場合には問題になるのだろう。つまり入国した後、不法滞在するケースなどである。その意味では、NEO MONEY でユーロをおろすつもりだとういことをちゃんと説明できればよかったと後でおもった。ターミナルには娘が待っていた。4か月ぶりの再会である。少し痩せてはいたがとりあえず元気そうで安心した。久しぶりに親子3人の旅行が今日から始まる。<br />

    青空が広がるザルツブルク市内

      フランクフルト空港に到着したのは現地時間(Local time)の午後3時ころ。時差はマイナス8時間なので体内時計は午後11時、そろそろあくびの出るころである。しかし緊張でそんな余裕はなかった。フランクフルト空港は大きな空港で、案内板だけを頼りに歩くのは心もとなかった。危うく出発ゲートに並びかけたりして、私たちは文字通り「Stray sheep」だった。

      最初の関門は入国審査(Immigration)で、いくつかの窓口のうち私たちが並んだところは若い女性が担当していた。受け答えは英語だった、というか、もしドイツ語なら完全にお手上げである。そういった意味では、英語を聞いてうれしく思ったのは初めてだったかもしれない。

      当然のことながら事前に想定問答は練習していた。ネットを探せば役にたつサイトはいくつもある。しかし実際のところはやってみないとわからないので緊張する瞬間だった。やりとりははっきり覚えていないが、スムースに通過することができた。このとき、語学ではなによりまずlisteningが大事だとおもった。相手の話が理解できれば、それに対する受け答えはまずい英語でも相手が意味を汲んでくれる。

      その次は手荷物の受け取りである。しかしこの場所が分かりにくかった。私たちに尋ねてくるドイツ人の老婦人がいたくらいで、エスカレーターを降りて地下にあるだだっ広い受け取り場所を探し当てたときはほっとした。

      セキュリティチェックはそのまま通過し、最後に税関(Customs)での手荷物の検査である。ここでも担当官は若い女性ふたりだったが、そのうちの一人は防弾チョッキを身に着け、拳銃を腰にぶら下げていた。聞かれたのは、旅行目的、荷物の中身、そして所持金だった。やり取りはこんな感じである。

    What’s the purpose of your visit?
    We came here to see our daughter.
    What do you have in your bag?
    Mostly foods and an I pad.
    Please open your bag.
    Well, I have a packing list. Here you are.
    How much euro do you have?
    I only have ○○Japanese yen.
    Open your wallet please.

      財布を見せると申告金額より少ないという。ふつう所持金をいう場合、大ざっぱに万単位で言うと思うのだが、そこでやりあっても仕方ない。何より、想定問答にそんな場面はなかった。Almost. とつぶやくとなんとなくそれでOKになった。ターミナルへ出るとき、拳銃をぶら下げたほうの女性がにこっと笑ってくれた。

      彼女が所持金にこだわった意味は、確信があるわけではないが、少なすぎる場合には問題になるのだろう。つまり入国した後、不法滞在するケースなどである。その意味では、NEO MONEY でユーロをおろすつもりだとういことをちゃんと説明できればよかったと後でおもった。ターミナルには娘が待っていた。4か月ぶりの再会である。少し痩せてはいたがとりあえず元気そうで安心した。久しぶりに親子3人の旅行が今日から始まる。

  • VILLA TRAPP トラップ大佐の自宅がホテルになっていて、そこで2泊した。<br /><br />  最初の宿泊地は空港近くのMEININGER HOTELである。長時間の飛行のあとだけに、ホテルに早くはいって体を休めたい。そう思いホテル行きのシャトルバスを探した。ところがターミナルの前にある2か所の乗り場にはそのホテルの名前が見当たらなかった。それで停車中リムジンバスの運転手に尋ねると親切に地図まで書いて乗り場を教えてくれた。しかしその乗り場にも目当てのホテルの名前は見当たらなかった。(後でわかったことだが、彼が言いたかったのは、私たちがいる第1ターミナルから第2ターミナルに移動するバスに乗れば、そこにはホテルのシャトルバス乗り場があるという意味だった。)<br /><br />  空港前の道路には客待ちのタクシーがたくさん並んでいた。言い古されたことだがドイツではタクシーもベンツである。そのタクシーを横目にバス乗り場を何往復かした。そのうち家人の声も疲れでだんだん尖ってきた。もともとタクシーを選ばなかったのは近すぎて断られることを危惧していたからだが、そうなると否応は言っていられない。声をかけると2台目のタクシーがOKと言ってくれた。<br /><br />  ホテルまでのタクシー料金は9ユーロほどだった。娘から教えられて20ユーロ札を渡し「アレス」と声をかけた。「アレス」は、「釣りはいらないよ。」というドイツ語の決まり文句だそうだ。するとドライバーは、ダンケシェーンと言って大喜びしてくれた。<br /><br />  ところでこの金額には、--たぶん多すぎるとは思ったのだが、ふたつの然るべき理由があった。ひとつは、ありがとうというすなおな感謝の気持ちである。もうひとつは、財布の中にはそれ以下の紙幣がなかった。空港のCDで1000ユーロ引き出したとき、出てきた札は50ユーロ札と20ユーロ札だけだったのである。自慢するわけではないが私は金銭にはシビアなタイプである。<br /><br />  ホテルに入るとせまいロビーがあり、フロントの前には飲料のはいったガラスケースがあった。そこから500mlのコーラとスプライトのペットボトルを取り出し代金を払った。合わせて6ユーロだった。日本円に換算すると1本400円ほどになる。高いなあ、と正直思った。<br /><br />  ユーロより下の通貨の単位はセントだが、ペットボトルをスーパーに持っていくと5セント帰ってくるシステムになっている。つまりリサイクルをめざす政策の一端である。もうひとつの柱として、資源の無駄遣いを省く真剣な努力をさまざまな場面で見た。たとえば、水は基本的に有料だったし、旅のすべての路程で自動販売機を1台も見ることはなかった。<br /><br />  日本では、便利さの追求は疑いもなく善であるが、ドイツでは少なくともそれとは違った哲学で生きている。他に例をあげれば1軒のコンビニエンス・ストアも見なかったし、トイレの便座は冷たく、快適なシャワートイレもなかった。(正直言うとこれは悩みの種だった。)付け加えると、よほどの大都市を除いて日曜日にはほとんどの店が営業を休む。<br /><br />  話は大きく飛ぶがドイツの脱原発は絵空事ではない。そのために真剣な努力をしている。高速列車ICEにのって田園地帯をたくさん走ったが、どんな田舎でも多くの家の屋根には太陽光発電のパネルがあり、田園地帯の一角に何か所もの太陽光発電パネルの畑をみた。もちろん風車も見た。彼らには強い意思がある。彼らはきっとそれを成し遂げるだろう、それはほとんど確信に近い。<br /><br />  それはさておき、ドイツ最初の夜は時差ボケのせいか悶々として眠れなかった。夜中に何度も目が覚め、窓から見えるフランクフルト空港の灯をしばらく眺めた。翌日は2月11日、朝8時のシャトルバスに乗り空港へ、空港から地下鉄でフランクフルト中央駅に行き、10時18分発のミュンヘン行ICEに乗る。<br />

    VILLA TRAPP トラップ大佐の自宅がホテルになっていて、そこで2泊した。

      最初の宿泊地は空港近くのMEININGER HOTELである。長時間の飛行のあとだけに、ホテルに早くはいって体を休めたい。そう思いホテル行きのシャトルバスを探した。ところがターミナルの前にある2か所の乗り場にはそのホテルの名前が見当たらなかった。それで停車中リムジンバスの運転手に尋ねると親切に地図まで書いて乗り場を教えてくれた。しかしその乗り場にも目当てのホテルの名前は見当たらなかった。(後でわかったことだが、彼が言いたかったのは、私たちがいる第1ターミナルから第2ターミナルに移動するバスに乗れば、そこにはホテルのシャトルバス乗り場があるという意味だった。)

      空港前の道路には客待ちのタクシーがたくさん並んでいた。言い古されたことだがドイツではタクシーもベンツである。そのタクシーを横目にバス乗り場を何往復かした。そのうち家人の声も疲れでだんだん尖ってきた。もともとタクシーを選ばなかったのは近すぎて断られることを危惧していたからだが、そうなると否応は言っていられない。声をかけると2台目のタクシーがOKと言ってくれた。

      ホテルまでのタクシー料金は9ユーロほどだった。娘から教えられて20ユーロ札を渡し「アレス」と声をかけた。「アレス」は、「釣りはいらないよ。」というドイツ語の決まり文句だそうだ。するとドライバーは、ダンケシェーンと言って大喜びしてくれた。

      ところでこの金額には、--たぶん多すぎるとは思ったのだが、ふたつの然るべき理由があった。ひとつは、ありがとうというすなおな感謝の気持ちである。もうひとつは、財布の中にはそれ以下の紙幣がなかった。空港のCDで1000ユーロ引き出したとき、出てきた札は50ユーロ札と20ユーロ札だけだったのである。自慢するわけではないが私は金銭にはシビアなタイプである。

      ホテルに入るとせまいロビーがあり、フロントの前には飲料のはいったガラスケースがあった。そこから500mlのコーラとスプライトのペットボトルを取り出し代金を払った。合わせて6ユーロだった。日本円に換算すると1本400円ほどになる。高いなあ、と正直思った。

      ユーロより下の通貨の単位はセントだが、ペットボトルをスーパーに持っていくと5セント帰ってくるシステムになっている。つまりリサイクルをめざす政策の一端である。もうひとつの柱として、資源の無駄遣いを省く真剣な努力をさまざまな場面で見た。たとえば、水は基本的に有料だったし、旅のすべての路程で自動販売機を1台も見ることはなかった。

      日本では、便利さの追求は疑いもなく善であるが、ドイツでは少なくともそれとは違った哲学で生きている。他に例をあげれば1軒のコンビニエンス・ストアも見なかったし、トイレの便座は冷たく、快適なシャワートイレもなかった。(正直言うとこれは悩みの種だった。)付け加えると、よほどの大都市を除いて日曜日にはほとんどの店が営業を休む。

      話は大きく飛ぶがドイツの脱原発は絵空事ではない。そのために真剣な努力をしている。高速列車ICEにのって田園地帯をたくさん走ったが、どんな田舎でも多くの家の屋根には太陽光発電のパネルがあり、田園地帯の一角に何か所もの太陽光発電パネルの畑をみた。もちろん風車も見た。彼らには強い意思がある。彼らはきっとそれを成し遂げるだろう、それはほとんど確信に近い。

      それはさておき、ドイツ最初の夜は時差ボケのせいか悶々として眠れなかった。夜中に何度も目が覚め、窓から見えるフランクフルト空港の灯をしばらく眺めた。翌日は2月11日、朝8時のシャトルバスに乗り空港へ、空港から地下鉄でフランクフルト中央駅に行き、10時18分発のミュンヘン行ICEに乗る。

  • フランクフルト空港地下鉄駅<br /><br />  シャトルバスは、空港からホテルへ向かうときは無料だが、ホテルから空港へ向かう場合は有料である。分かり易いというか、合理的というか、さすがしっかりしている。空港に着き、地下鉄に乗るため地階に降りた。地階は地下街になっていて、切符の自動販売機のほかトラベルセンター(Reisezentrum)やコーヒーショップがあった。朝のコーヒーを飲む前にまずジャーマンレイルパスのValidationの手続きをした。<br /><br />  Validationというのはパスを使用できるようにするための手続きで、トラベルセンターで行う。窓口で無表情な男性に、”Validation please.”と声をかけると、「いつから」と聞かれるので「今日から」と使用開始日を告げる。するとスタンプを押し、使用開始日と最終日(1か月後)を記入して笑顔でパスを返してくれる。この手続きを経て初めてパスは有効になる。あとは旅行者が任意に4日間を選び、自分で日付を記入すれば、その日は鉄道が乗り放題になる。<br /><br />  必要な手続きを終えて気がかりも霧散した。時間の余裕もあるので、こころおきなくたっぷりのコーヒーとサンドイッチの朝食をとった。地下鉄にも無事乗ることができ、あとはフランクフルト中央駅で降りればよい。ところがここでハプニングが起きた。車内放送で到着駅のアナウンスをドイツ語と英語でしてくれるのだがよくききとれなかった。そのため駅を間違えて降りてしまったのである。降りてみると客はほとんどいないし、あたりを見回しても駅らしいものはない。ドアもしまって、内心「しまった、多分駅を間違えている!」と善後策を考え始めた。<br /><br />  外国人3人が、トランクを抱えてホームに立っている姿は異様に見えたのだろう、一度は閉まったドアをあけて乗客のひとりが声をかけてくれた。<br />“Are you going to the stadium?”<br />“No, (we’re going to the) central station!”<br />すると手招きして電車に戻れと言ってくれた。<br />私たちは大慌てで電車に戻った。<br />“This train bounds for the central station?”<br />“Ja, it’s the second station.”<br />“Thank you. It’s very kind of you.”<br /><br />  ドイツの地下鉄はドアのそばにボタンがあり、そのボタンを押せばドアをあけることができるようだった。それにしても、とっさの判断でドアを開け私たちに声をかけてくれた行為に対して、ありがたいという気持ちは勿論だが、翻って自分にできるだろうかというおもいが勝った。彼は周りの目を気にせず正しいとおもうことを果断に行った。でも同じことが私にできるだろうか?<br /><br />  私たちは、目立たないことが肝要な、よく言えば「空気を読む」、「和を尊ぶ」、悪く言えば「事なかれ主義」、「出る杭は打たれる」そんな社会の空気を吸っている。何をするにもまず周りの目を気にする。そして間違いなく私もそのうちの一人である。逆の立場になった時、彼のように行動をおこすことは、残念ながら100%ないだろうとおもった。<br /><br />  彼は若い黒人だったが、ドイツ社会が多くの黒人、東洋人、中東系にみえる人たちと共生していることを今回初めて知った。当たり前のように、レストランの調理場で、泊まったホテルの管理人として、あるいはウェイトレスや空港の職員としていろいろな人種の人たちが働いていた。この風景は私にとって、ドイツで見たもっともすばらしい風景のひとつだった。<br />

    フランクフルト空港地下鉄駅

      シャトルバスは、空港からホテルへ向かうときは無料だが、ホテルから空港へ向かう場合は有料である。分かり易いというか、合理的というか、さすがしっかりしている。空港に着き、地下鉄に乗るため地階に降りた。地階は地下街になっていて、切符の自動販売機のほかトラベルセンター(Reisezentrum)やコーヒーショップがあった。朝のコーヒーを飲む前にまずジャーマンレイルパスのValidationの手続きをした。

      Validationというのはパスを使用できるようにするための手続きで、トラベルセンターで行う。窓口で無表情な男性に、”Validation please.”と声をかけると、「いつから」と聞かれるので「今日から」と使用開始日を告げる。するとスタンプを押し、使用開始日と最終日(1か月後)を記入して笑顔でパスを返してくれる。この手続きを経て初めてパスは有効になる。あとは旅行者が任意に4日間を選び、自分で日付を記入すれば、その日は鉄道が乗り放題になる。

      必要な手続きを終えて気がかりも霧散した。時間の余裕もあるので、こころおきなくたっぷりのコーヒーとサンドイッチの朝食をとった。地下鉄にも無事乗ることができ、あとはフランクフルト中央駅で降りればよい。ところがここでハプニングが起きた。車内放送で到着駅のアナウンスをドイツ語と英語でしてくれるのだがよくききとれなかった。そのため駅を間違えて降りてしまったのである。降りてみると客はほとんどいないし、あたりを見回しても駅らしいものはない。ドアもしまって、内心「しまった、多分駅を間違えている!」と善後策を考え始めた。

      外国人3人が、トランクを抱えてホームに立っている姿は異様に見えたのだろう、一度は閉まったドアをあけて乗客のひとりが声をかけてくれた。
    “Are you going to the stadium?”
    “No, (we’re going to the) central station!”
    すると手招きして電車に戻れと言ってくれた。
    私たちは大慌てで電車に戻った。
    “This train bounds for the central station?”
    “Ja, it’s the second station.”
    “Thank you. It’s very kind of you.”

      ドイツの地下鉄はドアのそばにボタンがあり、そのボタンを押せばドアをあけることができるようだった。それにしても、とっさの判断でドアを開け私たちに声をかけてくれた行為に対して、ありがたいという気持ちは勿論だが、翻って自分にできるだろうかというおもいが勝った。彼は周りの目を気にせず正しいとおもうことを果断に行った。でも同じことが私にできるだろうか?

      私たちは、目立たないことが肝要な、よく言えば「空気を読む」、「和を尊ぶ」、悪く言えば「事なかれ主義」、「出る杭は打たれる」そんな社会の空気を吸っている。何をするにもまず周りの目を気にする。そして間違いなく私もそのうちの一人である。逆の立場になった時、彼のように行動をおこすことは、残念ながら100%ないだろうとおもった。

      彼は若い黒人だったが、ドイツ社会が多くの黒人、東洋人、中東系にみえる人たちと共生していることを今回初めて知った。当たり前のように、レストランの調理場で、泊まったホテルの管理人として、あるいはウェイトレスや空港の職員としていろいろな人種の人たちが働いていた。この風景は私にとって、ドイツで見たもっともすばらしい風景のひとつだった。

  • 高速列車ICE<br /><br />  ドイツの鉄道では、韓国もそうだが、改札がない。駅に入るとそのまま列車に乗り込むことができる。日本と違う点はほかにもあって、出発のアナウンスがなく定刻になれば列車は静かに滑り出す。乗客は案内を頼りに自分でホームを移動し、予約した座席を探さなければならない。もちろん外国人にとっても同じことで、不安感がある一方スリリングでもある。<br /><br />  それはさておき、親切な彼のおかげで私たちはぶじフランクフルト中央駅に着くことができた。列車も確認し、時間待ちのため駅の中にあるマクドナルドに入った。店内のスタイルは日本と変わらない。カウンターがあり、メニューと価格表が貼ってある。ただコーヒーにもいろいろな種類があるようだった。私は、クラシカルのコーヒーラテを頼み、(どんなコーヒーかしら?)女性二人は、ダークベリーのホットティーを頼んだ。(とんなティーが出てくるんだろう?)・・・異国を旅するということは何かしら小さな驚きに出会うことでもある。コーヒーは1.69ユーロでカップは大きかった。<br /><br />  コーヒーを飲んでいると、見知らぬ女性が話しかけてきた。手に小さな赤銅色のコイン(2.5セント貨)を持っている。懸命に聞き取ろうとしたがドイツ語が理解できるはずもない。”Do you speak English?”と聞いたが、彼女の英語は全く理解できなかった。そのうち、向かいに座っている娘が顔を横にふり出した。それでやっと、彼女がコーヒー代を恵んでくれと言っていることが分かった。そのうち彼女は店員によって店の外に出された。<br /><br />  フランクフルトからミュンヘンまで3時間あまりICEに乗った。乗客は満員だったが、娘が座席を予約してくれていたので安心して列車に乗り込んだ。そしてWindow seatに座り初めてのドイツの景色を楽しんだ。旅の楽しみの中で、列車に乗るのも大きな楽しみのひとつである。車窓から美しい風景を眺めるのもいいし、ローカル線で地元の人たちが乗り降りする様子を見るのも楽しい。<br /><br />  列車は都市を抜けて田園地帯を走り出した。折々に見かける、赤やチョコレート色の家が並んでいる町は、まるでおとぎ話のようにかわいい。それから、緑、黄緑、茶色のきれいなモザイク模様の畑の景色をみて、学校で習った三圃式農業の話を思い出した。畑の景色は、カラフルだったり、雪に白く覆われたままだったりしたが、農地をすごく大事にしているということが印象深かった。<br /><br />  もともと平野地帯なので見栄えはするが、(たとえば日本で言えば北海道の広々とした農地のように)よく手入れされた耕作地や斜面いっぱいに広がるブドウ畑(葉は落ちて枝だけの姿だが)は美しい景色の大きな構成要素だった。<br />

    高速列車ICE

      ドイツの鉄道では、韓国もそうだが、改札がない。駅に入るとそのまま列車に乗り込むことができる。日本と違う点はほかにもあって、出発のアナウンスがなく定刻になれば列車は静かに滑り出す。乗客は案内を頼りに自分でホームを移動し、予約した座席を探さなければならない。もちろん外国人にとっても同じことで、不安感がある一方スリリングでもある。

      それはさておき、親切な彼のおかげで私たちはぶじフランクフルト中央駅に着くことができた。列車も確認し、時間待ちのため駅の中にあるマクドナルドに入った。店内のスタイルは日本と変わらない。カウンターがあり、メニューと価格表が貼ってある。ただコーヒーにもいろいろな種類があるようだった。私は、クラシカルのコーヒーラテを頼み、(どんなコーヒーかしら?)女性二人は、ダークベリーのホットティーを頼んだ。(とんなティーが出てくるんだろう?)・・・異国を旅するということは何かしら小さな驚きに出会うことでもある。コーヒーは1.69ユーロでカップは大きかった。

      コーヒーを飲んでいると、見知らぬ女性が話しかけてきた。手に小さな赤銅色のコイン(2.5セント貨)を持っている。懸命に聞き取ろうとしたがドイツ語が理解できるはずもない。”Do you speak English?”と聞いたが、彼女の英語は全く理解できなかった。そのうち、向かいに座っている娘が顔を横にふり出した。それでやっと、彼女がコーヒー代を恵んでくれと言っていることが分かった。そのうち彼女は店員によって店の外に出された。

      フランクフルトからミュンヘンまで3時間あまりICEに乗った。乗客は満員だったが、娘が座席を予約してくれていたので安心して列車に乗り込んだ。そしてWindow seatに座り初めてのドイツの景色を楽しんだ。旅の楽しみの中で、列車に乗るのも大きな楽しみのひとつである。車窓から美しい風景を眺めるのもいいし、ローカル線で地元の人たちが乗り降りする様子を見るのも楽しい。

      列車は都市を抜けて田園地帯を走り出した。折々に見かける、赤やチョコレート色の家が並んでいる町は、まるでおとぎ話のようにかわいい。それから、緑、黄緑、茶色のきれいなモザイク模様の畑の景色をみて、学校で習った三圃式農業の話を思い出した。畑の景色は、カラフルだったり、雪に白く覆われたままだったりしたが、農地をすごく大事にしているということが印象深かった。

      もともと平野地帯なので見栄えはするが、(たとえば日本で言えば北海道の広々とした農地のように)よく手入れされた耕作地や斜面いっぱいに広がるブドウ畑(葉は落ちて枝だけの姿だが)は美しい景色の大きな構成要素だった。

  • Bride and groom<br /><br />  そのほかに気づいたことは、ICEが新幹線のように高架を走るのではなく、在来線と同じ線路を走ること、そして線路の両側に侵入を防ぐ柵がまったくなかったことである。安全性の面で不安はないのだろうかという気はするが、それ以上何かをいえるほどの知識は持ち合わせていない。<br /><br />  高速鉄道ICEは新幹線に相当するものと考えていたが、実際にのってみると運用は違っていた。つまり、新幹線のように常に300km以上の速度で走るのではなく、都市部では100kmくらい、トンネルやひとけのない山あいでは300km近い速度で走っていた。<br /><br />  ニュルンベルクを過ぎると地面は薄く雪が積もっていた。目的地のミュンヘンまであと1時間くらい、空はにび色で畑は真っ白になった。フランクフルトとはまったく違った景色で、まるで春から冬へ向かっているようだった。そのとき聞いていたアイ・ポッドで、ユーミンの「やさしさに包まれたなら」が流れ始めた。?大人になっても奇跡は起きるよ? 春から冬へ、列車に乗って時間旅行をしていると本当に神様がいるのかもしれないと思えた。<br /><br />  1時39分、ミュンヘン駅に着いた。宿泊先のホテル・アンバは歩いて5分のところにありチェックインしたのは2時ころだった。私たちに続いて4人グループの若い女性がチェックインした。顔立ちから日本人だろうとおもったが、会話を聞いているとやはり日本語だった。年齢的には大学生くらいに見えたがフロントと話す流ちょうなドイツ語には驚いた。浅薄な見方かもしれないが、日本人の若者に限って言えば、男子より女子のほうがはるかに行動的であるようにおもう。振り返ると旅先で出会った東洋系の若者は、多かったのが韓国語を話す男女、そして日本語を話す女子、めずらしかったのが日本語を話す男子だった。<br /><br />  ホテルに荷物を置き身軽になった私たちは、まずニンフェンブルク城(Schloss Nymphenburg 写真1)を訪ねることにした。交通機関はトラム(Tram)である。チケットは一日乗車券(City Tour Card、17.9ユーロ)を買ったが、それを利用すると5人までの人数ならトラム、バス、地下鉄が乗り放題になった。<br /><br />  ニンフェンブルク城は、ルートヴィッヒ2世が1845年に生まれた城で、彼はノイシュヴァンシュタイン城を建築したことで有名である。宮殿の前庭には大きな池があり白鳥と鴨がたくさんいた。池の大部分は氷が張っていて何羽もの鴨が車道を悠々と歩いていた。それとたまたまだが、宮殿の入り口で、Just murriedのカップルと出くわした。白いドレスのbrideは美しかったし、式の参列者と思しき仲間が、新郎と新婦をかたどった風船をあげているのが面白かった。<br /><br />  宮殿に入ったのは午後3時30分で、閉館まで時間は30分しかなかった。6ユーロで入館券を買い、駆け足でたくさんの部屋を見て回った。宮殿の豪華な内装は、写真2で知ることができる。4時には宮殿を出てトラムの乗り場まで歩き、ミュンヘン中央駅にもどった。夕食は、地下鉄でマリエン広場に行き、ミュンヘン市庁舎とペーター教会を見たあと本場のビアホールにいくことにした。<br /><br /><br />

    Bride and groom

      そのほかに気づいたことは、ICEが新幹線のように高架を走るのではなく、在来線と同じ線路を走ること、そして線路の両側に侵入を防ぐ柵がまったくなかったことである。安全性の面で不安はないのだろうかという気はするが、それ以上何かをいえるほどの知識は持ち合わせていない。

      高速鉄道ICEは新幹線に相当するものと考えていたが、実際にのってみると運用は違っていた。つまり、新幹線のように常に300km以上の速度で走るのではなく、都市部では100kmくらい、トンネルやひとけのない山あいでは300km近い速度で走っていた。

      ニュルンベルクを過ぎると地面は薄く雪が積もっていた。目的地のミュンヘンまであと1時間くらい、空はにび色で畑は真っ白になった。フランクフルトとはまったく違った景色で、まるで春から冬へ向かっているようだった。そのとき聞いていたアイ・ポッドで、ユーミンの「やさしさに包まれたなら」が流れ始めた。?大人になっても奇跡は起きるよ? 春から冬へ、列車に乗って時間旅行をしていると本当に神様がいるのかもしれないと思えた。

      1時39分、ミュンヘン駅に着いた。宿泊先のホテル・アンバは歩いて5分のところにありチェックインしたのは2時ころだった。私たちに続いて4人グループの若い女性がチェックインした。顔立ちから日本人だろうとおもったが、会話を聞いているとやはり日本語だった。年齢的には大学生くらいに見えたがフロントと話す流ちょうなドイツ語には驚いた。浅薄な見方かもしれないが、日本人の若者に限って言えば、男子より女子のほうがはるかに行動的であるようにおもう。振り返ると旅先で出会った東洋系の若者は、多かったのが韓国語を話す男女、そして日本語を話す女子、めずらしかったのが日本語を話す男子だった。

      ホテルに荷物を置き身軽になった私たちは、まずニンフェンブルク城(Schloss Nymphenburg 写真1)を訪ねることにした。交通機関はトラム(Tram)である。チケットは一日乗車券(City Tour Card、17.9ユーロ)を買ったが、それを利用すると5人までの人数ならトラム、バス、地下鉄が乗り放題になった。

      ニンフェンブルク城は、ルートヴィッヒ2世が1845年に生まれた城で、彼はノイシュヴァンシュタイン城を建築したことで有名である。宮殿の前庭には大きな池があり白鳥と鴨がたくさんいた。池の大部分は氷が張っていて何羽もの鴨が車道を悠々と歩いていた。それとたまたまだが、宮殿の入り口で、Just murriedのカップルと出くわした。白いドレスのbrideは美しかったし、式の参列者と思しき仲間が、新郎と新婦をかたどった風船をあげているのが面白かった。

      宮殿に入ったのは午後3時30分で、閉館まで時間は30分しかなかった。6ユーロで入館券を買い、駆け足でたくさんの部屋を見て回った。宮殿の豪華な内装は、写真2で知ることができる。4時には宮殿を出てトラムの乗り場まで歩き、ミュンヘン中央駅にもどった。夕食は、地下鉄でマリエン広場に行き、ミュンヘン市庁舎とペーター教会を見たあと本場のビアホールにいくことにした。


  • ミュンヘン市庁舎<br />  <br />  ところでここからはマユツバと思われても仕方ないような話になる。<br />娘が地下鉄の路線図を調べているあいだ、私はぼんやりその横に立っていた。すると目の前をひとりの東洋系のおばあちゃんが通り過ぎた。一瞬目が会ったのだが、へえ日本人のおばあちゃんそっくりやなあと妙に感心した。しばらくするとその女性が私の前に戻って来た。そして「日本から来た方ですか?」と聞いてきた。その外観は小柄で白髪、小さなバックパックを背負っていたが、京都の町中で出会うおばあちゃんとまったく区別がつかなかった。「そうです。」と答えると、「どこに行くの?」と聞かれたので目的地を告げると、「ほんなら、S線の地下鉄に乗って2駅くらいで着くから」と教えてくれた。なまりもなく「ほんなら・・・」というので、驚いて「京都の方ですか?」と聞くと、「近いわ、大阪!」という返事だった。<br /><br />  これがドラマなら「安直なやなあ!」とライターをせせら笑うところだが、文字通り「事実は小説より奇なり」で、彼女は親切にも地下鉄のホームまで先導してくれた。歩きながら聞いていると、ドイツ人と結婚し長くミュンヘンの郊外に住んでいて、今日はスーパーの安い野菜を買いに来たということだった。<br /><br />  二駅先のマリアンプラッツでは、ミュンヘン市庁舎とペーター教会を訪れた。市庁舎は写真の通り威厳のある歴史的な建物だった。教会に着いたのは午後6時前でたまたまミサの最中だった。教会はゴシック様式で、天井の高さは30mほどもありそうだった。年代を経た飴色のベンチが数十も並び、おもいおもいに座った老若男女が深く頭を垂れていた。私たちも静かに一礼し教会を出た。<br /><br />  

    ミュンヘン市庁舎
      
      ところでここからはマユツバと思われても仕方ないような話になる。
    娘が地下鉄の路線図を調べているあいだ、私はぼんやりその横に立っていた。すると目の前をひとりの東洋系のおばあちゃんが通り過ぎた。一瞬目が会ったのだが、へえ日本人のおばあちゃんそっくりやなあと妙に感心した。しばらくするとその女性が私の前に戻って来た。そして「日本から来た方ですか?」と聞いてきた。その外観は小柄で白髪、小さなバックパックを背負っていたが、京都の町中で出会うおばあちゃんとまったく区別がつかなかった。「そうです。」と答えると、「どこに行くの?」と聞かれたので目的地を告げると、「ほんなら、S線の地下鉄に乗って2駅くらいで着くから」と教えてくれた。なまりもなく「ほんなら・・・」というので、驚いて「京都の方ですか?」と聞くと、「近いわ、大阪!」という返事だった。

      これがドラマなら「安直なやなあ!」とライターをせせら笑うところだが、文字通り「事実は小説より奇なり」で、彼女は親切にも地下鉄のホームまで先導してくれた。歩きながら聞いていると、ドイツ人と結婚し長くミュンヘンの郊外に住んでいて、今日はスーパーの安い野菜を買いに来たということだった。

      二駅先のマリアンプラッツでは、ミュンヘン市庁舎とペーター教会を訪れた。市庁舎は写真の通り威厳のある歴史的な建物だった。教会に着いたのは午後6時前でたまたまミサの最中だった。教会はゴシック様式で、天井の高さは30mほどもありそうだった。年代を経た飴色のベンチが数十も並び、おもいおもいに座った老若男女が深く頭を垂れていた。私たちも静かに一礼し教会を出た。

      

  • ホーフブロイハウスのビールと料理<br /><br />  そのあとはガイド本片手にお目当てのHofbräuhaus を探して歩いた。ミュンヘンはビールで有名な町で、醸造元が巨大なビアホールを経営している。Hofbräuhausもそんなひとつで、巨大なビアホールは大勢の客でごったがえしていた。<br /><br />  ここでは席に着いたあとウェイターに声をかけて注文する。私たちも忙しそうに動き回るウェイターの一人に英語で声をかけた。すると英語で答えてくれたので、メニューを指さしながらビール、Cold salad、名物の豚の骨つきすね肉、それに白ソーセージを頼んだ。グラスビールを頼んだつもりが大きなジョッキが運ばれてきたのはご愛嬌だったが、ジョッキ一杯のビールとすね肉でお腹は一杯になった。<br /><br />  ところで、写真の黄色くて丸いものが何かお分かりだろうか。一見ジャガイモのようだが、食べるとプディングのようでしかも味がなかった。原材料はジャガイモだと思うのだが、わざわざ不味く調理する意味が分からなかった。これには二度と手を付けなかった。<br /><br />  レストランの勘定はドイツでもオーストリアでもテーブルで払った。そして当然ながらチップを上乗せする。私は、注文を聞いてくれたウェイターが通りかかるのを待った。彼のサービスはテキパキしていて印象が良かったので、どうせなら彼にチップを払いたい。<br />  “Bitte! Check please.”<br />  代金は37ユーロだったので”Alles.”と声をかけながら40ユーロ手渡した。彼は” Danke schön”と笑顔で返事してくれた<br />

    ホーフブロイハウスのビールと料理

      そのあとはガイド本片手にお目当てのHofbräuhaus を探して歩いた。ミュンヘンはビールで有名な町で、醸造元が巨大なビアホールを経営している。Hofbräuhausもそんなひとつで、巨大なビアホールは大勢の客でごったがえしていた。

      ここでは席に着いたあとウェイターに声をかけて注文する。私たちも忙しそうに動き回るウェイターの一人に英語で声をかけた。すると英語で答えてくれたので、メニューを指さしながらビール、Cold salad、名物の豚の骨つきすね肉、それに白ソーセージを頼んだ。グラスビールを頼んだつもりが大きなジョッキが運ばれてきたのはご愛嬌だったが、ジョッキ一杯のビールとすね肉でお腹は一杯になった。

      ところで、写真の黄色くて丸いものが何かお分かりだろうか。一見ジャガイモのようだが、食べるとプディングのようでしかも味がなかった。原材料はジャガイモだと思うのだが、わざわざ不味く調理する意味が分からなかった。これには二度と手を付けなかった。

      レストランの勘定はドイツでもオーストリアでもテーブルで払った。そして当然ながらチップを上乗せする。私は、注文を聞いてくれたウェイターが通りかかるのを待った。彼のサービスはテキパキしていて印象が良かったので、どうせなら彼にチップを払いたい。
      “Bitte! Check please.”
      代金は37ユーロだったので”Alles.”と声をかけながら40ユーロ手渡した。彼は” Danke schön”と笑顔で返事してくれた

  •   Dachau Concentration Camp<br />  <br />  夜のマリエン広場には、果物やチョコレート菓子、花を売る屋台が並んでいた。屋台をひやかしながらデザートにいちごを2パック買った。1パックでなかったのは、1パックなら1.9ユーロ、2パックなら2.9ユーロという、日本でもおなじみの売り方にまんまと乗せられただけの話である。ホテルに戻り、水道で洗うとへたは簡単にとれたが芯はつまんでもとれなかった。口に入れてその歯ごたえに驚いた。まるで果肉を齧るようで、日本のいちごと見た目は一緒でも、中身は野生の香りを残していた。<br /><br />  ヨーロッパ2日目のミュンヘンでもよく眠れなかった。長い夜を悶々と過ごしたあと、8時を待ってフロントに降りた。チェックアウトの時間を確認すると、11時30分だった。私の後に4人組の日本人女性のグループも降りてきた。<br /><br />  今日のスケジュールは、1時34分発のICEに乗りザルツブルクに向かう予定だ。出発時刻までに、昨日いったんは断念した Dachauの”Concentration Camp”に行けるかもういちど調べてみた。ユダヤ人の強制収容所として誰もが知っているのがポーランドにあるアウシュビッツ、そしてドイツ国内にあるダッハウだろう。それに加えてトレブリンカも私にとっては忘れられない名前だった。<br />

      Dachau Concentration Camp
      
      夜のマリエン広場には、果物やチョコレート菓子、花を売る屋台が並んでいた。屋台をひやかしながらデザートにいちごを2パック買った。1パックでなかったのは、1パックなら1.9ユーロ、2パックなら2.9ユーロという、日本でもおなじみの売り方にまんまと乗せられただけの話である。ホテルに戻り、水道で洗うとへたは簡単にとれたが芯はつまんでもとれなかった。口に入れてその歯ごたえに驚いた。まるで果肉を齧るようで、日本のいちごと見た目は一緒でも、中身は野生の香りを残していた。

      ヨーロッパ2日目のミュンヘンでもよく眠れなかった。長い夜を悶々と過ごしたあと、8時を待ってフロントに降りた。チェックアウトの時間を確認すると、11時30分だった。私の後に4人組の日本人女性のグループも降りてきた。

      今日のスケジュールは、1時34分発のICEに乗りザルツブルクに向かう予定だ。出発時刻までに、昨日いったんは断念した Dachauの”Concentration Camp”に行けるかもういちど調べてみた。ユダヤ人の強制収容所として誰もが知っているのがポーランドにあるアウシュビッツ、そしてドイツ国内にあるダッハウだろう。それに加えてトレブリンカも私にとっては忘れられない名前だった。

  •    Hunger<br />  <br />  話が横道にそれるが、高校時代トーソンというニックネームの教師がいた。彼は映画部の顧問をしていて、彼を通して映画の安い券を手に入れることができた。おかげでたくさんの映画を見たが、その中に「トレブリンカ」という映画があった。監督はユダヤ人で「トレブリンカ」は強制収容所の名前である。では彼は「トレブリンカ」で何を描こうとしたのか、そして私に忘れられない印象を残したのが何だったのか。<br /><br />  もちろん、ユダヤ人の虐殺に関して全的に責められるべきはドイツ人である。その点には一点の疑問もない。しかしそれでも、と彼は自問自答した。ユダヤ人は唯々諾々と、まるで羊のように屠場へ引かれていったのか?為すことなくその運命を受け入れたのか?ユダヤ人とはそんな民族だったのか? という自分自身を含めた同胞(はらから)に対する疑問である。<br /><br />  彼はその答えをトレブリンカ収容所で知った。トレブリンカでは、ユダヤ人が運命にあがらって暴動を起こしたのである。もちろんその暴動に成算があったはずはない。ドイツ人は巧妙だった。たとえば、アウシュビッツ収容所の入り口には ”ARBEIT MACHT FREI”  (働けば自由になる)と記されていた。それを見たとき、願望を込めて、解放される日まで良き囚人たろうとしたとしても、それを愚かだと評せる人間がいるだろうか。一方、反抗の先には100%の死が待っていた。それを踏まえたとき、トレブリンカの暴動は彼にとって大きな意味を持つできごとだったに違いない。残念ながら、彼は映画を完成させずに亡くなった。映画館で、まるでドキュメンタリーのような未完成の映画を見ながら、彼の問いかけは自分自身にこそ向けなければならないものだと感じていた。<br /><br />  ダッハウへは、地下鉄とバスを乗り継いで20分ほどで行けることが分かった。列車に乗り遅れないようにしながら、ギリギリ行くことができそうだ。昨日、一旦はあきらめたが行かなければ一生悔いが残ると思った。<br /><br />  ダッハウの印象を言葉にできるとはおもわない。だからそこで見た事実だけを書いておこう。収容所の入り口に向かう道で、収容所内の様々な部屋で、教師に引率された多くの学生たちと出会った。ドイツでは自分たちの負の歴史をしっかり教えている。また展示の内容は、文章を読んでも、写真を見ても、ナチがしたことをあったまま伝えていた。広い敷地もそのままだし、建物も代表的なものを残してあった。部屋の中には、収容者たちが寝起きした木製の2段ベッドも再現されていた。<br /><br />  収容所へはコンクリートの橋を通って入る。収容所の塀に沿って小川があり、幅は4,5mほどだったろうか、水量は豊かで流れは速かった。この橋を渡り、鉄の門をくぐった人たちの絶望をおもうと胸が苦しくなった。その当時と同じように小川の水は速く流れているのだろう。こんなことをしたドイツ人が許されるはずはない。それは私の正直な感想である。しかし彼らは自分たちの歴史とまっすぐ向き合っている。そうである以上、それ以上言うべき言葉を持たないのも正直な気持ちである。<br />

     Hunger
      
      話が横道にそれるが、高校時代トーソンというニックネームの教師がいた。彼は映画部の顧問をしていて、彼を通して映画の安い券を手に入れることができた。おかげでたくさんの映画を見たが、その中に「トレブリンカ」という映画があった。監督はユダヤ人で「トレブリンカ」は強制収容所の名前である。では彼は「トレブリンカ」で何を描こうとしたのか、そして私に忘れられない印象を残したのが何だったのか。

      もちろん、ユダヤ人の虐殺に関して全的に責められるべきはドイツ人である。その点には一点の疑問もない。しかしそれでも、と彼は自問自答した。ユダヤ人は唯々諾々と、まるで羊のように屠場へ引かれていったのか?為すことなくその運命を受け入れたのか?ユダヤ人とはそんな民族だったのか? という自分自身を含めた同胞(はらから)に対する疑問である。

      彼はその答えをトレブリンカ収容所で知った。トレブリンカでは、ユダヤ人が運命にあがらって暴動を起こしたのである。もちろんその暴動に成算があったはずはない。ドイツ人は巧妙だった。たとえば、アウシュビッツ収容所の入り口には ”ARBEIT MACHT FREI” (働けば自由になる)と記されていた。それを見たとき、願望を込めて、解放される日まで良き囚人たろうとしたとしても、それを愚かだと評せる人間がいるだろうか。一方、反抗の先には100%の死が待っていた。それを踏まえたとき、トレブリンカの暴動は彼にとって大きな意味を持つできごとだったに違いない。残念ながら、彼は映画を完成させずに亡くなった。映画館で、まるでドキュメンタリーのような未完成の映画を見ながら、彼の問いかけは自分自身にこそ向けなければならないものだと感じていた。

      ダッハウへは、地下鉄とバスを乗り継いで20分ほどで行けることが分かった。列車に乗り遅れないようにしながら、ギリギリ行くことができそうだ。昨日、一旦はあきらめたが行かなければ一生悔いが残ると思った。

      ダッハウの印象を言葉にできるとはおもわない。だからそこで見た事実だけを書いておこう。収容所の入り口に向かう道で、収容所内の様々な部屋で、教師に引率された多くの学生たちと出会った。ドイツでは自分たちの負の歴史をしっかり教えている。また展示の内容は、文章を読んでも、写真を見ても、ナチがしたことをあったまま伝えていた。広い敷地もそのままだし、建物も代表的なものを残してあった。部屋の中には、収容者たちが寝起きした木製の2段ベッドも再現されていた。

      収容所へはコンクリートの橋を通って入る。収容所の塀に沿って小川があり、幅は4,5mほどだったろうか、水量は豊かで流れは速かった。この橋を渡り、鉄の門をくぐった人たちの絶望をおもうと胸が苦しくなった。その当時と同じように小川の水は速く流れているのだろう。こんなことをしたドイツ人が許されるはずはない。それは私の正直な感想である。しかし彼らは自分たちの歴史とまっすぐ向き合っている。そうである以上、それ以上言うべき言葉を持たないのも正直な気持ちである。

  •   VILLA TRAPPはトラップ大佐の生家らしく、寝室には家族の写真、リビングには海軍の勲章が飾ってあった。ところで内陸国のオーストリアで海軍という不審がずっとあったのだが、カイゼルがドイツ・オーストリー帝国として第一次世界大戦を戦ったことを知ればその疑問も解ける。壁には当時の帝国の版図を示す地図がありその事情がよく理解できた。トラップ大佐は第一次世界大戦でUボートに乗っていた。<br /><br /><br />  Villa Trappの管理人のひとりNancyは、インドネシア生まれの人懐っこくてきぱきとした女性だった。ドイツに3年間留学し、ドイツ語、英語が流暢。韓国が好きでハングルも読めるというので、韓国語で話しかけるときちんと韓国語で返事をしてくれた。これもまた一つの奇跡だった。Nancyは、私たちを部屋に案内したとき室内を見て驚くことを言った。「これでは狭いなあ。どうぞ今日はスイートを使ってください、幸い今日は空いていますから。もちろん追加料金はいただきません。その代り明日は予約した部屋になります。」<br />

      VILLA TRAPPはトラップ大佐の生家らしく、寝室には家族の写真、リビングには海軍の勲章が飾ってあった。ところで内陸国のオーストリアで海軍という不審がずっとあったのだが、カイゼルがドイツ・オーストリー帝国として第一次世界大戦を戦ったことを知ればその疑問も解ける。壁には当時の帝国の版図を示す地図がありその事情がよく理解できた。トラップ大佐は第一次世界大戦でUボートに乗っていた。


      Villa Trappの管理人のひとりNancyは、インドネシア生まれの人懐っこくてきぱきとした女性だった。ドイツに3年間留学し、ドイツ語、英語が流暢。韓国が好きでハングルも読めるというので、韓国語で話しかけるときちんと韓国語で返事をしてくれた。これもまた一つの奇跡だった。Nancyは、私たちを部屋に案内したとき室内を見て驚くことを言った。「これでは狭いなあ。どうぞ今日はスイートを使ってください、幸い今日は空いていますから。もちろん追加料金はいただきません。その代り明日は予約した部屋になります。」

  •   にわかには信じられないほどの幸運だった。スイートに入ると、2つの寝室とシャワーとトイレのある部屋があった。それぞれの部屋も広く、庭に張り出した窓やソファーとテーブルセット、壁際にはトラップ一家の写真を飾った書き物机があった。私たちはソファーに腰掛け、町で買ったワインで乾杯した。<br /><br />  目覚めたら、2月13日の5:50amだった。トラップ家の主寝室の大きなベッドに寝そべったまま記憶を反芻した。ワインを一杯飲んだら買い込んだハムやビールの味をみることなく眠ってしまった。今日はザルツブルクの2日目、そしてヨーロッパに来てからは4日目、体も慣れてきたのかぐっすり眠ることができた。今日は8時からこのVILLA TRAPPのダイニングで朝食を食べる。そしてもう1泊するので、今日は今回の旅のメインである、サウンド・オブ・ミュージックのロケ地をできるだけたくさん回るつもりだ。荷物を持つ必要がないので身軽に動ける。<br />

      にわかには信じられないほどの幸運だった。スイートに入ると、2つの寝室とシャワーとトイレのある部屋があった。それぞれの部屋も広く、庭に張り出した窓やソファーとテーブルセット、壁際にはトラップ一家の写真を飾った書き物机があった。私たちはソファーに腰掛け、町で買ったワインで乾杯した。

      目覚めたら、2月13日の5:50amだった。トラップ家の主寝室の大きなベッドに寝そべったまま記憶を反芻した。ワインを一杯飲んだら買い込んだハムやビールの味をみることなく眠ってしまった。今日はザルツブルクの2日目、そしてヨーロッパに来てからは4日目、体も慣れてきたのかぐっすり眠ることができた。今日は8時からこのVILLA TRAPPのダイニングで朝食を食べる。そしてもう1泊するので、今日は今回の旅のメインである、サウンド・オブ・ミュージックのロケ地をできるだけたくさん回るつもりだ。荷物を持つ必要がないので身軽に動ける。

  •   ダイニングは10人ほどが座れる大きなテーブルがあり、そのテーブルを囲んで壁際に料理が並んでいた。パン、ミルク、オレンジジュース、チーズ、ハム,ソーセージ、果物、コーヒー(エスプレッソ)、ゆで卵など。同席したのはロシア人らしき男性のふたり、ロンドンから来た年輩の夫婦だったが、ご主人のほうが私たちを見るなり「おはよう」とあいさつした。私たちも驚きながら「おはようございます。」とあいさつした。見たところすごく上品な、イギリス人らしいペアだった。”You speak good Japanese.”と話しかけると、知っている日本語はそれだけとテレて笑った。そのあと話をしていると、息子さんが石垣島にいるようで日本に行ったこともあるということだった。<br /><br />  あなたたちは、”The film”(The Sound of Music)がここにいる理由か、と聞くので、”Ja, that’s right. I saw the film when I was young, about fifty years ago. It’s my long-lasting dream to visit here, and finally, at last,  my dream came true!”彼らも私と同じ年代で、映画の感動を長年持ち続け、ついにザルツブルクに来たと言っていた。彼らは昨日、映画のロケ地を回るバスに乗ったそうで、とても良かったと言っていた。<br /><br />  あの映画 ”The film”は国境を越えて、私たちの年代に深い影響を残したことを実感した。私はちょうど思春期の入り口でこの映画を見た。マリアあるいはトラップ大佐に恋をした人は世界中にいたのだろう。この映画はいろいろな意味で、まさしく「祝福された映画」だという思いがする。<br /><br />  ザルツブルクの最後の夜、トラップ家の客室のソファーベッドに寝ながら手帳の白いページを字で埋めていった。手帳から目を上げるとウグイス色と白色の壁、手を伸ばせば届くところに Mariaの油絵の肖像画がかかっていた。<br />

      ダイニングは10人ほどが座れる大きなテーブルがあり、そのテーブルを囲んで壁際に料理が並んでいた。パン、ミルク、オレンジジュース、チーズ、ハム,ソーセージ、果物、コーヒー(エスプレッソ)、ゆで卵など。同席したのはロシア人らしき男性のふたり、ロンドンから来た年輩の夫婦だったが、ご主人のほうが私たちを見るなり「おはよう」とあいさつした。私たちも驚きながら「おはようございます。」とあいさつした。見たところすごく上品な、イギリス人らしいペアだった。”You speak good Japanese.”と話しかけると、知っている日本語はそれだけとテレて笑った。そのあと話をしていると、息子さんが石垣島にいるようで日本に行ったこともあるということだった。

      あなたたちは、”The film”(The Sound of Music)がここにいる理由か、と聞くので、”Ja, that’s right. I saw the film when I was young, about fifty years ago. It’s my long-lasting dream to visit here, and finally, at last, my dream came true!”彼らも私と同じ年代で、映画の感動を長年持ち続け、ついにザルツブルクに来たと言っていた。彼らは昨日、映画のロケ地を回るバスに乗ったそうで、とても良かったと言っていた。

      あの映画 ”The film”は国境を越えて、私たちの年代に深い影響を残したことを実感した。私はちょうど思春期の入り口でこの映画を見た。マリアあるいはトラップ大佐に恋をした人は世界中にいたのだろう。この映画はいろいろな意味で、まさしく「祝福された映画」だという思いがする。

      ザルツブルクの最後の夜、トラップ家の客室のソファーベッドに寝ながら手帳の白いページを字で埋めていった。手帳から目を上げるとウグイス色と白色の壁、手を伸ばせば届くところに Mariaの油絵の肖像画がかかっていた。

  • The Sound of Music<br /><br />  2月18日、金曜日。ザルツブルクの2日目は移動の予定もなく、一日中街を巡る日だった。イギリス人の夫婦が勧めてくれたツアーバスに乗るという選択肢もあった。しかし自分たちの足で気ままに街を歩きたいという気持ちも強かった。いろいろな失敗があっても、それさえいい思い出になるだろう。私たちは朝食のあとイギリス人の夫婦にさよならを言い、バスの乗り場へと歩き始めた。空は晴れていて今日はいい日になりそうだった。<br /><br />  バス乗り場では、とりあえず市内方向のバスが来たら乗るつもりでいた。いったんザルツブルク駅に行きそこから市内観光をスタートしようと考えた。どこを走るかわからないバスに乗るのは不安だがなんとなく感が働くこともある。乗客のひとりに、このバスで駅に行けるか聞くと、次の停留所でバスを乗り換えなさいと言われた。お礼をいって急いで降りると、別のバスが停留所に止まっていた。乗ろうか乗るまいか躊躇しているとクラクションが小さく鳴った。振り返ると、今まで乗っていたバスの運転手が、前のバスを指さしてうなずいてくれた。その親切さには少し驚いた。私も手を振って頭をさげたが、とてもいい気分だった。<br /><br />  ところが、話はそれだけでは終わらなかった。次の信号でバスが止まった時、後ろのバスから中年の女性が駆けてきた。そしてバスに乗ってきて、私たちの前にやってきた。女性の手には、バスに忘れたまま降りてしまった妻の手袋があった。お礼の言いようもないくらい恐縮したが、ザルツブルクの人は皆が皆こんなに親切なんだろうかと(まさかなあ、と不埒なことをおもいつつ)不思議な気持ちだった。<br />

    The Sound of Music

      2月18日、金曜日。ザルツブルクの2日目は移動の予定もなく、一日中街を巡る日だった。イギリス人の夫婦が勧めてくれたツアーバスに乗るという選択肢もあった。しかし自分たちの足で気ままに街を歩きたいという気持ちも強かった。いろいろな失敗があっても、それさえいい思い出になるだろう。私たちは朝食のあとイギリス人の夫婦にさよならを言い、バスの乗り場へと歩き始めた。空は晴れていて今日はいい日になりそうだった。

      バス乗り場では、とりあえず市内方向のバスが来たら乗るつもりでいた。いったんザルツブルク駅に行きそこから市内観光をスタートしようと考えた。どこを走るかわからないバスに乗るのは不安だがなんとなく感が働くこともある。乗客のひとりに、このバスで駅に行けるか聞くと、次の停留所でバスを乗り換えなさいと言われた。お礼をいって急いで降りると、別のバスが停留所に止まっていた。乗ろうか乗るまいか躊躇しているとクラクションが小さく鳴った。振り返ると、今まで乗っていたバスの運転手が、前のバスを指さしてうなずいてくれた。その親切さには少し驚いた。私も手を振って頭をさげたが、とてもいい気分だった。

      ところが、話はそれだけでは終わらなかった。次の信号でバスが止まった時、後ろのバスから中年の女性が駆けてきた。そしてバスに乗ってきて、私たちの前にやってきた。女性の手には、バスに忘れたまま降りてしまった妻の手袋があった。お礼の言いようもないくらい恐縮したが、ザルツブルクの人は皆が皆こんなに親切なんだろうかと(まさかなあ、と不埒なことをおもいつつ)不思議な気持ちだった。

  • Mozart-steg<br /> <br />  最初の目的地はノンベルク尼僧院(Stift Nonnberg)で、トラップ家のこどもたちが尼僧院に戻ったマリアを迎えに行った場所である。小高い丘の上にあるノンベルク尼僧院にたどり着き、映画でみた鉄の門を見たときは感動した。修道女たちがこどもたちを追い返す場面がありありと浮かんだ。映画のストーリでは、それがきっかけになって、マリアは自分の気持ちに向き合う勇気をもつことができた。ノンベルク尼僧院に向かう道すがら、モーツァルト橋(Mozart-steg)も通った。映画では、こどもたちがピクニックに行くとき渡った橋である。<br />

    Mozart-steg
     
      最初の目的地はノンベルク尼僧院(Stift Nonnberg)で、トラップ家のこどもたちが尼僧院に戻ったマリアを迎えに行った場所である。小高い丘の上にあるノンベルク尼僧院にたどり着き、映画でみた鉄の門を見たときは感動した。修道女たちがこどもたちを追い返す場面がありありと浮かんだ。映画のストーリでは、それがきっかけになって、マリアは自分の気持ちに向き合う勇気をもつことができた。ノンベルク尼僧院に向かう道すがら、モーツァルト橋(Mozart-steg)も通った。映画では、こどもたちがピクニックに行くとき渡った橋である。

  • Stift Nonnberg  <br /><br />  門の前にはベンチがあり、そこから眺める市内は絵になる景色だった。天気はこれ以上望めない快晴で、旅を寿ぐように太陽が青空に輝いていた。<br /><br />私たちは丘をくだり次の目標、レジデンス広場(Residenzplatz)にむかった。そこでまず&#8364;24のザルツブルクカード(Salzburg Card)を3枚買った。このカードがあれば、ザルツブルク・ミュージアム(Residenzgalerie)の入場料金、ホーエンザルツブルク城砦(Festung Hohensalzburg)に上るケーブルカーの料金、そのほかの公共交通機関の料金も無料になる。<br /><br />このような情報は、娘が事前に調べてくれていたものでずいぶん費用の節約になった。このカードは購入時にスタート時間を記入すれば、それから24時間有効になる。その時刻を午前10時と記入したとき、時計の時刻は午前9時50分だった。<br />

    Stift Nonnberg  

      門の前にはベンチがあり、そこから眺める市内は絵になる景色だった。天気はこれ以上望めない快晴で、旅を寿ぐように太陽が青空に輝いていた。

    私たちは丘をくだり次の目標、レジデンス広場(Residenzplatz)にむかった。そこでまず€24のザルツブルクカード(Salzburg Card)を3枚買った。このカードがあれば、ザルツブルク・ミュージアム(Residenzgalerie)の入場料金、ホーエンザルツブルク城砦(Festung Hohensalzburg)に上るケーブルカーの料金、そのほかの公共交通機関の料金も無料になる。

    このような情報は、娘が事前に調べてくれていたものでずいぶん費用の節約になった。このカードは購入時にスタート時間を記入すれば、それから24時間有効になる。その時刻を午前10時と記入したとき、時計の時刻は午前9時50分だった。

  •   その時間を利用して、レジデンス広場の向かいにあるザルツブルク大聖堂(Dom zu Salzburg)に行った。入り口でいくばくかの喜捨をした。受け付けのモンクは、中国人観光客には中国語で声をかけ、私たちを見ると「こんにちは」とあいさつした。つづいて「とうきょう、ながの?」と単語を並べたが、「とうきょう」はともかく、なぜ「ながの」だったかその理由は定かではない。ひとつだけ思い当たったのは、Salzach川沿いの新市街に「長野」という名の日本料理店があったなあということである。<br /><br />  教会の建物の大きさ、意匠(デザイン)の巨大さ、そして積み重ねられた歴史の重みは見るものを圧倒する。天井の高い空間の、壁といい天井といいすべてに巨大な宗教画が描かれている。そしてキリストやマリアを象ったステンドグラスを通った外光が室内を照らしている。<br /><br />  祭壇の両側にある巨大なパイプオルガンが鳴り響けば、教会の荘厳さはいや増すことだろう。そんなとき物理的に小さな肉体しかもたない人間は、教会の権威と宗教的荘厳さに打たれ、自然に膝を折り頭を垂れるようになるだろう。。ヨーロッパの人達にとってキリスト教がいかに大きな比重を占めているか、それがおぼろげながらも理解できるような気がした。<br /><br />  教会の地下にはカタコンベがあり不気味な空間だった。ベン・ハーのカタコンベから始まったキリスト教は長く弾圧され迫害されたが、やがてローマ帝国の国教となった。やがて世俗的権力の頂点をなす王権をもしのぐ権威をもつようになった。ザルツブルクはもともと司教領であったが、宗教と王権が結びついて大司教が領主としてこの地を支配した。<br />

      その時間を利用して、レジデンス広場の向かいにあるザルツブルク大聖堂(Dom zu Salzburg)に行った。入り口でいくばくかの喜捨をした。受け付けのモンクは、中国人観光客には中国語で声をかけ、私たちを見ると「こんにちは」とあいさつした。つづいて「とうきょう、ながの?」と単語を並べたが、「とうきょう」はともかく、なぜ「ながの」だったかその理由は定かではない。ひとつだけ思い当たったのは、Salzach川沿いの新市街に「長野」という名の日本料理店があったなあということである。

      教会の建物の大きさ、意匠(デザイン)の巨大さ、そして積み重ねられた歴史の重みは見るものを圧倒する。天井の高い空間の、壁といい天井といいすべてに巨大な宗教画が描かれている。そしてキリストやマリアを象ったステンドグラスを通った外光が室内を照らしている。

      祭壇の両側にある巨大なパイプオルガンが鳴り響けば、教会の荘厳さはいや増すことだろう。そんなとき物理的に小さな肉体しかもたない人間は、教会の権威と宗教的荘厳さに打たれ、自然に膝を折り頭を垂れるようになるだろう。。ヨーロッパの人達にとってキリスト教がいかに大きな比重を占めているか、それがおぼろげながらも理解できるような気がした。

      教会の地下にはカタコンベがあり不気味な空間だった。ベン・ハーのカタコンベから始まったキリスト教は長く弾圧され迫害されたが、やがてローマ帝国の国教となった。やがて世俗的権力の頂点をなす王権をもしのぐ権威をもつようになった。ザルツブルクはもともと司教領であったが、宗教と王権が結びついて大司教が領主としてこの地を支配した。

  •    それはさておき、今日はコップとメガネの話。写真のコップに小さな数字が見える。さてこれは何でしょうか?その答えを知ったときはドイツ人が少しわかったような気がした。<br /><br />   数字の0.5l(&#8467;)はコップの容量を示している。ビールが出されたとき、このラインを超えていなければ量目不足であり、客はクレームをいうことができる。このとき大事なことは、客と店の間で議論の生まれる余地がないということである。シンプルだがあいまいさがないという点できわめて合理的だといえるだろう。ちなみに、ミュンヘンでパスタとコーラを注文したとき、おなじみのコーラのグラスが出てきた。確かめるとそのグラスにも同じように数字が書いてあった。その徹底ぶりに、おそるべし、ドイツ人とおもった。<br /><br />   ザルツブルクで老眼鏡のつるが折れてしまった。予備がなかったのでこれには困った。小さな字を読むときはレンズをあてて読んだ。なのでレジデンス広場に行ったときメガネ屋を探した。日本のように眼鏡市場とかダイソーがあれば便利なのだが、オーストリアは昔ながらの小さい店が健在である。探すのに苦労するだろうと心配していたが、案に相違して店はすぐ見つかった。レジデンス広場に面した建物に一軒のメガネ屋があった。<br /><br />   ところが、ショーウィンドウのメガネを見るとすべてブランド品のようだった。中には300ユーロという値札もあった。家人は中に入ったらと言ってくれたが私にはその勇気はなかった。<br /><br />   広場からは大通りに抜ける細い道が縦横にめぐっていた。そんな道の一つにはいるとそこにも小さな店がたくさん並んでいた。時計屋、古本屋、傘屋、土産物屋、まるで「シェリブールの雨傘」のようだなあとおもった。そんな中にメガネ屋もあった。入口は黒い木のドアで、窓からガラスケースのメガネが見えた。店内には若い女性がひとり立っていた。<br /><br />   勇気を奮ってなかに入り店員に話しかけた。老眼鏡がほしいというつもりで言った言葉が次のとおりである。“I need a pair of glasses for an old man like me.”皆さんは老眼鏡を英語で言えるだろうか?言えたあなたには謹んで敬意を表したい。<br /><br />   店員から帰ってきた返事は、”Do you mean reading glasses?”だった。あ、そうだ、老眼鏡の英訳は”Reading glasses”だった!”Yes, that’s it.”そのあとは、”three”という数字にうなづき、出されたメガネをかけるとドンピシャという感じで小さな字が読めるようになった。”How much is this?” と聞くと13ユーロ、つまり2、000円足らずだった。この値段なら十分OKである。20ユーロ札を出すとおつりが&#8364;5札とコインが返ってきた。<br /><br />   必要なものを希望の値段で買えたし、レストランやタクシーに乗るときはチップを払うのがエチケットだと聞いていたので、もらった5ユーロ札を ”This is for you.”と言いながら渡した。すると一瞬意外そうな顔をしたあと、”Thank you so much.”と小さな笑顔で受け取った。そして私たちが出ようとすると、わざわざドアを開けてくれた。あとで娘に確認すると、商品を買う場合にはチップは必要ないとのことだった。<br />

    それはさておき、今日はコップとメガネの話。写真のコップに小さな数字が見える。さてこれは何でしょうか?その答えを知ったときはドイツ人が少しわかったような気がした。

    数字の0.5l(ℓ)はコップの容量を示している。ビールが出されたとき、このラインを超えていなければ量目不足であり、客はクレームをいうことができる。このとき大事なことは、客と店の間で議論の生まれる余地がないということである。シンプルだがあいまいさがないという点できわめて合理的だといえるだろう。ちなみに、ミュンヘンでパスタとコーラを注文したとき、おなじみのコーラのグラスが出てきた。確かめるとそのグラスにも同じように数字が書いてあった。その徹底ぶりに、おそるべし、ドイツ人とおもった。

    ザルツブルクで老眼鏡のつるが折れてしまった。予備がなかったのでこれには困った。小さな字を読むときはレンズをあてて読んだ。なのでレジデンス広場に行ったときメガネ屋を探した。日本のように眼鏡市場とかダイソーがあれば便利なのだが、オーストリアは昔ながらの小さい店が健在である。探すのに苦労するだろうと心配していたが、案に相違して店はすぐ見つかった。レジデンス広場に面した建物に一軒のメガネ屋があった。

    ところが、ショーウィンドウのメガネを見るとすべてブランド品のようだった。中には300ユーロという値札もあった。家人は中に入ったらと言ってくれたが私にはその勇気はなかった。

    広場からは大通りに抜ける細い道が縦横にめぐっていた。そんな道の一つにはいるとそこにも小さな店がたくさん並んでいた。時計屋、古本屋、傘屋、土産物屋、まるで「シェリブールの雨傘」のようだなあとおもった。そんな中にメガネ屋もあった。入口は黒い木のドアで、窓からガラスケースのメガネが見えた。店内には若い女性がひとり立っていた。

    勇気を奮ってなかに入り店員に話しかけた。老眼鏡がほしいというつもりで言った言葉が次のとおりである。“I need a pair of glasses for an old man like me.”皆さんは老眼鏡を英語で言えるだろうか?言えたあなたには謹んで敬意を表したい。

    店員から帰ってきた返事は、”Do you mean reading glasses?”だった。あ、そうだ、老眼鏡の英訳は”Reading glasses”だった!”Yes, that’s it.”そのあとは、”three”という数字にうなづき、出されたメガネをかけるとドンピシャという感じで小さな字が読めるようになった。”How much is this?” と聞くと13ユーロ、つまり2、000円足らずだった。この値段なら十分OKである。20ユーロ札を出すとおつりが€5札とコインが返ってきた。

    必要なものを希望の値段で買えたし、レストランやタクシーに乗るときはチップを払うのがエチケットだと聞いていたので、もらった5ユーロ札を ”This is for you.”と言いながら渡した。すると一瞬意外そうな顔をしたあと、”Thank you so much.”と小さな笑顔で受け取った。そして私たちが出ようとすると、わざわざドアを開けてくれた。あとで娘に確認すると、商品を買う場合にはチップは必要ないとのことだった。

  •     広場にもどりケーブルカー乗り場をめざして歩き始めた。すると1軒の屋台の店がホットワインを売っていた。ホットワイン?何それ?という感じで店の前に立っていると、年配の店主が達者な英語でホットワインを説明した。口八丁手八丁の陽気なおじさんで、まるでザルツブルクの寅さんみたいだった。物珍しさでホットワインを注文し、ベンチに座って休憩した。そのうち客が集まりだした。店主も忙しくしているので私たちも席を立った。私たちが乗ったケーブルカーはすぐに乗客でいっぱいになった。  <br /><br />    ホーエンザルツブルク城砦城は岩山の上にあってザルツブルク市内を睥睨していた。市の全景を写真に撮るのには最高の場所だった。<br />

    広場にもどりケーブルカー乗り場をめざして歩き始めた。すると1軒の屋台の店がホットワインを売っていた。ホットワイン?何それ?という感じで店の前に立っていると、年配の店主が達者な英語でホットワインを説明した。口八丁手八丁の陽気なおじさんで、まるでザルツブルクの寅さんみたいだった。物珍しさでホットワインを注文し、ベンチに座って休憩した。そのうち客が集まりだした。店主も忙しくしているので私たちも席を立った。私たちが乗ったケーブルカーはすぐに乗客でいっぱいになった。

    ホーエンザルツブルク城砦城は岩山の上にあってザルツブルク市内を睥睨していた。市の全景を写真に撮るのには最高の場所だった。

  •     城内には昔の大砲が残っていたし、サーベル、槍、鉄砲などの武器がたくさん展示してあった。鉄砲の種類の多さと、後代にいくほど武器として洗練されていく様子が興味深かった。歩き疲れたら中庭のベンチに腰かけた。風もなく太陽の光線が強いせいか顔が火照った。体がぽかぽかし疲れが抜けていくようだった。城の売店では瑪瑙の指輪やツリーを売っていたが、飴色がきれいだったので記念に小さいものを買った。

    城内には昔の大砲が残っていたし、サーベル、槍、鉄砲などの武器がたくさん展示してあった。鉄砲の種類の多さと、後代にいくほど武器として洗練されていく様子が興味深かった。歩き疲れたら中庭のベンチに腰かけた。風もなく太陽の光線が強いせいか顔が火照った。体がぽかぽかし疲れが抜けていくようだった。城の売店では瑪瑙の指輪やツリーを売っていたが、飴色がきれいだったので記念に小さいものを買った。

  •     城を降りると、ケーブルカーの出口のすぐ横に聖ペーター墓地があった。(St. Peter’s Cemetery) 映画では、スイスに脱出するトラップ一家が身を潜めた墓所で、追手がガチャガチャと鳴らした鉄の扉がずらっと並んでいた。<br /><br />    カタコンベを出たら昼食の時間だった。ドイツに来てから4日目、今まで食べたのは、パスタが2度、ビアホールのソーセージと豚のすね肉、それ以外はコーヒーショップのパンケーキやマクドのハンバーガーだけである。もうそろそろちゃんとした料理を食べたくなった。<br />

    城を降りると、ケーブルカーの出口のすぐ横に聖ペーター墓地があった。(St. Peter’s Cemetery) 映画では、スイスに脱出するトラップ一家が身を潜めた墓所で、追手がガチャガチャと鳴らした鉄の扉がずらっと並んでいた。

    カタコンベを出たら昼食の時間だった。ドイツに来てから4日目、今まで食べたのは、パスタが2度、ビアホールのソーセージと豚のすね肉、それ以外はコーヒーショップのパンケーキやマクドのハンバーガーだけである。もうそろそろちゃんとした料理を食べたくなった。

  •     本来、おいしい食事も旅の楽しみの一つであるはずだ。今日は、古都ザルツブルクらしいしゃれた店でおいしい食事を体験したかった。石畳の道を歩きながらそんな店を探していると、とてもしゃれた雰囲気の店が見つかった。入口の横にある看板をみると、おいしそうな肉料理のセットがあった。<br /><br />    店名は、“Golden Kugel“で多くの地元の人でにぎわっていた。店内のテーブルとイス、内装は主に木でできていたが、年月を経た落ち着いた光沢を放っていた。私たちは大勢の客の間を縫うようにテーブルに案内された。隣のテーブルでは年配のご夫婦が食事を楽しんでいた。ご婦人の少しおしゃれなドレスが地元の人であることを物語っていた。<br /><br />    私たちはメニューを見ながら、グラスビールとビーフ、ポーク、チキンの3種類のステーキとフレンチフライが乗った皿を頼んだ。代金は14ユーロだった。(あれ、意外と安かったんだ。)ヨーロッパに来て初めて食べるビーフステーキなのでどんな料理が出てくるか興味津々だった。料理が並びグラスビールが運ばれた。食事を前に3人で乾杯した。<br /><br />    味はさておき、感覚的には違和感のないメニューでおいしくいただいた。ただ、日本の柔らかい牛肉に比べると固いし、ポークやチキンは塩味だけの淡白な味付けだった。旨みを追及する日本の料理に慣れた舌には物足りないが、これは国それぞれの味ということで、優劣ではなく好き嫌いの問題だろう。<br /><br />    それにしても冷えたビールを昼過ぎから飲み、ステーキやフレンチフライをナイフとフォークでいただくのは楽しい時間だった。朝からいろいろな親切を受けたがこのときも、隣のテーブルのご夫婦が娘に対して「食事を楽しんでください」と笑顔で声をかけてきた。この時に限らず、たまたま隣り合わせただけなのに、旅行者の私たちを気遣って声をかけてくれる親切は何度も体験した。<br />

    本来、おいしい食事も旅の楽しみの一つであるはずだ。今日は、古都ザルツブルクらしいしゃれた店でおいしい食事を体験したかった。石畳の道を歩きながらそんな店を探していると、とてもしゃれた雰囲気の店が見つかった。入口の横にある看板をみると、おいしそうな肉料理のセットがあった。

    店名は、“Golden Kugel“で多くの地元の人でにぎわっていた。店内のテーブルとイス、内装は主に木でできていたが、年月を経た落ち着いた光沢を放っていた。私たちは大勢の客の間を縫うようにテーブルに案内された。隣のテーブルでは年配のご夫婦が食事を楽しんでいた。ご婦人の少しおしゃれなドレスが地元の人であることを物語っていた。

    私たちはメニューを見ながら、グラスビールとビーフ、ポーク、チキンの3種類のステーキとフレンチフライが乗った皿を頼んだ。代金は14ユーロだった。(あれ、意外と安かったんだ。)ヨーロッパに来て初めて食べるビーフステーキなのでどんな料理が出てくるか興味津々だった。料理が並びグラスビールが運ばれた。食事を前に3人で乾杯した。

    味はさておき、感覚的には違和感のないメニューでおいしくいただいた。ただ、日本の柔らかい牛肉に比べると固いし、ポークやチキンは塩味だけの淡白な味付けだった。旨みを追及する日本の料理に慣れた舌には物足りないが、これは国それぞれの味ということで、優劣ではなく好き嫌いの問題だろう。

    それにしても冷えたビールを昼過ぎから飲み、ステーキやフレンチフライをナイフとフォークでいただくのは楽しい時間だった。朝からいろいろな親切を受けたがこのときも、隣のテーブルのご夫婦が娘に対して「食事を楽しんでください」と笑顔で声をかけてきた。この時に限らず、たまたま隣り合わせただけなのに、旅行者の私たちを気遣って声をかけてくれる親切は何度も体験した。

  •   ランチを済ませたあとミュージアムに向かった。古い建物の長い階段は歴史を感じさせる大理石つくりだった。パスを提示し受付を済ませると、首にかける小さなレコーダーを貸してくれた。それを使えば解説を聞きながら展示品を見ることができた。言葉のメニューの中には日本語もあった。<br /><br />  レジデンツ・ミュージアムの展示品(領主代々の宝物)を見てまわると1時間ではとっても足りない。ミュージアムの1階から3階まで、いそぎ足で回ったが、展示品を見るたび豪華さにため息ともつかぬものがでた。それらは中世の支配階級の巨大な権力を如実に示すものであり、同時に、中世の農奴がいかに収奪されていたかを示すものだった。私も庶民のはしくれ、かれらの生活の苦しさが想像できた。しかし、1時間を過ぎたころからだんだん足首が痛み出してきた。<br />

      ランチを済ませたあとミュージアムに向かった。古い建物の長い階段は歴史を感じさせる大理石つくりだった。パスを提示し受付を済ませると、首にかける小さなレコーダーを貸してくれた。それを使えば解説を聞きながら展示品を見ることができた。言葉のメニューの中には日本語もあった。

      レジデンツ・ミュージアムの展示品(領主代々の宝物)を見てまわると1時間ではとっても足りない。ミュージアムの1階から3階まで、いそぎ足で回ったが、展示品を見るたび豪華さにため息ともつかぬものがでた。それらは中世の支配階級の巨大な権力を如実に示すものであり、同時に、中世の農奴がいかに収奪されていたかを示すものだった。私も庶民のはしくれ、かれらの生活の苦しさが想像できた。しかし、1時間を過ぎたころからだんだん足首が痛み出してきた。

  •   4時過ぎにミュージアムを出た後、私たち夫婦は近くのコーヒーショップに入った。広いミュージアムを歩いた疲れだけではなく、旅行全体の疲れも感じるようになっていた。カフェラテとダージリンティーを注文し、痛むひざと足をいたわった。娘は引き続き、映画の音楽祭の舞台となったローマ時代のコロシアムを見に行った。<br /><br />  映画でトラップ邸のモデルとなった建物を見に行く予定はキャンセルした。無理はせず、ザルツブルクの土産物を買ってホテルにもどることにした。昨日も買い物をしたスーパーに寄り、モーツァルトのチョコレートを大量に買い込んだ。<br /><br />  ホテルに戻り疲れた体をしっかり休めて、明日はドイツのニュルンベルクに戻る。旅行も折り返し点を過ぎたが今まで信じられないほどの幸運に恵まれた。人の親切といい、おだやかな天候といい、ほんとうにいい日を過ごしている。深く考えもせずヨーロッパまで来てしまったが何だかかけがえのない体験をすることができた。神に感謝する習慣を持たない私だが、今日の幸運を何かにとにかくお礼だけは言っておこう。<br />

      4時過ぎにミュージアムを出た後、私たち夫婦は近くのコーヒーショップに入った。広いミュージアムを歩いた疲れだけではなく、旅行全体の疲れも感じるようになっていた。カフェラテとダージリンティーを注文し、痛むひざと足をいたわった。娘は引き続き、映画の音楽祭の舞台となったローマ時代のコロシアムを見に行った。

      映画でトラップ邸のモデルとなった建物を見に行く予定はキャンセルした。無理はせず、ザルツブルクの土産物を買ってホテルにもどることにした。昨日も買い物をしたスーパーに寄り、モーツァルトのチョコレートを大量に買い込んだ。

      ホテルに戻り疲れた体をしっかり休めて、明日はドイツのニュルンベルクに戻る。旅行も折り返し点を過ぎたが今まで信じられないほどの幸運に恵まれた。人の親切といい、おだやかな天候といい、ほんとうにいい日を過ごしている。深く考えもせずヨーロッパまで来てしまったが何だかかけがえのない体験をすることができた。神に感謝する習慣を持たない私だが、今日の幸運を何かにとにかくお礼だけは言っておこう。

  •   2月14日、土曜日。今日も快晴で、去る私たちにオーストリアの青空は祝福の光を注いでくれているようだった。チェックアウトの時刻は午前10時30分で、食堂で朝食を済ませ荷造りをした。 Extra Chargesとして、オプションの朝食料金が&#8364;12×6、それ以外に部屋の清掃代として、&#8364;4.50×2(二日分)請求された。迎えのタクシーを依頼するとき、ナンシーに小さなプレゼントと感謝の手紙を渡した。あわせて、ルームクリーニングの女性ふたりのために&#8364;2コインをふたつテーブルの上に置いておいた。ちなみに彼女たちも東洋系で、ニューカマーのように見えた。<br />Auf Wiedersehen Salzburg.<br />

      2月14日、土曜日。今日も快晴で、去る私たちにオーストリアの青空は祝福の光を注いでくれているようだった。チェックアウトの時刻は午前10時30分で、食堂で朝食を済ませ荷造りをした。 Extra Chargesとして、オプションの朝食料金が€12×6、それ以外に部屋の清掃代として、€4.50×2(二日分)請求された。迎えのタクシーを依頼するとき、ナンシーに小さなプレゼントと感謝の手紙を渡した。あわせて、ルームクリーニングの女性ふたりのために€2コインをふたつテーブルの上に置いておいた。ちなみに彼女たちも東洋系で、ニューカマーのように見えた。
    Auf Wiedersehen Salzburg.

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