2015/02/01 - 2015/02/01
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アルプ・グリュムさん
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江戸方見附のある大場川から京都方の見附がある千貫樋までの旧東海道三島宿を江戸時代の旅人気分で散策しました。
東海道と下田街道・甲州道が交差する交通の要所として、箱根越えを控え三島宿は本陣が2軒、旅篭が74軒があり賑わった宿場です。
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散策は江戸方見附のあった大場川手前東側にある宝鏡院からスタートします。
宝鏡院には笠置き石があります。 -
笠置き石
頼朝が参拝の折、笠を置いたといわれる「笠置き石」で三島七石の一つ でもある -
大場川に架かる新町橋
現在、新町橋は近代的な橋となっていますが、江戸時代には東海道五十三次の三嶋宿の出入り口として多くの旅人がこの橋を渡っていました。 快晴の日には素晴らしい富士山の姿が見えることで知られており、浮世絵師の安藤広重もここから見た雪景色の富士山を「東海道五十三次三島狂歌入り佐野喜版」に描いています。 -
旧東海道を意識した新町橋でこの付近に江戸方見附がありました。
ここからが宿場内となります。 -
新町橋を渡った堤防の横に引取り手のない無縁仏を土地の人が弔ったと伝わる無縁法界地蔵尊があります。
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江戸時代 重罪を犯し斬罪となった者の首は東海道を往来する人々への見せしめとされた。宿はずれの新町橋際にあった獄門台にのせられ、罪状を書いた捨札を立て、番小屋には番人を置き、数日間晒したといいます。これらの晒し首で引取り人ないものを哀れんで、霊を慰める為いつの頃か地蔵尊が安置され供養されるように成りました
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三嶋大社までの東海道には光安寺、薬師院、妙行寺、成真寺、本妙寺の寺があり
本陣や脇本陣を使えない場合には、臨時に休泊所になったそうです
妙行寺の本堂前には大きな獅子像があり総理大臣石橋湛山の縁で中国から贈られたものです。 -
三嶋大社前の旧東海道沼津方向を見ていますが、どこにも旧東海道の案内がありません。
たくさんの観光客、地元の方々が見えますがこの通りが東海道であることを存じているのでしょうか?
道路標識の県道21号の裾野方面が甲州道、侵入禁止の道路が下田街道(往還)です。
ここは甲州と伊豆が交差する重要な交差点なのです。 -
こちらは箱根方向を見ています。
旧東海道は道路幅も拡張され何も残されていません。 -
三嶋大社の大鳥居横には旧東海道の標識が設置されてあります。
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三島での観光名所ではトップとなる三嶋大社です。
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三嶋大社から見た下田街道です。
三嶋大社の大鳥居の正面が下田街道の起点です。
本日は日曜日で大変混雑しているので参拝は次の機会にして東海道の散策を続けます。
(ここまで来て本殿に参拝しないのは私だけだと思います) -
下田街道から三嶋大社を見ています。
道路幅も狭く車は一方通行で情緒が感じられますが下田街道を示す案内板は見かけませんでした。
要所に設置してある地図には明記されてあるのですが! -
こちらは三嶋大社横から伸びる甲州道の県道21号です。
こちらも案内板は見つけることができませんでした。
地図には甲州街道(佐野街道)と記載されてあるのですが!
正面には富士山が見えています。甲州の地は富士山の裏側にあたります。 -
旧東海道に戻り郵便局の横には問屋場跡の碑があります。
エアコンの室外機の下に隠れるように設置してましたが郵便局の正面に移設してもらいたいものです。 -
問屋場跡の碑が案内板と共にあります。
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宿場があった時代には、現在の三島市役所中央町別館のところに問屋場がありました。
幕府の役人や大名および旅人の荷物を運ぶために、いつも人足と馬を用意していました。
三島宿は、初めのころ、人足36人、馬36頭の常備を義務づけられましたが、その後100人100頭、200人200頭の時代もありました。
三島宿を通行する人や馬の数は大変多く、夜明け前から夜遅くまでにぎわいました。
大名行列が早立ちともなれば、問屋場は目の回るほどの忙しさでした。
大名行列のたびに、問屋場の役人は交代で送り迎えをしたり、本陣宿泊中は警備をしたりと、体がいくつあっても足りないぐらいでした。
また、通信の仕事をする飛脚人足もいました。
これらの仕事の管理を行った場所が問屋場と呼ばれ、宿場の中心的役割を担いました。
問屋、年寄、名主という宿三役により運営されており、運輸、宿泊の仕事を問屋と年寄で、年貢の取り立てなどの仕事を名主が行っていました。
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樋口本陣跡の案内板
東海道三島宿・樋口本陣跡
本陣江戸時代五街道に設けられ大名、公家、幕府役人などが宿泊した施設で大名宿と言いました。
三嶋宿はここに樋口本陣、道を挟んで北側に世古本陣がありました。
本陣の建物は書院造りで門構え、玄関、上段の間、控えの間などの部屋や湯殿、庭がある広大な者でした。
三嶋宿について
三嶋は古くから伊豆の中心地として栄え三嶋明神の門前町としてたいへんな賑わいを見せていました。
慶長(けいちょう)6年(1601)徳川家康は宿駅(しゅくえき)制度を作り、最終的には東海道に53の宿駅を設け、三島宿は江戸日本橋から数えて第11番目の宿駅に指定されました。その後、第三代将軍家光が参勤交代を制定し、各大名の東海道往来が多くなり、箱根に関所が設けられると三島宿は江戸防衛の役割を担(にな)うようになります。
また、東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する位置にあった三島宿は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点ともなっていました。伝馬(てんま)、久保(くぼ)、小中島、大中島の4町辺りが宿(しゅく)の中心地で、実際の運営もこの4町が核となり行われていました。
三島宿は初代安藤広重(あんどうひろしげ)の代表作「東海道五十三次」では、三嶋明神鳥居前を出立(しゅったつ)したばかりの旅人が描かれています。また文政9年(1826)に訪れたオランダ人医師シーボルトが三島・箱根の自然観察記録を、安政9年(1857)には三島宿に泊まったアメリカ人ハリスが、宿泊先(世古本陣)の日本庭園の素晴らしさを日記に書いています -
樋口本陣跡の碑
ここに残されたのはこの碑だけです。 -
樋口本陣跡の碑
碑が設置してある御茶屋さんとは全く縁もゆかりもありません。 -
世古本陣の碑
以前は三嶋宿を彷彿させてくれるそば屋があったそうですが取り壊されてしまったようです。 -
世古本陣の碑
三島宿には、世古本陣と樋口本陣の本陣が2軒存在していた。ここ世古本陣は、一の本陣と呼ばれ世古六太夫が勤めた。逸話では慶長4年(1599年)58歳の家康が、ここで阿万の方(当時おきく20歳)を見初めた。また、安政4年(1857年)に三島宿に泊まっていたアメリカ人ハリスが宿泊先(世古本陣)の日本庭園の素晴らしさをを日記に書いている。 -
三島宿の模型(写真でもなく、絵でありません)が楽寿園の中の郷土資料館にあります。
なかなか精工にに造られています。 -
現在の三島宿のあった商店街ですが何も残っていませんが写真の右に古そうな商店の「ニットショップ くまざわ」は三島宿の時代を感じさせてくれる商店です。
電柱は地中化されてあるので空が広く感じられるのは好感できます。 -
旧東海道の一本横に平行する道路が鎌倉古道です。
旧東海道よりもずっと風情があります。 -
鎌倉古道は平安時代から戦国時代までは主要な道路でその沿道には多くの寺院などが立ち並び江戸時代に近世東海道が整備されるまで大変な賑わいを見せていました。
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鎌倉古道に架けられてある赤橋から三嶋大社方向を見ています。
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鎌倉古道に架けられてある赤橋
江戸時代に駿豆五色橋の一つとして数えられた橋です。 -
鎌倉古道に残されてある常夜灯
説明板が見当たりませんでしたが時代を証明させてくれるものです。 -
鎌倉古道と常夜灯
今にも小野 小町、弥次さん喜多さんと出会いそうな雰囲気、情緒があるところです。 -
鎌倉古道に沿いにある園明寺
この寺で有名なのが樋口本陣の正門を移築した山門と孝行犬の墓です。 -
樋口本陣の正門を移築した園明寺の山門。
樋口本陣が如何に立派な本陣であったのかが想像できます。 -
園明時本堂
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孝行犬の墓で人間の墓よりも立派です。
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昔、鎌倉古道沿いの圓明寺の本堂の床下に、母犬と五匹の子犬が住んでいたところ、母犬が病気で倒れ、子犬たちは母犬の看病を必死で続けたそうです。しかし、子犬たちの看病の甲斐もなく、母犬は死んでしまい、子犬たちも母犬に寄り添うように息絶えたといいます。寺では子犬の孝行ぶりを想い、墓が立てられと伝えられています。
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コンクリート造りの連馨寺
将来の寺は建て替えれば皆コンクリート製となるのでしょうか?
情緒が全くなくなります。 -
連馨寺境内に「芭蕉翁の墓」があります。
供養碑だそうで本当の墓ではないようで本当の墓は滋賀県の義仲寺にあります。
「 いさともに 穂麦くらわん 草枕 」の句碑が横に書かれています。 -
三島広小路駅の近くに三石神社があります。
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有名なのが時の鐘です。
コンクリート製とはがっかりします。 -
三石神社の境内にある鐘は、「時の鐘」と言われ、江戸時代から旅人や三島の人に親しまれてきました。最初は寛永年間(1624〜1643)に鋳造され、その後何回か改鋳されました。特に大きな鐘が宝暦11年(1761)に川原ヶ谷の鋳物師(いものし)沼上忠左衛門祐重(すけしげ)によって造られ、三石神社境内に設置され三島八景の1つにも数えられていました。
三島宿の人たちはこの鐘の音で時を知りました。しかし第2次世界大戦時にこの鐘も軍戦用に供出され、現在の鐘は昭和25年(1950)に市民の有志によって造られたものです -
伊豆箱根鉄道の三島広小路駅
三島から修善寺までの路線ですがかつては駿豆鉄道軌道船が1963年(昭和38年)まで路面電車が走っていました。 -
三島広小路駅のタクシー乗り場は路面電車乗り場です。
線路は撤去されましたがここにチンチン電車が発着していたところです。
路線は旧東海道沿いに沼津駅まで伸びていました。 -
少し寄り道して伊豆国分寺へ寄ってみます。
境内の裏に国分寺跡があります。 -
伊豆国分寺跡に残る礎石8個が遺構として保存されてあります。
周囲は一般の墓となっているので先祖様に気を遣いながら写真を撮りました。 -
旧東海道をかなり歩くと秋葉神社があり、三島宿の西見附跡となります。
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秋葉神社の常夜灯
寛政5年(1793)と刻まれています。 -
秋葉神社の横隅に「千貫樋 及 西見付」の碑があり、三島宿はここまでです。
この碑は案内板設置がされてないのですぐには見つかりませんでした。 -
旧東海道の千貫樋まで歩きます。
ここに路面電車が走っていたとは驚きです。
電車は道路の中心に走っていたのですが遺構は何も残っていないのが残念です。 -
『創設については諸説があるが、天文二十四年(1555年)今川、武田、北条三家の和睦が成立した時、北条氏康から今川氏真に聟(むこ)引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。
この疎水により清水町の新宿、玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の耕地約130ha(旧高200石)が多大の恩恵を受けるに至った。樋は、はじめ木樋であったが大正十二年関東大震災の際、崩落したので現在の鉄筋コンクリートに改めた。
千貫樋の樋名については
1.架設が巧みなため銭千貫に価する。
2.この用水が高千貫の田地を潤している。
3.建設費が銭千貫を費した。
等が、命名の由来と伝えられている。』
という -
千貫樋と書かれているのですぐに分かります。
下に流れているのが境川です。 -
下を流れている川と交差していて、この川が三島市と清水町との境になっています。
歴史的には伊豆と駿河との国境であった境川です。 -
千貫樋をよく見ると付近の住宅よりも高い所を流れています。
スケールで見るとヨーロッパに存在する古代ローマ遺跡の水道橋の方がはるかに規模も上ですがポンプもない時代に水を引く知恵は変わりません。
この先にも旧東海道は見所がありますが三島から駿東郡清水町へとエリアが変わるため旅行記もエリアに合わせた地域として編集します。
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