1974/09/07 - 1974/09/11
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ノスタルジアさん
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今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを
船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。
今回はライン河下りと流域周辺の街をを訪ねました。
♪なじかは知らねど心わびて
昔のつたえはそぞろ身にしむ
さびしく暮れゆくラインのながれ
いりひに山々あかくはゆる
うるわしおとめのいわおに立ちて
こがねの櫛とり髪のみだれを
梳きつつくちずさぶ歌の声の
くすしき魔力(ちから)に魂(たま)もまよう
こぎゆく舟びと歌に憧れ
岩根もみやらず仰げばやがて
浪間に沈むるひとも舟も
くすしき魔歌(まがうた)うたうローレライ♪
訳詩:近藤 朔風
https://www.youtube.com/watch?v=PLaYa7Eyv_g
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 徒歩
-
旅行記の周辺地図
-
昭和49年9月7日
フランクフルト 10ドル両替2850円 1ドイツマルク117.29円
ベルン10時58分発の列車でついにスイスを去った。
1ヶ月近くの滞在であったが、残念に思う事は
マッターホルンを心ゆくまで見えなかった事である。
夕方、フランクフルトに着き、明日ライン河下りの観光船に乗る為、
マインツのユースホステルに向かった。 -
昭和49年9月7日、8日
マインツ ユースホステル2泊
日本人は他にいなかった。9月に入ると日本人は見かけなくなった。 -
昭和49年9月7日、8日
マインツ ユースホステル2泊 -
昭和49年9月7日、8日
マインツ ユースホステル宿泊 -
昭和49年9月7日
マインツ バス切符1ドイツマルク117.29円
18時05分乗車 -
昭和49年9月7日
マインツ バス切符1ドイツマルク117.29円
20時05分乗車 -
昭和49年9月8日
ライン河下りの説明と地図
ライン河はスイス、西ドイツ、オランダを流れ全長1,320kmで
スイス南東部のアルプス山中に発して北流し、ボーデン湖を経て
スイスと西ドイツの国境をなして西流する。
バーゼル付近で向きを変え、フランスと西ドイツの国境をなして
約180km程流れた後、西ドイツ西部を貫流する。
マインツから下流のボン付近までは、沿岸に奇岩ローレライや
古城も多く、また両岸の丘陵地にブドウ畑が多く風光に優れ
最も美しい所とされる。
ボンを過ぎると河は低地を北流してオランダに入り、
西に転じて多くの支流に分かれ、下流部に複合三角州を形成しながら
北海に注ぐ。 -
昭和49年9月8日
ライン河下り ラインシュタイン城はライン随一と云われるほど美しい。 -
昭和49年9月8日
ライン河下り ゾーネック城
11世紀にライヒェンシュタイン城の守護城として、 コルネリ修道院第聖堂の執事によって建てられた。 -
昭和49年9月8日
ライン河下り フュルステンベルク城
アファルツ選挙候の古城で今はワイン醸造所 -
昭和49年9月8日
ライン河下り バッハラッハ船着き場
リューデスハイム シュターレック城
12世紀に築かれ城主が兄弟喧嘩を起こして、麓の教会で二人とも
死ぬまで殴り合いをしたという伝説がある。
リューデスハイムは古来ワインの名産地として名高く、
今でも時代が買った民家や酒屋が並び美しい町である。
山の斜面は皆ブドウ畑ばかりでこういう南向きの急斜面こそ
ラインワイン向きの良いブドウが実るのである。 -
昭和49年9月8日
ライン河下り プファルツ城
1326年に完成したプファルツ選挙候の城で関税徴収に使われた。
買ってドイツには約300の独立領主がおり、街道でも河でも関税していた為、
旅行や商品に掛ってくる流通負担は大変なもので産業の発展を妨げていた。 -
昭和49年9月8日
ライン河下り ラインフェルス城
水面から115mでライン河で最強の城だった。
1250年関所の守として築かれた。
この下の河岸で領主が関税を取り立てていた。 -
昭和49年9月8日
ライン河下り ローレライの岩
昔はここに暗礁が多く、数多くの船が座礁したのと
川面に垂直に突き出ているこの岩壁が強いこだまを呼ぶところから
ローレライの伝説が生まれたと云われる。
船上ではローレライの歌が流れる。
♪なじかは知らねど心わびて
昔のつたえはそぞろ身にしむ
さびしく暮れゆくラインのながれ
いりひに山々あかくはゆる
うるわしおとめのいわおに立ちて
こがねの櫛とり髪のみだれを
梳きつつくちずさぶ歌の声の
くすしき魔力(ちから)に魂(たま)もまよう
こぎゆく舟びと歌に憧れ
岩根もみやらず仰げばやがて
浪間に沈むるひとも舟も
くすしき魔歌(まがうた)うたうローレライ♪
訳詩:近藤 朔風 -
昭和49年9月8日
ライン河下り ねずみ城
トリール大司教の城で本当の名はトゥルンブルク城。
ところがその南に猫城(Burg Katz)を構えていた
敵手のKatzenelnbogen伯が、そんな敵城は一呑みだぞというわけで
ねずみ城だと蔑称したのが通り名になってしまった。
猫城もあだ名で領主の家名がKatze(猫)で始まっているから。
-
昭和49年9月8日
ライン河下り 船上で
マインツからコブレンツまでの96キロを船で下り、
帰りは列車でマインツまで戻った。
ライン河下りはユーレイルパスで乗れた。 -
昭和49年9月8日
ライン河下り 船上で
船上での風が思っていたより冷たかった。
もう秋を感じさせるそんな冷たい風だった。
ライン河の色は汚く、古城、ローレライ岩も距離感あって
迫力が感じられなかったのは、冷たい風とはっきりしない
目まぐるしく変わる天気のせいだったかもしれない。 -
昭和49年9月8日
ライン河下りマルクスブルク城
水面から150mの高所にあり、しかも内部まで昔のまま保存されている
数少ない城の一つ。 -
昭和49年9月8日
ライン河下りシュトルツェンフェルス城
13世紀にトリール大司教によって築かれ1689年ルイ14世の
フランス軍によって破壊された後、プロシヤ王国の手で再建された。 -
昭和49年9月9日
マインツ バス切符1ドイツマルク117.29円
8時55分乗車 -
昭和49年9月9日
ケルン 5ドル両替1425円 1ドイツマルク109.62円 -
昭和49年9月9日
ケルン ユースホステル宿泊スタンプ -
昭和49年9月9日
ケルン ユースホステル宿泊 -
昭和49年9月9日
ケルン ユースホステル宿泊スタンプ -
昭和49年9月9日
ケルン ユースホステル2階202号室ベッド6
1泊7.2ドイツマルク789円 -
昭和49年9月10日
ケルン 大聖堂の前で
大聖堂はドイツゴシック様式の代表ともいえる建築で
1248年に着工され、身廊は14世紀に完成したが、
工事が南側の塔に及んだところで1520年に中断された。
その頃からドイツでは宗教改革、騎士戦争、新旧両教徒の戦争などが
次々と起こり工事どころではなくなった。
そのうち、ゴシック様式建築は時代遅れということになり、
全く顧みられなくなった。
工事が再開したのは1842.その頃中世の昔が賛美され、ゴシック様式が
息を吹き返し石の山とも見まがう高さ157mの尖塔を持つ荘厳無比の
大聖堂は前後700年かかって全容が完成した。 -
昭和49年9月10日
ダルムシュタット 5ドル両替1425円 1ドイツマルク109.20円
ダルムシュタット工科大学で化学の研究の為、
企業から留学している日本人Kさんを訪ねた。
Kさんとはプラハで知り合い、プラハからニュルンベルグまで列車が同じで、
ニュルンベルグ着いた時、早朝で両替は出来ないだろうと云われ、
20ドイツマルク2,420円を貸してくれたのである。
返さなくてもいいと云われていたがそんな訳には行かないので返しに来たのである。 -
昭和49年9月10日
ダルムシュタット
市内電車切符 0.5ドイツマルク61円 14時00分乗車。
駅前から大学まで乗車。
12時過ぎにダルムシュタットに着き、早速、大学に電話したが、
2回掛けても不在。
今回は諦めて北欧に行って10月にまたドイツに来る予定なので、
その時に、と思いながら3度目の電話したらようやく繋がった。
大学への道のりを訊いて市電で向かった。
あまりに忙しそうだったのでお金を返した後、すぐ失礼するつもりだったが、
引き留められて、学食で夕食まで世話になったりして
18時半まで学内で過ごした。
その後、ダルムシュタットのユースホステルに向かった。 -
昭和49年9月10日
ダルムシュタット
市内電車切符 0.5ドイツマルク61円 19時15分乗車
大学からユースホステルまで乗車。 -
昭和49年9月10日
ダルムシュタット ユースホステル宿泊 -
昭和49年9月10日
ダルムシュタット ユースホステル宿泊スタンプ -
昭和49年9月11日
ダルムシュタット
市内バス切符 -
昭和49年9月11日
ダルムシュタット 5ドル両替1425円 1ドイツマルク105.17円 -
昭和49年9月11日
ダルムシュタット 10ドル両替2850円 1ドイツマルク121.07円 -
昭和49年9月11日
フランクフルト レーマーベルク
つまりローマ人の丘と呼ばれる広場で紀元前20年頃から
ローマ人たちはマイン河を見下ろすこの丘に町を造って住みつき始めた。
レーマーは広場の西側を飾る三軒続きの古雅な建築で1405年に
富裕な市民の大邸宅として建てられ、後に市が買い取って市役所とした。
レーマーはフランドル風の段々になった三角破風を持ち、簡素ながら
力強い壁面の彫刻やバルコニーと相まって堂々たる風格を讃えている。 -
昭和49年9月11日
フランクフルト アイゼルン橋とマイン河 -
昭和49年9月11日
フランクフルト アイゼルン橋 -
昭和49年9月11日
フランクフルト ゲーテの家 入場券1.5ドイツマルク175円 -
昭和49年9月11日
フランクフルト
溜った切符、レシート類をシベリア鉄道経由で日本に送った。
2.1ドイツマルク230円 -
昭和49年9月11日
フランクフルトの日航支店へ
フジカラーフィルム36枚撮り9本を持ち込んだ。
当時、フジカラーは撮ったフィルムを日本航空の支店に持ち込むと、
日本へ空輸して留守宅や会社に現像して送るという便利なサービスをしていた。 -
昭和49年9月11日
フランクフルト 1.48ドイツマルク179円 -
昭和49年9月11日
フランクフルト 2.78ドイツマルク336円
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この旅行記へのコメント (1)
-
- メビウスさん 2016/06/20 13:41:43
- 素晴らしい旅の記録ですね!
- ノスタルジアさん、はじめまして。
長編旅行記【青年は荒野をめざす】シリーズ、あまりの面白さにVol.18まで一気読みしてしまいました。
昭和49年の記録ですか・・・
起動距離の詳細なメモやレシートの類い、こういう資料も大切な財産だなーと感心しきりです!
その頃の私はようやく片言の言語を話し始めたくらいですね笑
つづきもまた読ませて頂きます!
メビウス
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