2014/03/12 - 2014/03/12
383位(同エリア1174件中)
クッキーさん
ネットで、観光タクシーが貸切予約できることがわかり実現した今回の旅行。一人旅ならさすがに躊躇しますが、二人だから許容範囲です。しかもシニア割引も利用できてラッキーでした。
午前中は、中城城跡、勝連城跡、海中道路を訪れました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- タクシー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
朝の散歩代わりに、旅行最終日に乗る予定の観光バスの停留所を確認に来ました。
-
パレットくもじは大型ショッピングモール。
-
中央が昨夜歩いた国際通りです。
沖縄観光タクシー.netでweb予約していたタクシーはホテルまでお迎えに来てくれます。最初、明日の予約だったのですが、天気予報を見て、一日早くに予約を変更。
ちなみにお値段は8時間コースで、シニア割引・18,900円でした。 -
国際通り、首里城横を走り、たぶん琉球大学の近くを通り、中城村を進みます。
観覧時間は8:30〜17:00(5月〜9月:〜18時)、観覧料は大人400円。
只今9時というので、見学者は私たちだけです。 -
世界遺産の文字が一際目立つ案内図。
かつて貿易が行われていた屋宜(やぎ)の港から2kmほど離れた標高約160mの丘陵にある中城城。
これは打ち間違いではなく、なかぐすくじょうと読むんですよ。
「グスクは本土でいうところの「城」であるが、学問的には、本土のように単に軍事拠点として作られたものとは考えられていない。
グスクの起源には様々な説がある。
1)「聖域説」琉球の信仰の聖地として、御嶽(うたき)があるが、グスクはもともと御嶽であったと考える説。
2)「集落説」もともと集落として発生し、周辺を石垣で囲ったものとする説。また、1)とあわせ、御嶽を中心に発達した集落であるとする説。
3)「城館説」地域の有力者の居城として構築されたとする説。」
(ウィキペディア) -
こちらの地図の方がよくわかります。
-
こんな立体模型があると、全体像がつかみやすいですね。
中城城は、連郭式の山城で、6つの郭でできています。 -
こちらの裏門からまわるのが一般的なルートなんだそうです。
右に見えているのが裏門、左は三の郭です。
中城村の西北から北中城村の南側にのびていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、300余もあるとされる沖縄のグスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られています。
第二次世界大戦では、米軍の拠点になっていたため被害が比較的少なかったそうです。 -
三の郭は、石積み技法の最も進んだあいかた積みによって築かれています。亀甲乱れ積みと言われるものです。
-
東に向かって建てられた裏門。
1853年に来島したペリー探検隊一行が現地調査を行いエジプト式と評し、その素晴らしさを讃えています。 -
門を入ったところが北の郭です。
-
裏門を振り返って。
精巧なアーチ。 -
北の郭。
亀甲乱れ積みの石垣の様子がよくわかります。 -
三の郭に上ってきました。
見えている城壁は二の郭の外側で、こちらは布積みになっています。
この石積みの違いから、北の郭と三の郭が新たに築かれた郭だと考えられています。 -
今、上ってきた階段は、遠目にはなめらかに見えるのですが。実際はこんな風にひどく侵食されて、表面はボコボコです。しっかり足元を確かめて歩かないと、穴に躓きそうな位。
その下に見える石畳みは、当時は左側のようにツルツルした表面だったのですが第二次大戦の戦火で右側はザラザラした表面になってしまいました。
階段の段差の幅は非常に狭い上に急勾配で、戦の時に敵に攻められた時、奥にそびえる塀の上からの攻撃が効果的になるよう工夫がされている設計のようです。 -
三の郭への階段を下りて、北の郭に戻ります。
左の階段を上った記憶はあるのだけど、はて?西の郭はいずこに?
14世紀後半頃まで、先中城按司が数世代にわたり、西の郭、一の郭、二の郭の主な部分を築き上げました。
その後、琉球の戦国時代に「護佐丸・阿麻和利の乱」の舞台となり、当時の王、尚泰久(しょうたいきゅう)に謀反の疑いありとされた護佐丸は、阿麻和利の軍勢によって攻められ、無念のうちにこの城で滅びたのです。 -
振り返って北の郭の城壁を。
こちらの方向に勝連半島が見えるらしいのですが・・・
沖縄の戦国時代:
「中山の尚巴志(しょうはし)により三山は(琉球)統一されます。
1416年:北山(今帰仁城)滅亡
1422年:護佐丸に座喜味城を築かせ、北山軍残党の監視にあたらせる。
三山が統一され琉球王国は始まりましたが、すぐには安定しませんでした。
中央集権体制は整えられておらず、地方はまだ力を持ちえた状態だったのです。
尚巴志というカリスマの死後、いよいよ抑えはきかなくなってきました。
勝連城が、首里王府をおびやかす存在になってきたのです。」 -
右端に見える、樹木に覆われたあたりにあったのが、大井戸(ウフガー)だったと思います。
戦いに備えて水を確保するために、井戸をとり込み増築したとされる北の郭です。
「1440年、首里王府は対策として、尚巴志の家臣で名将であるだけでなく、琉球随一の名築城家として知られている護佐丸を座喜味城から中城城に移転配置し、勝連城の阿麻和利の動向を監視させます。
勝連の攻撃に備えて、三の郭と北の郭を増築し、完成させた護佐丸は中城城の兵力を増強して、常に阿麻和利の攻撃に備えていました。
1458年、時は、尚泰久(しょうたいきゅう)王の時代となりました。
勝連城では、阿麻和利(あまわり)の時代となり、天下取りを狙っています。」 -
振り返ってみると、また雰囲気が異なります。
「尚泰久王は、娘を阿麻和利に嫁がせます。いわゆる“政略結婚”です。
尚泰久王の妻は、護佐丸の娘でしたので、ここで以下の関係が出来上がりました。
護佐丸(ごさまる) ― 護佐丸の妻
|
護佐丸の娘 ― 尚泰久(しょうたいきゅう)王
|
尚泰久王の娘 ― 阿麻和利(あまわり) 」
戦国時代ならではの関係ですね。 -
二の郭から見た一の郭の城壁。
「それでも、阿麻和利の野望は消えません。状況は戦いへと突き進みました。
阿麻和利の策略により、護佐丸が謀叛(むほん)の疑いをかけられます。
尚泰久王は、その策にのってしまいます。
阿麻和利を総大将とする王府軍の、護佐丸(中城城)征伐となりました。
護佐丸は抵抗することなく、自害しました。」 -
二の郭の城壁の上を歩いています。
左が三の郭です。
「阿麻和利は、まんまと尚泰久王をだまし、護佐丸というじゃまものを消します。
しかし、阿麻和利の計算違いが起こりました。
阿麻和利の策が、妻である尚泰久王の娘に知られ、そのまま尚泰久王にも知られてしまったのです。
阿麻和利は、首里城へ攻めのぼります。
しかし、王府軍が既に戦闘態勢を整えていたことから攻めきれず、勝連城へ引き返します。」 -
城壁の表面はボコボコ。
「王府軍は、阿麻和利を討ち取りに勝連城へ向います。
阿麻和利は滅びました。
こうして、
中城城の戦い→首里城の戦い→勝連城の戦い
と舞台を変えた、 琉球史上に残る大戦(おおいくさ)は 首里王府の勝利で終りました。」 -
飽きもせず城壁を。
「護佐丸・阿麻和利の乱から11年後、今度は首里王府内でクーデターが起こりました。
第一尚氏王統はここで滅び、第二尚氏王統が始まります。
その後、第二尚氏第3代王“尚真(しょうしん)”による中央集権化政策により琉球王国は安定していきます。
中城城跡は、琉球が統一し、安定するまでの間の“動乱の時代をあらわす戦場(いくさば)の跡”なのです。」
(豊見城てるやの沖縄観光案内所のホームページより) -
こんなところを歩いています。
首里城と中城、勝連城の関係には諸説あるそうです。
「“護佐丸・阿麻和利の乱”には、他に
・護佐丸は忠臣ではなく、実際に反逆をくわだてていた。
・王府をおびやかす勢力をもった、護佐丸と阿麻和利を排除すろため
尚泰久王がくわだてた。
・尚泰久王のもと実権をにぎっていた金丸(クーデターにより後に尚円王となる)が、
実力のある護佐丸と阿麻和利を邪魔に思い、くわだてた。
などの説があります。」 -
二の郭北側の、この曲線の美しさ。
歴史というのは、最終勝者の側から都合よく書かれるわけですから、真相は闇の中かもしれませんね。 -
二の郭南側。
-
強風に気をつけながら端っこの方から。
-
運転手さんは若干呆れている様子でしたが・・・
城壁を十分堪能しました。 -
一の郭の城壁。
布積み(豆腐積み)。豆腐を積んだような石積なんだそうです。 -
中城湾の眺め。
-
一の郭。パンフレットの写真と異なっているようです。
中城城跡で最も広く、最も標高が高い場所にあります。
琉球王朝時代には正殿があり、歴代の先中城按司や護佐丸が居城していたと伝えられています。
後に間切り番所が建てられ、廃藩置県後は中城村役場に使用されていましたが、沖縄戦で焼失。 -
一つ一つの石に番号が付けられています。修復中のようですね。
-
南の郭の霊域。
-
中城城内には数箇所の拝所がありますが、特に南の郭は霊域・御嶽(うたき)エリアにもなっています。
「神の島・久高島」、「首里」への遥拝所、雨乞いの御嶽などがあり、今も拝む人が絶えないのだとか。
拝所の近くには必ずといっていいほど木の茂みがあるので、拝所の位置がわかりにくいときは緑の多い場所を探すといいそうです。 -
たぶん南の郭を出て、正門に向かうところ。
南の郭などに用いられているという野面(のづら)積みという昔から用いられてきた石積みには気がつきませんでした。 -
正門なのですが・・・
門の外の山側に見えている不気味な建物。この建物は中城高原ホテル跡で経営企業が倒産しオープンしないまま残されたものだそうです。
かつてのバブル期の負の遺産なのでしょうか。 -
正門は、首里城に向かって開かれ、かつては石造りの門の上に木造りの櫓(やぐら)が乗っていた痕跡があるそうです。
門はアーチではなく両側が石垣となっています。 -
正門から城壁内を。
-
正門の右側が南の郭の城壁。
門の外側には石畳道がありますが、この旧道は「ハンタ道」と呼ばれ、丘陵の縁辺に沿って首里城まで続いていたそうです。 -
左の城壁の上の方に見える四角い穴は狭間(はざま)です。
使用されたと推測されるのは、火矢(ヒヤー)と呼ばれる、中国で明の時代に開発された銃器で、城壁の近くでは金属弾・石弾が見つかっているそうです。
この城での戦乱、護座丸・阿麻和利の乱が1458年、種子島に鉄砲が伝わったのが1543年ですから、約100年前のことになります。 -
南の郭の外側にあるカンジャーガマ・鍛冶屋跡。
-
城のためか、集落のためかわかっていないようですが、護佐丸が阿麻和利に備えるために武器を造っていたとも伝えられています。
-
世界遺産を示す石碑。
-
見学が終わるまでの間、誰にも会わず、独占状態の城跡を堪能できました。
正門を出て、駐車場に向かいます。
旅行前に、中城城跡について調べてはいたものの、全く意味不明だったものが、今、再び読み返してみるとすっと頭に入ってくるのが不思議です。
中城城跡、勝連城跡、座喜味城跡と、この目で見てきたからかもしれません。 -
裏口から入るのが一般的なルートだと言われましたが・・・
歴史をふりかえれば、1458年,護佐丸を攻めた阿麻和利の軍勢も、1853年5月に来琉したペリー探検隊一行も、この正門から城内に入ったと考えられるわけだから、駐車場からこの舗装道路を辿り、城郭が造られた時の流れに沿って、西の方角にある「正門」からスタートするのがいいかもしれませんね。
駐車場から南に入ったところには、沖縄で一番古い亀甲墓といわれている護佐丸の墓があるそうです。
王府軍であった阿麻和利に討たれた護佐丸が丁重に葬られているということ、これが歴史の真実なのかも・・・。 -
中城城チケット。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
46