![中城城跡に続いて勝連城跡、海中道路を訪れます。<br /><br />観光タクシーの経験は初めてです。行きたい所に直行で連れて行ってもらえて楽なのですが、個人ガイドはどうも私には合わないみたいです。<br /><br />ツアーでのガイドなら、大勢の人に向けて説明するから、一人ウロウロしても構わないし、説明もろくに聞かないであちこちにカメラを向けることもできます。<br /><br />一対一でのガイドですから、せっかく詳しく説明してくれているのに無視することもできず、さらに説明の後、さあ、どうですか、みたいな顔で見られると、感想なりを言わなくっちゃと気を遣うこともあるし・・・なかなか難しいものです。<br />](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/10/97/31/650x_10973109.jpg?updated_at=1423121066)
2014/03/12 - 2014/03/12
235位(同エリア827件中)
クッキーさん
中城城跡に続いて勝連城跡、海中道路を訪れます。
観光タクシーの経験は初めてです。行きたい所に直行で連れて行ってもらえて楽なのですが、個人ガイドはどうも私には合わないみたいです。
ツアーでのガイドなら、大勢の人に向けて説明するから、一人ウロウロしても構わないし、説明もろくに聞かないであちこちにカメラを向けることもできます。
一対一でのガイドですから、せっかく詳しく説明してくれているのに無視することもできず、さらに説明の後、さあ、どうですか、みたいな顔で見られると、感想なりを言わなくっちゃと気を遣うこともあるし・・・なかなか難しいものです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- タクシー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
中城城跡からタクシーで30分弱で到着したのは勝連城跡です。
駐車場には、そこそこの数の車が停まっています。
人気の海中道路に近いせいもあるのかもしれません。
駐車場脇にあるお土産屋さんの店先で、お兄さんが竹箒を演奏していましたよ。
実際は、竹のような形の笛の先っぽに箒の毛先をくっつけたものです。 -
こちらにも、駐車場出口辺りに立体模型が置かれていて、イメージがよくわかります。
勝連城は、沖縄本島の中央部やや南、太平洋に突き出た与勝半島の付け根、中城湾を望む半島の南側の丘陵地に築かれたグスクです。
勝連城が現在残るような石垣に囲われたグスクの形になったのは13世紀前後と考えられているそうです。
中国製陶器が発掘されたり、防御施設である柵列が見つかったりしており、この辺りに多くの人々が居住し、指導者がいたことがうかがえます。 -
地図もなかなか立体的で分かりやすい。勝連城は、5つの曲輪(くるわ・城郭内にある区画のこと)からできているようです。
道路を横切って城跡に向かいます。
勝連城で有名なのは、15世紀半ばに城主となり、最後まで中山の国王・尚泰久に抵抗した有力な按司・阿麻和利です。
阿麻和利は肝高(ちむたき。英雄のこと)として人々に讃えられた名君で、増築を繰り返すなどして、勝連城を現在の姿まで発展させました。
良港を持つ地の利を生かして中国、東アジアなどとの交易を盛んにしてこの地域を栄えさせ、力を蓄えたそうです。
尚泰久は、この阿麻和利を警戒し、 自分の娘を嫁がせます。
1458年の護佐丸・阿麻和利の乱によって、阿麻和利は討ち取られ、 首里王府の勝利で終りました。
阿麻和利が国王・尚泰久打倒を図った時に、これを父・尚泰久知らせたのは阿麻和利の妻だそうで、政略結婚がマイナスに働いたのですね。 -
地図を追加。
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坂道を登りきったあたりが西原御門跡です。
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勝連城の見事な城壁。
ゆるやかな坂道が左に見える三の曲輪に続いています。
この一帯では一番高い位置にあるため、四周すべてが見渡せ、非常に眺望の良い場所にあるうえに、城は丘の頂上部にさらに石垣を高く積み上げて築かれています。
石垣を高く積み上げた沖縄の城の中でも、一際目立った形状をしており、その姿に惚れ惚れです。
今立っている辺りが護佐丸・阿麻和利の乱の最後の合戦の舞台になったのですね。 -
三の曲輪の反対側の丘陵地に東の郭があったのですが、木々が生い茂っています。
何か復元工事がされ始めている風でした。
前を歩く人たちも、私たち同様、観光タクシーの利用者みたいです。 -
三の曲輪の石垣の脇を上っていきます。
坂道は途中から石段となり、城の上部までは急な階段です。 -
勝連城は、琉球石灰岩の切石を使い、東西の丘陵をうまく利用して曲線状の城壁が築かれています。
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三の曲輪と言われる所の入口につながる急な階段。
ここには木造の四脚門が建っていたと推定されるそうです。 -
中城湾が見おろせます。
遠くに見える陸地は沖縄本島です。
中央やや左手にある小高い丘が中城城跡らしいのですが。 -
三の曲輪です。
階段を上がり三の曲輪から一段高くなったところが二の曲輪。 -
こんな系図が展示されていました。
百度踏揚(ももとふみあがり)は尚泰久(しょう・たいきゅう)の娘であり、琉球統一の英雄尚巴志(しょう・はし)は彼女の父方の祖父、母は中城(なかぐすく)城主護佐丸(ごさまる)の娘でしたから、護佐丸は母方の祖父、まさにサラブレッドの血筋です。また、伝説では絶世の美女として知られています。
護佐丸・阿麻和利の乱は、踏揚にとっては夫が祖父の一族を滅亡に追い込む非情な争いであり、さらには父と夫の戦いでもありました。 -
三の曲輪は儀式などを行う庭のような所、二の曲輪は按司の館、すなわち正殿のような建物があったといわれています。
夫・阿麻和利を討伐した大城賢雄は、最大の功労者となり、その褒美が与えられるように踏揚は大城賢雄の妻となります。二度目の政略結婚でした。
その後に起きたクーデターの中で、王家の一族の粛清が始まります。夫の大城賢雄もこの激流の中で非業の死を遂げます。踏揚は玉城(たまぐすく)に逃れ、その後ひっそり余生を送ったといわれています。 -
発掘、修復の様子。
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二の曲輪の後ろ見えるのは、ほぼ垂直にそびえる一の曲輪の城壁。
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二の曲輪には東西14.5m、南北17mの舎殿跡が残っています。勝連城で最も重要な建物だったようです。
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70坪余り、礎石が整然と並びかなり大きな建物です。
四隅で大柱を支えた礎石と、小柱を支えた小さな礎石でしょうか。
屋根は一部で瓦で葺かれていたようですが、板葺きか草葺だったとも考えられているようです。
瓦が発見されたグスクは、首里城、浦添城と、ここ勝連城だけだそうです。
また、高級品である「染付け」や「青磁」をはじめ中国製陶磁器も多く出土していることから、貿易による繁栄の様子がうかがえます。 -
舎殿跡の西側奥にあった「ウシヌジガマ」と呼ばれる洞穴。
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右の階段を上って一の曲輪に向かいます。
この階段は観光用に設置されたもののようです。
階段に沿って見えている石ころだらけの坂道が本来の通り道なんだろうと思います。 -
一の曲輪から。
中城湾が一望できます。曇り空なので、これぞ沖縄というようなエメラルドグリーンの海ではありませんが、雨が降っていないだけでも儲けものです。 -
遠くには、この後訪れる海中道路も見えています。
勝連城で最も高い場所にある一の曲輪は、標高約98メートルで、中城湾だけでなく
勝連城の周囲全体を見渡すことが出来ます。
周囲を見渡すことが出来るこの地に築かれた勝連城は、この恵まれた立地のおかげで守りの堅いお城だったのでしょう。 -
こんな風に、城壁ばかりに目が向いてしまいます。
一の曲輪の全景を撮っていないのも納得です。
右下に写っているのは三の曲輪でしょうか。 -
左下の樹木の間にも石垣が見えています。
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眼下に二の曲輪。
整然と並んだ礎石の様子がよくわかります。 -
一の曲輪から下りてきます。
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ほぼ垂直な崖の上に、ほぼ垂直な城壁。
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飽きもせず城壁を。
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最後に曲輪の姿をおさめて、
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海に浮かぶ巨大戦艦のようにも見えます。
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肝高として慕われた阿麻和利を称える野外演劇が行われるようです。
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勝連城跡から10分足らずでやってきた海中道路ですよ。
うーん、期待が大きかった分、ちょっと拍子抜けかも。車内からは、普通に海沿いを走っている感じ。 -
道の駅に寄るには少し早すぎるので、ドライバーさんが、お勧めの場所だという所に連れてきてくれました。
たぶん浜比嘉島だったかな。
ここも拝所。 -
空中で根が絡み合っています。
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ラピュタと、巨神兵のコラボ。
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植物の生命力に、ただもう圧倒されます。
人々が信仰心を寄せるのも頷けます。 -
頭上を見上げると、普通の樹木です。
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海中道路を戻ります。
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途中で停めてもらうこともできたのですが、
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もう11時半を回っています。
今日の予定は目白押し。
次は万座毛に向かいます。 -
この海と空の色、これはこれで気に入っているのですが、抜けるような青空、エメラルドグリーンの海も見たかったなあ。
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