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夭折の夜叉九郎を偲んで。

みちのく小京都

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2009/08/25 - 2009/08/25

185位(同エリア854件中)

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asa

asaさん

夭折の夜叉九郎を偲んで。

旅行の満足度
4.5
観光
4.0
グルメ
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
自家用車
  • 曇天の秋田に盛岡側から入る。<br /><br /><br /><br />目標は<br /><br />羽後小京都角館。<br /><br /><br />少し気になる人物がこの地にいたので。<br /><br /><br />夏の暑い盛り、晴れていれば違うところで遊んでしまうので(賢治ワールドとか)、敢えて泣きそうな天気に文化的旅行をしてみようと。<br /><br /><br /><br />国道48号線を田沢湖方面から角館に向かうとこんな木が。

    曇天の秋田に盛岡側から入る。



    目標は

    羽後小京都角館。


    少し気になる人物がこの地にいたので。


    夏の暑い盛り、晴れていれば違うところで遊んでしまうので(賢治ワールドとか)、敢えて泣きそうな天気に文化的旅行をしてみようと。



    国道48号線を田沢湖方面から角館に向かうとこんな木が。

  • 田園の真ん中にJR在来線が走っている。<br /><br />もうすぐだ。<br /><br />秋田新幹線がここを通る。<br /><br /><br /><br />秋田新幹線が通る都市を大まかにみると<br />東京-大宮-宇都宮-郡山-福島-仙台-盛岡<br /><br />そして盛岡駅で進路を西に変え奥羽山脈を越えて秋田に至るが、このとき通る線路は新幹線専用の高架ではなく、在来線の線路を利用するのである。<br /><br />それで田園をゆっくり走る(在来線路ではスピードは100?以下で走る)新幹線を見てみたくてこんなところで待機しているのだ。<br /><br /><br />さて現れましたぞ。

    田園の真ん中にJR在来線が走っている。

    もうすぐだ。

    秋田新幹線がここを通る。



    秋田新幹線が通る都市を大まかにみると
    東京-大宮-宇都宮-郡山-福島-仙台-盛岡

    そして盛岡駅で進路を西に変え奥羽山脈を越えて秋田に至るが、このとき通る線路は新幹線専用の高架ではなく、在来線の線路を利用するのである。

    それで田園をゆっくり走る(在来線路ではスピードは100?以下で走る)新幹線を見てみたくてこんなところで待機しているのだ。


    さて現れましたぞ。

  • 地べたを走る新幹線になんか親近感と情けなさを感じて、次停まるであろう角館駅に向かう。

    地べたを走る新幹線になんか親近感と情けなさを感じて、次停まるであろう角館駅に向かう。

  • 角館駅。<br /><br />駅の作りも小京都の景観を壊さぬよう考えられている。<br /><br />落ち着いた色合いだ。

    角館駅。

    駅の作りも小京都の景観を壊さぬよう考えられている。

    落ち着いた色合いだ。

  • 角館駅から西に向かう。

    角館駅から西に向かう。

  • いよいよだ。<br />見えてきた。

    いよいよだ。
    見えてきた。

  • 伝統的な古き街並みを古のまま残してある街、角館

    伝統的な古き街並みを古のまま残してある街、角館

  • この街にはもはやかつての人だが、私の好きな人物が数人いる。

    この街にはもはやかつての人だが、私の好きな人物が数人いる。

  • 一人目は戦国時代も終わりの頃、この地に風雲のごとく現れた鬼九郎こと角館の戦国大名戸沢盛安。<br /><br />彼が13歳で家督を継ぐ頃には天下の大勢は愛知県三人衆(特に二人目の羽柴秀吉のころ)で固められていたが、東北、特に羽州はまだ混沌とした感じが残っており、小大名でも割拠できたのである。<br />青森南東部から盛岡にかけての南部氏<br />山形県山形市の最上氏<br />秋田県能代地方の秋田(安東氏)が比較的有力な大名であったが、その狭間で外交と武力に秀でた盛安は戸沢家の隆盛に大きく貢献した。<br /><br />細かいことは興味がないと思うので省略させてもらいますが、その生き様や逸話に心惹かれたのです。<br /><br />だが天は彼を早くに引き上げてしまいました。1600年の関ヶ原どころか1590年の小田原落城前に病没してしまいます。享年なんと25歳。<br />長く生きられたらこの後の槍働きが容易に想像できます。歴史にifは禁物ですが、惜しくてなりません。

    一人目は戦国時代も終わりの頃、この地に風雲のごとく現れた鬼九郎こと角館の戦国大名戸沢盛安。

    彼が13歳で家督を継ぐ頃には天下の大勢は愛知県三人衆(特に二人目の羽柴秀吉のころ)で固められていたが、東北、特に羽州はまだ混沌とした感じが残っており、小大名でも割拠できたのである。
    青森南東部から盛岡にかけての南部氏
    山形県山形市の最上氏
    秋田県能代地方の秋田(安東氏)が比較的有力な大名であったが、その狭間で外交と武力に秀でた盛安は戸沢家の隆盛に大きく貢献した。

    細かいことは興味がないと思うので省略させてもらいますが、その生き様や逸話に心惹かれたのです。

    だが天は彼を早くに引き上げてしまいました。1600年の関ヶ原どころか1590年の小田原落城前に病没してしまいます。享年なんと25歳。
    長く生きられたらこの後の槍働きが容易に想像できます。歴史にifは禁物ですが、惜しくてなりません。

  • 二人目は常陸の戦国大大名であった鬼義重こと佐竹義重。<br />義重は佐竹家の当主として当時関東の覇者であった北条氏康と激闘を繰り広げ一歩も譲りませんでした。<br />現在の常陸太田市を拠点とした佐竹義重は神奈川小田原の北条氏康とたびたび茨城県猿島郡あたりでぶつかっていました。<br />おそらくこのあたりが北条氏と佐竹氏の領土境界緩衝地点なのでしょうか。<br />小田原を出発した北条氏とここでぶつかるには、よっぽど迅速な情報収集能力があったのでしょう。<br />北条氏康死後、北関東から南東北南端あたりまで支配していた義重は、血気盛んな独眼竜伊達政宗の南進を食い止めることができる存在でもありました。<br /><br />その戦略眼は隠居して家督を息子の義宣に譲った後も衰えることはありませんでした。<br />1598年豊臣秀吉、1599年前田利家の死後、日本中の誰もが必ず石田三成と徳川家康が激突することを知っていました。五大老筆頭徳川家康を抑えられるのは加賀100万石の軍事力を持つ前田利家しかいなかったのですが彼が死んでしまうと徳川家康は豊臣派主力の壊滅を考えます。<br />豊臣秀吉の配下であり彼の恩寵を受け大きな影響を受けて育った石田三成。三成は家康のそんな態度が気に入らなかったようです。でも三成は滋賀県佐和山の小大名、片や家康は江戸を中心に200万石以上の超大大名。まともにぶつかってはかないません。<br />三成の武器は、亡き秀吉の威光。その力で味方を集めます。<br />もう一方の家康の武器は徳川自体の強さ。<br />ですが豊臣の支配がまだ世を制しているので一個の大名の力などたかが知れたもの。束になってかかれば打ち取れると考えている大名も少なからずいました。<br />反家康の大大名の急先鋒が軍神上杉謙信の後を継いだ上杉景勝。会津で100万石以上という軍事力を抱えています。<br />長野県上田の真田昌幸。小大名ながら家康を震え上がらせ、サナダムシの語源ともなった智謀で敵を倒す大名。息子の真田幸村(信繁)は大坂の役で家康をあと一歩まで追い詰めた人物で有名です。<br />他は数万石の小大名がたくさん、といった感じです。<br /><br />ごくまれな優秀な大名とか(大分県中津の黒田家隠居の黒田官兵衛)や家康好きだからとか秀吉嫌いだからとか(奥州伊達政宗・山形県最上義光)とか三成嫌いだからとか(熊本県熊本市の加藤清正・広島県広島市の福島正則)などが家康軍につくようですが、開戦直前までは西軍有利と思う人も多かったのです。<br />中立っぽい立ち位置の中国地方の超大大名毛利氏や、東軍に加わろうとして叶わず仕方なしに西軍についてしまった九州地方の超大大名島津氏あたりがどう転ぶかわからないからです。<br />家康もそこらへんの動向、または誰が味方に付くかを見定めるため、わざと京都を留守にします。理由は上洛しない会津の上杉景勝を討伐するためです。<br />京都を留守にすれば、三成は行動を起こすだろうと読んだのです。<br /><br />京都を離れ江戸についても三成は行動を起こしていないようです。さらに北上して栃木県小山市まで来たときついに第一報が入ります。三成挙兵と。<br />これは三成を討つチャンスと即座に西に帰るべきですが、家康本体は関東から動きませんでした。<br />いや動けなかったのです。<br />会津上杉が攻めてきて挟み撃ちになるから?<br />そうではありません。上杉は伊達や最上が止めてくれます。<br />ではなぜ?<br /><br />ようやく本題に入れました。<br />そうです。まだ中立っぽい大大名はいます。<br />北関東の佐竹氏です。<br /><br />当主佐竹義宣は石田三成と仲が良く、彼の窮地を見過ごせない義宣は西軍に着く気満々でした。実際佐竹氏が、江戸にいる徳川家康本隊と交戦してれば歴史的逆転はあったのです。<br /><br />ですが隠居しても佐竹氏全体に影響を持ち一代で佐竹をここまで大きくした先代義重はここで鶴の一声を出します。<br />佐竹氏は東軍につけ、と。<br />普段は息子の決断に口を挟みませんがこの時だけは口を出したのです。<br /><br />この父の頑強な発言に息子義宣も抗えず、渋々東軍につき、その結果お家取り潰しは免れたのです。<br /><br /><br />その長い話は分かるが、なんで角館?<br />東軍についたはいいが、そのぎりぎりまでの態度が気に入らなかったのでしょうか、秋田県秋田市に転封(領地替え)になってしまったのです。<br />義重はその結果も察していたのでしょう。息子に従い文句も言わず自ら切り取った茨城県を出て秋田にくるのです。<br />この時茨城県の選りすぐりの美女を秋田に連れてきたと言います。秋田美人の原型となるお話です。<br /><br />急に茨城の人間が土地を治めるなんて地元の人が納得するわけがありません。一揆連発です。義重は引退してもなおこの一揆鎮圧のために働かされますが、その最中に落馬して死んでしまいます。<br /><br /><br />私はこんな男を感じる鬼義重が大好きなのです。<br /><br />話長すぎですか。

    二人目は常陸の戦国大大名であった鬼義重こと佐竹義重。
    義重は佐竹家の当主として当時関東の覇者であった北条氏康と激闘を繰り広げ一歩も譲りませんでした。
    現在の常陸太田市を拠点とした佐竹義重は神奈川小田原の北条氏康とたびたび茨城県猿島郡あたりでぶつかっていました。
    おそらくこのあたりが北条氏と佐竹氏の領土境界緩衝地点なのでしょうか。
    小田原を出発した北条氏とここでぶつかるには、よっぽど迅速な情報収集能力があったのでしょう。
    北条氏康死後、北関東から南東北南端あたりまで支配していた義重は、血気盛んな独眼竜伊達政宗の南進を食い止めることができる存在でもありました。

    その戦略眼は隠居して家督を息子の義宣に譲った後も衰えることはありませんでした。
    1598年豊臣秀吉、1599年前田利家の死後、日本中の誰もが必ず石田三成と徳川家康が激突することを知っていました。五大老筆頭徳川家康を抑えられるのは加賀100万石の軍事力を持つ前田利家しかいなかったのですが彼が死んでしまうと徳川家康は豊臣派主力の壊滅を考えます。
    豊臣秀吉の配下であり彼の恩寵を受け大きな影響を受けて育った石田三成。三成は家康のそんな態度が気に入らなかったようです。でも三成は滋賀県佐和山の小大名、片や家康は江戸を中心に200万石以上の超大大名。まともにぶつかってはかないません。
    三成の武器は、亡き秀吉の威光。その力で味方を集めます。
    もう一方の家康の武器は徳川自体の強さ。
    ですが豊臣の支配がまだ世を制しているので一個の大名の力などたかが知れたもの。束になってかかれば打ち取れると考えている大名も少なからずいました。
    反家康の大大名の急先鋒が軍神上杉謙信の後を継いだ上杉景勝。会津で100万石以上という軍事力を抱えています。
    長野県上田の真田昌幸。小大名ながら家康を震え上がらせ、サナダムシの語源ともなった智謀で敵を倒す大名。息子の真田幸村(信繁)は大坂の役で家康をあと一歩まで追い詰めた人物で有名です。
    他は数万石の小大名がたくさん、といった感じです。

    ごくまれな優秀な大名とか(大分県中津の黒田家隠居の黒田官兵衛)や家康好きだからとか秀吉嫌いだからとか(奥州伊達政宗・山形県最上義光)とか三成嫌いだからとか(熊本県熊本市の加藤清正・広島県広島市の福島正則)などが家康軍につくようですが、開戦直前までは西軍有利と思う人も多かったのです。
    中立っぽい立ち位置の中国地方の超大大名毛利氏や、東軍に加わろうとして叶わず仕方なしに西軍についてしまった九州地方の超大大名島津氏あたりがどう転ぶかわからないからです。
    家康もそこらへんの動向、または誰が味方に付くかを見定めるため、わざと京都を留守にします。理由は上洛しない会津の上杉景勝を討伐するためです。
    京都を留守にすれば、三成は行動を起こすだろうと読んだのです。

    京都を離れ江戸についても三成は行動を起こしていないようです。さらに北上して栃木県小山市まで来たときついに第一報が入ります。三成挙兵と。
    これは三成を討つチャンスと即座に西に帰るべきですが、家康本体は関東から動きませんでした。
    いや動けなかったのです。
    会津上杉が攻めてきて挟み撃ちになるから?
    そうではありません。上杉は伊達や最上が止めてくれます。
    ではなぜ?

    ようやく本題に入れました。
    そうです。まだ中立っぽい大大名はいます。
    北関東の佐竹氏です。

    当主佐竹義宣は石田三成と仲が良く、彼の窮地を見過ごせない義宣は西軍に着く気満々でした。実際佐竹氏が、江戸にいる徳川家康本隊と交戦してれば歴史的逆転はあったのです。

    ですが隠居しても佐竹氏全体に影響を持ち一代で佐竹をここまで大きくした先代義重はここで鶴の一声を出します。
    佐竹氏は東軍につけ、と。
    普段は息子の決断に口を挟みませんがこの時だけは口を出したのです。

    この父の頑強な発言に息子義宣も抗えず、渋々東軍につき、その結果お家取り潰しは免れたのです。


    その長い話は分かるが、なんで角館?
    東軍についたはいいが、そのぎりぎりまでの態度が気に入らなかったのでしょうか、秋田県秋田市に転封(領地替え)になってしまったのです。
    義重はその結果も察していたのでしょう。息子に従い文句も言わず自ら切り取った茨城県を出て秋田にくるのです。
    この時茨城県の選りすぐりの美女を秋田に連れてきたと言います。秋田美人の原型となるお話です。

    急に茨城の人間が土地を治めるなんて地元の人が納得するわけがありません。一揆連発です。義重は引退してもなおこの一揆鎮圧のために働かされますが、その最中に落馬して死んでしまいます。


    私はこんな男を感じる鬼義重が大好きなのです。

    話長すぎですか。

  • 武家屋敷の石黒家にお邪魔します。

    武家屋敷の石黒家にお邪魔します。

  • 内部撮影していいんだっけ・・・?<br />たしか、してもいいですよ、って言われた<br /><br />気がします。

    内部撮影していいんだっけ・・・?
    たしか、してもいいですよ、って言われた

    気がします。

  • 解体新書ターヘルアナトミアです。<br />杉田玄白のあれです。<br />オリジナルらしいですよ!!<br /><br />なぜ角館にあるのでしょう。杉田さんは角館出身というわけでもないのですが。<br /><br /><br />実はこれが3人目の角館ゆかりの人物、小田野直武です。おだのなおたけ、と打てばすぐ変換されるくらいの人物ですがみなさんご存じないですかね。<br />おほん。<br />1750年くらいの人物です。もはや太平の時代。<br />学問が進歩し始めて、海外からの書物も出回ります。そんななか医学書をもっと何とかできないか、と医者杉田玄白は考えました。旧来の日本の医書では、どこに何があるのかわからんというのです。<br />それもそのはず、少し社会の教科書見ればお判りでしょうが、日本人って絵が下手ですよね?本当にあんな顔してたのかっていう肖像画ばかりでしょう?<br />これに杉田さんは文句を言ってるのですよ。<br />わかります。でも1750年の日本にそんなこと言われても・・・<br />しばらくあの絵の風潮は続きますし・・・<br /><br />そんな折。奇人で有名な天才平賀源内が現れます(すでにいたんですけど)。彼は発明家としても有名ですが絵師としてもすぐれた?技量の持ち主でした。<br />源内は遠近法をはじめ、絵画に西洋技法を取り入れた人物です。<br />その彼が秋田を訪れた際に、角館在住の絵も描く秋田藩士小田野直武に出会います。源内は彼の絵を見てその才能を見抜き、<br />「餅を上から見た図を描け」と直武に出題します。でも当時の日本画壇ではそんなお題は円を描くだけで終わりです。困った直武はどうやったら描けるのかと聞いたところ源内は遠近法や陰影法などの技法を教えたのです。<br /><br />繋がりましたか?<br />杉田と親交のあった源内が、解体新書の絵図を描くときに推薦したのが小田野直武なのです。<br />こういった経緯で角館にオリジナルの解体新書があるのです。<br /><br /><br />話長いですね。

    解体新書ターヘルアナトミアです。
    杉田玄白のあれです。
    オリジナルらしいですよ!!

    なぜ角館にあるのでしょう。杉田さんは角館出身というわけでもないのですが。


    実はこれが3人目の角館ゆかりの人物、小田野直武です。おだのなおたけ、と打てばすぐ変換されるくらいの人物ですがみなさんご存じないですかね。
    おほん。
    1750年くらいの人物です。もはや太平の時代。
    学問が進歩し始めて、海外からの書物も出回ります。そんななか医学書をもっと何とかできないか、と医者杉田玄白は考えました。旧来の日本の医書では、どこに何があるのかわからんというのです。
    それもそのはず、少し社会の教科書見ればお判りでしょうが、日本人って絵が下手ですよね?本当にあんな顔してたのかっていう肖像画ばかりでしょう?
    これに杉田さんは文句を言ってるのですよ。
    わかります。でも1750年の日本にそんなこと言われても・・・
    しばらくあの絵の風潮は続きますし・・・

    そんな折。奇人で有名な天才平賀源内が現れます(すでにいたんですけど)。彼は発明家としても有名ですが絵師としてもすぐれた?技量の持ち主でした。
    源内は遠近法をはじめ、絵画に西洋技法を取り入れた人物です。
    その彼が秋田を訪れた際に、角館在住の絵も描く秋田藩士小田野直武に出会います。源内は彼の絵を見てその才能を見抜き、
    「餅を上から見た図を描け」と直武に出題します。でも当時の日本画壇ではそんなお題は円を描くだけで終わりです。困った直武はどうやったら描けるのかと聞いたところ源内は遠近法や陰影法などの技法を教えたのです。

    繋がりましたか?
    杉田と親交のあった源内が、解体新書の絵図を描くときに推薦したのが小田野直武なのです。
    こういった経緯で角館にオリジナルの解体新書があるのです。


    話長いですね。

  • 私のお気に入り3人の簡単な?紹介いかがでしたか?<br /><br /><br />話が長いというクレームは受け付けます。

    私のお気に入り3人の簡単な?紹介いかがでしたか?


    話が長いというクレームは受け付けます。

  • あとは稲庭うどんを出すお店を探すために

    あとは稲庭うどんを出すお店を探すために

  • ゆっくり散策

    ゆっくり散策

  • 稲庭うどんは三大うどんに上がる理由がわかりました(うどんの写真はありません。ごめんなさい!)<br /><br />讃岐うどんは今度食べに行きますけどもう1つのうどんってなんなんでしょうね。

    稲庭うどんは三大うどんに上がる理由がわかりました(うどんの写真はありません。ごめんなさい!)

    讃岐うどんは今度食べに行きますけどもう1つのうどんってなんなんでしょうね。

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