2014/10/04 - 2014/10/04
71位(同エリア438件中)
玄白さん
東北旅行記第4弾。10月4日、今日は鳥海山に登って山の紅葉の撮影を楽しむ予定だったが、前夜の天気予報では、鳥海山の天気はよくなさそう、翌日午前は晴天の予報だったので、鳥海山登山は翌日に繰り延べ、今日は庄内地方の観光に当てることにしました。
コストパフォーマンスがとても良かった鳥海温泉「遊楽里」を8時半にチェックアウトし、近くの十六羅漢岩を見た後、遊佐町を後にして酒田市へ。江戸時代は北前船の交易で繁栄を極め、西の堺、東の酒田と言われたほどの町、そんな酒田の繁栄の歴史に触れる半日観光です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
鳥海温泉「遊楽里」の朝食。さすが日本海に面した海の温泉、朝からイカ刺がついている。朝から一杯というわけにはいかないが・・・・
やっぱり食事に関しては、温泉旅館は海に近いのに限る!というのが二人とも海沿い育ちの我が家の共通認識。 -
外壁工事の足場の間から見える、宿の部屋からの日本海の眺望。灯台が建つ堤防は、吹浦漁港のものだ。
海がある西の方は晴れ間が見えているが、鳥海山は雲の中。明日の午前中は天気が良いということなので、鳥海山登山は明日に繰り延べ、今日は観光の一日とすることにした。 -
8時半にチェックアウトし、「遊楽里」から車で10分足らずのところにある十六羅漢岩に行ってみる。遊佐町の名所ということらしい。
鳥海ブルーラインの入り口にサンセット羅漢岩というレストハウスの駐車場があるので、そこから歩いてすぐのところにある。
ちょっと見には、普通の海岸の岩場だが、よく見ると数体の羅漢像が彫られているのが分かる。 -
近くに寄ってみる。
かつて鳥海山が噴火して流れ出たマグマが冷えて固まった安山岩に彫られている。説明板によると、この近くの海禅寺(かいぜんじ)というお寺の、21代目の寛海という和尚が、日本海の荒波で亡くなった漁師を供養し航海安全の祈願のため元治元年(1864年)から明治初年まで、酒田の石工と供に彫った物なのだそうだ。
正面に釈迦如来、文殊、普賢両菩薩の三尊と十六羅漢、観音、舎利仏、目蓮3体、計22仏が配置されている。真ん中の像が釈迦如来のようだ。そんなにたくさんの仏が刻まれているようには見えない。近くの他の岩にも彫られているようだ。 -
-
イチオシ
岩のデコボコをうまく利用して彫られた羅漢像は、ちょっとシュールな感じがする。
-
このアングルでは、背後に鳥海山が聳えているはずなのだが、今日は雲に隠れて見えない。
-
吹浦港の先に風力発電用の風車が見えている。3年前に完成した庄内風力発電という会社の設備のようだ。
-
ブルーベリーのような実を付けた植物が生えている。
-
十六羅漢岩の近くに出羽二見という夕日の名所があるというので、そちらに行って見る。途中、また芭蕉の句碑を発見!
「あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ」
あつみ山というのは、新潟県を境を接している温海町の温海岳のことだそうだ。この日は、雲が多くみることが出来ない。 -
イチオシ
出羽二見
海岸の二つの岩の間に注連縄が張られている。地元漁協の人たちが海上安全祈願のために張り、管理しているそうだ。伊勢の二見ケ浦になぞらえて出羽二見と呼ばれている。
ここは、夕日のビューポイントで、5月と8月には、注連縄の真ん中に日が落ちるそうだ。
夕日の絶景ポイントに朝来ても、ちょっと間が抜けた感じで、だれも観光客はいない。 -
右側の岩の上には小さな社と鳥居が建てられている。
-
酒田市内へ。
酒田は、平安時代に出羽の国国府が置かれていたという古い歴史を持つが、町の礎は源頼朝に滅ぼされた奥州藤原秀衡の妹、徳子(徳尼公)に従ってこの地に逃れてきた36人の家臣団の末裔といわれる三十六人衆が、最上川北岸の砂地を開墾したことに始まる。
江戸時代になると、高田屋嘉兵衛などが活躍した北前船の寄港地として繁栄を極めた。当時の豪商の一人で、終戦まで日本一の地主でもあった本間家に関わる遺産が残されている。
その代表的なものが、本間美術館および本間家の別邸「清遠閣」と庭園「鶴舞園」である。美術館は、豪商で大地主の本間家が集めた美術品の保管、展示をしている美術館で、別邸の敷地の中にある。この日に訪れたときは、特別展として、小林勇(雅号は冬青)の書画が展示されていた。小林勇は岩波書店創業者の娘婿で、のちに岩波書店の会長も勤め、編集者でもあり、画家、随筆家でもある文人である。
残念ながら、館内は撮影禁止なので、写真は無し。
1時間ほど、鑑賞したあと、本間家別邸「清遠閣」と「鶴舞園」へ。 -
-
色づき始めた紅葉の間に「清遠閣」の建物が垣間見える。
-
清遠閣の門。侘びたたたずまいが良い感じだ。
-
門の隣りに茶室があった。俄然、連れ合いの目が輝き出した。
にじり口の他に貴人口(きにんぐち)があるので遠州流茶道らしい。貴人口というのは武士が帯刀したまま、腰をかがめずに茶室に入れる武士専用の入口のこと。遠州流茶道とは、千利休に始まる侘び茶とは異なる武家のための茶道である。連れ合いの影響でこんなことも分かるようになった。 -
閉まっていたが、垣根越しに覗いていると、庭の掃除をしていた人が入っても良いですよと、垣根の中に入れてくれた。茶室の名前は「六明廬」。にじり口、下地窓など6つの明り取りがあることによる命名だそうだ。
本間家第5代の光暉、第6代光美が、遠州流茶道をたしなんだことから、酒田の茶道は今でも遠州流がさかんらしい。 -
清遠閣の門の脇にあった灯篭。
真ん中の石は、片方は、丸い穴が開けられ、満月を表し、・・・ -
反対側は三日月の形の穴になっている。この穴から覗くと鳥海山が見えるそうだが、あいにく、この日は雲に隠れて見えない。遊び心がある灯篭である。
-
清遠閣玄関。
清遠閣は、本間家4代当主、本間光道によって建てられた本間家の別荘であるが、主に庄内藩主、酒井候の領内巡視の際の宿泊場所として使ってもらうことも考えられていたという。
玄関を入ると、受付と売店になっている。ここも建物内部は撮影禁止。 -
イチオシ
ただし、中から外の庭園の風景は撮影しても良いということになっている。
明治末に二階部分が増築されている。明治、大正期も酒田の迎賓館として、賓客を迎え入れていたそうだ。
当時の手漉きガラスの歪みを通してみる庭園の風景も味がある。 -
二階の部屋からの庭のながめ。
二階の部屋(御座所)は大正14年、皇太子東宮(昭和天皇)がお泊りになった部屋。
撮影はできないが、離れた所からは金色の雲が浮かんで見えるが、近づくと消えてしまうといった何とも不思議な浮雲の金箔吹付けの襖壁が興味深かった。 -
-
一階の大広間だったところが、喫茶室になっている。ここだけは撮影OK。
建物は、欅で造られた重厚な階段と梅の透かし彫り欄間、大正時代のシャンデリア、継ぎ目のない一本通しの手摺り、天井板、床板など見所が多い建築物である。
どこか、京風の感じがするのも、北前船により、京・大阪の文物が大量に酒田にもたらされた影響なのだろうか。 -
喫茶室で抹茶を一服。
-
庭園「鶴舞園」の散策。園内の築地に、鶴が舞い降りて遊んでいたというので、鶴舞園と名付けられたそうだ。
-
特定の人物の設計による作庭ではなく、本間家代々の当主によって少しずつ手を加えられてきたそうだ。これは、北前船が来ない冬に、港湾労働者の失業対策としての意味があったという。
-
庭園からみた清遠閣
-
園内には、やたらに灯篭が目立つ。これも北前船の航行時、船のバランサーとして船底に積む石として各地から運んだものらしい。
-
-
-
-
本間美術館、清遠閣・鶴舞園、本間家旧本邸を通しで見ると割安の入場料になるので、本間美術館とは、離れた場所にある本間家旧本邸にも行ってみた。
こちらも、建物内部は撮影禁止なので、外観写真のみ。
これは薬医門で家族の通用門として使われていたという。白壁には武家屋敷の風格が漂っている。もともとは、本間家第三代当主、光丘が、幕府巡見使一行の本陣宿として庄内藩に献上したものを、藩主から拝領したという経緯がある。また、本間家は商人でありながら、藩への財政面の貢献が大きく、苗字帯刀を許されていたのである。 -
本間家の酒田における経済的影響力は絶大で、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」という庶民の言葉が残されている。いかに本間家の存在感が大きかったかを物語っている。
-
正式な門である長屋門。2000石旗本屋敷の格式の門で、商人としての本間家の人達は、この門は使っていなかった。建物も、門から続く表側は武家屋敷、奥は商家作りという、2つの建築様式が一体となっている珍しいケースである。
今年は本間家初代の原光が「新潟屋」という商社、金融会社、不動産屋の形態の事業を始めて325年目ということで、2ヶ月ごとに本間家収蔵の品々を公開する企画展が行われている。この日は、人形展という特別展示がされていた。 -
次に向かったのは、山居倉庫。ここは、酒田市内を流れる最上川と新井田川にはさまれた中洲(山居島)に明治26年に建てられた米蔵である。
新井田川は河口で最上川と合流している川で、ここは、最上川水運の拠点のひとつだった。 -
12棟の倉庫が並び、今でも現役の米倉庫として機能している。
-
米などの物資輸送に使われた小鵜飼船。最上川舟運では、ひらた舟という大型の舟が使われたが、新井田川のような支流で、短距離を輸送する小回りが利く舟として重宝されたらしい。こんな小さな船だが、米50表は積めたという。
-
外観は明治の頃のままだが、内部は定温の米保管庫が設備されている。
-
もともと、明治26年に酒田米穀取引所の付属倉庫として旧庄内藩酒井家によって建設され、管理・運営も酒井家が行った。昭和14年に取引所は米穀配給統制法によって廃止されたが、倉庫は引き続き財団法人北斗会、庄内経済連と管轄が移り、今では全国農業協同組合連合会庄内本部(JA全農庄内)が運用管理している。
-
この倉庫群は、裏側(西側)のけやき並木が観光スポットとして有名になっている。
けやき並木は、夏の西日や、冬の風雪から倉庫を守るために植えられたものだが、三角屋根が連なる建築美とのコラボで、観光地としての価値が高まっている。
NHKの朝の連ドラ「おしん」のロケに使われたことで、知名度が上がった。 -
イチオシ
ここのケヤキはまだ青いが、黄葉したらなかなかフォトジェニックなシーンになるだろうな。
-
ケヤキ並木の中間あたりにあった神社。
-
-
12棟のうち、1棟は庄内米の歴史を紹介している資料館、2棟は、観光物産館「酒田夢の倶楽(ゆめのくら)として利用されていて、9棟が現役の倉庫である。
夢の倶楽にはみやげ物屋や軽食の店が入っているが、奥はミュージアムになっていて、酒田の御殿手毬や紅花染めの品が陳列、即売されていた。 -
-
本間家が江戸時代に作らせた亀笠鉾の展示
第3代本間光丘が、酒田の鎮守社、日枝神社の山王祭りを盛大にし、町を活性化しようと、京都の人形師に作らせ、舟で運んだものだという。 -
-
美しい紅花染め。
江戸時代は、赤い染料に乏しく、庄内最上の紅花は大変貴重なものだったそうだ。 -
紅花染めの掛け布団。値段は、なんと¥378,000也!
こんな布団を掛けて寝たら、汚しはしないかと、おちおち寝ていられない?! -
庄内地方に伝わるつるし飾りで、この地方では「傘福」と呼ばれている。開いた傘の下にぐるりと布をめぐらし、その傘の下に、様々な意味合いの縁起物を吊り下げるのが特徴だそうだ。
酒田山王祭りでは、豪華な山車が練り歩くが、このうちの1つ、本間家の亀傘鉾で、傘の先に縁起物が吊り下げられた飾りが披露され、「傘福」はこれに由来しているのではと考えられているそうだ。 -
昨日、ハズレのランチで散財してしまったし、朝食をたっぷり食べたので、今日は、夢の倶楽の中で軽く揚げ餅で昼食を済ませることに!
-
庄内米の産地は良い米、水があることから酒どころでもある。地酒の一本くらいは、買わねばなるまい。車の運転があるので試飲できないのが残念だが、店員さんの説明を信じて、購入したのが、これ、「骨太で芳醇な味わい」だという。現時点でまだ抜栓していない。楽しみである。
ラベル名がちょっと観光みやげっぽいが、果たしてどんな味だろうか?
ちなみに亀の尾というのは大正時代の酒米として脚光を浴び、近年、また幻の酒米として復活した銘柄だという。
午後は、昨日行けなかった奇跡の復活を遂げた加茂水族館でクラゲに癒されます。
以下、「山の紅葉と温泉を巡る山形の旅⑤」に続く。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
54