2014/09/01 - 2014/09/01
250位(同エリア2401件中)
ベームさん
9/1(月)、13日目。
今日は午後ライプチヒに行くので午前中のベルリン観光です。
時間が限られているので、森鴎外記念館、イーストサイドギャラリー、ニコライ地区に絞りました。
写真はベルリンの壁、イーストサイド・ギャラリー。
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ホテルの近く。
今日は各人自由行動で、今朝は9時にホテルのロビーに集合し15時30分ホテルに帰着ということで、皆さん好きなところに行きます。 -
私は一人でまずツォー駅近くのカイザー・ヴィルヘルム記念教会へ。
手前の四角い建物は新教会です。 -
カイザー ヴィルヘルム記念教会。
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カイザー・ヴィルヘルム記念教会はまだ開いていなかったので後で来ることにして、新教会に入りました。
廃墟の記念教会は礼拝堂の機能を持っていないので、礼拝は隣の新教会で行われます。 -
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青い海の底にいる感じです。
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青に浮かぶキリスト磔刑像。
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次にツォー駅から100番のバスでウンター・デン・リンデンまで。
バスの車窓から戦勝記念塔/ジーゲスゾイレ。デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争の勝利を記念して1872年完成。高さ67m。
軍事強国プロイセンの遺物です。 -
ウンター・デン・リンデンで下車。
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ドイツ連邦議会議事堂。
森鴎外記念館を目指してルイーゼン通りを歩きます。 -
シュプレー川。
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メルケルさん。
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ドイツ連邦議会議事堂。
ドームがちらっと覗いています。 -
森鴎外記念館。
1984年、ドイツと日本の文化交流の先達者であった森鴎外を記念して開館。
フンボルト大学日本学科の施設です。
森鴎外は1884~1888年、22歳から26歳までの約4年間ドイツに留学し、ライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで学びました。
ベルリンには1887年4月から1888年7月まで滞在し、最初の2か月間をこの家で過ごしています。 -
入り口のプレート。
「森鴎外(1862~1922)は1887~1888年ここに住んだ。
近代日本文学の創始者、小説家、評論家。
ファウスト、レッシング、クライスト、E・T・Aホフマンの作品の日本人最初の翻訳者」。
医師、官僚でもあったことを見逃していますね。 -
階段の手すりに沿って「舞姫」の一節が書かれています。
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フランク・メールテンという人の墨書の個展が開かれていました。
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メーテルンさんの個展。
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ヨーロッパで翻訳されている森鴎外の作品。
受付には日本人の女性がいて熱心に説明してくれました。 -
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森茉莉著「父の帽子」のドイツ語訳。
1冊買いました。 -
冒頭部分。
日独対訳になっています。 -
冊子:森鴎外。日本においてゲーテを認知した先駆者。
これも1冊買いました。フンボルト大学版。 -
館内。
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鴎外関係の本がぎっしり。
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「舞姫」の映画のポスターが貼ってあります。
監督:篠田正浩。太田豊太郎:郷ひろみ。エリス:リザ・ウォルス。
1989年、日(東宝)独共同作品。 -
当時の家具などで鴎外の部屋を想像して再現したもの。
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菜の花の匂ふ小道を裏山の林下に来れば鶯鳴けり
上手なのかそうでないのか分かりませんが、なにか月並みな気がします。 -
「舞姫」の部分。
鴎外の手跡の拓本。 -
2020年6月26日追記。
ホテル鴎外荘は新型コロナの影響でインバウンド客の激減により去る5月31日をもって廃業との新聞報道が前にありました。報道通り廃業したのかどうか知りませんが、鴎外荘の建物はどうなるのでしょうか。まさか取り壊したりはしないでしょうが。 -
子供たちへの手紙。
マリチャン:長女茉莉/マリ。
アンヌコ:次女杏奴/アンヌ。 -
ボンチ:三男類/ルイ。
ちなみに、長男は於菟/オト、次男は不律/フリッツ(夭逝)。
いずれもドイツ人によくある名前からとっています。マリー、アンヌ、ルイ、オットー、フリッツ。 -
鴎外は4人兄弟の長男で、3人の弟妹がいました。それぞれの分野で名を残しています。
次弟篤次郎:三木竹二の名で明治の代表的な劇評家。
末弟潤三郎:書誌学者。
妹喜美子:小金井喜美子。医学者小金井良精夫人。翻訳家、随筆家。 -
鴎外の家族。
鴎外は2度結婚しています。最初の夫人登志子とは性格が合わず離婚、2度目の夫人志げはすこぶる美人です。写真で見る限り最初の夫人は平凡な顔かたちで、どうやら鴎外は美人好みのようです。 -
前列右端から鴎外、3男類、妻志げ、次女杏奴。新郎は長男於莬(おと、前妻との子)。
中列左から3人目長女茉莉。 -
森鴎外は軍医(後に陸軍軍医総監、軍医の最高位)でした。
ドイツ留学も軍医として軍医学の勉強が目的でした。
駒込千駄木町の観潮楼前にて。 -
全て鴎外記念館の写真です。
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1884年10月、鴎外ベルリン到着。
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「舞姫」の一節。
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ベルリンの日本医学留学生。1888年10月。
後列左端森鴎外、3人目中浜東一郎(ジョン万次郎の子)、右より2人目北里柴三郎。 -
明治21年。上の写真のメンバー。
日本の近代医学の先駆者たち。日本人の期待を背負って遠くドイツで勉学に励んでいたのでした。 -
ドイツ日記。
独逸劇場に至る。「ドン・カルロス」を観る。ゲスネルの美、ポオザの技、最も嘉すべし」。
1888年1月11日。
劇場、博物館、郊外の逍遥など適当に息抜きをしていたようです。 -
ドイツ日記の一部。
ふと夏目漱石のイギリス留学を思い浮かべました。遊ぶこともなくひたすら英書の山に埋もれていた漱石の留学はノイローゼになるなどあまり芳しいものではなかったようです。それに比べ優等生鴎外は官費留学生として申し分なく、ドイツ女性に追っかけられるなどなかなか楽しんでもいます。
まだ若く意欲満々の鴎外と、中年で教師生活にくたびれかけている漱石の違いもあると思います。
衛生学並びにドイツ陸軍の衛生制度の研究という具体的な留学目標のある鴎外と、英語・英文学研究という漠然とした課題を与えられた漱石の違いもありました。漱石自身留学前も留学中も留学の目的について疑問を抱いています。 -
ベルリンでの恩師ロベルト・コッホ。
私は官吏として、文人として功成り名を遂げた鴎外よりも、名誉とか権威に媚びず一市井人として生き弟子達から慕われた漱石の方に共感を覚えます。
お上があげるのだから畏んで受け取れといわれた博士号を、「小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡ってまいりましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります」、と辞退したのなんか痛快です。さぞかしお上はびっくりしたことでしょう。
オリンピックでメダルを取ったり高校野球で優勝したりすると知事とか市長さんを表敬訪問します。逆ではないか。よくぞ郷土の名を上げてくれましたとお上の方から表敬訪問するのが順序ではないですか。官尊民卑いまだ変わらず。 -
森鴎外記念館を後にしてベルガモン博物館に向かいました。
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Sバーンフリードリヒ・シュトラーセ駅と思います。
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巨人が窓から覗きこんでいる。
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ベルガモンにつきましたが行列で3時間待ち、諦めました。
ベルガモン博物館に行った仲間に後で訊くと、3時間待ちとなっていたが30分ほどで入れたとのこと。
外国からかっぱらったかだまし取ってきた祭壇なんか観なくてもいいやと負け惜しみ。 -
ベルガモン博物館。
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ではとSバーンでベルリン・オスト駅へ。
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ミューレン通りを渡ると、
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名所の一つイースト・サイド・ギャラリーです。
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約1.3キロにわたり続くベルリンの壁に描かれた絵。
いたずら描きではなく、世界のアーティストが描いた公認のものです。でもいっぱいいたずら書きされていました。 -
左はシュプレー川が流れています。
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面白いと思ったものを幾つか紹介します。
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ベルリンの壁。イースト・サイド・ギャラリー。
壁の構築1961年以降。壁の崩壊1989年11月9日。
絵の作成1990年2~9月。修復2009年。 -
心無いいたずら書き。
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このほか東独とソビエト両首脳の醜悪な抱擁場面もあります。
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シュプレー川。
以前訪れたバウツェンからここまで流れてきているのです。 -
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ベルリンの壁を乗り越えています。成功したでしょうか。
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トラヴァント壁を突き破る。
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端までは歩けませんでした。
有名なブレジネフとホーネッカーのブチュの絵もありますが撮りませんでした。すべて美をもって尊しとするベームには醜悪すぎます。 -
オスト駅からアレキサンダー・プラッツまで。
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世界時計を見に行きました。
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円板には世界の主要都市の名があり夫々の現地時間を示しています。
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円板はゆっくり回っています。
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19時と20時の下にTOKYOがあります。
今ベルリンは12時30分、時差7時間を足すとTOKYOは19時30分。だいたい合っています。
平面の世界時計は見ますがこういうのは初めてです。 -
駅の反対側にテレビ塔が建っています。
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アレキサンダー広場。
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ニコライ地区に入りました。
シュプレー川沿いのベルリン発祥の地です。 -
ニコライ地区にある赤の市庁舎。
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赤の市庁舎。
赤レンガで作られています。1870年。 -
塔の高さ97m。
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市庁舎の近くにある大きな建物。
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教会が有ります。
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聖ニコライ教会です。
1230年頃。ベルリン最古の建造物でそのころベルリンがあったという証明です。
1380年の大火の後改築。 -
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教会の前に4匹のベルリンのマスコット熊ちゃん。
一緒に記念写真を撮っている人も居ました。 -
中は市立博物館になっています。どうりで入場料を取られました。
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宙を舞っています。面白い配置の仕方。
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アパート群。
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なんだか東独時代のもののような気がしますが。
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マリエン教会とテレビ塔。
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マリエン教会。
当初1270年、火災により1380年改築。ベルリンでは聖ニコライ教会に次いで古い建物です。 -
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キリスト哀悼。
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これはわかります。アダムとイヴ。
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Sバーンでツォー駅へ。
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ツォー駅の近くにカイザー・ヴィルヘルム記念教会があります。
手前の四角い建物は朝訪れた新教会。 -
カイザー・ヴィルヘルム記念教会。
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1888年死去した初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を追悼して1895年完成。先の大戦で破壊され、戦争の悲惨さを知らしめるためそのままの形で保存されています。
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目を欺くような華麗な天井と壁面です。他には何もありません。
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プロイセンの威光を誇示しているようです。
鷲の格好、プロレスラーのようです。 -
玉と錫杖、神聖ローマ帝国皇帝を気取っているのかな。
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私はヴィルヘルム1世とかビスマルク、モルトケが嫌いなので、どうしても批判的になってしまいます。
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ドイツ初代皇帝ヴィルヘルム1世と皇帝妃アウグスタ。
真中の絵は1871年1月18日、普仏戦争に勝利したヴィルヘルムのヴェルサイユ宮殿鏡の間におけるドイツ皇帝(第2帝国)戴冠式。
ヴィルヘルム1世は統一国家ドイツの皇帝になるよりプロイセンの国王のままでいたかったようですが、宰相ビスマルクの野望に操られたようです。
どうしてヴェルサイユでやったのでしょう、フランス人には屈辱だったでしょうね。ルイ14世がドイツの熊に食べられてしまった。 -
左ヴィルヘルム2世:ヴィルヘルム1世の孫。第3代ドイツ皇帝。
中ヴィルヘルム2世妃アウグステ・ヴィクトリア。
このヴィルヘルム2世のときドイツは軍備増強、特に海軍、強硬な世界政策を推し進め第1次世界大戦に突入した。ドイツは敗れヴィルヘルム2世は莫大な財産をもって亡命した。皇帝は戦に敗れても亡命して優雅な生活を送れますが、残された国民、戦で亡くなった国民たちはどうなるのでしょう。 -
元の姿。
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教会のそばに地下鉄のクーアフュルステンダム駅があります。
通称クーダムと呼ばれる繁華街がここから始まっています。旧西ベルリンのメイン・ストリートでした。
ホテルに全員集合、ライプチヒに向かいました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
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- pu_nosukeさん 2015/07/01 01:20:18
- またまた失礼します。
- 私がベルリンに行ったのが5年前で、イーストサイドギャラリーは新しい作品になってまだ1年経っていなかったと記憶しています。元共産圏らしく、中国人が多かったため、日本への迂回路には、日本鬼子という言葉が白地にはっきりと書かれていましたが、ここまでの量ではなかったです。今はハングルもありますね。アートという感覚では受け止められないのでしょうか。嘆かわしいことです。
ベームさんの博識には感服するとともに、共感できる部分が多々あります。
又お邪魔させてくださいね。
- ベームさん からの返信 2015/07/01 11:34:05
- RE: またまた失礼します。
- pu_nosukeさん、
有難うございます。
落書きはどこに行ってもありますが国民の民度、成熟度の程度を示しているかもしれませんね。フランスなんて酷いです。国鉄の列車なんか落書きだらけで走っています。
私のコメントなんかいろんな文献を鋏と糊でつぎはぎしたものばかりです。お恥ずかしい限りです。
ベーム
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