2014/08/25 - 2014/08/26
115位(同エリア430件中)
ベームさん
8/25(月)、6日目。8/26(火)、7日目。
ライン川沿いの古都を巡る旅、いよいよ最後の町です。
25日の朝ケルンを発ち、アーヘンを見てデュッセルドルフに泊まりました。
デュッセルドルフ泊は26日ハンブルクに行く繋ぎのつもりですので簡単に済ませます。
デュッセルドルフ:ノルトライン・ヴェストファーレン州の州都。人口60万人弱。ケルンの北50キロ、ルール工業地帯の中心都市。ドイツの他の古都のような歴史的建造物は少ないようですが、時代の先端を行くショッピングセンターなど若者が楽しめるモダーンな町です。日系企業が沢山集まっていて市内にはそういった日本人向けの商店が多くあります。
1288年都市権獲得。ライン川の水運と商業都市ケルンの近くということで急速に発展しハンザ同盟にも加入しています。
もともとベルグ公国の都だったが17世紀にプファルツ選帝侯の領地となる。
ハインリヒ・ハイネ(1797~1856年)はこの地で生まれ、シューマン(1810~1856年)は1854年デュッセルドルフのライン川に投身自殺を図っている。その2年後にボン近郊の精神病院で死去。二人の死亡した年が奇しくも同じです。
近郊にネアンデルタール人の骨が発掘されたネアンデルタール渓谷があります。
写真は街で見かけた五嶋みどりさんのポスター。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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旅の前半はマインツからスタートしライン川沿いの古都をデュッセルドルフまで。
地図の一番上にデュッセルドルフがあります。 -
デュッセルドルフ着16:19の予定が16:52着。
アーヘンからタリスに乗ろうと思いましたが座席の予約が取れなくREできました。そのREがアーヘンで30分遅れ。DBの遅延は恒常的です。 -
デュッセルドルフ駅前。
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ホテルビスマルク。駅から数分。
なぜ嫌いなビスマルクなんて名前のホテルに泊まったのか?。
駅近くで料金の手頃なのがここしかなかったからです。この際好悪の感情より利便性を優先させましょう。
でもこのホテル、悪くは無かったです。 -
食事するため少しぶらつきました。
日本人が多く住む町とあって日本人向けの店が沢山あります。目についたのを少し紹介します。インマーマン通りとその横道辺りに集中しています。
書店「日本」。ウインドーの本は「かんじのれんしゅう」、「みんなの日本語」、「GORILLA]、「私のお菓子」など。 -
日・独センター、日本総領事館。
駅から延びる大通りインマーマン通りにありました。 -
隣はホテルニッコー、日本人の利用が多いようです。
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すしとグリル。日本食のすべてを食べられます。
Okiniiって「おおきに、有難う!」のことかな。 -
クリーニング店。
「日本品質の店です」の表示。日本人ならではの丁寧さ、仕上がりの良さでしょう。 -
朝日新聞、日経。
「貸店舗」の張り紙。 -
ツアー会社。
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日本の惣菜店、丸に安のMARUYASU。
店内左の壁に能の面が掛かっています。 -
日本食材店「松竹」。
Sincha=新茶のこと?。 -
うどん店「どん」。
ここできつねうどんを食べました。味も日本のうどんでした。美味しかった。
オーナーは日本人で、ドイツに来て30年。ドイツ人の女性を妻にもらったので日本に住まないだろう、ただし年に1回はお墓参りに帰る、そうです。 -
和風インテリアの店。
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ラーメン店。
アルバイト募集とはどういう人を?。在住の日本人?。 -
串、居酒屋。
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五嶋みどりさん、頑張ってください。
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ラーメン・バー「たけぞう」。
キリンビールあり。
今日はこれでお仕舞。日本関係の店が思ったより多かったです。これくらいあればドイツの食べ物が口に合わない人でも生活できます。 -
翌8/26。
市庁舎。今回初めての冷たい雨。 -
市庁舎前のプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルム2世像。
商工業、文化の興隆に貢献した選帝侯です。
9時半頃の列車でシュターデに行くので朝の内さっと街を歩きました。 -
市庁舎。1573年。
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ライン川。
デュッセルドルフの旧市街地ははライン川右岸にあります。 -
霞むラインタワー。
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ラインクニー橋。
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ライン川クルーズ船KDラインはマインツとここの間を航行しているのでしょう。
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河岸風景。遠くにラインタワー。
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左の尖塔は聖ランベルトゥス教会、右は城門の塔。
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ヨーゼフカペレ。
1717年。 -
聖ランベルトゥス教会。
1288~1394年に建立。塔の高さ72m。 -
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早朝なので中に入れないだろうと思っていたら、偶然中から人が出てきたので入れました。
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荘重な教会です。
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聖ランベルトゥス?。
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古そうなフレスコ画。
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説教壇。
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ピエタ。
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ぼちぼち駅の方に向かいます。
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ボルカー通りのハインリヒ・ハイネ生家。1797~1856年。
ハイネ・ハウスとあるだけで何の説明書もない。リューネブルクのハイネの家もそうでした。
ハイネはその言動を通じ当局から睨まれるようになり1831年フランスのパリに移りパリで死んだ。ドイツではあまり好かれていないのではと思いました。
墓もパリのモンマルトル墓地にあります。 -
1階は書店ですがハイネの本が並んでいるわけでもありません。
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駅の方に戻ります。雨は止みません。
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ハインリヒ・ハイネ・アレー辺り。
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平行して走るハインリヒ・ハイネ・アレーとケーニヒス・アレーあたりがデュッセルドルフの中心のようです。
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百貨店ガレリア・カオフホーフ。
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市内の中心を南北に走るケーニヒス・アレー。
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水路の両側を通っています。
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ケーニヒス・アレー。
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両側にはブランド店、銀行、オフィスが並んでいます。
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ヨハネス教会。
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ドイツ人はなぜこんなに軍服姿の銅像がが好きなんだろう。
ナチには決別しても、プロイセン、ビスマルク時代の軍事強国は忘れられないのか。 -
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ホテルに戻り荷物を受け取りICでシュターデへ。
これがすんなり行きませんでした。
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この旅行記へのコメント (2)
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- しょうちゃんさん 2014/10/16 14:13:32
- RE: ハインリッヒ・ハイネ
- ベームさんへ
ハイネは、ユダヤ人だからです。戦前、ローレライは歌われませんでした。作詩はハイネだったからです。欧州を旅する場合、その国の成り立ちを理解することです。自分の国の物差しで理解しようとするとミスを犯す可能性があります。ユダヤ人は欧州では嫌われた存在です。なぜなら、ローマン・カトリックが異教徒(ユダヤ人・イスラム教徒)を敵視してきたからです。フランスでは、プロテスタント教徒も迫害されてきました。
旧ソ連でも人種条項第5項はユダヤ人を指しています。冷遇されてきました。中国でも同じです(パスポートに〇〇族と記述)。なにも、第三帝国だけの問題ではありません。ポーランドは、現在90%以上がカトリック系です。戦後ユダヤ人がポーランドに戻ってきて、ユダヤ人は追放されたり、撲殺されたりしています(本「アウシュビッツ後のポーランド」参照)。これが現実です。
Berg さんが、オランダ人の言葉を引用していますが、欧州の歴史は戦争の歴史です。日本では「戦争史」に関する授業科目がありません。空想的な平和主義の意見(社会党は非武装中立を主張)が見受けられます。
明石書店の翻訳「スイスの歴史」「ポーランドの歴史」を一読することを勧めます。いかに、国の安全を維持するか、を高校生に討論させる内容の教科書です。では
- ベームさん からの返信 2014/10/16 20:35:42
- RE: RE: ハインリッヒ・ハイネ
- しょうちゃんさん、
色々教えて頂き有難うございます。また旅行記に度々ご訪問いただき合わせてお礼申し上げます。
ハイネは大きな通りにその名をつけられるなど公的には勿論なんの差別もないようですが、個人の中にはいまだ偏見を持っている人がいるのですね。
ハイネの生家は多分個人の所有でしょうから持ち主が嫌っているのかどうか。
ただヘッセもそうでしたが外国に移住し外から自国を批判し、外国で死に墓も外国にある著名人に反感を持つ人もいるのではないかと。
これは全く私の想像でなんの根拠もありません。
私の旅行記のコメントは独りよがりの、まさに偏見もあると思います。その際は是非ご指摘くださるようお願い申し上げます。
ベーム
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