
2014/08/24 - 2014/08/25
17位(同エリア147件中)
ベームさん
8/24(日)、5日目。8/25(月)、6日目。
24日はコブレンツからトリーア、ボンを経てケルンに一泊。
25日は朝の内ケルンを見てアーヘンからデュッセルドルフに行きました。
ボン:ノルトライン・ヴェストファーレン州。人口32万人。
1世紀頃にはローマ軍の駐屯地があった。1288年ケルン大司教の宮廷がケルンよりボンに移ってきてから発展を始め、フリードリヒ3世、カール4世はここの大聖堂で戴冠式を行っている。
第2次世界大戦後1999年まで西ドイツの首都。当時の政府首脳はドイツの首都はあくまでベルリンで、西ドイツの首都は両独統一までの暫定的なものと考え、ケルンやフランクフルトのような大都市ではないボンを選んだという。その頃はせいぜい人口11万ほどの町だった。
ベートーヴェンの生地。この地で亡くなったシューマンは妻クララと市内の墓地に眠っている。
ケルン:人口100万人を超えるドイツ第4の都市。紀元前50年頃からローマの植民市。5世紀末にはフランク王国の支配に入る。カール大帝の時大司教区に昇格し以降ケルン大司教領の首都として繁栄。
ハンザ同盟の有力都市でありライン川の水運と合わせケルンの商人は非常に大きな財を蓄えた。富裕層を中心とする市民と領主である大司教(司教領主)の対立は激化し1288年ついに市民軍は大司教を破り、大司教は宮殿をボンに移すことになった。今のボン大学。
1356年カール4世の金印勅書でケルン大司教は7人の選帝侯の1人に選ばれる。
その後は他のライン川流域の都市同様30年戦争、プファルツ継承戦争、世界大戦等で打撃を受けるが見事に復活している。ライン川の川向こうのケルンメッセ会場(ケルン・メッセ・ドイツ駅)で行われるメッセは世界有数の国際見本市。
写真はケルン、ドイツァー橋からの大聖堂と聖マルティン教会、ホーエンツォレルン橋。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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旅の前半はマインツからスタートしライン川沿いの古都をデュッセルドルフまで。
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8/24(日)。
モーゼル渓谷鉄道。
トリーアを13:12に発ちコブレンツでICEに乗り換え、15:42ボンにつきました。 -
ボン中央駅。
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ボン駅前。
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駅前から続くポスト通り。
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通りの右にボンの大聖堂/ミュンスターが見えました。
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ミュンスター広場。大聖堂前の泉。
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ミュンスター/大聖堂。
昔の司教座教会。11~13世紀に建設。
ライン地方の重要なロマネスク建築。フリートリヒ3世、カール4世はここで戴冠式を行っています。 -
身廊。
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主祭壇。
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ピエタ2像。
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騎乗の聖マルタン。
貧者に施すため自分の衣を裂いています。 -
祭壇。
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東方三博士の礼拝の祭壇。
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マギ(東方の三賢人)の礼拝。
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左大天使ミカエル、右聖女バルバラ。
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見応えのある立派な教会です。
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回廊に出ました。
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回廊に囲まれた中庭。
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外に出て教会を一回り。
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北側。
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北側扉の上の装飾。受胎告知。
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東、後陣側。
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ミュンスター広場。
黄色の建物は郵便局。 -
ベートーヴェンの像が建っています。
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広場の賑わい。
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ワイン祭りのようです。
フェダーヴァイザーの時期なのでしょうか。 -
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レミギウス通り。
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マルクト広場に来ました。
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広場を囲む建物。
シュテルンホテル。 -
市庁舎。1738年。
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マルクト広場。
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レミギウス教会。
1317年ミノリテン修道院教会として設立。1748年再建。1806年よりレミギウス教会。
ベートーヴェンの生年月日は明確ではありませんが、1770年12月この教会で洗礼を受けた記録があり、1770年生まれとされています。 -
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イエズィテン教会。1698年。
ベートーヴェンの家を目指してボン・ガッセを行く途中にあります。 -
教会と見れば必ず寄ります。
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主祭壇。
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説教壇。
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悪魔を退治する大天使ミヒャエル。
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柱の装飾に特徴があります。
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ベートーヴェンの生家です。
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この家で1770年12月17日にルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンが生れた。とされています。正確な日は不詳。
祖父も音楽家、父も音楽家。父はベートーヴェンの音楽教育に熱心でした。 -
ベートーヴェンは22歳でウイーンに移るまでこの家に住んでいました。
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家の前は道幅が狭くしかも工事中で人であふれていました。
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ベートーヴェンの家の少し先で歌が聞こえ、異様な一団に出くわしました。
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黒装束や、
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上半身裸の男たちが棺みたいなのを担ぎながらなにやら歌っています。
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イスラム系のようです。
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「我々はイマーム・フサインのケルバラでの殉教を悼む・・・」なんて書かれた横断幕です。
帰って調べると、イマーム・フサインはイスラム教の開祖ムハンマド(モハメット)の孫でイスラム教シーア派第3代イマーム(最高指導者)。680年、カリフの地位を巡って権力争いの際ケルバラの地で戦死した人物。
イスラム教シーア派ではアーシュラーの日にフサインの死を悲しむ儀式を行うそうです。 -
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ライン川河畔にあるオペラハウス。
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魔笛。
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ジーザス・クライスト・スーパースター。
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タイス。
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アイーダ。
いづれも新演出ですね。手間と金を惜しみ新演出ばかり。元の台本を換骨奪胎して中世のヒーローがネクタイ、ジーパン姿、ヒロインはタンクトップに足丸出し。舞台は無機質で初めから終わりまで変わらない道具立てのみ。これでは金も時代考証もいらないでしょう。 -
ボンのライン河畔にやって来ました。
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コブレンツでモーゼル川と合流し川幅が広くなっているようです。
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対岸、川の少し上流、東南の方に幾つもの頂を持つ低い山並みが見えます。
もしかして中世叙事詩「ニーベルンゲンの歌」のあのジーベンゲビルゲ/7つの山並みでは。
拡大してもわかりにくいですが、山並みの一番右端の頂に小さく塔みたいなのがあります。それがドラッフェンフェルス/竜の岩山では。 -
拡大。
右の山です。確かに塔です。 -
英雄ジークフリートはこの山のドラッフェンフェルス/竜の岩山で悪竜を退治し、その返り血を全身に浴びて不死の身となりました。
ただ一か所背中に木の葉が付いていてそこだけ竜の血が付かなかったのです。その秘密を知ったブルグント王国の重臣ハーゲンは槍でジークフリートの背中を突き殺してしまいます。
あの山並みがそうだとするとボン訪問の思わぬ収穫でした。 -
ホーフ・ガルテン。
ケルンから移ってきた大司教宮殿の庭園です。 -
ボン大学、旧選帝侯宮殿の方に歩きました。
1288年、市民との闘争に敗れたケルン大司教は宮殿をここに移しました。大司教座はケルンに残りますが住まいはボンということです。 -
シュロス教会。
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「12歳の時ベートーヴェンはこの教会で作曲家クリスチャン・ゴットロープ・ネーフェにオルガンと作曲の指導を受けた。14歳でベートーヴェンは既に宮廷オルガニストであった」。
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何処でしたか、大きな首がゴロンと転がっていました。
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ケルン駅。
シューマン夫妻の墓を端折り駆け足でボンを巡り、今日の宿はケルンです。
ボン17:31発でケルン18:01着。 -
ホテルはフリュー・アム・ドーム。
ケルシュビーアで有名なレストランの並びにあります。よいホテルでした。一泊85ユーロ。 -
夕食は早速レストランで名物ケルシュ。
ドイツ人はこれを次から次と飲むそうですが、私は一杯だけ。200ml。 -
名物だというライニッシャー・ブラートブルストなるものを食べてみました。
美味くもなし。もともと私はドイツ料理の味付けは口に合いません。 -
フリュー・アム・ドーム、レストランの方です。
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食後辺りをさっと一回り。
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大聖堂は明朝ゆっくり見ます。
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ローマ・ゲルマン博物館。
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上手なミュージシャンでした。
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閉館しているので外から撮るというせこいことをしています。
2世紀頃のディオニソス・モザイク。ローマ時代の住居の一部だそうです。
7.5m×10m、小さな石とガラス片を組み合わせた床。1941年、防空壕掘削最中に発見されたそうです。
博物館の一番の目玉が外からタダで見られるなんて。 -
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兵士ポプリツィスの墓碑。
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ルートヴィヒ美術館。右にケルン・フィルハーモニー。
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フィルハーモニー。
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マリス・ヤンソンス、クリスチャン・ツィンマーマン、サー・ジョン・エリオット・ガーディナーなど錚々たる名前がそろっています。
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料金表。高いか安いか、出し物に依るでしょうが。
高いところから売れています。一番下、立見席は19.6ユーロ。 -
ライン川の川べりにでました。
ライン川クルーズ船の船着き場。 -
ホーエンツォレルン橋。
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聖マルティン教会。
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大聖堂の後姿。
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ケルン駅。
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8/25。
アーヘンに発つ前に大聖堂、ライン川方面を歩きました。 -
西側。
1248年に着工され途中300年ほど中断はあったものの完成は1880年。 -
南側。
高さ157m、全長144m、幅86m、身廊の高さ43m。
その重量感は圧倒的です。 -
大聖堂の天辺のレプリカ。
こんな大きなものをどうやって持ち上げ据え付けているのか不思議です。 -
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西側扉。
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精緻なタンパンです。
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高い天井。
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巨大な柱。
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まず目に入るのが堂内南側のステンドグラス。
バイエルンの窓といわれ、1842年バイエルン王ルートヴィヒ1世が寄進したものです。
5枚あります。いずれも聖書に題材をとったもの。
真中に東方三博士の礼拝。 -
十字架から降ろされるキリスト。ピエタの写真集に加えましょう。
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聖霊降臨。
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聖ステファヌスの石打の処刑。
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荒野で説教をする洗礼者ヨハネ。
以上バイエルンの窓。 -
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衣装と装身具を着けたマドンナ/着飾った聖母。
こういう着飾った聖母子像を時々見ます。衣服を取り除くと普通の聖母子像です。 -
衣装の無い元の聖母子像。
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ゲロの十字架。
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10世紀後半、ゲロ大司教の寄進。
その後のキリスト磔刑像の原型とされます。 -
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ピエタ。
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バイエルンの窓以外にも美しいステンドグラスがあります。
バイエルンの窓と向かい合う北側側廊の5枚のステンドグラス。 -
1507~1509年の寄進。
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クリプタ。
内陣には入れず、東方三博士の聖遺物、シュテファン・ロホナーの祭壇画は見ることが出来ませんでした。 -
今回見られなかった大聖堂の宝ともいうべき3点をWEBより借用します。
シュテファン・ロッホナー作3連祭壇画「聖母マリアの祭壇/大聖堂の絵」。
中央は東方三博士の礼拝です。
1442年頃。
ロッホナーはケルン派を代表する画家で、ケルンのヴァルラーフ・リヒャルツ博物館やミュンヘンのアルテピナコテークでその小品が見られます。 -
東方三博士の聖遺物櫃。
中に1164年赤ひげ王フリードリヒ1世がイタリア遠征から持ち帰ったとされる東方三博士の遺骨/頭蓋骨が納められています。
そもそも大聖堂をつくる動機の一つがこの遺骨/聖遺物を納めるためでした。
その遺骨を納める金銀細工の箱/棺がまた素晴らしい。長さ2.2m、高さ1.53mあります。13世紀の作。 -
ミラノのマドンナ。
東方三博士の遺骨とともにミラノからもたらされた。
そのオリジナルが焼失したため1290年頃復元されたものです。 -
旧市庁舎。
大聖堂を出て南の方に歩きました。 -
旧市庁舎。
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アルター・マルクト。
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ドイツァー橋の袂のプロイセン国王フリートリヒ・ヴィルヘルム3世。
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ドイツァー橋から。
ホーエンツォレルン橋の1本上流の橋です。 -
大聖堂、聖マルティン教会とライン川クルーズ船。
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朝日の射すこの時間帯がベストです。
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ケルンで一番好きなヴューポイントです。
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同じ風景が続きますがどれも捨てがたいので。
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旧市庁舎、聖マルティン教会と大聖堂。
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ホーエンツォレルン橋。
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橋の場所により大聖堂と聖マルティン教会の位置関係が変わります。
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反対方面。
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聖マルティン教会。
1220年。 -
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ドイツァー橋の上からの風景を堪能してケルンを後にしました。ホテルに寄り荷物を受け取りアーヘンに向かいます。
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