2014/08/09 - 2014/08/15
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太まゆげのまちゃひろさん
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[前 泊]沼津(泊)
[1日目]大垣(泊)
[2日目]下関(泊)
[3日目]萩 (泊)
[4日目]萩 (泊)
[5日目]神戸(泊)
今年の夏旅は山口県です。
歴史好き、特に幕末好きにとっては欠かすことは出来ない場所でしょ(^^)
台風の影響による足止めで予定に若干の変更が出て、
1日後れで下関に入りましたが、堪能してきました♪
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- じゃらん
PR
-
[前泊]
さて、仕事を終えてそのまま出発し、前泊として沼津駅前で1泊しました!
[1日目]
今回も移動は“18キップ”。今日は丸1日かけて山口県までの移動日です。
経費節約もありますが、ただボーッと電車にのっている時間が好きなので毎回18キップを利用してます。家からだと山口県下関には1日で着かないんですよね〜♪
飛行機だと一時間半くらいだし、新幹線でも5時間くらいで着いちゃうのにね(^○^)
っ、まぁそれはおいておいて、朝早くから活動開始!朝5時39分沼津発のJRに乗り込みました♪(旅の早起きは、なんの苦もないのです(^.^))
今朝の天気は、台風の影響で “雨、時々どしゃ降り” です(^^)
さぁて、台風の影響でJRがどうなりますか!
とりあえず目的地に到着したいけどなぁ。
繰り返して“念”を込める.....
早く去れ〜台風、こんにゃろ(`^´*)〜@
とはいえ.....
念は、まったく効果無く.....(^_^;)
ほぼ予定どおり豊橋に到着したものの(08:40分頃)、
そこで台風により運転見合せ〜(TT)。
しばらく様子見ようと車内で待機。
09:00頃 運転見合せ〜
10:00頃 運転見合せ〜
11:00頃 運転見合せ〜、
でついに限界。電車を降り、改札を出て、お店見たり、食事したりで時間を過ごしました。
予め、2日前に下関のホテルをキャンセルしておいて良かったぁ。
完全にこの日の下関入りはアウト。 ま、新幹線は案外動き出すのも早かったから、新幹線なら余裕だったけどさ。
こういうハプニングをどう乗り切るかも旅の醍醐味のひとつです。
で、
豊橋 14:30頃 ついに電車運行開始!
運行待ちしていた人で、車内、激混み。
ま、でも岐阜までだからガマン。
うまくいけば関西を越えたあたりまで行けるな〜。
でも、岐阜から先がまだ状況がわからん。今のところまだ運行見合せ中らしい。
とりあえず、岐阜まで行ってからその先を考えることにする。
30分くらい運行して、車内アナウンス。
信号のトラブル!
また電車ストップ。
20分経過.....
30分.....
40分.....
動かん(^_^;)
さっぱり動かん(`´)
今朝からの待ち疲れと、立ちっぱなしで、体力、気力はさすがに限界。
最悪、名古屋泊まりも検討する。
結局、1時間以上待って動き出しました。
名古屋到着..... 岐阜まではもう少し。名古屋で結構降りたので、やっと座れ、そのおかげで、なんとか岐阜までは行くことを決断。
問題は、その先だ。
大垣〜米原間は運転見合せ。まだ動いていないらしい。
でも、ってことは、
(大垣までは行けるのか!)
最悪、岐阜→大垣は遅くなっても電車は動くだろう、と予測し、
急遽、大垣でホテル探し。おかげさまで、全国同じように動いてきたので、ポツポツと寝泊まりに良い場所が出来始めており、大垣もその1つ。
あそこのホテルは〜
(お、空いてる!)
その場ですぐ予約手配。今はスマホでも当日宿泊の予約出来るからね。
結局、岐阜到着17時50分。
まもなく、大垣までの臨時列車が出るという。
岐阜発18時16分。
大垣着18時40分頃。
朝5時半から動きだし、丸1日かけて、静岡から岐阜までしか行けぬとは..... (ToT)
大垣の予約したホテルは、男性だけだけど共同浴場もあってね。
飯買って、酒買って、風呂入って、早目にベッドへ。
疲れたぞ〜(TT)
ま、でも事故無く何より。
明日から明日から(^^)v
ともかく、1日目は台風の影響でヘトヘト。
ってことで、明日もう1日移動日です! -
[2日目]
さて、当初の予定であれば、
今日はゆっくり下関を観て回るのでしたが、昨日の台風の影響で、今日も1日移動日です。
今日は早く出発しても、何も出来ないのと、前日ヘトヘトだったので、朝は遅め。
超爆睡して、パッチリ目覚め、ホテルの朝食バイキングをたらふくいただきました。
朝食付きの宿泊にするときは、自分は好んでバイキングをするホテルにします。
朝から量はさほど食べられませんが、好きなものをいろいろ食べられるので、なんか楽しいんですよね。
さて、
大垣を09:10分に出ました。
今日は、台風一過、ダイヤに乱れは無さそうです。
それにしても、18キップで各駅停車の普通列車で本を読んだり、弁当食ったり、酒飲んだり、居眠りしたり.....
と、安いし、のんびり出来るのが好きなのに、この関西周辺は、普通列車が毎年超激混み。
みんなお金かけずに、時間かけるのかなぁ?
ま、いいや。んでもって、
姫路には12:16分到着!
姫路は乗り換えの時間が取れたので、いったん改札を出ました!
駅を出ると、うぉぉぉぉ〜、
この街づくり、最高だぜ!
と言いたくなる眺め。
ドーンっ
と、真正面に姫路城!(写真)
こういう街、他にもあるのかなぁ?
これまでは見たことないな。
姫路、お見事〜♪ いい〜(^^)/
まさに城下町!
兵庫の旅もいずれはしますので、その時はヨロシクです!
姫路13:04分出発。
相生、岡山、福山..... と順調に乗り継ぐ。
んん〜、懐かしいね〜♪
この辺は去年回ったもんでね。
と、景色と思い出をリンクしながら、過ごす。
広島を過ぎると、かなり電車も空いた!
21:50分、ようやく下関到着!
下関の今回のホテルは、一昨年の屋久島の時に利用してたから、気持ちも楽♪
ここも大浴場あるんだよ〜♪
さ、メシくって、風呂入って、寝よ♪
明日から行動開始! -
[3日目]
さぁ3日目。やっと山口県巡りスタート。
まずは 下関をぶらりです!
下関では、3つのエリアに絞って回りました。
長府、吉田、唐戸です!
さて、ここからは歴史が苦手な方にはちょっと読む気にならないかもしれませんが、歴史解説も入れます!
長文になるところもあるのでそのつもりでお付きあいください。
(それでも長文が面倒でしたら、☆☆↓〜↑☆☆は飛ばしてくださいませ♪)
さて、そもそもここ下関、魅力もいろいろですが、日本の歴史が大きく転換する出来事の舞台となった地です。それも2度。
↓☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
1つは壇之浦の合戦。
1185年の源氏と平家の最後の対決です。
これは貴族政治から武家政治へと日本が大きく転換、時代が動いた出来事です。
もう1つは下関戦争(または馬関戦争ともいう)です。
その武家政権は、幕末の明治維新による大政奉還、王政復古の大号令が成されて終わるワケです。武家が政権を握っていたその期間は約700年、江戸幕府(徳川)においては約260年にもなります。
その討幕(幕府を倒す)の引き金となったのが下関事件。
長州藩がここ下関で関門海峡(当時は馬関海峡と言われていた)を通る外国船を砲撃したというものです。
この事件がキッカケとなり、翌年、下関戦争が起こり、外国の進んだ技術を目の当たりにし、どんどん開国をして外国の知識、技術を積極的に取り入れようとする思想へ転換されていくのです。
↑☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
武家政治の始まりと終わりのキッカケは、いずれもここ下関だったんです。
面白いというか不思議な偶然です。
では、そのことを踏まえつつスタート! -
下関駅前からまず、城下町長府へ向かいました。
レンタサイクルを使いました!
1つの街を観て回るには、超オススメです。
車と違って、なんていうかなぁ〜...
街の空気を肌で感じられる、というか。
細かいところにも眼がいくし、どこでも手軽に立ち寄れるので。
海沿いの国道に沿って自転車を走らせていると「本陣伊藤邸跡」の看板発見。(あっ、ここかぁ♪)
そう、そこは明治維新の立役者の一人、坂本龍馬ゆかりの地であります!
あとで場所探して行こうと思っていたところでしたが、突如偶然発見!
今回の旅、一番最初は、やはり龍馬ぜよ〜♪
ということなのでしょう(^^)
坂本龍馬が、下関を活動の拠点とした際の生活の場、伊藤邸宅の跡です。妻、お龍との生活の場ともしていたのです。
なぜ、龍馬は下関で活動していたか? それはやはり長州藩との深い関係です。
長州、かつてのここ山口県の辺りですね。
長州藩の強さと人材の豊富さ、思想は、龍馬の理想実現にとっても大切な力だったのだそうです。逆に長州藩にとっても龍馬の存在は大きかったそうです。 -
さて、次!
先に進むと、みもすそ川公園があります。
関門海峡の一番狭まったところで、すぐそばには北九州市の門司とを結ぶ関門橋があります。 -
[みもすそ川公園]
壇之浦の合戦があった場所を一望出来る公園です。
源氏を率いた源義経と、平家を率いた平知盛の像があります。 -
さらに、ここに長州藩が外国船に砲撃した砲台跡もあります。そう、下関事件の場です。設置されているのは、長州砲のレプリカです。
-
↓☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
それにしても... 長州が砲撃したのは アメリカとフランスの船、翌年長州に攻めてきたのは、 イギリス、 フランス、オランダ、アメリカの連合国(下関戦争)。
4か国の連合艦隊が、一国のしかもたった1つの藩を叩きにくるのですから、それだけ「こんちきしょー」と思ったか、徹底的に倒しにきたのか、もしくは1国では戦力を揃えきれなかったのか、詳細までは調べてませんが、いずれにせよ長州藩はたった一藩で闘いました。 -
ちなみに結果は長州の惨敗でしたが、数字でみると、この下関戦争、連合軍の戦力は約2,000人、軍艦17隻、
一方長州藩は、長州藩士約1500人、軍艦4隻。
それぞれの損害は、連合国の死傷者 62人、長州藩の死傷者 47人と言われています。
↑☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
やっぱり長州は強かった? -
さて、城下町長府に入りました!
長府、かつてのこの辺りは“長門国(ながとのくに)”。
日本書記で、その長門国の国府がおかれたことから、長府と呼ばれるようになったと伝えられています。
※写真 壇具川(だんぐがわ) -
ここには長州藩の支藩、長府藩(ちょうふはん)がありました。
長府城下町として栄えた、その風情も残っており、都市景観大賞で大賞も受賞しています。
※写真 長府藩侍屋敷長屋 -
※写真 功山寺
高杉晋作が挙兵した場所です!
↓☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
江戸末期、長州藩は禁門の変や下関戦争の惨敗、そしてさらに追い討ちをかけるように、第一次長州征討と、長州は追い込まれていきます。
幕末、いろいろ複雑ではありますが、大ざっぱにいうと、「開国」を主張するのが徳川幕府です。そして幕府に従う藩はやはり多く、結びつきが強かった薩摩藩や会津藩などもそうでした。
一方、尊王攘夷、討幕を主張するのが長州藩。
260年も前のこととはいえ、関ヶ原の戦いの勝敗が心情的に働くのかもしれませんね?
この長州藩祖、毛利家の毛利輝元(もうり てるもと)は、関ヶ原の戦いでは敗北した西軍の総大将でしたから。
しかし追い込まれていく長州藩内は、幕府に従う姿勢になっていきます。
功山寺は、そんな藩内の政権を倒すために高杉晋作が挙兵した場所です。同士を集めて決起しクーデターを起こしました。クーデターは成功し、長州藩は再び討幕の道へと進むことになり、後に幕府は無くなるワケです。
↑☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
このため功山寺は「維新回天の地」と呼ばれています。 -
※写真 高杉晋作回天義挙像
また、功山寺には、長門長府藩の初代藩主毛利秀元(ひでもと)をはじめ、9人の藩主達のお墓や、坂本龍馬の盟友長州藩士・三吉慎蔵のお墓もあります。
「寺田屋事件」で龍馬を槍で助けたのが三吉慎蔵です。せっかくなので、お墓に手を合わせてきました! -
※写真 長府博物館(※施設内は撮影禁止)
功山寺敷地内にあります!
大きい博物館ではないので、ささっと見られますが、自分はけっこういました(^^)
それは丁度、龍馬の活動や下関の人たちとの交流に関する史料が展示されていたから。
ほか、長府毛利家遺品や幕末維新資料、その他いろいろ展示されています。 -
さて、次に吉田へ。
吉田は、下関観光に来た人は、果たしてどのくらいの割合の人が訪れるのかなぁ?
自分が行ったときも空いてた!
もちろん、歴史ファン、幕末ファンなら訪れたい地ではないでしょうか。そこは田園風景が広がる場所を抜けたところにありました。 -
ここに何があるのかというと...
-
ここには、東行庵や東行記念館、また奇兵隊陣屋跡があります。
東行(とうぎょう)とは、高杉晋作の号。晋作死後、彼の菩提を弔うために、愛人おうのは出家し、谷梅処として生涯、東行庵を守って暮らしました。
※残念ながら、東行庵は今時期公開されておらず、でした。 -
高杉晋作像
-
東行記念館の中に入ると、案内係の人が
「晋作クイズ、やりませんか〜?」
とのこと。
(クイズ? 子供じゃないんだから..... )
「賞状もらえますよ」
(なんか景品でもあればいいのに、賞状って(^_^;))
.....
高杉晋作の遺品や吉田松陰の獄中書簡、奇兵隊旗などの史料が展示されています。
かな〜りじっくり見学しました!
というのも、結局やったわけで.....
晋作クイズ♪
子供みたいに真剣になっちゃった!
っていうか、答え探しだな(^^)
自分の知識だけでは半分くらいしか、わからかった。
半分はカンニングみたいなもんだ(^.^) -
見事全問正解し、こんなのもらいましたぁ♪
こうして私は“晋作マスター”という称号を手にしたのでした♪ なんつって(^^)
クイズって、子供じゃないんだから、とか思っちゃってゴメンなさい(・・;)
超夢中になりました。
ありがとうございました(^.^) -
-
-
記念館を出て、高杉晋作のお墓参り!
-
-
帰り際、東行庵の駐車場に並んでいた売店に寄り、せっかくなので晋作餅を食べながらひと休み!
-
高杉晋作は27才でその人生を終えました。しかも病で命を落とします。 歴史に“もし”を言っても仕方ありませんが、病さえなければどんな活躍をしていたのか、と期待してしまいますね。
晋作が詠んだ有名な句です!
『面白き こともなき世に おもしろく』
大好きだなー、この句。 -
さて、折り返し、下関駅へ戻る形になります。
途中、立ち寄ったのが唐戸です。
話題を歴史から、いったん離れます。
唐戸市場、カモンワーフに立ち寄りました!
今回、絶対これだけは食べるゾ!と思っていたもの。
下関といえば.....
そう、“ふく”です♪
下関ではふぐのことを“ふく”と言います。
下関は、日本で水揚げされる天然のトラフグやクサフグなど8割近くが集まるそうです。またさらに、長崎県や熊本県で主に生産される、養殖トラフグも大部分が集まるとのこと。このように下関はふぐの一大集積地。
そして下関に集まったフグはここ唐戸市場で売買されるそうです。 -
..... ってことで、いただきました!
ビックリふく唐揚げ&とらふく刺身定食
お品書き..... 活とらふく刺身 ビックリふく唐揚げ ふくの煮こごり。 -
生まれて初めての“とらふぐ”をいただきました♪
-
最後に、青春交響の塔に立ち寄り。比較的新しいモニュメントですが、維新発祥の地、下関のシンボルとして2003年に完成。
高杉晋作と坂本龍馬の友情が二本まの石柱で表現されています。 -
坂本龍馬は北辰一刀流の剣の達人だったそうですが、ピストルを武器として携帯していました。
このピストルは高杉晋作からもらったと言われています。
2人の絆は、とても深かったようです。
下関めぐりはここまで。
予定ではもう1日滞在でしたが、台風で到着が1日遅れてしまったから残念!
でも、ここだけは、という観たいところは全部観られた!
3日目終了〜、今夜はスケジュールを修正した関係で、お宿は徳山。
少〜し広島方面に戻ります! -
[4日目]
4日目は、いよいよ今回の夏旅一番の目的地“萩”へ向かいます!
今日は、ほぼ移動日。バスを使えば、ちゃちゃっとお昼には萩に着くのですが、やはりここはJRで移動です。
もう少しJRでのアクセスの便が良ければいいね〜 とも思いますが、それはワガママか!?
旅はそんな思い通りにならないところも楽しむことが醍醐味でもあります!
さて、徳山を出発し、途中、新山口駅と... -
厚狭駅で乗り換え。
-
それぞれ時間があったので、駅前に出てみると、新山口駅前には、
種田 山頭火(たねだ さんとうか)像。
戦前日本の俳人です。
旅と酒を愛した昭和の芭蕉と言われています。
西日本各地を7年ほど旅をしながら、多くの歌を生んでいます。 -
厚狭駅前には、寝太郎像。
寝てばかりいた寝太郎が、突然出かけたと思ったら、沢山の砂金を持ち帰り、それを資金に厚狭川の灌漑工事をし、農民を救った、といわれています。
こんなお話。
『ゴロゴロとろくに働きもせず寝てばかりいた太郎は、周りからも“寝太郎”と言われていました。
そのゴロゴロしていた期間、なんと3年3ヶ月。
しかし、ある日突然、船と船一杯の草履を積んで海に出ます。数十日後、戻ってくると草履はボロボロのものになっていました。その草履を洗うと、草履についた汚れた土の中から、なんと砂金が出てきました。
寝太郎は佐渡金山に行っていたのでした。
この金を資金に厚狭川の灌漑工事をし、農民を救ったのです。
寝太郎は、ただゴロゴロしていたわけではなく、どうすれば佐渡の金を手に入れられるか試行錯誤していたわけです。
地元の窮地を救った象徴・神様として後世に語り継がれてきた、ということです。
さて突然ですがクイズです♪
寝太郎はどのような手で砂金を手に入れたのでしょうか?
答えはこの記事4日目の最後に! -
次は、萩へ行くには長門市駅で乗り換えなのですが、
ここから先、萩行き列車があまりありません。
人気の観光地とは思っていましたが、JRを利用する人は少ないようで、
JRの本数を増やすと採算が合わないみたいです。(タクシーのドライバーさん談)
2時間以上待つし、せっかくなので、仙崎、青海島(おうみじま)に行ってみることにしました。
仙崎駅到着。 -
仙崎は、金子みすゞさんの出身地です。
大正末期から昭和初期にかけての童謡詩人です。
金子みすゞ記念館に寄りました。 -
文学に疎い自分だけど、この“詩”は知ってた!
『こだまでしょうか』
「あそぼう」っていうと「あそぼう」っていう
「ばか」っていうと「ばか」っていう.....
と始まる詩。
テレビコマーシャルで使われていたからですね。 -
さて、
仙崎ですが、ここは古くから捕鯨で成り立っていた漁師の村でした。
鯨に対する畏敬の気持ちから鯨墓もあります。
この、鯨墓があるのが青海島です。ただ鯨墓までは距離があるので、今回は行きませんでしたけど。
青海島へは、橋が架かっているので、歩いても行けるし、自転車でもサーっといけます。今回は、自転車で橋を渡りました! -
橋を渡りきると、
こんな感じ♪ いい港町だなー♪ -
ちょっと堅い話になりますが、クジラを食してきた日本..... 、
クジラは日本の文化でもあるんですよね。
近年、捕鯨に対する世界の一部の評価が悪いものとなっていますが、
素人ながら個人的に調べた結果、自分は捕鯨反対という意見には賛同できませんでした。
鯨は頭のいい生き物だから、食べるなんて野蛮だ、とか、
数が減って絶滅の危機があるから、とか
理由としてあげられているようです。
前者は差別意識の表れだと思うんだけどどーでしょ。頭が良いとか悪いとか関係なくない?
後者はむしろ増えている種類だけ捕鯨しているようなので、それがホントなら理由にならない。
つまり、どちらも挙げられている根拠は論外じゃない?
というのが個人的意見です、ハイ! -
やむを得ず捕鯨が制限され、おかげでクジラを食べる機会がすっかり減りました。
自分の生まれた地域でも、郷土料理のひとつにクジラ料理があります。子供の頃からよく食べていました。
報道のされ方により、情報を受け取る側の印象が変わってしまう怖さにも気づかされました。
新聞、テレビなどのニュース、見聞きする情報は、そのままストレートに信じない。
自分でもいろいろ調べる! そんなキッカケとなったクジラ問題でもありました。
自分は日本人として、日本の文化に誇りを持とう、
そして同時に他国の文化も尊重する姿勢を持とう、と思うのでした。
...と、ちょっと真面目に語りましたが、これも旅の醍醐味の一つなので大目にみてくださいませ(^.^)
さて、時間になったので萩へゴー!
萩の宿泊先の最寄りの駅は“萩”の隣、“東萩”駅です。 -
来た〜♪ついに来た〜♪(^^)/
今回の旅の一番の目的地、萩だ萩だ〜! -
はいっ♪ おいでましたよ〜♪
もう夕方だったのと、疲れもあり萩市内巡りは翌日に。萩滞在は、お宿も楽しみだったので早目にチェックインしました。 -
今回の萩のお宿は.....
-
こちらです。
築約100年、文化財にも指定されている.....
芳和荘さん。 -
元遊郭だったそうな! 維新気分..... とまではいいませんが、幕末の少し後の建物ですから、時間を遡った感覚になれそうでしょ(^^)
-
2泊お世話になります。
夕食は無いので、ぶらっと外に出ました! -
で、居酒屋さんで。
じゃーん♪
ハイボールと、クジラの酢味噌がけ。
あとは、串ものを少し頼んで早目にお宿で休みました。
そして明日、ゆ〜っくり、萩を満喫するぞー!
さて、寝太郎クイズの答え!
寝太郎は、船で佐渡へ渡り、佐渡金山で働いている人に、草履を無料で交換してあげたのです。
なんだか商売のポイントになりそうなお話ですね! -
[5日目]
いよいよ萩を1日、目一杯堪能すっぞ♪
んん〜楽しみ♪(^^)
萩市内は、2本の循環バスが走っていて観光にはとても便利です。どこまで乗っても100円だし、何度も乗り降りするなら、500円で1日フリー切符というのもあります。
西回りの“晋作くん”と東回りの“松蔭先生”というバスで、30分おきに出ています。
最初はやっぱりここ! -
松蔭神社です。
松蔭神社は、1890年に吉田松陰を祀って建てられた神社です。
松蔭神社の境内には、松下村塾や、吉田松陰幽囚ノ旧宅など、松陰ゆかりの史跡などがあります。
さらに、吉田松陰歴史館、松陰神社宝物殿 至誠館、と紹介や史料などいろいろ観ることが出来ます。
では、そもそも“吉田松陰”って?
と、いう方もいますよね♪
そこでまた、簡単な歴史解説を入れながら紹介していきます。
ちなみに来年の大河ドラマ“花燃ゆ”は、松陰の妹、文(ふみ)を主人公としたドラマです。
(今回も歴史に興味のない方は↓☆☆〜↑☆☆は、飛ばしてくださいませ♪)
吉田松陰は、明治維新の精神的指導者・理論者として知られている人物です。
だいたい90名ほど松陰の教えを受けたと言われています。 -
松陰が主宰していた塾が、松下村塾(しょうかそんじゅく)。
-
-
-
塾生には、
久坂玄瑞(くさかげんずい)、
高杉晋作(たかすぎしんさく)、
吉田稔麿(よしだとしまろ)、
伊藤博文(いとうひろぶみ)、
山縣有朋(やまがたありとも)、
前原一誠(まえばらいっせい)、
入江九一(いりえくいち)、
などなど。
ちなみに、松陰の妹、文は、久坂玄瑞と結婚しています。 -
松蔭は、数多くの人材を育て、塾生達は明治維新を成し遂げる原動力となります。
↓☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
(ここの解説は長いです)
松下村塾の双璧と言われていたのが、久坂玄瑞と高杉晋作です。
久坂玄瑞は禁門の変で自刃(享年25才)、高杉晋作は病で命を落としています(享年27才)。
松下村塾の三秀というと、双璧の久坂、高杉に、吉田稔麿が加わります。池田屋事件で討ち死(享年24)しています。
他に、
伊藤博文は初代内閣総理大臣となった人物で、自分の子供の頃の1000札の肖像の人です。第5代、第7代、第10代と4度、内閣総理大臣でした。満州で暗殺(享年69)されています。
山縣有朋は、奇兵隊の軍監として活躍した人物で、明治維新後、第9代内閣総理大臣に就任します。
前原一誠は、長州藩において倒幕活動に力を注ぎましたが、のちに「萩の乱」を起こし、処刑されています(享年43才)。
松下村塾の四天王となると、
松下村塾の三秀の久坂、高杉、吉田に入江九一が加わります。禁門の変で自刃(享年28)しています。
ここで、おいおい、桂小五郎を忘れないで!という人もいるかもしれませんね(のちの木戸孝允(きどたかよし) )。薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通と並んで「維新の三傑」と言われている人物です。
桂小五郎は、確かに松蔭に学びましたが、それは藩校明倫館でのことで、松下村塾の門下生ではありませんでした。
ただ、松蔭とは、師弟関係であると同時に親友関係ともいうべき存在で、塾生より松蔭には近い存在で、塾生にとっては兄貴的存在だったそうです。
しかし小五郎自身、松蔭に対して門人の礼をとり続けていたのだそうです。
さて、
吉田松陰は、1830年、貧しい半農半士の萩藩の下級武士の杉家に生まれました。学問に熱心な家風だったそうです。後に吉田家の養子になります。
[松下村塾の創立者、玉木文之進]
教育者・兵学者だった叔父の玉木文之進に幼い頃から教育を受けてきました。この玉木文之進が開いた私塾が松下村塾で、松蔭もここで指導を受けました。
つまり、松下村塾の創立者と言ったら、吉田松陰ではありませんのでヨロシク!
[秀才、しかもなお勉学に励む]
松蔭の秀才ぶりは見事だったようです。
10歳の時から藩校明倫館に出仕し、11歳の時には、藩主毛利敬親の前で「武教全書」の講義を行い、藩主を感動させる程でした。
19歳で独立の師範となり、引き続いて22歳まで明倫館で山鹿流兵学を教授します。
しかし、松陰は萩にとどまりませんでした。
日本各地を遊歴し、勉学に励みます。南は熊本、北は津軽まで各地歩いたとのことです。
22歳の時に江戸で遊学します。この時、佐久間象山等に師事します。
↑☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ -
[歴史的出来事との巡り合わせ]
吉田松陰は脱藩の罪で、長州に送り返されて藩士の身分を剥奪されますが、10年間の遊学許可が出され、再び江戸に向います。この時、江戸で歴史的な瞬間に遭遇します。
それがペリー来航でした。
※写真は、2010年5月下田の旅にて -
※写真は、2010年5月下田の旅にて
-
1853年6月3日、浦賀に来航したペリーの艦隊を目の当たりにした松陰は大きな衝撃を受けます。
そして外国への密航を図ります。
翌年3月27日洞窟に隠れ、
夜になって、伊豆下田沖に停泊していたペリーの艦隊に、弟子の金子重輔と小舟で近づき見事乗船を果たします。
しかし、アメリカ渡航は拒否され、追い返されてしまいます。
二人は江戸に連行され、国へ戻っての幽閉が申し渡されました。 萩に帰った松陰は、野山獄に繋がれます。
※写真は、松蔭が隠れていたと言われる洞窟
2010年5月下田の旅にて -
野山獄跡。この日夕方、行ってきました!
松蔭は、野山獄でも講義をするなど、乱れていた野山獄の風紀改善に取り組み、獄内の空気を一変させたそうです。囚人達は互いに教え、学び合いました。 -
[松下村塾で志士を育てる]
1855年12月、獄を出て杉家宅で幽閉されることになります。 -
幽閉されていた部屋がこちら!
松蔭は、家族などを相手に、獄内に引き続いて講義をはじめます。
これに近隣の子弟が参加するようになります。 -
松下村塾の講義部屋!
人数が増えたため、杉家の庭先の小屋を改装し、塾舎とし、叔父の玉木文之進が開いた私塾「松下村塾」の名称が引き継がれたのでした。 -
※写真は、現在も松陰神社境内に保存される松下村塾。
境内にある「松陰神社宝物殿 至誠館」と「吉田松陰歴史館」も見学してきました!
至誠館は、吉田松陰の遺墨や遺品類などが展示されています。
また歴史館は、吉田松陰の生涯を70体ほどの蝋人形を使い、20シーンで分かりやすく再現されています。
[吉田松陰の最期]
1858年、大老の井伊直弼は幕府に反対する者達を大弾圧しました。安政の大獄です。松陰も江戸に護送され、死罪を言い渡されます。
そして、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処されました。享年30才でした。 -
最後に、松陰神社見学の余韻に浸り、幕末の時代を空想しつつ、松陰だんごとご当地サイダーを飲んで締めくくり♪(なんのこっちゃ(^.^))
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......っつうか、お主は誰やねん(。>д<)
あとで調べたところ、だれ、ということではないようです。
長州侍ってありました。 -
再び晋作くんに乗り込み、城下町へ。
城下町散策です。
萩は江戸時代に形成された街路、武家屋敷、町家などが多く存在しています。
現在でも「古地図で歩けるまち」だそうです。これってすごくない?
......おや? 塀の上に...... -
ひょっこっ♪
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猫も散策中(^^)
なんか顔が凛々しく見える(^^)
猫も侍気分か!? -
さて、こちら。高杉晋作の生誕地。
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晋作が生まれ、育った家です。
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さらに城下町をぶらぶら.....
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んん〜♪ いいですね〜(^^)/
空想がとまらない♪
イメージでは、幕末にタイムスリップです! -
次に立ち寄ったのは、こちら!
桂小五郎生誕の地。のちの木戸孝允ですね。 -
桂小五郎の父は、藩に仕える医者で毛利元就の血を引く家系でもあったそうです。
どうりで、お家も大きい! -
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城下町をぶらぶら歩きながら、萩博物館に行きました!
ゆっくり見学。
資料の写真撮影は禁止でしたので、写真はありませんが、
見ごたえたっぷりでした♪
そのあと、少し町を歩いたり......
※写真は街中 -
海を見に行ったり、
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食事したり..... 。
こうして、じっくりたっぷり、萩を堪能しました〜♪
あぁ〜、もうおしまい。
今夜もう1泊して、明日から2日かけて帰ります。
今回の山口県の旅もあっという間でした。
帰りは途中、神戸に1泊、
名古屋で名物の味噌煮込みうどんと味噌かつを食べました。
2014夏旅は以上です。
さぁて、次はどこ行こうかなぁ♪(^^)
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