2014/08/21 - 2014/08/21
3位(同エリア9件中)
ベームさん
8/21(木)、2日目。
今日はマインツから日帰りでライン河畔の古都、カイザー・ドーム/皇帝の大聖堂がある町シュパイヤーとヴォルムスを訪れました。
いずれも中世、神聖ローマ帝国時代に帝国会議が数多く開かれ、ローマ教皇と帝国皇帝の権力闘争、宗教改革の波、プファルツ継承戦争などドイツ史にとって最も重要な舞台となった都市です。2008年に続き2回目の訪問となります。
シュパイヤー:ラインラント・プファルツ州。ハイデルベルクの西15キロほどにあるライン川左岸の人口5万人の町。
紀元前からケルト人が居住しており、前58年にカエサル率いるローマ軍に征服された。496年ゲルマン族のフランク王国の版図に入る。ドイツでも最も古い町の一つ。4世紀にはすでに司教座が置かれている。
1030年に皇帝コンラート2世により大聖堂の建設が始まり孫のハインリヒ4世の時に完成、ザリエル朝、シュタウフェン朝を通じ帝国内での重要性が増す。1294年帝国自由都市。1689年、プファルツ継承戦争で壊滅的被害を受けた。
この町では50回を超す帝国会議が開かれているが、特に重要なのが皇帝カール5世の招集した次の二つの会議。
1526年:1521年ヴォルムスの帝国会議で決められたルター派の信仰禁止令の一時保留、信仰の自由を認める。
1529年:カトリック派の巻き返しにより再びルター派の信仰禁止。ルター派の諸侯、都市が抗議/プロテストをし、プロテスタントの呼称が生まれる。
もう一つ、「カノッサの屈辱」のハインリヒ4世は1077年教皇グレゴリウス7世に破門の許しを請うためここシュパイヤーからカノッサに向けて出発した。
写真はシュパイヤー大聖堂。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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旅の前半はマインツからスタートしライン川沿いの古都をデュッセルドルフまで。
シュパイヤーは地図の一番下です。 -
マンハイム駅。
乗り継ぎ時間を利用して。
7:46発のICEでマインツを発ちマンハイムでSバーンに乗り換え。今回は25%割引のジャーマンレールパスを購入、条件はICE,ICなど特急列車は座席指定を取ること。多分割引の代わりに座席指定料で元を取ろうというのでは。
ところが毎度のことながらホームに掲示されている車両編成表通りに停まらない。目の前に停まった車両に乗ると空いているので適当に座りました。検札ではパスだけを見せると座席指定の有無は何も問われませんでした。 -
シュパイヤー着8:55。
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シュパイヤー駅。
古都の駅らしき風情なし。 -
バーンホフ通りを行くとすぐ左手にアデナウアー公園。
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公園内の聖母礼拝堂。
1516年。 -
ゲッセマネの園でのキリストの祈り。
よく見かける新約聖書の場面です。 -
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ヴィラ・エカリウス。
なにかの保養施設のようです。 -
バーンホフ通り。
2008年訪問時、駅のコインロッカーが壊れていて荷物を背負ったりごろごろ引きずって歩いた道。
今日は荷物はホテルに置いてきてるので楽です。 -
ポスト広場、市門アルトペルテルを潜ると旧市街地の中心ですが後回しにして真っ直ぐギルゲン通りを進みます。
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大きな教会がありました。
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聖ヨゼフ教会です。
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1914年創設の比較的新しい教会。
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堂内。
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内陣。
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美しい祭壇画です。
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洗礼盤。
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祭壇。
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キリストの聖衣剥奪。
キリストを十字架に架ける前に争って着衣を奪う役人たち。これも聖書の絵の題材によく使われます。 -
壁面の聖書の名場面を描いた絵が素晴らしいです。
名場面なんて表現、不適切かもしれません。
これはキリストの顔をぬぐっている聖女ヴェロニカでしょうか。 -
十字架から降ろされるキリスト。
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ピエタ。
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ここまではあまり観光客も足を延ばさないと思いますがとても見ごたえのある教会でした。
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教会の向かいの建物。
1階はレストラン。 -
聖ヨゼフ教会の十字路の向かいに建つ記念教会。1904年。
何の「記念」かと言いますと、1529年シュパイヤーで開かれた帝国議会で、一時実施が保留されていた1521年ヴォルムス帝国議会でのルター派禁止令が復活しました。これにルター派の諸侯、都市が抗議/プロテストしたのを記念したのです。
プロテスタントの呼び名の始まりです。 -
10時からのオープンで入れませんでした。
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ポスト広場に戻りました。
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アルトペルテル/古い門。
市の西の入り口を固める市門。門を潜った内側です。 -
ドイツで最も美しく重要な市門、と自賛しています。
高さ55m。下部は13世紀半ば、上部は16世紀初めころのものです。
ここから一直線に大聖堂までマキシミリアン通りが続いています。 -
奥に大聖堂が見えます。マキシミリアン通り。
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ちょっと横道に入ってプルマン・ハウス。
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プルマン・ハウス。
シュパイヤー名誉市民、画家ハンス・プルマンの生家。1880~1966年。
アンリ・マチスの弟子だったそうです。 -
初めて名を聞く画家ですがこんな絵です。
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道の真中にこんな彫刻が。
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マキシミリアン通りに戻り、中ほどにひときわ目立つアルテ・ミュンツェ/旧造幣所。
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中世に造幣所があった場所に1748年建てられた商家。ライン川の貨物の集積所としても使われたそうです。
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アルテ ミュンツェ/旧造幣所。
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マキシミリアン通りのほぼ中間、大聖堂が近づいてきました。
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左側にアイスカフェの店があります。
2008年、店のスパゲッティの絵の看板に騙されて(勘違いして)ビールとスパゲッティを注文し、出てきた巨大なスパゲッティの形をしたアイスクリームとビールを胃の腑に収めるのに苦労したことを思い出します。 -
旧市庁舎。
後期バロックの代表作。1712~1726年。 -
振り返るとアルトペルテルとアルテ・ミュンツェが。
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サンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼者。
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大聖堂を目の前にしてまた横道に入りました。
ユーデンガッセ/ユダヤ人小路。
ここに11世紀来ユダヤ人街がありました。 -
ユーデンガッセ。
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中世ユダヤ人地区跡ユーデンホーフ。
シュピラ博物館とミクヴェ/沐浴場。
ミクヴェとはヘブライ語、沐浴場のことで、男性も女性もここで身を清める儀式を行ったそうです。1128年以前のドイツ最古の浴場です。 -
ここはまたシュパイヤー生まれの科学者ヨハン・ヨアヒム・ベッヒャー記念館にもなっています。医者とも科学者とも錬金術師ともペテン師ともいわれどんな人物かよく分かりませんが、シュパイヤーに記念館が造られているからにはまともな人物だったのでしょう。1635~1682年。
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シュピラ博物館。
シナゴーゲの遺物。 -
ブルーメという名の女性の墓石で1365年のものらしい。
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沐浴場/ミクヴェ。
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深さ10mもあります。
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12世紀以前の遺構です。
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大聖堂を訪れる前に隣にあるプファルツ・シュパイヤー歴史博物館に寄りました。
1910年創設。
石器時代から現代までのコレクション、大聖堂の宝物などが展示されています。子供向けの催しも行われていました。 -
展示物の数々です。
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大聖堂発掘時に発見された棺。
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王か司教か、いずれ貴顕者でしょう。
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大聖堂の宝物。
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高位聖職者の豪奢な衣装。
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高位聖職者の衣服。
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フランケンタール焼/陶器の美麗な作品の数々。
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マイセンに似ていようです。
そのはず、調べてみるとフランケンタール焼は18世紀頃マイセンからやってきた絵付師が始めた窯だそうで僅か半世紀しか続かなかったそうです。したがって今はその当時造られたものしか残っていません。
一家の主と妻と子供たち。 -
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楽師たち。
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柔らかい肌合いと色彩で目の保養になりました。
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恋人たち? 逢引き?
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18~19世紀の服装の変遷。
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絵画もあります。
ブーシェ:ポンパドール侯爵夫人。
どういう経緯でこの博物館に飾られているのか。 -
フォイエルバッハ:ギアチンタ・ネリの肖像。
アンセルム・フォイエルバッハは19世紀ドイツ最大の画家のひとりだそうです。シュパイヤー生まれ。 -
フォイエルバッハ:あるローマ夫人の肖像。
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カール・フリース:ローレライ。
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カイザー・ヴィルヘルム時代の軍人といったところですね。
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ようやく大聖堂に向かいます。
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ぐるりと一回り。
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後ろ側。
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全長134m、幅38m、身廊の高さ33m、尖塔の高さ71mの巨大な聖堂です。
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マインツ大聖堂、ヴォルムス大聖堂とともにライン川流域の最も重要なロマネスク建築の大聖堂。
人の大きさと比べその巨大さを想像してください。 -
逆光で良い写真が撮れなかったので絵葉書を借用します。
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「カイザードーム。シュパイヤー司教区のカテドラル。教皇のバジリカ。1030~1061年コンラート2世、ハインリヒ3世とハインリヒ4世により建立」。
親、子、孫3代掛かって完成しました。
カイザー/皇帝により建てられたのでカイザー・ドームと呼ばれます。
最後に完成させたハインリヒ4世はあの「カノッサの屈辱」で有名な皇帝です。ローマ教皇との聖職者叙任権闘争に敗れ破門されたハインリヒ4世が1077年、厳冬の朝裸足でイタリアのカノッサの城の前でで立ちつくし教皇グレゴリウス7世の許しを乞うた出来事です。 -
ファサード、第1の扉のタンパンの上の彫り物。
左から聖ステファヌス、大天使ミカエル、大聖堂の守護聖人聖母マリア、洗礼者ヨハネ、クレルヴォーのベルナルドゥス。 -
正面(第1)の扉を入った所の広間と身廊の間の扉。第2の扉です。
1689年、プファルツ継承戦争でルイ14世率いるフランス軍によりシュパイヤーは町も大聖堂も大きな被害を受けました。今の大聖堂の西半分はその後建て直されたものです。この戦争でフランス軍はライン川流域の多くの町を荒らしまわりました。ライン川渓谷の多くの城が廃墟となっているのもその為です。 -
そのタンパン上部のモザイク。拡大。
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第1と第2の扉の間の広間。
建築用語でナルテックスと言うようです。玄関の間みたいなものですか。 -
では第2の扉を開けて堂内へ。
身廊。 -
身廊と側廊を仕切る柱に挟まれて荘厳な感じです。
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皇帝の権力の象徴大王冠。
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身廊と側廊を仕切るアーチ。
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19世紀、バイエルン王ルートヴィヒ2世の寄贈といわれるフレスコ画。
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パイプオルガン。
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側廊。
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大聖堂の守護聖人聖母マリア。
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ピエタ。
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どなたのお骨でしょうか。
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2014年最初の聖体拝領。
私はワインの木。君たちはブドウ。 -
大聖堂で最も重要にして神聖な場所地下礼拝所/クリプタ。
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ザリエル朝、シュタウフェン朝の4人の神聖ローマ帝国皇帝、3人の皇帝妃、4人のドイツ国王の墓所としてほとんど当時のまま保存されています。
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国王ルドルフ・フォン・ハプスブルク。
ハプスブルク家最初の神聖ローマ帝国皇帝。1218~1291年。 -
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歴代カイザー/神聖ローマ帝国皇帝とケーニヒ/ドイツ王の墓のある一画。
配置図。
上段:左から皇帝ハインリヒ4世、皇帝ハインリヒ3世、皇帝コンラート2世、コンラート2世妃ギゼラ、ハインリヒ4世妃ベルタ。
下段:左から国王アドルフ・フォン・ナッサウ、国王アルブレヒト・フォン・エスタライヒ、国王ルドルフ・フォン・ハプスブルク、皇帝フリードリヒ・バルバロッサ妃ベアトリクス、国王フィリップ・フォン・シュヴァーベン。
他に皇帝ハインリヒ5世の墓もあり、都合4人の皇帝、3人の皇帝妃、4人のドイツ王の墓、さらに司教達のの墓があります。 -
その墓たちです。
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神聖なお墓にケチをつけるわけではありませんが、プファルツ継承戦争でフランス兵は墓を暴き骨を放り出したそうで、碑銘のとおりに納まっているか疑問に思います。これはフランスのサン・ドニ聖堂のフランス王家の墓も同様ですね。
それはそれとして1千年も前の墓が完全に保存されているのに粛然としました。 -
左奥、花束の置かれているのはハインリヒ4世と思います。
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壁面にも石棺が安置されています。
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国王たち。
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クリプタにもピエタがありました。
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外に出ていき苦しい雰囲気から解放されホッとしました。
大聖堂の南側にオリーブ山を模ったモニュメントがあります。 -
オリーブ山。
エルサレム近郊にある山。山の麓のゲッセマネの園でキリストが捕えられる前最後の祈りを神にささげた場所。 -
死を覚悟して祈りを捧げるキリストと眠りこける3人の使徒ペテロ、ヨハネ、ヤコブ。
キリストは3回使徒たちを起こしたが3回とも眠ってしまった。人間の弱さを顕しているという。 -
全景。絵葉書です。
流れる川はライン。 -
大聖堂から見たマキシミリアン通り。
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大聖堂の前にある大きな鉢。1490年製。
なにかの時にはなみなみとワインが満たされ、市民が飲んだそうです。 -
昼食。
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昼に食べたなんだったか、美味しくなかったです。ビールだけが救い。
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大聖堂の横を進むと、
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あまり観光客の居ない静かな所に出ました。
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その先に聖マグダレーナ女子ドミニカン修道院。
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聖マグダレーナ・ドミニカン女子修道院。1228年創設。
「ドクター・エディット・シュタイン。
1923~1931年ここで生活し教えた。
1942年8月9日、アウシュヴィッツで殉教」。
哲学者、修道女。ユダヤ人としてアウシュヴィッツのガス室で死去、その後ローマ教皇により殉教者と認められ列聖(聖人となる)された。 -
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マキシミリアン通りに戻りました。
大聖堂の側の市議会。 -
ホーエンフェルディッシャーホーフ。1689年。
現ゾフィー・フォン・ラ・ロッシュ記念館。
ゾフィー・ラ・ロッシュ:ドイツ女流小説家の先駆者。ロマン主義作家クレメンス・ブレンターノとベッティーナ・フォン・アルニム兄妹の祖母。ゲーテはラ・ロッシュの娘のマクシミリアーネとの結婚を望んだが果たされなかった。が、ラ・ロッシュ夫人とゲーテの親交は終生続いた。1730~1807年。 -
三位一体教会。
1717年。 -
木の彫刻がある美しい祭壇があるそうですが中に入れませんでした。
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入口からズームで。
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三位一体教会の鐘楼。
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聖霊教会。
シュパイヤーにおける最初の改革派教会。1702年。 -
ここらで次の目的地ヴォルムスに向かうためマキシミリアン通りからバスで駅に戻りました。
たっぷりのシュパイヤーでした。
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