2014/06/14 - 2014/06/14
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ベームさん
6/14(土)、20日目。
ストラスブールで大聖堂などを見た後近郊のゼーゼンハイムに若き日のゲーテの恋の跡を訪ねに行きました。
日本人誰もが知っている歌「野ばら」、シューベルトやヴェルナーが曲を付けた「野ばら」、ゲーテのあの詩は若き日のゲーテとゼーゼンハイムの村娘フリーデリケ・ブリオンとの恋から生まれたものです。
ライプチヒで病を得てフランクフルトの実家で療養していたゲーテは治癒後ストラスブールの大学で法学を学びます。1770年4月、ゲーテ20歳の時でした。
10月のある日旅行中のゲーテはゼーゼンハイムで牧師の娘フリーデリケ・ブリオンと出会いました。フリーデリケは3歳年下。二人は恋に落ちます。二人は逢瀬を重ねます。当時ストラスブールからゼーゼンハイムまで馬車で6時間かかったそうです。ゲーテの著「詩と真実」などを読むと二人の仲はかなり親密だったようです。”この田園の空に真に限りなく愛らしい一つの星が昇った”なんてことが書いてあります。フリーデリケがゲーテとの結婚を望んだのは間違いありません。
1771年8月、法学士となったゲーテは突然フランクフルトに帰ってしまいます。フリーデリケを捨てたのです。別れの時フリーデリケの目には涙があったそうです。
しかしゲーテは自責の念に駆られたのでしょう。そのままだったらゲーテはただの男ですがゲーテは違いました。「野ばら」のばら、「ファウスト」のグレートヒェンでフリーデリケを描くことにより、フリーデリケ・ブリオンの名を後世に残したのです。
ゲーテの数多い女性遍歴のなかで正に青春時代のゼーゼンハイムでのフリーデリケとの出会いは楽しかったようで、自伝「詩と真実」のなかでその時の様子を生き生きと描いて微笑ましくさえ感じさせます。
ゲーテがフリーデリケを捨てたことは後世いろいろ非難されました。
若い娘の純粋な心をもてあそんだ!。
確かに人情的にはそうだと思います。わたしもゲーテは勝手な男だと思います。しかしまだ21歳の書生の身で、しかも野心、大望を持つ天才ゲーテと村娘とでは所詮一つになれることは出来なかったでしょう。
一人の天才、英雄が世に出る陰には多くの泣く人がいます。その犠牲者をそのままにするのか、それともその犠牲を償うことによって本人も犠牲者も救われるのか、どちらを選ぶかによってその天才の価値は定まります。ゲーテはその後罪の意識をもって文学を通して償いを果たしたといえます。フリーデリケは生涯独身を通したそうです。
私設のゲーテ記念室が閉まっていたりして十分目的は果たせませんでしたが、それでもあちこちにゲーテとフリーデリケの痕跡を見ることが出来
とても良い思い出になりました。
写真はフリーデリケ・ブリオン。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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地図右上。ストラスブールの北30キロ。
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ストラスブール12:53発TER、ゼーゼンハイム13:27着。
自転車用車両。
沿線の駅名に・・・・ハイムというドイツ風の名前の駅が幾つかあります。ドイツとの国境に近く歴史的にもフランスとドイツの支配を交互に受けていた過去があるからでしょう。 -
ゼーゼンハイムまたはゼッセンハイム駅。
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ゼーゼンハイム駅。
田舎の駅といったたたずまい。 -
駅前から続くリベラシオン通り。
グーグルマップをプリントしたのを手に歩きます。 -
ペ通り。
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開けたところに出ました。市役所広場です。
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市役所。
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教会と市役所が向かい合っています。
始めて人の姿を見ました。 -
その先にレストラン牡牛亭。
ここの以前の亭主がゲーテフアンでいろいろゲーテの資料を集め2階に私設のゲーテ・ブリオン記念室を作っています。後で寄ります。 -
その先にもう一つ教会があります。ブリオンの父が牧師を務めていたプロテスタントの教会です。
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まず向かったのはゲーテ・メモリアル。
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管理人も居なく出入り自由です。
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ゲーテ・メモリアル。
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アルザス芸術発祥の地。
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入るとゲーテ像が迎えてくれます。
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ナポレオンがエアフルトでのゲーテとの会見で放ったと謂われる言葉が彫ってあります。直訳すると「あなたは一人の男だ」、意訳すると「あなたこそ男だ、あなたこそ真の男だ、あなたこそ男の中の男だ」となるでしょうか。
ナポレオンはゲーテのフアンで「若きヴェルテルの悩み」を繰り返し読んだそうです。 -
館内には資料的なものはなく、周りの壁にパネルが掛かっているのみ。
アルザスのゲーテ。
1770年4月2日~1771年8月14日。
ストラスブール大学に学んだゲーテ、1年4か月のアルザス滞在でした。 -
フレデリク・ブリオン。
1752.4.19~1813.4.3。
「彼女の愛は私が受けるに値しないほど美しかった」。ゲーテの言葉でしょう。 -
フランスの精神を代表する人物。
ディドロ、ユゴー、モリエール、ルソー、ヴォルテール、スタール夫人などの名が挙がっています。ゲーテとフランスとなっていますが特にゲーテとの繋がりは無いように思います。 -
ゼーゼンハイムの詩。
野ばら。
誰もが知っている「童は見たり 野なかのばら 清らに咲ける その色愛でつ・・・・」。近藤朔風の名訳です。
シューベルトとヴェルナーの曲が有名ですがほかにもベートーヴェンとか150曲ほどあるそうです。 -
五月の歌。
これもゼーゼンハイムのおもいでを詩にしたものです。
ベートーウェンが曲をつけています。 -
フリーデリケ。
ゲーテは初めてフリーデリケを見たときの印象を次のように語っています。
「彼女は民族衣装を身に着けていた。可愛らしい足がくるぶしの辺りまで見えるほどの縁飾りの付いた白い短いスカート、ぴったりと身に着いた白の胸衣と黒い琥珀織のエプロン。・・・ほっそりと軽やかに、なにひとつ身に着けているものはないような歩き方をし、可愛い小さな頭のブロンドのお下げに比べてその頸はあまりにもほっそりと見えた」。 -
フレデリク・ブリオン/フリーデリケ・ブリオンの伝記。
1752.4~1813.4。
「明るい碧い目で彼女ははっきりと辺りを見回し、品のいい丸い鼻はこの世になんの心配もないように、のびのびと大気を吸っていた。麦わら帽子が腕にかかっていた。私は最初の一瞥で、彼女のあらゆる優美さと愛らしさをいっぺんに見てとって嬉しかった」。
若いゲーテの心をとらえたフリーデリケ、独身を通した61歳の清らかな生涯でした。 -
ストラスブールのゲーテ。
滞在期間1770.4~1771.8。 -
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ゲーテの年譜。
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館内。
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1770年の牧師館。
フリーデリケが住んでいた牧師館。 -
メモリアルを終えて村の中を歩きました。
ゲーテ・メモリアルの近く、元牧師館があった所。 -
なにか二人の愛の痕跡がないか、付近を歩きました。
メモリアルの横のフリーデリケ・ブリオン通り。 -
ここら辺りを若いゲーテがブリオンの腕をとり愛の言葉を交わしながらそぞろ歩いたかと思うと、ゲーテが雲の上の天才ではなく身近な人に感じられました。
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古い農家風の家が並んでいます。
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人影のないメインストリート。
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先ほど見た教会。
ゼーゼンハイム・プロテスタント小教区教会。 -
ゲーテとフリーデリケは一緒にここで説教を聞いたと書いています。フリーデリケの父はここの牧師でした。ゲーテの家も代々プロテスタントの信仰を持っていました。
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中に入りました。
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プロテスタントらしい小さい簡素な教会です。
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祭壇。
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立派なパイプオルガン。
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舗装され広くなった道路以外は当時とあまり変わっていないのでしょう。
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古いいわくありげな家があります。寄ってみましょう。
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プレートが掛かっています。
「1927年と1958年に建てなおされたこの納屋は牧師館の最後の名残です」。へー、フリーデリケの住んでいた牧師館の一部だったのだ。 -
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中には農具が一杯ぶら下がっています。
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壁にはゲーテを巡る女性たちの写真。
ゲーテはじつに恋多き男でした。10代の時の初恋の少女グレートヒェンから始まり、70歳を超えてから17歳のウルリーケ・フォン・レヴェツォーへの求婚(さすがに断られています)まで10人ほどの女性と恋愛感情を持っていたようです。
しかもほとんどはゲーテから働きかけたのです。
右上がフリーデリケ。 -
フリーデリケ・ブリオン。
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なんだかよく分からない建物でした。博物館でもないようだし。
上の絵はゲーテによる牧師館のデッサン。 -
ゲーテ私的博物館。牡牛亭/オーベルジュ・オ・ブフ。料亭。
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ゲーテの私的博物館がある牡牛亭に行きます。
ここの当初の主人がゲーテフアンで個人でいろいろな資料を蒐集したそうです。 -
牡牛亭。
ドイツ文学者の高橋健二氏は若いころここを訪れて当時の主人に会った事が有るそうです。 -
立派な料理屋です。
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ところがどこからも入れない。扉は全部閉まっています。休みのようです。残念、いろいろなゲーテの資料が見られたでしょうに。
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建物の周りをぐるっと回っても駄目でした。
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何処か行くところは無いか。
フレデリケの憩い、という塚があるようです。 -
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フレデリク・ブリオン小学校。
通りや学校にブリオンの名が付いています。天国のフリーデリケはどう思っているでしょう。「そんな事よりやはり私はゲーテと添いとげたかった」、と思っているか、あるいは「かって私を愛してくれた人があんなに立派になって私は誇らしい」、と思っているか。 -
小学校。
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ギュト通り。
ゲーテもフランスではギュトになってしまいます。 -
市庁舎の並びにあるカトリックの教会です。
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ちょっと中へ。
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田舎の教会はカトリックもプロテスタントも簡素でいいです。
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ギュト通り。
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踏切を渡ります。線路の先が駅です。
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ゲーテの丘という所です。
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通りから50mほども入ると、
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少し高いところに東屋が建っていました。
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消えかかった掲示があります。
「ゲーテはその著”詩と真実”の中でここら辺りはフリーデリケ・ブリオンと度々散歩に立ち寄った所、と書いている。1880年、ゼーゼンハイムの牧師の娘の思い出として建立」。
多分ゲーテとフリーデリケはこの小高い丘に座って甘い言葉を交わしたのでしょう。 -
ストラスブールに帰るべく駅に戻ってきました。
こんな掲示が出ています。
「ストライキによるダイヤ。
6/13:上り下り一日5本。
6/14:上り下り一日2本。
6/15:上り一日1本、下り一日2本」。
こんな日替わりダイヤなんてかなわないですね、利用者にとっては。
今日は6/14、往きも帰りも貴重な一本に乗ることが出来ました。 -
駅のホームから。
15:03発でストラスブールに戻りました。 -
以下ゲーテを彩る女性たちです。
アンナ・カタリーナ・シェーンコプフ。
ライプチヒで法学を学ぶゲーテが通った居酒屋アウアーバッハスケラーの娘。当時17歳ころの坊ちゃん育ちだったゲーテは年上のカタリーナにすれば子供だったのだろう、体よくあしらわれてしまう。
ゲーテが勉学中に重い病を患ったのもこの失恋が一因とも。 -
フリーデリケ・ブリオン。
フリーデリケ17歳。ゲーテ20歳。 -
シャルロッテ・ブフ。
ゲーテが裁判官見習いのため赴いていたヴェッツラーの役人の娘。
23歳のゲーテは19歳のロッテに恋をしたが既に彼女はゲーテの親友ケストナーの許嫁だった。失恋したゲーテは傷心のうちヴェッツラーを去る。
この体験が後「若きヴェルテルの悩み」という不朽の名作を生んだ。 -
アンナ・エリーザベト(リリー)・シェーネマン。
フランクフルトの銀行家の娘。ゲーテと婚約までしたが両家の宗教観の相違などで婚約解消。ゲーテ26歳。
この出来事がヴァイマールのカール・アウグスト公の招聘を受けフランクフルトを離れる決心をした一因ともいわれる。 -
シャルロッテ・フォン・シュタイン/シュタイン夫人。
ヴァイマール公国の高級官僚の妻。ゲーテの創作活動に深い影響を与えた。2人の間には深い友情あるいはプラトニックな恋愛感情があった。ゲーテは彼女に1000通に近い書簡を送ったと言われる。
この関係はゲーテがクリスチアーネ・ヴルピウスを内縁の妻としたことで破綻してしまう。夫人はゲーテからの手紙類をすべて焼き捨て、自分の葬儀の車はゲーテの家の前を通らぬよう申し送ったという。
ゲーテより7歳年上。 -
クリスチアーネ・ヴルピウス。ゲーテ唯一の正妻。
平民の娘。1788年、23歳の時ゲーテに見初められ同棲するようになる。ゲーテ39歳。身分違いの組み合わせは周囲の非難を浴び、シュタイン夫人との決別の因となった。1806年、ゲーテ57歳の時正式に結婚、4人の子供を儲けた。1816年ゲーテに先だって死去。
この絵はゲーテ自身のデッサン。 -
ヴィルヘルミーネ・ヘルツリープ。
1807年当時58歳のゲーテは18歳のヴィルヘルミーネに恋をした。前の年にクリスチアーネを正式に籍に入れたばかりというのに。
このヴィルヘルミーネとの体験が1809年の「親和力」となった。 -
ベッティーナ・フォン・アルニム(旧姓ブレンターノ)。1785~1859年。
ドイツロマン主義を代表する女流作家。クレメンス・ブレンターノの妹でアヒム・フォン・アルニムの妻。
ゲーテの熱烈な崇拝者で、1807年ベッティーナ22歳の時58歳のゲーテをヴァイマールに訪れている。ゲーテとの間に多くの書簡のやり取りがあり「ゲーテとある少女との往復書簡」が有名。
この2人の関係はゲーテが受け身に思われる。 -
マリアンネ・フォン・ヴィレマー。
富裕な銀行家の妻。
1814年ゲーテ65歳の時16歳のマリアンネと出会い恋に落ちた。マリアンネは非常な詩才の持ち主で互いに詩を創り交わした。マリアンネの夫も二人の詩を通じての交歓に理解を示す。大人の恋というやつですかな。それにしてはマリアンネは若すぎる。
ゲーテは二人の関係を”裂け葉いちょう”と呼んだ。いちょうの葉は二つに裂けているが元では繋がっているということ。
ゲーテの代表的詩編とされる「西東詩集」はマリアンネの作にゲーテが手を入れたものという。その中でゲーテは彼女のことをズライカと呼んでいる。
1815年ハイデルベルクでの再会を最後に二人は逢っていないが文通はゲーテの死の直前まで続いた。 -
ウルリケ・フォン・レヴェツォー。
1821年、ボヘミアの湯治場マリーエンバートで72歳のゲーテは旧知の友人の娘ウルリケに逢う。ウルリケ当時17歳。ぞっこん参ったゲーテは2年後求婚するがあまりの年齢差に断られる。この痛手から造られたのが「マリーエンバートの悲歌」。
この17歳の美少女に74歳のゲーテが結婚を申し込むとは、なんという自惚れ。
まあよっぽど自信家だったのでしょう。これがゲーテ最後の恋愛沙汰となりました。
写真はウルリケ17歳のもの。 -
68歳のゲーテ。
実に多彩な女性遍歴です。しかも相手は10台の女性が多い。今時のティーンエージャーの女性はまったく女の子ですが、昔は結構大人だったのですね。
失恋ばかりですがさすがゲーテ。失意の後にそれを肥やしにして名作をものにしている。天才です。
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