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猿橋を出発し、更に西へ向かいます。この道中は、桂川や、笹子川にそった緩やかな登り道で、小さな宿の連続です。駒橋宿、大月宿、花咲宿、初狩宿、白野宿、阿弥陀海道宿→黒野田宿へと、短い宿場は気付かないうちに、次の宿に入ってたりします。<br /><br />花咲宿の本陣建築は、甲州街道では、日野宿、小原宿と、この花咲宿の3ヶ所しか現存しない貴重な本陣である。

甲州古道歩きNo.7 駒橋宿(19)、大月宿(20)、花咲宿(21)、初狩宿(22)、白野宿(23)、阿弥陀海道宿(24)→黒野田宿(25)へ

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2011/10/28 - 2011/10/28

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ムッシュ

ムッシュさん

猿橋を出発し、更に西へ向かいます。この道中は、桂川や、笹子川にそった緩やかな登り道で、小さな宿の連続です。駒橋宿、大月宿、花咲宿、初狩宿、白野宿、阿弥陀海道宿→黒野田宿へと、短い宿場は気付かないうちに、次の宿に入ってたりします。

花咲宿の本陣建築は、甲州街道では、日野宿、小原宿と、この花咲宿の3ヶ所しか現存しない貴重な本陣である。

同行者
友人
交通手段
観光バス 徒歩

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  • 本日は好天で、往路に見た富士山はくっきり、すっきり、クリアーです。<br />初冠雪の雪もすっかり溶けて、山肌全貌がみえてます。(バスにて。東富士周遊道)

    本日は好天で、往路に見た富士山はくっきり、すっきり、クリアーです。
    初冠雪の雪もすっかり溶けて、山肌全貌がみえてます。(バスにて。東富士周遊道)

  • 猿橋近くの桂川の流れ。結構水量ありそう。

    猿橋近くの桂川の流れ。結構水量ありそう。

  • 猿橋駅に近い阿弥陀寺の石碑です。(猿橋町)<br />その隣に小さく見えるのが一里塚跡の碑。今では面影もなく、この碑が唯一の手掛かり。江戸から23番目。<br />浄土宗法國山光明院阿弥陀寺。郡内観音霊場第二十八番札所です、参道口の南無阿弥陀仏名号碑には弾誓上人御舊跡と刻まれ、阿弥陀寺は弾誓(たんせい)上人によって開山された。

    猿橋駅に近い阿弥陀寺の石碑です。(猿橋町)
    その隣に小さく見えるのが一里塚跡の碑。今では面影もなく、この碑が唯一の手掛かり。江戸から23番目。
    浄土宗法國山光明院阿弥陀寺。郡内観音霊場第二十八番札所です、参道口の南無阿弥陀仏名号碑には弾誓上人御舊跡と刻まれ、阿弥陀寺は弾誓(たんせい)上人によって開山された。

  • この山は、岩殿山。<br />大月駅の前から見える、霊山、岩殿山。

    この山は、岩殿山。
    大月駅の前から見える、霊山、岩殿山。

  • 駒橋発電所の<br />送水管。これを過ぎると直ぐに坂を上がり、JR中央線の踏切をわたる。ここは、猿橋の次、駒橋宿になる。<br />明治40年(1907年)に建設された。今も現役で稼働している。

    駒橋発電所の
    送水管。これを過ぎると直ぐに坂を上がり、JR中央線の踏切をわたる。ここは、猿橋の次、駒橋宿になる。
    明治40年(1907年)に建設された。今も現役で稼働している。

  • 丁度、踏切(甲州街道No5)手前で通過電車を待ちます。踏切を渡ります。

    丁度、踏切(甲州街道No5)手前で通過電車を待ちます。踏切を渡ります。

  • 【厄王大権現の入口】<br />駒橋宿には強瀬、岩殿への、桂川の渡船場がありました。<br />天保14年(1843)の頃、駒橋宿の宿内家数は85軒、うち問屋1、旅籠4で、宿内人口は267人でした。

    【厄王大権現の入口】
    駒橋宿には強瀬、岩殿への、桂川の渡船場がありました。
    天保14年(1843)の頃、駒橋宿の宿内家数は85軒、うち問屋1、旅籠4で、宿内人口は267人でした。

  • 【厄王大権現の神社】(駒橋宿)<br />薬師如来が祀られており、南側にある御前山山頂付近には奥の院があります。<br /> 参詣の便を図るため、昭和 3(1928)年に本殿が建立されました。節せつぶんえ分会では盛大な豆まきが行われます。

    【厄王大権現の神社】(駒橋宿)
    薬師如来が祀られており、南側にある御前山山頂付近には奥の院があります。
     参詣の便を図るため、昭和 3(1928)年に本殿が建立されました。節せつぶんえ分会では盛大な豆まきが行われます。

  • マンホールの絵柄も猿橋と富士山。

    マンホールの絵柄も猿橋と富士山。

  • 岩殿山。小山田氏の居城であった山城。もうすぐ大月宿。<br /><br />大きな垂直壁の岩肌が見える。ロッククライミングに良さそう。

    岩殿山。小山田氏の居城であった山城。もうすぐ大月宿。

    大きな垂直壁の岩肌が見える。ロッククライミングに良さそう。

  • 【三嶋大明神(大月市)の入口に立つ大鳥居】<br />三嶋神社は大同元年(806)創建の古社で、大月の総鎮守です。<br />*街道は北鳥居の先から緩やかに右に折れます。 50m先の高月橋交差点右に、扁額「三嶋大明神」を掲げた西鳥居(両部鳥居)、傍らに社号標があり、樹木で覆い尽くされた参道は真直ぐ西に延びています<br />*大月総鎮守・三嶋神社(駒橋1-3-10)は、中央本線・大月駅の東方600m、甲州街道駒橋宿の外れ、街道(国20号)沿いに鎮座。<br />

    【三嶋大明神(大月市)の入口に立つ大鳥居】
    三嶋神社は大同元年(806)創建の古社で、大月の総鎮守です。
    *街道は北鳥居の先から緩やかに右に折れます。 50m先の高月橋交差点右に、扁額「三嶋大明神」を掲げた西鳥居(両部鳥居)、傍らに社号標があり、樹木で覆い尽くされた参道は真直ぐ西に延びています
    *大月総鎮守・三嶋神社(駒橋1-3-10)は、中央本線・大月駅の東方600m、甲州街道駒橋宿の外れ、街道(国20号)沿いに鎮座。

  • 【三嶋大明神の本殿】<br />境内にはかつて4本の大きな槻の木があった。これが大月の地名の由来という。<br />*社殿は権現造り、拝殿(入母屋造り)の神殿幕や大棟にも神紋「三つ巴紋」入り。

    【三嶋大明神の本殿】
    境内にはかつて4本の大きな槻の木があった。これが大月の地名の由来という。
    *社殿は権現造り、拝殿(入母屋造り)の神殿幕や大棟にも神紋「三つ巴紋」入り。

  • 大月駅近くの旧街道の現家並<br />大月は、富士街道との追分に当たり、かつて冨士講の人々が泊まる宿場町としてにぎわった。

    大月駅近くの旧街道の現家並
    大月は、富士街道との追分に当たり、かつて冨士講の人々が泊まる宿場町としてにぎわった。

  • 【大月追分の牛頭天王の祠・常夜灯(文政13年(1830))】<br />富士海道追分の道標。何本もたてられている。<br />江戸より来て、右に行くと甲州街道、左に進むと富士道の分岐。<br />富士道とは富士山信仰者が参るみち。<br />ここは、大月橋東詰。ここが富士山道の追分です。富士山道で、富士講の行者達で大いに賑わいました。ここの川で禊を行い、富士山に向かって行った。<br />この追分には文久二年(1862)建立の道標「右甲州道中 左ふじミち」、並びには名号碑道標、津島牛頭天王社、馬頭観音、文政十三年(1830)建立の常夜燈等があります。<br /><br />右は「右甲州道中 南無阿弥陀仏 左富士山道」、中は「右甲州道中 左ふじミち」(文久2年(1862))、左は「右甲州街道 左富士街道」(昭和2年)<br />現在は、国道20号と139号が分岐する。(大月市)

    【大月追分の牛頭天王の祠・常夜灯(文政13年(1830))】
    富士海道追分の道標。何本もたてられている。
    江戸より来て、右に行くと甲州街道、左に進むと富士道の分岐。
    富士道とは富士山信仰者が参るみち。
    ここは、大月橋東詰。ここが富士山道の追分です。富士山道で、富士講の行者達で大いに賑わいました。ここの川で禊を行い、富士山に向かって行った。
    この追分には文久二年(1862)建立の道標「右甲州道中 左ふじミち」、並びには名号碑道標、津島牛頭天王社、馬頭観音、文政十三年(1830)建立の常夜燈等があります。

    右は「右甲州道中 南無阿弥陀仏 左富士山道」、中は「右甲州道中 左ふじミち」(文久2年(1862))、左は「右甲州街道 左富士街道」(昭和2年)
    現在は、国道20号と139号が分岐する。(大月市)

  • 右甲州街道 左ふし?ミち

    右甲州街道 左ふし?ミち

  • 【花咲宿本陣・星野家住宅】<br />天保14年(1843年)頃の下花咲宿の宿内家数は77軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠22軒で、宿内人口は374人でした、上花咲宿と合宿で問屋業務は月のうち下十五日を勤めました。<br />星野家住宅母屋は、12間*8間の切り妻造り。大規模な本陣建築で、当時の形態がよく保存されている。<br />http://www.fujinatto.com/index.htm(星野家住宅HP)

    【花咲宿本陣・星野家住宅】
    天保14年(1843年)頃の下花咲宿の宿内家数は77軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠22軒で、宿内人口は374人でした、上花咲宿と合宿で問屋業務は月のうち下十五日を勤めました。
    星野家住宅母屋は、12間*8間の切り妻造り。大規模な本陣建築で、当時の形態がよく保存されている。
    http://www.fujinatto.com/index.htm(星野家住宅HP)

  • 星野家は【下花咲宿で本陣】を務めた。<br />嘉永5年頃築の建物は総面積1587㎡もあり、どっしりとした梁や柱が重厚な雰囲気を漂わせている。<br /><br />下花咲宿星野本陣遺構が現存しています、現在の建物は天保六年(1835)の火災で焼失した後に再建されたものです(国重要文化財)。<br />星野家は本陣を勤め、庄屋、問屋、名主を兼ねました、多数の古文書等を残しています。<br />建物の前には明治天皇花咲御小休所碑があります、明治十三年(1880)明治天皇京都巡幸の際、休息所となりました。

    星野家は【下花咲宿で本陣】を務めた。
    嘉永5年頃築の建物は総面積1587㎡もあり、どっしりとした梁や柱が重厚な雰囲気を漂わせている。

    下花咲宿星野本陣遺構が現存しています、現在の建物は天保六年(1835)の火災で焼失した後に再建されたものです(国重要文化財)。
    星野家は本陣を勤め、庄屋、問屋、名主を兼ねました、多数の古文書等を残しています。
    建物の前には明治天皇花咲御小休所碑があります、明治十三年(1880)明治天皇京都巡幸の際、休息所となりました。

  • これは住宅の配置と方位を示す。<br /><br />星野家は、甲州街道・大月宿の西隣にある花咲宿の名主を務めていた旧家です。下花咲宿の本陣であり、幕末には薬の商いも行っていたほか、農地解放前には25町歩ほどの田畑を所有し、養蚕では百貫ほどの収穫があったと伝えられています。江戸時代には、甲州勤番をはじめ大名や幕府の役人らが宿泊しましたが、天保六年(1835)の火災で焼失し、その後、再建されました。<br />  再建の年月を示す資料は未発見ですが、嘉永5年(1852)に記された家相図によると、間取りと規模が現在の母屋と一致しており、天保末からこの間にかけて再建されたと考えられています。<br />  現在の母屋は、焼失以前のものと比べると、規模は小さくなりましたが、間取りと部屋数は変えず、街道により近づけて建てられました。<br />  明治13年(1880)6月18日には、明治天皇が京都へ御巡幸の際に御小休所にあてられました。江戸時代から続く荘厳なたたずまいは、由緒ある歴史を今に伝えています。<br />   パンフレット(大月市教育委員会)より<br /><br />【重要文化財】<br />  星野家住宅 附(つけたり) 家相図一枚<br /> ◇主屋(一棟)居室部及び座敷部<br /> ◇籾蔵及び味噌蔵<br /> ◇文庫蔵(一棟)土蔵造

    これは住宅の配置と方位を示す。

    星野家は、甲州街道・大月宿の西隣にある花咲宿の名主を務めていた旧家です。下花咲宿の本陣であり、幕末には薬の商いも行っていたほか、農地解放前には25町歩ほどの田畑を所有し、養蚕では百貫ほどの収穫があったと伝えられています。江戸時代には、甲州勤番をはじめ大名や幕府の役人らが宿泊しましたが、天保六年(1835)の火災で焼失し、その後、再建されました。
      再建の年月を示す資料は未発見ですが、嘉永5年(1852)に記された家相図によると、間取りと規模が現在の母屋と一致しており、天保末からこの間にかけて再建されたと考えられています。
      現在の母屋は、焼失以前のものと比べると、規模は小さくなりましたが、間取りと部屋数は変えず、街道により近づけて建てられました。
      明治13年(1880)6月18日には、明治天皇が京都へ御巡幸の際に御小休所にあてられました。江戸時代から続く荘厳なたたずまいは、由緒ある歴史を今に伝えています。
       パンフレット(大月市教育委員会)より

    【重要文化財】
      星野家住宅 附(つけたり) 家相図一枚
     ◇主屋(一棟)居室部及び座敷部
     ◇籾蔵及び味噌蔵
     ◇文庫蔵(一棟)土蔵造

  • 鴨居に掛かるは、槍と弓ですぞ!

    鴨居に掛かるは、槍と弓ですぞ!

  • この構造梁の大きさはすごい。小さく写っている人と比べるとよくわかる。

    この構造梁の大きさはすごい。小さく写っている人と比べるとよくわかる。

  • その梁を支える柱が、太い太い。50cm以上。

    その梁を支える柱が、太い太い。50cm以上。

  • 屏風に描かれた色彩豊かな絵

    屏風に描かれた色彩豊かな絵

  • 下花咲宿の星野家には、明治13年明治天皇が行幸で立ち寄り休憩された碑も立ち、国の指定重要文化財である。

    下花咲宿の星野家には、明治13年明治天皇が行幸で立ち寄り休憩された碑も立ち、国の指定重要文化財である。

  • 建物の外観

    建物の外観

  • 天保14年(1843)頃の上花咲宿の宿内家数は71軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠13軒で、宿内人口は304人でした。

    天保14年(1843)頃の上花咲宿の宿内家数は71軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠13軒で、宿内人口は304人でした。

  • 善福寺(大月)

    善福寺(大月)

  • 【真木諏訪神社】<br />左が拝殿、右奥側が本殿

    【真木諏訪神社】
    左が拝殿、右奥側が本殿

  • 【真木諏訪神社】の正面。<br /><br />奥の新しい屋根は、上で見た素晴らしい彫刻のある本殿を保護した建物。<br />重要な構造物を、ずっと保存して戴きたい。

    【真木諏訪神社】の正面。

    奥の新しい屋根は、上で見た素晴らしい彫刻のある本殿を保護した建物。
    重要な構造物を、ずっと保存して戴きたい。

  • 諏訪神社の由緒<br />当神社の御祭神は大國主命の御子神の建御名方命である。創建は詳らかでないが、1814年編の「甲斐國誌」には真木村の産土で、社地(縦四拾間横貳拾間)神領五段五畝弐拾五歩と記されており、宝暦十年(1760)と寛政八年(1796)の棟札も本殿に保管されている。また奥宮もあり、下社もあったことなどからその規模は大きく、古くから厚い信仰に支えられてきたことが推測される。<br />現在の本殿は文政十年(1827)に再建されたもので、この当時の宮普請請負証文には建設費は金参拾八両也で、真木村棟梁金左衛門を筆頭に二十五名の大工棟梁の連印で三ヶ年で完成と記してある。彫刻は八王子の住人で著名な藤兵衛の作である。江戸末期の貴重な建造物として昭和四十八年(1974)に大月市文化財に指定された。<br />また表参道の石鳥居は天明五年(1785)当時度重なる大飢饉の為住民安穏、五穀豊穣を祈願して真木村名主願人にて奉建された。<br />世は変わり、平成元年を迎えるにあたり、これを記念して内外の氏子各位の御奉賛で本殿と拝殿の修復、向拝所の増築、北参道の石鳥居など奉建をした。<br />境内由緒書より<br />

    諏訪神社の由緒
    当神社の御祭神は大國主命の御子神の建御名方命である。創建は詳らかでないが、1814年編の「甲斐國誌」には真木村の産土で、社地(縦四拾間横貳拾間)神領五段五畝弐拾五歩と記されており、宝暦十年(1760)と寛政八年(1796)の棟札も本殿に保管されている。また奥宮もあり、下社もあったことなどからその規模は大きく、古くから厚い信仰に支えられてきたことが推測される。
    現在の本殿は文政十年(1827)に再建されたもので、この当時の宮普請請負証文には建設費は金参拾八両也で、真木村棟梁金左衛門を筆頭に二十五名の大工棟梁の連印で三ヶ年で完成と記してある。彫刻は八王子の住人で著名な藤兵衛の作である。江戸末期の貴重な建造物として昭和四十八年(1974)に大月市文化財に指定された。
    また表参道の石鳥居は天明五年(1785)当時度重なる大飢饉の為住民安穏、五穀豊穣を祈願して真木村名主願人にて奉建された。
    世は変わり、平成元年を迎えるにあたり、これを記念して内外の氏子各位の御奉賛で本殿と拝殿の修復、向拝所の増築、北参道の石鳥居など奉建をした。
    境内由緒書より

  • 【真木諏訪神社】(山梨県大月市大月町真木)<br />真木村の産土神、入母屋造りの本殿は文政10年(1827)の再建、見事な彫刻は八王子の藤兵衛によるものです(大月市指定文化財)。<br /><br />江戸文政年間建立という本殿壁面の彫刻が大変に見事です。<br />江戸末期の再建ですが、桃山時代の意匠構成を伝える貴重な建造物。<br /><br />本殿は銅板葺の一間社入母屋(いっけんしゃ いりもや)、平入。向唐破風付きの向拝1間。<br /><br /><br /><br />

    【真木諏訪神社】(山梨県大月市大月町真木)
    真木村の産土神、入母屋造りの本殿は文政10年(1827)の再建、見事な彫刻は八王子の藤兵衛によるものです(大月市指定文化財)。

    江戸文政年間建立という本殿壁面の彫刻が大変に見事です。
    江戸末期の再建ですが、桃山時代の意匠構成を伝える貴重な建造物。

    本殿は銅板葺の一間社入母屋(いっけんしゃ いりもや)、平入。向唐破風付きの向拝1間。



  • その本殿壁面の彫刻をクロスアップしみると、やはり見事というほかない。<br />【下真木諏訪神社本殿(建造物)】<br />一間社流造り、千鳥唐破風つき入母屋造りの本殿で、現存する宮普請請負証文より<br />文政 10(1827)年に現在の本殿が建てられたことが分かっています。<br />板壁外面には彫刻があり、華やかで装飾的です。<br /><br />

    その本殿壁面の彫刻をクロスアップしみると、やはり見事というほかない。
    【下真木諏訪神社本殿(建造物)】
    一間社流造り、千鳥唐破風つき入母屋造りの本殿で、現存する宮普請請負証文より
    文政 10(1827)年に現在の本殿が建てられたことが分かっています。
    板壁外面には彫刻があり、華やかで装飾的です。

  • 源氏橋からみた川沿いの田畑。橋を渡ると、右折して川沿いの田畑沿いに旧道があります。<br />一番遠くに見えるのが難関の笹子峠。<br />田畑を挟んで、左はJR中央線、右は桂川。

    源氏橋からみた川沿いの田畑。橋を渡ると、右折して川沿いの田畑沿いに旧道があります。
    一番遠くに見えるのが難関の笹子峠。
    田畑を挟んで、左はJR中央線、右は桂川。

  • 【京、聖護院の大僧正、道興が詠んだ歌碑】<br />甲州街道No7踏切の傍。、<br />「”今はとて かすみを分けてかえるさに <br />        おぼつかなしや はつかりの里”」<br />文明19年に詠まれたそうだが、碑が建立されたのは文化3年(1806年)<br />歌人の道興は関白近衛房嗣(ふさつぐ)の子で、仏門に入り大僧正となり、天台宗寺門派修験宗(山伏)の総本山聖護院の座主を勤め、諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ね、その様子を回国雑記に記しています、それによると文明19年(1487)この地を通過する際に、帰雁(きがん)が鳴く様を地名にちなんで詠んだものです。

    【京、聖護院の大僧正、道興が詠んだ歌碑】
    甲州街道No7踏切の傍。、
    「”今はとて かすみを分けてかえるさに 
            おぼつかなしや はつかりの里”」
    文明19年に詠まれたそうだが、碑が建立されたのは文化3年(1806年)
    歌人の道興は関白近衛房嗣(ふさつぐ)の子で、仏門に入り大僧正となり、天台宗寺門派修験宗(山伏)の総本山聖護院の座主を勤め、諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ね、その様子を回国雑記に記しています、それによると文明19年(1487)この地を通過する際に、帰雁(きがん)が鳴く様を地名にちなんで詠んだものです。

  • 【山本周五郎生誕地の碑】JR初狩駅の近く。<br />「樅の木は残った」などの作品で有名な作家。<br /><br />この辺り初狩宿<br />初狩の地名は富士野の狩りをこの辺りから始めたところに由来。<br />天保14年(1843)頃の下初狩宿の宿内家数は156軒、うち本陣2、脇本陣2、問屋1、旅籠12軒で、宿内人口は616人。

    【山本周五郎生誕地の碑】JR初狩駅の近く。
    「樅の木は残った」などの作品で有名な作家。

    この辺り初狩宿
    初狩の地名は富士野の狩りをこの辺りから始めたところに由来。
    天保14年(1843)頃の下初狩宿の宿内家数は156軒、うち本陣2、脇本陣2、問屋1、旅籠12軒で、宿内人口は616人。

  • 親鸞上人念仏塚と稲村神社まえの石塔群。<br />	<br />【親鸞上人念佛塚の旧跡】(分かり ずらい説明だ)<br />  去る程にこの前方の低地が昔時、甲斐沼地としられた葦ヶ池なりしと伝へる。其の池の總面積は最大時は三丁歩余り葦ヶ窪郷の四分の一をしめてるとの説も伝へられる。鎌倉時代、西暦一二二五年代浄土眞宗の開祖親鸞上人が甲州等々力の積舎萬福寺に参詣の帰路、此地の地頭、北面の武士、小俣左衛門尉重澄宅に立ち寄りしところ葦ヶ池にまつはる毒蛇済度の祈願をこんせいされる。<br />  葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄には「よし」なる娘有り、たまたま京より来りし半僧修業僧、晋挺奈良興福寺法性宗の高僧行基が造った、阿弥陀海の阿弥陀堂にこもりて断食修業中その晋挺に心をよせしが僧業の身には女性のその意を深く説得され其の意の通ぜさるを嘆き悲しみこの池に投身若き生涯を果てしときく。<br />  地頭のこん願に依り上人供養三七二十一日間小石に大字の名号を墨書きし、池中に投入するや、「よし」の霊は成佛済度され池中に異様な轟き有りて「よし」の霊は観世音大士の姿となり、上人の池中に投入れた小石が白虎を帯びて先達となり郷人の驚き騒ぐ中東南の空高く消え去りて遠く、伊豆の手石浜に落ちしと伝へる。今も手石浜の阿弥陀「くつ」には、参詣の人の絶え間なしときく。<br />  池には葦草が群れ、低地なる故に葦ヶ窪の地名起源と伝へられる。葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄は後に、親鸞上人の徳を慕って出家僧行を積僧唯念と稱し真木菩福寺一世開山となる。又此の時期、太布乃名号で知られる、龍泉寺 寺の下の作太郎も上人の徳を慕って僧業し、永讃坊乗信として、真木福正寺三世住職となる。両寺共教行信證浄土真宗なり。          合掌

    親鸞上人念仏塚と稲村神社まえの石塔群。

    【親鸞上人念佛塚の旧跡】(分かり ずらい説明だ)
      去る程にこの前方の低地が昔時、甲斐沼地としられた葦ヶ池なりしと伝へる。其の池の總面積は最大時は三丁歩余り葦ヶ窪郷の四分の一をしめてるとの説も伝へられる。鎌倉時代、西暦一二二五年代浄土眞宗の開祖親鸞上人が甲州等々力の積舎萬福寺に参詣の帰路、此地の地頭、北面の武士、小俣左衛門尉重澄宅に立ち寄りしところ葦ヶ池にまつはる毒蛇済度の祈願をこんせいされる。
      葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄には「よし」なる娘有り、たまたま京より来りし半僧修業僧、晋挺奈良興福寺法性宗の高僧行基が造った、阿弥陀海の阿弥陀堂にこもりて断食修業中その晋挺に心をよせしが僧業の身には女性のその意を深く説得され其の意の通ぜさるを嘆き悲しみこの池に投身若き生涯を果てしときく。
      地頭のこん願に依り上人供養三七二十一日間小石に大字の名号を墨書きし、池中に投入するや、「よし」の霊は成佛済度され池中に異様な轟き有りて「よし」の霊は観世音大士の姿となり、上人の池中に投入れた小石が白虎を帯びて先達となり郷人の驚き騒ぐ中東南の空高く消え去りて遠く、伊豆の手石浜に落ちしと伝へる。今も手石浜の阿弥陀「くつ」には、参詣の人の絶え間なしときく。
      池には葦草が群れ、低地なる故に葦ヶ窪の地名起源と伝へられる。葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄は後に、親鸞上人の徳を慕って出家僧行を積僧唯念と稱し真木菩福寺一世開山となる。又此の時期、太布乃名号で知られる、龍泉寺 寺の下の作太郎も上人の徳を慕って僧業し、永讃坊乗信として、真木福正寺三世住職となる。両寺共教行信證浄土真宗なり。          合掌

  • 【親鸞上人念仏塚】<br />稲村神社まえの石塔群。<br />葦ケ窪の地頭小俣氏の娘が修行僧に心を寄せたが、悲恋に終わると、葦ケ池に身を投げ、毒蛇となり、里人を大いに悩ませました。<br />ここを通りかかった親鸞上人が小石に南無阿弥陀仏の名号を書き、池に投げ入れると、娘の霊は済度され成仏した。

    【親鸞上人念仏塚】
    稲村神社まえの石塔群。
    葦ケ窪の地頭小俣氏の娘が修行僧に心を寄せたが、悲恋に終わると、葦ケ池に身を投げ、毒蛇となり、里人を大いに悩ませました。
    ここを通りかかった親鸞上人が小石に南無阿弥陀仏の名号を書き、池に投げ入れると、娘の霊は済度され成仏した。

  • おなじく親鸞上人念仏塚

    おなじく親鸞上人念仏塚

  • 【稲村神社】<br />稲村神社の祭神は国常立尊、素盞雄尊、日本武尊、稲田姫尊の四神です。<br />南北朝時代の嘉暦2年(1327)の創建で、宝暦11年(1761)大鹿川の氾濫で荒廃したが、安永6年(1777)に再建されました。<br />境内の台上には馬頭観音、廿三夜塔等が多数あります、その中でひと際大きい石塔は合体道祖神です。

    【稲村神社】
    稲村神社の祭神は国常立尊、素盞雄尊、日本武尊、稲田姫尊の四神です。
    南北朝時代の嘉暦2年(1327)の創建で、宝暦11年(1761)大鹿川の氾濫で荒廃したが、安永6年(1777)に再建されました。
    境内の台上には馬頭観音、廿三夜塔等が多数あります、その中でひと際大きい石塔は合体道祖神です。

  • 笹子川を渡ると、国道20号線&甲州街道沿いに建つ”笹一酒造”さん。<br />日本酒、焼酎、ワイン、果実酒が試飲出来ちゃうよー。工場見学から土産購入まで可。笹一酒造は大正八年(1919)の創業です、<br /><br />笹一酒造さん<br />http://www.sasaichi.co.jp/<br />

    笹子川を渡ると、国道20号線&甲州街道沿いに建つ”笹一酒造”さん。
    日本酒、焼酎、ワイン、果実酒が試飲出来ちゃうよー。工場見学から土産購入まで可。笹一酒造は大正八年(1919)の創業です、

    笹一酒造さん
    http://www.sasaichi.co.jp/

  • 笹一酒造の大きな和太鼓。世界一の大きさ。

    笹一酒造の大きな和太鼓。世界一の大きさ。

  • 和太鼓には、心(こころ)と印されています

    和太鼓には、心(こころ)と印されています

  • ここで笹子川を渡る。<br />笹子川を旧笹子川で渡ると阿弥陀海道宿に到着です!<br />天保14年(1843)の頃、阿弥陀海道宿の宿内家数は65軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠4軒で、宿内人口は272人でした。

    ここで笹子川を渡る。
    笹子川を旧笹子川で渡ると阿弥陀海道宿に到着です!
    天保14年(1843)の頃、阿弥陀海道宿の宿内家数は65軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠4軒で、宿内人口は272人でした。

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