2014/06/12 - 2014/06/16
3362位(同エリア7767件中)
アムールヤマネコさん
- アムールヤマネコさんTOP
- 旅行記48冊
- クチコミ283件
- Q&A回答2件
- 107,251アクセス
- フォロワー7人
リゾートまでの一日を使って那覇市内に数か所の「琉球文化」を訪ねてみました。頭の中はリゾートオンリーでしたから、予習無しの勝手なつぶやき散歩です(=^・^=)。
「写真は沖縄戦で生き残ったハンタン山の大アカギ(表面はガジュマルです)」
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- レンタカー JALグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
こんにちは。
那覇に到着して最初に訪れたのは「沖縄県立博物館」です。
この博物館自体(美術館も併設)がグスクをイメージした観光要素のある建造物になっています。琉球史に関する蔵書(販売分も)も多くあります。 -
ここを訪れた主目的は「琉球様式の鎧」を知るためです。
現代の大量破壊兵器とは違い、甲冑は個人の人生感(想い)の具現化だと、私は考えています。
例えばココに残る一片の小札(コザネ)ですが、現代のバッグのように一枚の大革を鞣(ナメ)した物ではなく、小皮を薄く叩き延ばした上で、それを数枚重ねて漆で接ぎ合せたものです。
鎧に仕立てるには、この小札を鉄革交ぜに横に固め、更に上下に数百本の紐で威します。
日本の甲冑が美しいのは、革・鉄(ハガネ)・漆・紐・金工・縅(オドシ)の職人達が発注者の想いを受けて創った「世界でもっとも手間のかかる御召物」だからでしょうね。 -
鎧は死装束だから美麗に飾られたという話も聞きますが、私はそういう刹那的な物だとは想っていません。もっと晴々とした誇らしいイメージです。
下世話な表現かもしれませんが、俗に「鎧一両は屋敷一件の値」といわれます。それだけに一般の武士にとっては先祖伝来か生涯一度の新調だったのではないでしょうか。
写真は薩摩出来の胴丸金具です。 -
小札はもちろんですが、コハゼ等の金物をみてもココにあるものは一目で室町期の鎧、それも内地(日本)製の残欠です。
沖縄だけでなく内地からも、互いの交流記録の発見を楽しみに待ちたいと思います。 -
で、首里城は、お馴染み「守礼門」からです。
柳宗悦は日本民芸協会の工芸103号で、4個の脚柱に用いられた石材の形を絶賛しています。
この城は見上げて感心ばかりでなく、足元をしっかりとご覧ください(=^・^=)。 -
歓会門
首里城にあるものは、建物はおろか大半の石垣すら(地中の多くも)が最近の復元物です。
それが良いとか悪いでなく、そういう事実(破壊だけでなく復元された経緯も)の積み重ねが歴史でしょうし、それが年月を経ることで相応の意味を持つことにもなります。 -
園比屋武御嶽石門(ソノヒャンウタキイシモン)
現地でフラれている読み仮名については感じるところがあったのですが、ココなども普通には読めないフリガナだと思います。
沖縄の読みでしょうが、ならば歓会門はカンカイモンで本当に良いのでしょうか?
(こういう「真摯な突っ込み」はガイド君には嫌われます(>_<)) -
王様が外出する時に門の前で無事を祈ったとの説明ですが、この門の扉は当時も開けなかったそうです。
ここでは、この門(世界遺産指定)もですが、その裏の林も観ましょうか。僅かに石畳が残っています。実はこの林の奥にこそ守るべき神聖な場所があったようです。さて、あなたは霊気やパワーを感じますでしょうか?(今も信仰対象で、警備員さんが常駐しています) -
改めて歓会門(カンカイモン)です。
ガイドブック等で中国的と表現されますが、何人かの観光客を見ていると建物を見て「中華〜!」と感じているようです。
実際は、石垣の上にチョコンと木造楼閣を載せているという、その置き方形式が「中国式」たる所以です。
第二尚氏時代の正門です。城郭建築は外に拡大されていきます(守備強化)から、通常は外に在る建造物ほど時代が若く新しくなります。この後の時期には守礼門・そして中山門(守礼門と同形式ですが明治の薪売却のため現存しません)が正門となりました。 -
歓会門横の城壁(裏から)。
-
瑞泉門
第一尚氏時代の正門です。これから内側の門は木造建築物を石の土台の上に渡した日本建築様式の門です。 -
龍樋(リュウヒ)
龍の石像は首里城に唯一残る遺構で、ココの水を飲めるのは国王一族と冊封使だけだったそうです。 -
漏刻門
お分かりでしょうが、これが日本建築ということですネ(^_^;)。 -
漏刻門裏から瑞泉門
守礼門からココまではホボ一直線なんです。
城館建築だと言ってしまえばそれまででしょうが、要するに近代日本の城塞建築に必ず見られる守備のための導線設計が全く考慮されていません。
わざわざ城壁を築き拡大されているのは、仮想敵は冊封使だけということでしょうか。 -
日時計
漏刻(ロウコク:漏れ刻む)と呼ばれる門の近くですから、ここには元々は水時計があったそうです。 -
城壁
那覇港の方向を見ています。 -
広福門
日時計からカメラを右に振った写真です。ここから奥は全ての建造物が木造板張りです。 -
広福門裏
ここで入場券を買って奉神門を潜ると、本郭というか復元された王宮を見学できます。 -
奉神門
漆が使われた綺麗な門です。 -
実は私が首里城で興味があったのは、復元された威容よりも城としての「縄張り」です。
ここにも「京の内」とありますが、要するに当初造られた首里城は、正門の位置は兎も角、その主として対応する向きが今(西向き)とは90度左向きの金城道の方角ではという疑問です(守るべき神聖な林や先祖の墓を玄関脇に置くという配置がどうもしっくりきません)。 -
下之御庭
広福門裏の広場から見た、奉神門とは180度後ろの景色です。
以前に戦前の首里城写真をみる機会がありましたが、口の字形に建物がびっしり建っていた場所だと思われます。右は木曳門・左は西の見張り台方面に向かいます。 -
木曳門
ここを出ると、あっさりと園比屋武御嶽石門の横(最初の歓会門よりも外)に出られます。
向ってすぐ右側が西の見張り台に続く石垣です。亀甲組が綺麗ですが、これも内地の城塞では明治期以前にはほとんど見かけない石組みです。 -
西(イリ)のアザナ 西側の物見台(標高130m)
やっと城らしい防御を意識した石組みというか配置に出会えました。
どこを調べても木曳門についての説明は、「資財搬入口で普段は石で閉じられていた」との解説ですが、往時はもう少し別の絡め手や戦術的な意義があったように、私には感じられてなりません。もしかすると金城道が防御を兼ねた街道で、ココが当初の正門だったのかもしれません。 -
京の内です。
-
至る所に「御嶽(ウタキ)」と呼ばれる祭礼施設があるのが、沖縄グスクの特徴です。
なんとなく低い石垣で囲ってある木のある所がその場所です。 -
京の内の高台(見張り台?)
-
京の内の高台から見た金城湖(識名園)方面
-
付近の石塁
-
王宮方向を見ますが、明らかに京の内の方が高い位置にあります。
-
京の内から降りてきて、いよいよ奉神門から入場です。
-
首里城正殿
-
王宮正殿の屋根にある、龍・・・ですネ。
-
御庭(ウナー)では、儀式の時は官吏が色別に階級ごとに並んだそうです。
-
南殿(薩摩屋敷)から入ります。冊封使を接待しつつ王宮内には薩摩屋敷という日本建築を持ちました。こちらから奥の書院・黄金御殿等は今年になってからのオープンです。
http://www.dc.ogb.go.jp/kouen/shurijo/pdf/kuganiudunn.pdf -
書院
王様の通常の執務場所だそうです。 -
茶室
-
庭
-
書院の外観
-
書院との渡り
-
奥書院の庭
-
後宮の配置
-
二階の御座所 玉座は御差床(ウサスカ)というそうです。
公の場所だけに、流石に気合いの入った造りです。 -
玉御冠(タマオカンムリ)というそうです。
二階の玉座から一階に降りる方向にきちんと展示してあるのですが、みなさんお疲れなのかあまり目に入らない様子でした。時期の異なる印等もありましたから、併せてご覧ください。 -
一階の御座所
龍の爪ですが、流石に冊封使向けでしょうね。4本です。 -
首里城正殿の正面外観
-
首里城の真下には第32軍(沖縄守備隊)の司令部壕があったので、付近一帯が米軍の主要な爆撃目標になったそうです。
-
左掖門(ウエキモン)方向
東のアザナ(見張り台)方向の御内原(オウチバラ)を含め、首里城はまだまだ復元途中です。 -
円覚寺に往時をイメージできる資料館でも造り、首里城公園を一帯化した「尚氏文化に倣った平和発信」コンセプトもいけるかなあと、そんな想いも抱きました。
観光客の勝手なつぶやき・・・そろそろお開きです。
では、さようなら〜 (=^・^=)/~~
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
48