2014/06/04 - 2014/06/04
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ひま人さん
播磨の地へ移ってきた黒田重隆(官兵衛の祖父)は、当時この地で勢力を誇っていた御着城主の小寺氏の家臣となります。そして職隆(もとたか・官兵衛の父)の代で小寺姓を与えられ姫路城代を命じられます。そこに生まれたのが官兵衛です。
官兵衛は幼いころからその才を認められ、22歳で家督を継ぎ、翌年には嫡男・長政をもうけます。そして永禄12年(1569年)、姫路に攻め入った龍野城主・赤松政秀の軍勢を撃退。官兵衛の武名は一気に知れ渡りました。
この時代、播磨の諸将は東から勢力を強める織田、西の覇者である毛利、どちらにつくかで迷っていました。官兵衛は主君・小寺政職(まさもと)に「織田」につくよう勧め、自ら岐阜城へ向かい信長に「中国(毛利)攻め」を進言します。そして英賀(あが)合戦、上月城(こうずき)の戦い、三木城攻めと次々と戦果をあげます。信長の懐刀である秀吉に姫路城をあっさりと譲り、希代の軍師となっていくのです。
そんな姫路の町を、姫路城、考古園、黒田職隆廟所、母里太兵衛生誕地、御着城址と訪ね、官兵衛の若き日に思いを馳せました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 観光バス JRローカル 私鉄 徒歩
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姫路城桜門(大手門)。
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姫路城大天守閣。平成の大修理も完成に近づきましたが、一部修理用の仮設物、クレ−ン等が撤去されていません。現在はここへは入場禁止です。天守閣一帯の公開は27年3月末の予定だそうです。
この城は官兵衛時代の城でなく、関ケ原合戦後に徳川家康の女婿・池田輝政は、慶長6年(1601年)秀吉の築いた天守などを取り壊し、石垣などは活かして、慶長14年(1609年)五重の姫路城を完成させました。大天守の高さは91.9m、外観は五重、内部は地上6階地下1階、白漆喰総塗籠造、国宝8棟、重要文化財74棟。日本で初めて世界遺産に登録された城です。 -
西小天守。
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菱の門。脇門付櫓門、入母屋造、本瓦葺、白漆喰総塗籠造。番人詰所と馬見所があり、黒漆錺金具付き格子窓、華頭窓、白漆喰庇付き出格子窓の桃山時代の優雅で豪華な城門です。
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いの門。脇戸付高羅門。切妻造、本瓦葺。
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ろの門。構造は「いの門」と同じ、門内に石棺、北側石垣の南面下部に刻印があります。
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りの一渡櫓。二重二階渡櫓、本瓦葺。土庇が、りの二渡櫓まで大きく張り出しています。
内部では「官兵衛の歴史館」が開催され、官兵衛にまつわる資料や模型等の特別展示がされています。 -
りの二渡櫓。二重二階渡櫓、本瓦葺。一階城外側は石垣壁で、城内側石階段に刻印がります。
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お菊井戸。播州皿屋敷のヒロインお菊が攻め殺されて投げ込まれたといわれる井戸で、もとは釣瓶取(つるべとり)井戸と呼ばれていました。
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上山里下段石垣(かみやまざとげだん)。秀吉時代の野面(のづら)積の古式石垣です。
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秀吉時代の上山里下段石垣。
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好古園庭園。西御屋敷跡・武家屋敷跡等の地割を生かし、姫路城を借景にした約1万坪の池泉回遊式の日本庭園です。庭園内の「レストラン活水軒」で昼食をとりました。
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好古園庭園。
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黒田職隆廟所。天正13年(1585年)国府山城(こうやまじょう)で病没した官兵衛の父・職隆の墓所。凝灰岩の五輪塔。国府山より南方にあり地元では「筑前さん」と親しまれています。秀吉は職隆の誠実なことを知り重用し、元旦に家臣たちに杯を与える際にはまず職隆に与え、出陣のときは常に城の留守居を命じたといいます。
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母里太兵衛誕生の地石碑。母里太兵衛(もりたへえ)は、黒田家家臣の中から選出された「黒田二十四騎」、その中でもさらに優れた八人を指す「黒田八虎(くろだはっこ)」の一人です。性格は豪傑だが忠義に厚い男で、官兵衛と息子・長政の二代にわたり仕えました。
太兵衛の代名詞といえる「黒田節」。それは福島正則の元へ使者として訪れた太兵衛に正則が酒を勧めた時のこと、断り続ける太兵衛に正則が黒田の家名を汚す発言をしたところ、太兵衛は一変、大杯の酒を飲み干しました。その際、褒美として名槍「日本号」を頂戴したという逸話が、太兵衛そして黒田武士の勇気を表す民謡として、唄い継がれています。 -
荒神社、妻鹿城址碑。国府山城ともいい、元は妻鹿孫三郎の居城でしたが、織田信長が石山本願寺と戦い始めてから毛利水軍の往来が激しくなり、それを監視するために官兵衛の父・職隆が再びこの山に城を構えました。その後、秀吉に姫路城を譲ったのち官兵衛はこの城に移りました。山上からは小豆島や英賀、姫路城、広峰山が見えます。
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荒神社。奥津彦命・奥津姫命が祀ってあり、甲山経塚から出土した二仏の泥塔の同范がご神体です。ここから右へ国府山城への登り口になります。
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荒神社境内に植えられている「目薬の木」。黒田家官兵衛の祖父の時代、近江国から備前福岡に居を移し、目薬の木から製造した目薬をお寺のお札とともに売り歩き財をなしました。
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御着城址碑。御着城は別名茶臼山城、天川城と呼ばれ、城内に山陽道や城下町を取り込んだ物構えの平城でした。赤松氏の一族小寺氏の居城で、永正16年(1519年)に小寺正隆が築城したといわれる。天正7年(1579年)羽柴秀吉に攻められ落城、堀割れが行われ廃城となりました。別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称されました。
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御着城址。姫路市役所東支所として使用されています。
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小寺大明神。この地は、永正16年(1519年)に小寺正隆が築城した御着城の本丸跡に位置します。御着城の城主であった小寺一族と御着城に関係する人々をお祀りしています。
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黒田家廟所。御着城の一画になるこの墓所には、黒田官兵衛の祖父・重隆と生母(明石氏)の二人が祀られています。祖父と生母が一緒に祀られている珍しい墓所です。
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ひめじの黒田官兵衛大河ドラマ館。姫路城家老屋敷跡にNHK大河ドラマ放映を記念して造られたました。「官兵衛の原風景」をテーマに、姫路の風土やその時代を学習・体験できる施設。ドラマ出演者の衣装や小道具の展示をはじめ、官兵衛がいた当時の姫路城の居室や物見櫓を再現。軍師として、また文化人としての官兵衛を物語るエピソードなども紹介しています。
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