2014/05/18 - 2014/05/18
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夏目漱石の生家は牛込馬場下横町にありました。夏目家はこのあたりの名主で、家の前には夏目坂がありました。父親小兵衛が夏目坂と呼んでいたのが、一般に広まって定着したそうです。
漱石生誕地跡に行ってみました。早稲田駅を降りて直ぐの所に夏目坂があり、そこにあるファミリーレストラン「やよい軒」の前に「漱石誕生の地」の碑が建っていました。
夏目漱石 慶応三(1867)年生 2017年に生誕150年が来ます。
この先、徒歩15分位の場所に漱石山房の跡があり、漱石公園になっています。漱石40歳の時から大正5(1916)年に49歳で亡くなるまでの住まいです。公園内には、小さな展示館と漱石山房のベランダを模した白い建物が建っています。現在ここに漱石の記念館を建築する計画があるとのことです。
漱石は10年足らずの間に、ここ漱石山房で、虞美人草、坑夫、文鳥、夢十夜、三四郎、それから、門、彼岸過迄、行人、こころ、硝子戸の中、道草、明暗を執筆しました。
5月の温かい日に歩きました。漱石誕生の地から晩年の住居跡までは、ちょっとした文学散歩道です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
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東西線早稲田の出口を出ると見える森は、穴八幡神社です。
夏目坂から漱石公園へは反対側の道をたどります。 -
漱石公園にある地図
早稲田駅から漱石誕生地を確認して、夏目坂を行き、漱石公園まで歩く予定です。 -
東西線早稲田駅を降りて、東南の方に夏目坂というゆるやかな坂があります。
夏目漱石の実家は、このあたりの名主で、父夏目小兵衛がこの坂を夏目坂と呼んだことが定着したそうです。
漱石は夏目坂は南に登りとなると云ってますが、実際は坂だとは感じられないゆったりとした道です。 -
神楽坂への道と夏目坂との角には、小倉屋という酒屋があります。漱石の『硝子戸の中』に登場する夏目家の隣家で、江戸時代からの老舗です。現在は今風に「KOKURAYA」と表示されていました。
堀部安兵衛が酒を飲んだ升が保存されているとか・・・です。 -
漱石の『硝子戸の中』にこんな箇所がありました。
「父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。」 -
夏目坂の突端近くにやよい軒というファミレスがあり、その前に「夏目漱石誕生の地」碑が建っていました。昭和41年に漱石生誕100年を記念して建てられました。
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漱石誕生の地の碑がある「やよい軒」
どこか明治風のベランダがいいです。
このやよい軒、リーズナブルな価格で定食を提供してくれる庶民の味方です。
こういう店をみると、お金を出せば出しただけ美味しい料理が食べられるかと云うとそうではなく、価格と美味・栄養価には逓減の法則の関係があると思わずにはいられないです。 -
夏目坂を歩くと、寺院が続いています。
ここは来迎寺といういかにも浄土宗といった名の寺です。
江戸時代初期の庚申塔がありました。 -
江戸時代の庚申塔です。延宝4年(1676)というから随分と昔のものです。
上に日月、中に三猿(みざる、きかざる、いわざる)、下の方に雌雄の鶏が彫られていました。 -
庚申塔のとなりには、立った阿弥陀様がいました。
承応三年甲午五月と彫ってありました。承応3年(1654)で、こちらの方が庚申塔より古いです。 -
先に行くと日蓮宗感通寺です。
境内に戦災でなくなった人の供養碑がありました。 -
町慰霊園とある供養碑です。
「苦しいのは息が止まるまでよ。もう少し我慢するのよ!!と子供を抱えて震える私の手も肉もやけどでじんゝ落ちていきます」
と空襲体験者の言葉が書いてありました。しばし絶句です。
昭和20年5月25日の山の手空襲で大きな被害を受けました。3月10日の下町空襲は著名ですが、5月の山の手空襲も忘れてはいけないことです。 -
これは「さざれ石のいわおとなりて」のさざれ石です。
石が大きくなって岩になるなんて、荒唐無稽な?
いや、なるんです。何でも石灰岩が雨水に溶けて、地下の小石を結集してだんだんと大きくなるとのことです。学名を石灰質角礫岩というそうです。大阪万博にも展示されたという逸品です。 -
境内の池の奥にある喜久井町観音。
喜久井町の名は明治以降の新しい名で、その由縁について、漱石は『硝子戸の中』でこう書いています。
「私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主がなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由も利いたかも知れないが、それを誇にした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、厭な心持は疾くに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。」 -
前方が早稲田の方、来た道を振り向いたところです。
夏目坂通りが感通寺で曲がるところを左に入ると、漱石公園の方です。 -
道が狭くなりました。
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有島武郎の旧居跡(大正11年3月から1年間)です。
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有島武郎旧居跡を少し行った角を左に曲がりました。先の方に何やら公園らしきものが見えてきました。
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漱石公園です。ここは裏口のよう。まあいいでしょう。
ここが、漱石が明治40年から亡くなるまで住んだ「漱石山房」の跡です。
公園の前の通りは「漱石山房通り」と名づけられていました。 -
開園時間は8時から午後7時まで、10月から3月の日の短い頃は午後5時までです。
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漱石公園に入ったけど、何にもないな。
おや前方に小さな建物発見! -
公園には小さな展示館があり、ボランティアのガイドさんがいました。ちょっと雑談。漱石関係の小冊子を頂きました。
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漱石山房のベランダをイメージした建物。セットですが。この奥に漱石の書斎があった。
漱石山房は、昭和20年の空襲で焼失してしまいました。 -
漱石山房の設計図?
借家だけど結構広かった。漱石の没後、鏡子夫人が土地を購入したそうです。 -
猫の供養碑「猫塚」です。漱石没後に遺族によって建てられたものだそうです。
猫の他、犬や文鳥も飼っていた。トロイの英雄ヘクト―(ヘクトル)と名づけられた犬もいました。 -
猫塚から見た公園
生誕150年を記念して、漱石山房記念館(仮称)建設の準備が進められています。10万円の寄付で碑に名前が刻まれるって!! -
公園正面には漱石の胸像が。
以下の俳句が刻まれていました。
人よりも空 語よりも黙
肩に来て人なつかしや赤蜻蛉 -
公園前の漱石山房通りから外苑東通りに出て、早稲田大学経由で帰ることにしました。
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外苑東通りに出ると左手にお寺のような森がありました。近づいて見ると宗参寺という曹洞宗の寺院です。
この寺には山鹿素行の墓があります。
漱石が飼っている犬のヘクト―の死骸が近所の池で見つかり、引き取りに下女を遣りました。そのくだりで漱石は宗参寺について書いています。
「私は下女をわざわざ寄こしてくれた宅がどこにあるか知らなかった。ただ私の小供の時分から覚えている古い寺の傍だろうとばかり考えていた。それは山鹿素行の墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古い榎が一本立っているのが、私の書斎の北の縁から数多の屋根を越してよく見えた。」(『硝子戸の中』) -
ここは早稲田通り、左右の通りが外苑東通りです。左折して、外苑東通りから鶴巻町に行きました。
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向こうに見える緑樹は、関口の森で、椿山荘があります。その下を神田川が流れています。
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ここは外苑東通りと早大通りが交差する鶴巻町東です。早大通りのケヤキ並木が緑豊かになっていました。歩くとじわっとする初夏の暑さも並木の下で爽快な気分に変わります
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昼時です。ランニングしている人がいました。近くに早稲田大学があります。
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鶴巻町の早大通りは静かな商店街で、ケーキ屋、インド料理店などの飲食店がありました。鶴巻図書館もあります。昔から商店街だったのでしょうか。
鶴巻町と聞いて、
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
という高村光太郎の智恵子抄を思い浮かべたのです。 -
ケーキ屋に
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隣りはインド料理店
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早大通りを歩いて、鶴巻町西の交差点まで来ました。早稲田大学の校舎が見えました。
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今日の散歩の終点は早稲田大学の講堂にしました。
(最後まで見てくださり、ありがとうございました)
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