2014/04/26 - 2014/04/26
1位(同エリア287件中)
montsaintmichelさん
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- 旅行記389冊
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- 3,370,060アクセス
- フォロワー169人
今年のゴールデンウィークは生憎の飛び石連休。なので、近場で楽しむことになりました。行き先を決めるのにひと苦労しましたが、「須磨」に落ち着きました。大河ドラマ『平家物語』が放映されていた頃は、大変賑わいを見せていた観光スポットですが、連休初日ということもあり、須磨寺の境内は静けさを取り戻していました。平敦盛の悲劇に思いを馳せながら、静寂感に包まれた境内を巡る歴史散策。悠久の歴史に感じ入るひと時を過ごせました。
「須磨」の地は摂津国 神戸の西端にあります。須磨の地名は、六甲山系の西端、鉢伏山・鉄枴山が海に迫る平地の「スミ」が由来で、畿内の西隅に位置するため「スミ」がなまって「スマ」になったと言われています。
須磨は、万葉の昔から景勝地として名高く、在原行平伝説や『源氏物語』や『平家物語』の舞台ともなり、芭蕉や蕪村、子規などが歌を詠み、琴曲『春の海』でも奏でられ、歴史を辿るのに相応しいスポットです。
「須磨寺」は、平安初期に建立されて以来、1100年以上の歴史を持つ正式名を上野山 福祥寺と称する古刹。『源氏物語』や『平家物語』と所縁の深い寺院で、特に一の谷合戦で命を落とした平敦盛にまつわる史跡が多く、敦盛首塚、敦盛首洗い池、平敦盛と熊谷直実の戦いの様子を再現した「源平の庭」などがあります。また、敦盛の遺愛の笛「青葉の笛」をはじめ、沢山の寺宝や文化財が展示され、浪漫と悲哀に満ちた源平の歴史の一ページを垣間見ることができます。
また、由緒正しき古刹ながら、境内の展示物の摩訶不思議度は折り紙つきで、本当にお寺なのかと疑いを抱いてしまうほどの「アミューズメント・テンプル」としてもその名を轟かせています。地元ではB級スポットとして珍重されて久しいお寺です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
-
山陽電鉄 須磨寺駅
阪急電鉄、高速神戸鉄道、山陽電鉄を乗り継いで須磨寺駅に到着です。 -
山陽電鉄 須磨寺駅
駅の構えは至ってシンプル。
駅前の道は「智慧の道」と呼ばれ、ここから須磨寺までは緩い登り坂になっています。 -
平重衡 とらわれの遺跡
須磨寺駅を出てすぐ左手に小さな碑が建てられています。あまりにも唐突なので、目を引くお店の看板に気を取られて見逃す方も多いようです。
副大将 平重衡(しげひら)が一の谷合戦で捕虜となった時、近くにあった松に腰掛けて無念の涙を流したのを土地の人が哀れに思い濁酒をすすめたという場所です。「ささほや波ここもとを打ちすぎて 須磨でのむこそ濁酒なれ」の一首を詠み、その後鎌倉に送られ処刑されました。
以前は重衡が腰掛けた松も残っていたそうですが、商店街拡張のためにやむなく伐採され、こうして石碑だけを遺して源平合戦を偲ばせる所となっています。 -
キムラヤ
暫く歩くとあんパンで有名なキムラヤがありました。ここでパンを購入し、須磨寺で食すれば贅沢なランチになりそうです。
創業者 梶谷忠二は、日本人で初めてパン屋を開いて明治天皇にあんパンを献上した木村安兵衛創業の銀座木村屋で修行を積んだ後、1919年に独立して岡山市で最初の店舗をオープンさせました。創業から90年以上を経た今では、直営店と専売店を合わせて約100店舗を展開しています。半世紀以上も愛されてきた「さくらあんぱん」や「スネーキ」はキムラヤの歴史そのものであり、パンづくりへの情熱が込められたロングセラーとなっています。 -
須磨寺駅前商店街
商店街の北の端。ここで昭和の趣を今に残し、ほっこりとした気分にさせてくれる門前町とお別れです。
歴史ある須磨寺参道の須磨寺前商店街では、毎月20日、21日は弘法大師御影供のための月縁日で、露店商も沢山立ち並んで大変な賑わいを見せるようです。 -
弘天さん
7歳の弘法大師と5歳の天神様が一緒に祀られている不思議なパワースポットです。須磨寺と綱敷天満宮が共同で建造し、弘法大師の「弘」と天神さんの「天」から「弘天さん」と名付けられています。
さっそく、潜ってみます。「茅の輪くぐり」になぞらえた「智慧の輪くぐり」と言い、五角形の石の輪を潜ることで合格祈願や事態の好転などに霊験あらたかだそうです。五角(ごかく)と合格(ごうかく)、「弘天」と「好転」。語呂合わせでしょうか?
弘法大師を祀る「須磨寺」と天神を祀る「網敷天満宮」を結ぶ商店街の道は、「智慧の道」として古くから親しまれています。 -
須磨寺 標石柱
須磨寺交番所の脇には、大本山 須磨寺の標石柱が佇んでいます。
遙か先には古刹の仁王門の瓦屋根が視界に入り、この辺りから徐々にお寺の雰囲気が深まってきます。 -
正覚院
仁王門の手前にある正覚院は、蓮生院、桜寿院と共に本山を支える三塔頭のひとつに数えられています。ご本尊は、異像(三面)の愛染明王で秘仏です。参拝者のためにお前立ちが秘仏の変わり身とし奉納されています。
愛染明王信仰は、その名が示す通り「恋愛・縁結び・家庭円満」などを司る仏として古くから行われており、また「愛染=藍染」と解釈し、染物・織物職人の守護仏としても信仰されているようです。
須磨寺駅から道草をしなければ、7分程で着ける距離です。 -
正覚院
正面の欄間の彫刻は、色鮮やかな極彩色に覆われています。
山鳥でしょうか?
須磨寺の境内散策マップはこちらを参照して下さい。
仁王門前に印刷されたものが置かれています。
http://www.sumadera.or.jp/pdf/sansakumap.pdf -
正覚院
欄間の彫刻。(右側) -
良寛の句碑『須磨紀行』
正覚院の真向いに佇む、俳句二句と『須磨紀行』からの抜粋の碑です。
「すまてらの むかしを問へば 山桜」
「よしやねむ すまのうらわの なみまくら」
須磨寺ボランティアの方の話では、右に建つ石碑は良寛を表し、人を写す鏡だそうです。心身に不調やその前兆があると歪んで映るのだそうです。
この句碑は正覚院 三浦住職が建立されたものです。通説では、良寛が岡山の円通寺で修行を終えた後、故郷に戻るまでの行方は謎のベールに包まれているのですが、直筆の『須磨紀行』や『高野紀行』から、ある程度推測できるそうです。良寛は須磨寺や箕面市の高代寺、そして真言宗の総本山高野寺へ立ち寄ったそうです。良寛と真言宗をつなぐ糸は、実家が真言宗の熱心な檀家であったことに由来するようです。そのため、良寛は弘法大師の足跡を逆に辿ったということらしいです。 -
龍華橋(りゅうげばし)
朱色の欄干がアクセントの「龍華橋」が仁王門前の放生池(ほうじょうち)に架けられています。
捕獲した魚介を買い取り、生かし放つ池を放生池と称します。石清水八幡宮などの放生会が有名ですが、本来は仏教の儀式だったものが神仏習合によって神道にも取り入れられたものです。 -
放生池
池の右の畔には、樹木の新緑に覆われた石碑が下半身を剥き出しにしています。
よく見るとトカゲのような彫刻が施されています。
気になる存在ですが、ネットには情報がありません。 -
三好兵六の句碑
橋を渡った右手には、「夫婦とは なんと佳いもの 向かい風」とあります。
夫婦で立ち向かえばどんなことでもなんとかなるという意味にもとれるし、逆境の時こそ夫婦の真価が試されるともとれます。
この碑を見ながら、夫婦であれこれ語り合えることは幸福なことなんでしょうね!当方のような凡人には、どう解釈してよいのやら判りません。なんとも深い句です。
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山本周五郎 文学碑
文豪 山本周五郎と須磨の繋がりと言えば、処女作『須磨寺附近』。
石碑は、高さ2m、幅2.5mあり、安山岩系の泥冠(どろかぶり)と呼ばれる宮城県産の「幻の石」 伊達冠石が使われています。
表:「須磨は秋であった。…「あなた、生きている目的が分かりますか」「目的ですか」 「生活の目的ではなく、生きている目的よ」(処女作『須磨寺附近』から)
裏:「貧困と病気と絶望に沈んでゐる人たちのために 幸ひと安息の恵まれるように」
表は『須磨寺附近』の一節、裏の言葉は読者への遺言とされる文が刻まれています。 -
山本周五郎 文学碑
『須磨寺附近』は、友人 青木を頼って神戸に来た青年 清三が、そこで出会った年上の女性 康子に淡い恋心を抱く心情が綴られた作品です。須磨寺を舞台に、周五郎が感じた女性の謎、そして「生きる目的」という山本文学のメインテーマとなるキーワードがこの作品から産声を上げました。 この作品は、周五郎が関東大震災で東京の自宅を失った際、旧友を頼って須磨へ5ヶ月滞在していたという実体験を基に描かれたと言われています。ボランティアの方の話では、康子は須磨の地で知り合った実在の人物をモデルにしているそうです。 -
仁王門
金剛力士像二天を安置する仁王門は、平安時代の武将 源頼政が創建しました。現在の仁王門は、1577年に織田信長の家臣 滝川一益により焼かれ、1588年の再建だと伝わっています
頼政は、酒呑童子討伐や家来に金太郎こと坂田公時を配したことで有名な源頼光の玄孫。先祖の名に恥じない「鵺(ぬえ)退治」など興味深い伝説が残っています。
鵺は真夜中に活動する鳥。近衛天皇の時代、丑の刻になると決まって東三条の森から、ひとむらの黒雲が湧き立ち、御殿の上を覆った。しかも雲は怪しげな鳥のような叫び声をあげた。これが毎夜続き、天皇は、この雲の鳴き声が気になり、怯えてノイローゼとなった。「ええい、憎き鳥。誰ぞ、あの鳥を退治せい」。怪鳥退治の白羽の矢を立てられたのが、源三位入道 頼政。弓をとっては宮中随一の武将。天皇直々の命、頼政ははやる心を抑えて待つこと暫し、やがて東三条に黒雲が湧き、怪鳥の声が高々となった。満月のようにキリリと引き絞った弓、今とばかりに放った。黒雲は大きな羽音と共に近くの木立の中へ落下し、段末魔の声と共にあえない最期であった。見れば、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎というもの凄い怪物であった。 -
仁王門
手前の瓦には寺紋の桜、その奥には菊紋が青空に映えています。なぜ、菊紋が使われているのでしょうか?
須磨寺は、正しくは上野山 福祥寺という真言宗 須磨寺派の本山。平安時代初期、和田岬から引き上げられた聖観世音菩薩像を886年に菊紋で有名な光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が本尊として奉祀したのが始まりとされています。その後、兵火により荒廃したのを1155年に源頼政が再興し、更に慶長年間の大地震で頽廃した際、豊臣秀頼が奉行 片桐且元に命じ1602年に修復しました。幕末には、本堂、大師堂、仁王門を残すだけに荒れ果てましたが、明治以降、唐門や護摩堂などが再建され今の姿になっています。
また、須磨寺の住職 長原密浄は、お寺へ民衆が訪れるようにするための知恵を神戸市初代市会議長を務めた神田兵右衛門に求めました。そして境内に桜の木を植えて花の錦を織ろうと「作楽帳」と言う寄付帳を作り、一人一本桜の若木の寄付を行ない、結果千本もの桜が須磨寺に集まり、「新吉野」と称される桜の名所となったそうです。
そんな訳で、瓦屋根には、菊紋と桜紋が使われています。 -
仁王門 金剛力士像(吽形)
二天は、鎌倉時代の仏師 運慶とその子 湛慶の作と伝えられていますが、定かではないようです。
左手の金剛力士像には口がありません。何か謂れでもあるのでしょうか?付近に説明はありませんでしたが、珍しいものです。 -
仁王門 金剛力士像(阿形)
睨みをきかせてお寺を守っています。 -
弘法岩五鈷水
仁王門を潜って直ぐ右側に「五鈷水」と命名された手水場があり、そこには「弘法岩」と名付けられた大きな岩が置かれています。2000年に建てられた手水場には、須磨寺の裏山から湧き出た清浄な水が流れています。手水場を作ることを計画し、弘法大師御宝前で祈ること21日間、綺麗な水が湧き出ることが判り、弘法大師に因んでその水を「五鈷水」と名付けたそうです。 -
弘法岩五鈷水
「弘法岩」は、住職自ら四国を尋ね歩き、石鎚山の麓で見つけられた大岩だそうです。僧が座っている姿に似ており、弘法大師を偲ばせるというところから命名されました。人の手は一切入っていないのですが、確かに胸のあたりで手を合わせた位置に五鈷が置かれているように見えます。
岩は、高さ2.7m、質量13トンあるそうです。 -
弘法岩五鈷水
こうして見ると、五鈷を持っているように見えてくるから不思議です。
五鈷は、別名「金剛杵」や「ヴァジュラ」などとも呼ばれる仏教の法具のひとつです。元々はインドで護身用に用いられた武具で、その片鱗を取っ手の両側にある5つの爪が物語っています。五鈷と言えば、徳川家康に使える前の天海が、高田浦の九重の淵での雨乞い祈祷に向かう際、とある女性から授かったものが有名です。天海はその五鈷を終生離さなかったそうで、現在は東叡山寛永寺の宝蔵に納められています。
なぜ苔生しているかというと、「弘法岩」には天井からミスト・シャワーが注がれ、湿気のある環境が整えられているからです。 -
千手観音菩薩像
弘法岩五鈷水の右手奥には千手観音菩薩像が祀られています。
通常、千手観音の手の数は、合掌する2本を除いて40本あり、1本の手が25世界を救うものであるので、40×25=1000本になると言われています。
因みに、足元にある観音経が刻まれた観音の「手」に自分の手を置くと、「チーン♪」と読経開始の音が鳴る仕掛けがなされています。 -
正岡子規の句碑
正岡子規は、須磨で過ごした短い時の中で句を詠んでいます。
「暁や 白帆過ぎ行く 蚊帳の外」
(暁の海の中、澄み切った空気の中を行く帆の白が鮮明だ。)
この句碑は、弟子 青木月斗が子規の33年忌に建てたもので、刻字は『寒山落木』の中から集字されています。
1894年、日清戦争が勃発し、従軍帰社として遼東半島に渡った子規は同年5月に帰国。その船中で喀血して重体に陥り、神戸病院で手術を受け、7月には須磨保養院で1ヶ月の肺結核療養生活を送りました。子規28歳のことでした。須磨での療養生活は楽しかったらしく、不治の病を患いながらも明るく、俳句の革新や文学への情熱に満ち溢れていました。須磨寺へもよく足を運んで多くの句を残していますが、中でも「秋風や 平家弔う 経の声」や「二文投げて 寺の縁借る 涼みかな」の句がこの寺の雰囲気をよく伝えています。 -
桜寿院
塔頭三院のひとつで阿弥陀如来を本尊とし、右の脇侍に大日如来と浪切不動明王、左に弘法大師と秘鍵大師を祀っています。1995年の阪神・淡路大震災で倒壊し、2001年に再建されました。 -
桜寿院
唐破風の蟇股に施された彫刻は、迫力満点の親子龍です。
越後の巨匠 石川雲蝶を彷彿とさせる雰囲気の彫り物です。 -
桜寿院
欄間の親子龍のズームアップ。
蟇股の親子龍は、今にも飛び出してきそうなほど躍動感に満ちています。 -
桜寿院
虹梁にある玄武の彫刻は、一枚板彫の秀逸な作品です。
「玄武」とは、天の四方の方角を司る霊獣 四神のひとつ。高松塚古墳の壁画にも描かれ、四霊獣の青龍・朱雀・白虎・玄武を示し、東・南・西・北の方位の守護神として太古の昔より崇められてきたものです。
「玄武」は、北の星宿を神格化した聖獣で、脚の長い亀に蛇が巻き付いた姿をしています。五行思想で北は黒を表すため玄(黒)、甲羅を背負い防御に長けていることから武と呼ばれます。火山岩のひとつである黒色の玄武岩も、元はこの玄武に由来します。
古代の壺などには、蛇を体に巻き付けた亀の姿で描かれます。後に、真武玄天上帝という神になります。色では黒、季節では冬、五行では水、方位では北、臓器では腎臓、食べ物ではしょっぱいもの、環境では山や丘を表します。 -
桜寿院
虹梁の左端に施された玄武の彫刻。 -
桜寿院
虹梁の右端に施された玄武の彫刻。 -
桜寿院
玄武のズームアップ。
怪獣映画の「ガメラ」を彷彿とさせるものがあります。 -
桜寿院
木鼻は、通常は妻側に獅子、平側に獏が彫られます。しかし、ここでは平側に獅子が彫られ、それを妻の木口を隠すように周り込ませた匠の業がキラリと光っています。 -
桜寿院
木鼻の獅子。この愛嬌たっぷりの表情がたまりません。 -
桜寿院 ダルマおみくじ
高さ4cm程の木彫りのダルマが、おみくじのカプセルになっています。須磨寺塔頭 桜寿院の祈祷がなされたダルマおみくじ。
筆で描かれた表情が手作り感を醸していて「GOOD JOB!」です。 -
桜寿院 石燈籠
火袋には、茶碗と茶筅の彫刻が見られます。
また、中台側面にはハート型の刻り込みがあり、その下に6枚の簡略化された蓮華があります。
これらの特徴から「善導寺型燈籠」と呼ばれる種類のものと思われます。「善導寺型燈籠」は、京都 知恩院派の善導寺の燈籠に由来します。 -
与謝蕪村の句碑
桜寿院と源平の庭の境界部に佇みます。
「笛の音に 波もよりくる 須磨の秋」
江戸中期の俳人 蕪村が、敦盛が死の直前まで肌身離さず持っていた「青葉の笛」の音色を表現した一句。蕪村の直筆を模写して刻んであります。
若くして非業の死を遂げた敦盛の無念はいかばかりだったでしょう。また、討ち取った直実の悲しみも伝わってくるようです。
碑の側面の記述によれば、この俳句は山形県酒田市の本間美術館蔵(蕪村自筆句稿貼交屏風)、署名は京都角屋もてなしの文化美術館蔵(蕪村筆うき巣帖序文)より模刻したもので、源平の庭改修工事を記念して2006年に建立されたものです。 -
源平の庭
源平の物語はどこか哀愁が感じられます。源頼朝・義経兄弟、暴れん坊義仲、そして平清盛、甥の敦盛と華やかな中にも滅びの美学が漂います。『平家物語』は平家一門の盛衰をモチーフとし、平家の最期を語る場面では神戸〜須磨に至る一帯が重要な役割を担います。源義仲に都を追われた平家一門は、三宮の生田の森から須磨の一の谷にかけて陣を張ります。しかし源義経の裏山からの奇襲攻撃、いわゆる「鵯越え」は平家を敗走へと追いやります。その一の谷のシーンが境内にモニュメントとして実物大で再現されています。浜辺から扇で招く熊谷直実と振り返る平敦盛の像が生き生きと対峙しています。1967年に完成し、2001年に大改修が行われています -
源平の庭 熊谷次郎直実騎馬像
平家物語の中で悲しくも哀れで泪を誘う話に、平敦盛と熊谷次郎直実の一騎打ちがあります。平敦盛は清盛の弟 経盛の末子で、従五位でしたが官職がなく無官大夫と言い、弱冠16歳の初陣でした。
1184年、鵯越の坂落しにより、平家は惨敗を喫し、海上に浮かぶ見方の船めがけて殺到した。源氏の坂東荒武者 熊谷次郎直実は海上へ馬を乗り入れ、沖へ逃れようとする若武者を呼び返し、一騎討ちとなった。共に落馬して組合となったが、直実が勝ち、首を取ろうと相手の顔を見た時、あまりの美しさに名を尋ねると自らは名乗らず、直実に名乗らせた。その名を聞き、「良き名なり、我が名は誰かに聞けば知る者もあろう」と言って首を差し出した。16歳前後の我が息子と同年配。「この1人を討っても勝敗に変わりはない」。彼の父親の悲嘆に思いを巡らし、直実は、一瞬躊躇したが、近くにいる源氏方の無名兵士に討ち取られることを不憫に思い、涙を呑んで若武者の首を刎ねた。その時、腰の笛に気づき、その戦の朝、陣中で聞いた美しい笛の音色は、この若武者のものであったのかと思い至った。これが小枝の笛と呼ばれ、敦盛が最後まで身に付けていた、世に言う遺愛の笛「青葉の笛」。祖父 忠盛が鳥羽上皇から拝領したものを笛の名手と謳われた敦盛に伝えたものです。
この出来事から、直実は、殺し合わねばならない戦の世に無常を感じ、出家を決意します。後に熊谷蓮生坊と名乗り、西方浄土に居られる釈迦に尻を向けるのは失礼と、鞍を逆さに置いた馬に後ろ向きに乗って京から東国へ向かったと言われています。この情景を描いた絵を見られた方もあるのではないでしょうか。 -
源平の庭 平敦盛騎馬像
敦盛の「首」は義経の検分のため須磨寺へ持ち込まれ、一方、首から下は須磨の海岸に打ち捨てられました。須磨浦海岸の傍らには供養塔があり、いつの頃からか「敦盛塚」と呼ばれています。白砂青松の須磨の浦に蕭々と響き渡る風の音は、敦盛をはじめ平家へのレクイエムとなったでしょうか?
須磨寺にはこの他にも敦盛の首を洗ったとされる「首洗池」や、義経が敦盛の首実験をするときに座ったという「腰掛松」もあり、源平の盛衰に思いを馳せることができます。 -
若木の桜
『源氏物語』第12帖<須磨>には、光源氏が都に残した紫の上を想って須磨で桜を植えたことが記されています。
それが須磨寺の境内 源平の庭にある「若木の桜」です。見つけにくいのですが、本参道と源平の庭に続く道の間に小さな植え込みがあります。昔から幹が枯れるたびに新芽が出て、若木の姿を失わないそうです。
紫の上は「桜の花のような女人」と書かれ、最上の美人の例えだそうです。源氏は、遠距離恋愛の末、明石では新たな女性と結ばれて子供までもうけます。決して聖人君子ではなく、弱さも具えた人間的なヒーローゆえに、千年の時を越えて愛されるキャラクターなのでしょう。
「弁慶若木櫻之制札」(本物は宝物館)
要約すると「もし若木の桜の枝を折る者がいたら、一枝に対して指一本を切るぞ」というものです。いかにも武蔵坊弁慶らしいセリフですが、浄瑠璃『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』では、義経が平氏の若武者を憐れんで、若武者を桜に例え、枝を折れば指を落とすという内容の制札を弁慶に書かせたことになっています。
弁慶が義経と共に平泉を目指して落ち延びる際、須磨寺で書いたものだとしたら…。歴史の浪漫を感じさせますね! -
わらべ地蔵尊
賽の河原の小石を積むと「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため」と御詠歌が奏でられます。可愛く並んで出迎えてくれる6体のわらべ地蔵は、それぞれポーズをとっています。左から、「願いを聞いてくれる」、「一緒になって考えてくれる」、「一緒に拝んでくれる」、「教えを大切に守る」、「一緒に喜んでくれる」、最後は「ヤレヤレ、ひとつ片付いた」と胸の荷をおろしてノビをするお地蔵さま。万歳ではありませんよ! -
七福神マニコロ
亀の背に、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋和尚の神仙七人を集めたものです。「七難即滅、七服即生」、人々に福・徳・壽の幸運を授けると言われています。亀の背中に乗った七福神を回しながら拝みます。七福神の上以外なら亀の背中に乗ってもかまわないようです。
マニコロ(マニ車)とは、円筒形で内部に経文が納められ、側面にはマンダラが刻まれたチベット仏教の法具です。マンダラを唱えながらマニコロを右回りに1回転させると、経文を一通り読んだと同じ功徳を得られるとされています。 -
ぶじかえる
「ビックリしたい人は目玉を回して下さい。借金に困っている人は首を回して下さい。悩みが解消するかもしれません」と書かれています。
胸の部分が茶色いのは、鉄の心棒が錆びてその色が付着したものと思われます。 -
小石人形舎
アートデザイナー 故 木島武雄が、須磨や各地の小石を集めて自然の造型をそのまま利用して作り上げた珍しい独特の小石人形が展示されています。源平合戦などの情景描写や移動装置など工夫が凝らされており、素朴ながら見る人の心を和ませてくれます。
このシーンは、平敦盛と熊谷直実の一騎打ちを表しています。
夏のシーズンには海水浴客で賑わう須磨海岸。しかし、源平合戦須磨の戦ではあの海が血で真っ赤に染まったとも言われています。壮絶な戦いであったことが窺えます。 -
小石人形舎
平清盛を中心に福原京での華やかだった時代を表現しています。 -
小石人形舎
祇王とその母、祇女の物語です。
祇王の物語に興味のある方は、こちらを参照してください。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=27343616 -
小石人形舎
源氏物語の登場人物です。
感性がないとこのようなアートは難しそうです。 -
宝物館 須磨琴(一絃琴)
入口に展示されているのは、須磨琴です。
「須磨琴」の物語は平安時代に遡ります。『古今集』や『源氏物語』、謡曲『松風』、御伽草子『松風村雨』にも記されているように、中納言 在原行平(在原業平の兄)が罪を犯し、須磨に配流されたことに由来します。行平が渚で拾った板切れに冠の緒を張って琴を作り、岸辺の葦の茎を爪にし、琴を弾じながらはるか都を偲び、自らの寂寥を慰めたのが始まりと伝えられています。このため、古くから「須磨琴」と呼び慣らわされてきました。 現在でも、国の無形文化財に指定され、その美しい音色が連綿と伝承されています。 -
宝物館 青葉の笛
青葉の笛(龍笛)は、弘法大師が長安の青龍寺の竹で作ったと伝わり、嵯峨天皇に献上され、皇室から平敦盛の元へ渡ったと言われています。遺愛の笛にはもうひとつ「高麗の笛」があり、比叡山 学祐僧正の作と言われています。これら2本の有名な笛が厨子に収められて公開されています。
昔は開帳されておらず、笛の開帳となると大勢の人たちが訪れたそうです。江戸時代には敦盛550回忌などを含め何度も開帳されるようになり、また拝観料制にしたため、拝観料で仁王門を新築できたほどの人気ぶりだったそうです。笛一本で門が建っなんて、たいした宝物です。
現在は、この宝物館も無料で開放されています。 -
宝物館 青葉の笛
上の写真では見難いので方向を変えてみました。
厨子の中に黒く変色し歳月を感じさせ笛が2本納められているのが判ります。近づくいて観ると竹の繊維が表面に浮かびます。左の細い笛が「高麗(こま)の笛」。右の太いものが「青葉の笛」でどちらも敦盛の遺品です。
海辺に響き渡った笛は敵陣をもなごませたと言います。どんな音色だったのでしょうか?
『平家物語』には、青葉の笛という名称は登場せず、元々は須磨寺でも「小枝」と呼んでいたのですが、この笛が「青葉の笛」と呼ばれるようになったのは、世阿弥の能『敦盛』の影響だと言われています。 -
宝物館 鰐口(県指定重要有形文化財)
鰐口とは、神社の拝殿や寺院の堂の前の軒先に吊り下げてある円形扁平状の銅製の具(金鼓)です。直径46.7cm、厚さ17.8cmと大ぶりで、外廓は三条、中区と撞座は八葉九房の蓮華文を浮き立たせています。
南北朝時代の1366年に式部法橋長賢が願主となり、福祥寺に寄進した旨の銘があります。 -
宝物館 敦盛燈籠
銅板の四角形釣燈籠。
建仁元年(1201年)の銘が記されています。 -
宝物館 釣燈籠
銅板鍍金の六角形釣燈籠。屋蓋のつくり、照りの部分の透かし、長押によって分けられた軸部の透かしなど、いずれも妙法寺に伝わる釣燈籠によく似ています。また、銘文の配し方も同じですが、延文庚子(1360年)と判読でき、妙法寺のものより後のものであることが判っています。形がよく似ており、銘文の年代も近いことを考え合わせると、妙法寺、須磨寺両寺の燈籠寄進者は同一人物と推測できるそうです。 -
宝物館 弁慶の鐘
一の谷合戦の際、武蔵坊弁慶が山田庄 安養寺からこの鐘を長刀の先に掛け、前に提灯を吊るして鵯越えを担ぎ廻って陣燈に代用したとの伝説があります。「世俗に釣合はざるを堤燈に釣鐘といふは是より始まると言ふ」、提灯と釣り鐘の起源だそうです。戦時中日本軍は金属の供出を迫りましたが、この伝説のおかげで供出を免れたそうです。
鐘の質量は50貫あるそうですので、200kg弱ということになります。弁慶の怪力振りが窺えます。
現在境内に掛かっているものは、合戦後800年に合わせて複製されたものです。
因みに、鐘の上に掲げられているのが、弁慶直筆の弁慶若木櫻之制札です。 -
宝物館 平敦盛公像
まだあどけなさが残る敦盛像です。
熊谷蓮生坊の作品とされていますが、詳細は不明です。
いたいけな童顔に表現したあたりに、直実の癒えぬ悔恨が感じられます。 -
宝物館 鬼面
運慶作とされています。
確かに迫力のある作品です。 -
宝物館 鬼面
これも運慶作とされています。
凄味もありますが、味わい深いものがあります。 -
牛の像
天満宮でもないのに宝物館の右脇に牛の像が置かれています。
何か綱敷天満宮との所以でもあるのでしょうか? -
蓮生院
参道の右手には、熊谷直実の法名に因んだ蓮生院が静かに佇んでいます。
直実は一の谷合戦で戦死した平敦盛菩提のため、法然上人のもとで修行を積み、諸国行脚の途中に須磨を訪れたと言われています。
ご本尊に不動明王を祀っています。 -
釈迦如来石仏と十六羅漢石仏
より高きに鎮座されるのは、釈迦如来石仏です。
十六羅漢石仏は、中国 明時代の作と伝えられており、それぞれが違った表情をなされています。
元々は金子直吉氏が一の谷 八海山 貞照寺に寄進された石仏ですが、阪神・淡路大震災で貞照寺が倒壊したため、こちらに奉納されたものだそうです。 -
クレマチス
蓮生院の庭先に咲き始めたクレマチスが、楚々とした空気感を漂わせています。
キンポウゲ科センニンソウ属の蔓性多年草。原種は約300種類あり、日本はじめ中国、ヨーロッパ、ニュージーランド、テキサス州など世界各地に広く分布しています。
日本では、中国原産の「鉄線」と日本原産の「風車」が有名です。「鉄線」は、細い針金のような強いツルが由来。「風車」は、花の形からの直球命名。見分け方は、鉄線は萼(花びら)が6枚、風車は8枚なので簡単に区別できます。
花言葉は、「高潔」「美しい心」「精神的な美しさ」「たくらみ」「旅人の喜び」。日本では、江戸時代に「鉄線」が中国から渡来し、茶花として愛されてきました。大輪ですが華美にならず、楚々とした姿が和心をくすぐります。そこから「高潔」「美しい心」「精神的な美しさ」が付けられました。
ヨーロッパでは、浮浪者が物乞いをするためにクレマチスのツルを使って体を傷付けて憐れみを誘ったとされ、「たくらみ」という花言葉が付けられました。
クレマチスはツルを伸ばし、安定すると頑丈なものになります。そのため古代ヨーロッパでは、旅人が安全に宿泊できるようにと宿の入り口に飾られたそうです。そこから付けられたのが「旅人の喜び」。
また、聖母マリアが生まれたばかりのイエスを抱いてエジプトへ逃れた際、クレマチスの茂みの陰で休息をとったという逸話もあり、「旅人の喜び」は涼しい日陰を提供するという意味もあるそうです。
例によって写真が多くなりましたので、この続きは②須磨寺<後編>でお届けします。後編では、高台にある本堂へと駒を進めます。奇想天外なものとの遭遇もこれからが佳境になります。
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