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浦賀といえばペリーが率いる黒船来航が思い浮かびますが、元々、奉行所が置かれた江戸湾の入り口にある重要な港町で、隆盛期には干鰯問屋や廻船問屋が軒を連ねていました。<br />浦賀湾を挟む東西には、源氏再興を願って叶えられたことから祀られた叶神社をはじめ、歴史ある寺社が並びます。<br />この東西の叶神社にお参りすると、恋愛が成就したり、宝くじ(ロト)が当たるなどの願いが叶うと言われるそうです。

願いが叶う!浦賀の歴史散策

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2014/02/25 - 2014/02/25

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morino296

morino296さん

浦賀といえばペリーが率いる黒船来航が思い浮かびますが、元々、奉行所が置かれた江戸湾の入り口にある重要な港町で、隆盛期には干鰯問屋や廻船問屋が軒を連ねていました。
浦賀湾を挟む東西には、源氏再興を願って叶えられたことから祀られた叶神社をはじめ、歴史ある寺社が並びます。
この東西の叶神社にお参りすると、恋愛が成就したり、宝くじ(ロト)が当たるなどの願いが叶うと言われるそうです。

  • 京浜急行 浦賀駅<br /><br />京浜急行は、堀の内で三崎口方面と浦賀方面に分かれますが、電車の本数が少ない浦賀駅までが本線です。<br />

    京浜急行 浦賀駅

    京浜急行は、堀の内で三崎口方面と浦賀方面に分かれますが、電車の本数が少ない浦賀駅までが本線です。

  • 浦賀駅前にある案内図<br /><br />浦賀駅は、浦賀湾の付け根にあります。<br />浦賀湾の左側が東浦賀、右側が西浦賀とないます。<br />この日は、左側の東浦賀から散策します。<br /><br />浦賀はペリー来航で知られますが、元々浦賀奉行がおかれた江戸湾の入口にある重要な港町で、東浦賀には干鰯問屋が並び、西浦賀には廻船問屋が軒を並べていたそうです。

    浦賀駅前にある案内図

    浦賀駅は、浦賀湾の付け根にあります。
    浦賀湾の左側が東浦賀、右側が西浦賀とないます。
    この日は、左側の東浦賀から散策します。

    浦賀はペリー来航で知られますが、元々浦賀奉行がおかれた江戸湾の入口にある重要な港町で、東浦賀には干鰯問屋が並び、西浦賀には廻船問屋が軒を並べていたそうです。

  • 浦賀駅前に掲げられている案内<br /><br />浦賀中学の生徒の作品で、浦賀の歴史が紹介されています。<br />上:江戸大相撲で無敵を誇った雷電為右衛門の興行<br />下:東浦賀の旅館徳田屋、佐久間象山と吉田松陰らが日本のことを熱く語った場所

    浦賀駅前に掲げられている案内

    浦賀中学の生徒の作品で、浦賀の歴史が紹介されています。
    上:江戸大相撲で無敵を誇った雷電為右衛門の興行
    下:東浦賀の旅館徳田屋、佐久間象山と吉田松陰らが日本のことを熱く語った場所

  • 八雲神社<br /><br />駅前から数分歩くと、道路脇に八雲神社の標識があり、ここを入ると石段の上に八雲神社があります。<br />祭神は須佐男命。<br />東浦賀一丁目の鎮守として、毎年6月に祭礼が行われ、猩々坊が曳かれます。<br /> <br />江戸時代まで大谷山満宝院八雲堂という寺で、明治以降、神社に変わったたため、屋根に宝珠が乗る寺院型式のお堂のまま使われています。<br />

    八雲神社

    駅前から数分歩くと、道路脇に八雲神社の標識があり、ここを入ると石段の上に八雲神社があります。
    祭神は須佐男命。
    東浦賀一丁目の鎮守として、毎年6月に祭礼が行われ、猩々坊が曳かれます。

    江戸時代まで大谷山満宝院八雲堂という寺で、明治以降、神社に変わったたため、屋根に宝珠が乗る寺院型式のお堂のまま使われています。

  • 八雲神社の向拝の竜<br /><br />明治35年、石川善吉48歳の時の作品で、彫刻と見間違う出来栄えの漆喰細工です。<br />

    八雲神社の向拝の竜

    明治35年、石川善吉48歳の時の作品で、彫刻と見間違う出来栄えの漆喰細工です。

  • 乗誓寺<br /><br />八雲神社を出て左へ徒歩1〜2分。<br />寺伝によると、曽我兄弟の兄の曽我十郎祐成と、大磯の虎女との間にできた子であるといわれる僧・了源が開きました。<br />了源は親鸞の教えに帰依し、安貞元年(1227)平塚の地に阿弥陀堂を建て、その後、戦乱を逃れるために浦賀に移転。

    乗誓寺

    八雲神社を出て左へ徒歩1〜2分。
    寺伝によると、曽我兄弟の兄の曽我十郎祐成と、大磯の虎女との間にできた子であるといわれる僧・了源が開きました。
    了源は親鸞の教えに帰依し、安貞元年(1227)平塚の地に阿弥陀堂を建て、その後、戦乱を逃れるために浦賀に移転。

  • 乗誓寺<br /><br />この寺の墓地には、宮原屋や木屋など、干鰯問屋の大店の墓が並んでいるそうです。

    乗誓寺

    この寺の墓地には、宮原屋や木屋など、干鰯問屋の大店の墓が並んでいるそうです。

  • 顕正寺<br /><br />乗誓寺の前の道路をはさんで顕正寺があります。日蓮宗のお寺で、天正元年(1573)に僧・顕正坊日実大徳が顕正庵を結んだことによって開かれたといわれます。

    顕正寺

    乗誓寺の前の道路をはさんで顕正寺があります。日蓮宗のお寺で、天正元年(1573)に僧・顕正坊日実大徳が顕正庵を結んだことによって開かれたといわれます。

  • 顕正寺の石仏<br /><br />この寺の墓地には、横須賀が舞台となった小説『血族』の作者、 直木賞作家の山口瞳の墓があるそうです。その他、浦賀の代表的歌人である西野前知や江戸時代の陽明学者中根東里、元浦賀奉行所同心である春山弁蔵、元浦賀奉行所与力の岡田井蔵の墓もあるそうです。

    顕正寺の石仏

    この寺の墓地には、横須賀が舞台となった小説『血族』の作者、 直木賞作家の山口瞳の墓があるそうです。その他、浦賀の代表的歌人である西野前知や江戸時代の陽明学者中根東里、元浦賀奉行所同心である春山弁蔵、元浦賀奉行所与力の岡田井蔵の墓もあるそうです。

  • 東耀稲荷(須賀神社)<br /><br />顕正寺の石段を下りて左へ歩くと直ぐに赤い鳥居があります。<br />1782年創建。名前の由来は、隣のお寺の東耀山顕正寺の山号によるもので、 ここは古くは顕正寺の境内であったといわれています。

    東耀稲荷(須賀神社)

    顕正寺の石段を下りて左へ歩くと直ぐに赤い鳥居があります。
    1782年創建。名前の由来は、隣のお寺の東耀山顕正寺の山号によるもので、 ここは古くは顕正寺の境内であったといわれています。

  • 東耀稲荷(須賀神社)<br /><br />この稲荷には須賀神社も合祀され、 新町の鎮守にもなっています。<br /><br />正面の大棟には、かつて立派な鳳凰の鏝絵があったそうですが、屋根の修理の際、再現出来る技術者がいなかったため、白いしっくい塗りとなってしまったそうです。

    東耀稲荷(須賀神社)

    この稲荷には須賀神社も合祀され、 新町の鎮守にもなっています。

    正面の大棟には、かつて立派な鳳凰の鏝絵があったそうですが、屋根の修理の際、再現出来る技術者がいなかったため、白いしっくい塗りとなってしまったそうです。

  • 東耀稲荷(須賀神社)<br /><br />左右隅棟の上には恵比寿と大黒天の飾り瓦が乗り、商業の街として繁栄していたことを偲ばせます。<br />

    東耀稲荷(須賀神社)

    左右隅棟の上には恵比寿と大黒天の飾り瓦が乗り、商業の街として繁栄していたことを偲ばせます。

  • 東耀稲荷(須賀神社)<br /><br />格天井や欄間などの見事な彫刻です。

    東耀稲荷(須賀神社)

    格天井や欄間などの見事な彫刻です。

  • 東耀稲荷(須賀神社)<br /><br />建物左側の欄間にはミミズクの彫刻もありました。

    東耀稲荷(須賀神社)

    建物左側の欄間にはミミズクの彫刻もありました。

  • 専福寺<br /><br />東耀稲荷から歩いて直ぐ。<br />門前に、比較的新しい一葉観音が安置されています。

    専福寺

    東耀稲荷から歩いて直ぐ。
    門前に、比較的新しい一葉観音が安置されています。

  • 専福寺<br /><br />永正元年(1504)僧・久悦によって開かれた寺。<br />小林一茶の初恋の人がここに葬られていたことから、文化3年(1806)頃、一茶がその菩提を弔うために訪れたといわれます。<br />(その墓は関東大震災による山崩れで見つからなくなっているそうです。)

    専福寺

    永正元年(1504)僧・久悦によって開かれた寺。
    小林一茶の初恋の人がここに葬られていたことから、文化3年(1806)頃、一茶がその菩提を弔うために訪れたといわれます。
    (その墓は関東大震災による山崩れで見つからなくなっているそうです。)

  • 東林寺と三浦稲荷社<br /><br />浦賀事跡考によれば、東林寺境内の稲荷前では、文化6年(1809)、当時の花形力士の雷電為右衛門の相撲興行が行われたと記されているそうです。<br />

    東林寺と三浦稲荷社

    浦賀事跡考によれば、東林寺境内の稲荷前では、文化6年(1809)、当時の花形力士の雷電為右衛門の相撲興行が行われたと記されているそうです。

  • 東林寺<br /><br />梅の花が綺麗に咲いています。

    東林寺

    梅の花が綺麗に咲いています。

  • 東林寺<br /><br />墓地には、浦賀奉行所与力であった中島三郎助親子の墓があります。<br />三郎助は明治維新の際、あくまで幕臣としての意志を貫き、函館千代ヶ岱台場で父子ともども戦死。

    東林寺

    墓地には、浦賀奉行所与力であった中島三郎助親子の墓があります。
    三郎助は明治維新の際、あくまで幕臣としての意志を貫き、函館千代ヶ岱台場で父子ともども戦死。

  • 東叶神社(正式名称は叶神社)<br /><br />東林寺から200mほどに大きな鳥居があります。<br />浦賀湾を挟んで、東西に叶神社が向き合ってあります。

    東叶神社(正式名称は叶神社)

    東林寺から200mほどに大きな鳥居があります。
    浦賀湾を挟んで、東西に叶神社が向き合ってあります。

  • 東叶神社 手水舎<br /><br />干鰯問屋の湯浅屋が寄贈したものだそうです。

    東叶神社 手水舎

    干鰯問屋の湯浅屋が寄贈したものだそうです。

  • 東叶神社<br /><br />祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇。<br />この神社は、養和元年(1181)、高雄山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、その後、源頼朝によって、その願いが叶ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えられます。<br /><br />神社の裏山を明神山と呼び、標高約50m。後北条氏の頃、しばしば房総半島の里見水軍が三浦半島に攻勢をかけてきたので、それを防ぐためにこの明神山に水軍を配置しました。<br />山頂には、この神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の場」の標柱が立っています。<br />明神山の自然林は、木々の種類も豊富で、特に、ウバメガシの自生は、県内でもここ明神山と城ケ島だけで、ここが分布の北限とされています。(解説より)

    東叶神社

    祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇。
    この神社は、養和元年(1181)、高雄山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、その後、源頼朝によって、その願いが叶ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えられます。

    神社の裏山を明神山と呼び、標高約50m。後北条氏の頃、しばしば房総半島の里見水軍が三浦半島に攻勢をかけてきたので、それを防ぐためにこの明神山に水軍を配置しました。
    山頂には、この神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の場」の標柱が立っています。
    明神山の自然林は、木々の種類も豊富で、特に、ウバメガシの自生は、県内でもここ明神山と城ケ島だけで、ここが分布の北限とされています。(解説より)

  • 東叶神社 本殿

    東叶神社 本殿

  • 東叶神社からの眺め<br /><br />目の前は浦賀湾、対岸は西浦賀。

    東叶神社からの眺め

    目の前は浦賀湾、対岸は西浦賀。

  • 東叶神社 「身代わり弁天」<br /><br />社務所の奥にある石垣に開いた祠には石の弁才天が祀られています。<br />祭神は「厳島媛命」、海難その他の難事の際に、身代わりとなって人々を救うとして祈願されています。

    東叶神社 「身代わり弁天」

    社務所の奥にある石垣に開いた祠には石の弁才天が祀られています。
    祭神は「厳島媛命」、海難その他の難事の際に、身代わりとなって人々を救うとして祈願されています。

  • 東叶神社 社務所の裏ある井戸<br /><br />幕末に、遣米使節の護衛艦となった咸臨丸の艦長として、太平洋横断を成し遂げた勝海舟が、航海前に、この井戸で水垢離をした後、山頂で断食したと伝えられています。

    東叶神社 社務所の裏ある井戸

    幕末に、遣米使節の護衛艦となった咸臨丸の艦長として、太平洋横断を成し遂げた勝海舟が、航海前に、この井戸で水垢離をした後、山頂で断食したと伝えられています。

  • 東浦賀の渡船場から西浦賀の渡船場の眺め<br /><br />大きな船の右側に渡し船が停泊しています。<br />右端には、西叶神社の社殿の屋根が見えます。

    東浦賀の渡船場から西浦賀の渡船場の眺め

    大きな船の右側に渡し船が停泊しています。
    右端には、西叶神社の社殿の屋根が見えます。

  • 東浦賀にて<br /><br />梅の花と夏みかん

    東浦賀にて

    梅の花と夏みかん

  • 旅館徳田屋跡<br /><br />浦賀の渡しの前に碑と解説があります。<br />(現在は、個人宅となっています。)<br /><br />徳田屋は江戸時代(1700年代終わり頃)から、大正12年(1923)の関東大震災で姿を消すまで続いた、浦賀を代表する旅館。<br />ペリーが来航した嘉永6年(1853)6月に黒船を見聞するために吉田松陰が宿泊をして、佐久間象山と会っています。<br />他にも、浮世絵師の安藤広重や、木戸孝允(桂小五郎)が泊まったとされるそうで、幕末から明治維新の激動の中、浦賀を訪れた多くの武士や文化人がここで宿泊し、ここから日本を見、世界を見て時の移り変わりを認識して、近代日本が誕生したことから、徳田屋の果たした役割は大きいと解説に書かれています。

    旅館徳田屋跡

    浦賀の渡しの前に碑と解説があります。
    (現在は、個人宅となっています。)

    徳田屋は江戸時代(1700年代終わり頃)から、大正12年(1923)の関東大震災で姿を消すまで続いた、浦賀を代表する旅館。
    ペリーが来航した嘉永6年(1853)6月に黒船を見聞するために吉田松陰が宿泊をして、佐久間象山と会っています。
    他にも、浮世絵師の安藤広重や、木戸孝允(桂小五郎)が泊まったとされるそうで、幕末から明治維新の激動の中、浦賀を訪れた多くの武士や文化人がここで宿泊し、ここから日本を見、世界を見て時の移り変わりを認識して、近代日本が誕生したことから、徳田屋の果たした役割は大きいと解説に書かれています。

  • 東浦賀の渡し前の地図<br /><br />西浦賀までは渡船に乗れば直ぐなんですが・・・。

    東浦賀の渡し前の地図

    西浦賀までは渡船に乗れば直ぐなんですが・・・。

  • 東浦賀の渡船場<br /><br />東西浦賀を結ぶ渡船は、浦賀のシンボルの一つ。<br />開業時期は定かでありませんが、享保18年(1733)の「東浦賀明細帳」に、渡船を修理する際、周辺の村も東西浦賀村と応分の協力をすることとあり、この時には操業が確認されます。<br />当時の船頭の生活は、東西浦賀村の1軒あたり米6合で支えられていたそうです。<br />この航路は、「浦賀海道」と名付けられ、横須賀市道2073号となっています。

    東浦賀の渡船場

    東西浦賀を結ぶ渡船は、浦賀のシンボルの一つ。
    開業時期は定かでありませんが、享保18年(1733)の「東浦賀明細帳」に、渡船を修理する際、周辺の村も東西浦賀村と応分の協力をすることとあり、この時には操業が確認されます。
    当時の船頭の生活は、東西浦賀村の1軒あたり米6合で支えられていたそうです。
    この航路は、「浦賀海道」と名付けられ、横須賀市道2073号となっています。

  • 東浦賀の渡船場<br /><br />片道料金150円。<br />船が対岸にいてもブザーを押せば、直ぐに来るそうですが、残念ながら、この日は何故か「欠航」でした。<br /><br />この渡船に乗って西浦賀へ渡るつもりでしたが、浦賀湾をぐるっと歩くことになってしまいました。(願い叶わず)

    東浦賀の渡船場

    片道料金150円。
    船が対岸にいてもブザーを押せば、直ぐに来るそうですが、残念ながら、この日は何故か「欠航」でした。

    この渡船に乗って西浦賀へ渡るつもりでしたが、浦賀湾をぐるっと歩くことになってしまいました。(願い叶わず)

  • 浦賀駅前 浦賀の歴史を伝える絵<br /><br />東浦賀から駅まで戻り、今度は、西浦賀を歩きます。

    浦賀駅前 浦賀の歴史を伝える絵

    東浦賀から駅まで戻り、今度は、西浦賀を歩きます。

  • 浦賀ドック<br /><br />浦賀では嘉永6年(1853)に幕府により近代的な造船所が開設されました。<br />翌年、日本初の洋式軍艦・鳳凰丸を建造し、咸臨丸の修理も行ったそうです。<br />明治24年(1891)、中島三郎助の23回忌にあたり、函館戦争の同士であった荒井郁之助が中島三郎助のために浦賀に造船所をつくることを提唱し、榎本武揚は即座に賛成、地元の有力者に働きかけ、明治30年(1897)浦賀船渠株式会社が設立されたそうです。(解説より)

    浦賀ドック

    浦賀では嘉永6年(1853)に幕府により近代的な造船所が開設されました。
    翌年、日本初の洋式軍艦・鳳凰丸を建造し、咸臨丸の修理も行ったそうです。
    明治24年(1891)、中島三郎助の23回忌にあたり、函館戦争の同士であった荒井郁之助が中島三郎助のために浦賀に造船所をつくることを提唱し、榎本武揚は即座に賛成、地元の有力者に働きかけ、明治30年(1897)浦賀船渠株式会社が設立されたそうです。(解説より)

  • 浦賀湾<br /><br />穏やかな海ですが、ここに黒船が並んでいたら驚いたでしょうね。

    浦賀湾

    穏やかな海ですが、ここに黒船が並んでいたら驚いたでしょうね。

  • 西浦賀の渡船場<br /><br />現在の船は、平成10年8月に就航した強化プラスチック製の御座船「愛宕丸」。客席定員は12人。<br />次回は是非、願いを叶えたい(乗ってみたい)ものです。

    西浦賀の渡船場

    現在の船は、平成10年8月に就航した強化プラスチック製の御座船「愛宕丸」。客席定員は12人。
    次回は是非、願いを叶えたい(乗ってみたい)ものです。

  • 西叶神社<br /><br />西浦賀渡船場のすぐ近くに鳥居があります。<br />正式名称は、叶神社。東浦賀の叶神社と区別するため、西叶神社と呼ばれます。

    西叶神社

    西浦賀渡船場のすぐ近くに鳥居があります。
    正式名称は、叶神社。東浦賀の叶神社と区別するため、西叶神社と呼ばれます。

  • 西叶神社 手水舎<br /><br />石の漱盤は遊廓の主人で、僧侶に転身した江戸屋半五郎が寄進したものだそうです。

    西叶神社 手水舎

    石の漱盤は遊廓の主人で、僧侶に転身した江戸屋半五郎が寄進したものだそうです。

  • 西叶神社 銅製の大きな灯籠<br /><br />浦賀の遊廓によって寄進されたものだそうです。

    西叶神社 銅製の大きな灯籠

    浦賀の遊廓によって寄進されたものだそうです。

  • 西叶神社 社殿<br /><br />「アリャアリャ、ありがたや、叶明神の威徳をもって、虎もやすやす従えたり、皆々いさんでカッピキュー」<br />享保5年(1720)から当地に伝えられているという虎踊りに登場する和藤内の台詞の一節。<br />叶明神は、平家の横暴ぶりを憤った文覚上人が、上総国鹿野山にこもり、はるかに山城国・石清水八幡宮に源氏の再興を願って叶えられたことから、養和元年(1181)にその霊をこの地に迎えて祀ったことに始まると伝わります。<br />従って、この神社の祭神は、石清水八幡宮と同じ応神天皇。

    西叶神社 社殿

    「アリャアリャ、ありがたや、叶明神の威徳をもって、虎もやすやす従えたり、皆々いさんでカッピキュー」
    享保5年(1720)から当地に伝えられているという虎踊りに登場する和藤内の台詞の一節。
    叶明神は、平家の横暴ぶりを憤った文覚上人が、上総国鹿野山にこもり、はるかに山城国・石清水八幡宮に源氏の再興を願って叶えられたことから、養和元年(1181)にその霊をこの地に迎えて祀ったことに始まると伝わります。
    従って、この神社の祭神は、石清水八幡宮と同じ応神天皇。

  • 西叶神社 拝殿の彫刻<br /><br />現在の社殿は、天保8年(1837)に焼失した社殿を天保13年に再建したもので、再建に要した費用は約3千両との記録があるそうです。<br />特に注目に値するのは精巧な彫刻で、のちに名工とうたわれた安房国千倉の彫刻師後藤利兵衛(当時20代)の作品です。<br />彫刻に要した費用は総建築費の約7分の1にものぼる411両あまりだったそうです。<br />奉行所が置かれ、回船問屋が軒を連ねていた隆盛期の浦賀であったからでこそできたことと思われます。(解説より)<br />

    西叶神社 拝殿の彫刻

    現在の社殿は、天保8年(1837)に焼失した社殿を天保13年に再建したもので、再建に要した費用は約3千両との記録があるそうです。
    特に注目に値するのは精巧な彫刻で、のちに名工とうたわれた安房国千倉の彫刻師後藤利兵衛(当時20代)の作品です。
    彫刻に要した費用は総建築費の約7分の1にものぼる411両あまりだったそうです。
    奉行所が置かれ、回船問屋が軒を連ねていた隆盛期の浦賀であったからでこそできたことと思われます。(解説より)

  • 西叶神社 拝殿(右側)の彫刻

    西叶神社 拝殿(右側)の彫刻

  • 西叶神社 拝殿の格天井<br /><br />格天井の彫刻は花鳥ですが、この中には当時の日本にはまだ渡来していないとされる花や鳥も彫られているとか。 <br /><br />素晴らしい彫刻は一見の価値があります。

    西叶神社 拝殿の格天井

    格天井の彫刻は花鳥ですが、この中には当時の日本にはまだ渡来していないとされる花や鳥も彫られているとか。

    素晴らしい彫刻は一見の価値があります。

  • 西叶神社 拝殿の扉の彫刻<br /><br />アクリル板で保護されており、写真写りは良くありませんが、これも素晴らしい彫刻です。

    西叶神社 拝殿の扉の彫刻

    アクリル板で保護されており、写真写りは良くありませんが、これも素晴らしい彫刻です。

  • 西叶神社 境内に咲く河津桜<br /><br />現在、社務所があるところには、明治4年、西岸学舎が置かれ、東浦賀の乗誓寺に置かれた東岸学舎と明治31年に合併して浦賀小学校が誕生するまで存続し、明治14年、明治天皇が観音崎砲台の視察の際、この教室が休憩所として使用されたそうです。

    西叶神社 境内に咲く河津桜

    現在、社務所があるところには、明治4年、西岸学舎が置かれ、東浦賀の乗誓寺に置かれた東岸学舎と明治31年に合併して浦賀小学校が誕生するまで存続し、明治14年、明治天皇が観音崎砲台の視察の際、この教室が休憩所として使用されたそうです。

  • 西叶神社 神殿(右側)

    西叶神社 神殿(右側)

  • 西叶神社 神殿の棟柱を担ぐ力士像(右側)<br /><br />

    西叶神社 神殿の棟柱を担ぐ力士像(右側)

  • 西叶神社 神殿(左側)

    西叶神社 神殿(左側)

  • 西叶神社 神殿の棟柱を担ぐ力士像(左側)

    西叶神社 神殿の棟柱を担ぐ力士像(左側)

  • 西叶神社の絵馬<br /><br />東西の叶神社をお参りすると、恋愛も成就するとか。<br />また、「叶」=「ロト」と読んで、宝くじのロトが当たるというジンクスもあるとか(?)。<br /><br />願いを叶えたい方は、是非お出掛け下さい。

    西叶神社の絵馬

    東西の叶神社をお参りすると、恋愛も成就するとか。
    また、「叶」=「ロト」と読んで、宝くじのロトが当たるというジンクスもあるとか(?)。

    願いを叶えたい方は、是非お出掛け下さい。

  • 東福寺 山門<br /><br />西叶神社の裏側にあたる丘の上にあります。<br /><br />江戸幕府から御朱印地二石をもらっており、歴代の浦賀奉行も就任すると必ず参拝に訪れたという格式のある曹洞宗の寺。

    東福寺 山門

    西叶神社の裏側にあたる丘の上にあります。

    江戸幕府から御朱印地二石をもらっており、歴代の浦賀奉行も就任すると必ず参拝に訪れたという格式のある曹洞宗の寺。

  • 東福寺 本堂<br /><br />本堂より一段低いところある観音堂には「海難よけの観音様」が安置されています。

    東福寺 本堂

    本堂より一段低いところある観音堂には「海難よけの観音様」が安置されています。

  • 東福寺 本堂の鏝絵<br /><br />岩田辰之助による昭和7年の傑作。<br />本堂の外壁に「鶴・亀・虎・飛天」など8点の鏝絵があります。

    東福寺 本堂の鏝絵

    岩田辰之助による昭和7年の傑作。
    本堂の外壁に「鶴・亀・虎・飛天」など8点の鏝絵があります。

  • 東福寺 本堂にある「亀」の絵馬<br /><br />江戸中期を代表する画家・酒井抱一が描いた巨大な絵馬です。

    東福寺 本堂にある「亀」の絵馬

    江戸中期を代表する画家・酒井抱一が描いた巨大な絵馬です。

  • 常福寺の参道<br /><br />東福寺から常福寺に向かいます。<br />小さな石橋ですが、浦賀奉行が交代する際に渡ったそうです。<br /><br />

    常福寺の参道

    東福寺から常福寺に向かいます。
    小さな石橋ですが、浦賀奉行が交代する際に渡ったそうです。

  • 常福寺<br /><br />入口石橋を渡り直ぐ正面にあります。<br /><br />常福寺の入り口を土地の人たちは、「大門」と呼んだそうです。<br />江戸の初期に三浦半島を支配した代官・長谷川七左衛門長綱の屋敷や長屋が、この一画にあったことから名づけられたものとか。

    常福寺

    入口石橋を渡り直ぐ正面にあります。

    常福寺の入り口を土地の人たちは、「大門」と呼んだそうです。
    江戸の初期に三浦半島を支配した代官・長谷川七左衛門長綱の屋敷や長屋が、この一画にあったことから名づけられたものとか。

  • 常福寺 本堂<br /><br />東福寺と向かい合う山の中腹にあります。<br />現在の本堂は、元々、藤沢の龍口寺の本堂であったものが、鎌倉の本覚寺へ移築され、大正11年に旧本堂が焼失していた常福寺に移築されたものだそうです。<br />(龍口寺、本覚寺ともによく訪ねる寺ですが、こんな繋がりがあったとは知りませんでした。)<br />常福寺は、文明年間(1469〜1486) に創建され、浦賀に奉行所が移されてからは、浦賀における本陣(御用寺院)の役割をし、奉行交代の儀式を行いました。<br />庫裏の築山泉水庭は、唯一現存する浦賀三庭園のひとつだそうです。<br />本堂には、虫歯によく効くと評判の「珊誉女(さんよめ)」の位牌があり、歯科医療の発達していない時代に、虫歯悩む人々の信仰を集めていたそうです。<br />墓地には、奉行所の与力、佐々倉家と合原家や、遊女屋をやめて遊女を開放し、僧となった江戸屋半五郎の墓碑があるそうです。(解説より)

    常福寺 本堂

    東福寺と向かい合う山の中腹にあります。
    現在の本堂は、元々、藤沢の龍口寺の本堂であったものが、鎌倉の本覚寺へ移築され、大正11年に旧本堂が焼失していた常福寺に移築されたものだそうです。
    (龍口寺、本覚寺ともによく訪ねる寺ですが、こんな繋がりがあったとは知りませんでした。)
    常福寺は、文明年間(1469〜1486) に創建され、浦賀に奉行所が移されてからは、浦賀における本陣(御用寺院)の役割をし、奉行交代の儀式を行いました。
    庫裏の築山泉水庭は、唯一現存する浦賀三庭園のひとつだそうです。
    本堂には、虫歯によく効くと評判の「珊誉女(さんよめ)」の位牌があり、歯科医療の発達していない時代に、虫歯悩む人々の信仰を集めていたそうです。
    墓地には、奉行所の与力、佐々倉家と合原家や、遊女屋をやめて遊女を開放し、僧となった江戸屋半五郎の墓碑があるそうです。(解説より)

  • 西浦賀の町並み<br /><br />常福寺の前の道を浦賀湾方向へ向かいます。<br />かつて、この辺りには回船問屋が並んでいたのでしょうか。

    西浦賀の町並み

    常福寺の前の道を浦賀湾方向へ向かいます。
    かつて、この辺りには回船問屋が並んでいたのでしょうか。

  • 石蔵<br /><br />浦賀は干鰯を始め多くの品物を全国に売りさばく町として賑わい、今でも東西の浦賀に残っている15棟前後の蔵に昔の名残を見ることができます。<br />蔵は大切なものを盗難や火災から守るもので、壁の厚みが一尺ほどあり、耐火建物として様々な工夫がされています。<br />浦賀には江戸後期に造られた漆喰塗り土蔵と幕末・明治期に造られた石蔵(房州石を使用)が混在しています。<br />土蔵は漆喰の外壁が関東大震災で被害を受けたため周囲にトタンを巻いており、外からでは分かりにくくなっています。石蔵は比較的そのままの形が現在も残されています。(解説より)

    石蔵

    浦賀は干鰯を始め多くの品物を全国に売りさばく町として賑わい、今でも東西の浦賀に残っている15棟前後の蔵に昔の名残を見ることができます。
    蔵は大切なものを盗難や火災から守るもので、壁の厚みが一尺ほどあり、耐火建物として様々な工夫がされています。
    浦賀には江戸後期に造られた漆喰塗り土蔵と幕末・明治期に造られた石蔵(房州石を使用)が混在しています。
    土蔵は漆喰の外壁が関東大震災で被害を受けたため周囲にトタンを巻いており、外からでは分かりにくくなっています。石蔵は比較的そのままの形が現在も残されています。(解説より)

  • 西浦賀の町並み<br /><br />看板には書店とありますが、こちらは漆喰塗りの土蔵でしょうか。

    西浦賀の町並み

    看板には書店とありますが、こちらは漆喰塗りの土蔵でしょうか。

  • 西浦賀の町並み<br /><br />書店の壁には、見事な鏝絵があります。

    西浦賀の町並み

    書店の壁には、見事な鏝絵があります。

  • 愛宕山公園へ向かう階段<br /><br />常福寺の裏手の愛宕山に、明治24年(1891)開園した市内で一番古い公園。<br />

    愛宕山公園へ向かう階段

    常福寺の裏手の愛宕山に、明治24年(1891)開園した市内で一番古い公園。

  • 愛宕山公園 咸臨丸出航の碑<br /><br />昭和35年(1960)に日米修好通商条約の締結100年を記念して建てられたもの。<br />碑の裏には、艦長格・勝海舟をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名が連ねられています。

    愛宕山公園 咸臨丸出航の碑

    昭和35年(1960)に日米修好通商条約の締結100年を記念して建てられたもの。
    碑の裏には、艦長格・勝海舟をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名が連ねられています。

  • 愛宕山公園<br /><br />ここには、中島三郎助の招魂碑や与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑があります。

    愛宕山公園

    ここには、中島三郎助の招魂碑や与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑があります。

  • 愛宕山公園<br /><br />この人形の解説はありませんでしたが、浦賀湾を見つめるように並べられていました。

    愛宕山公園

    この人形の解説はありませんでしたが、浦賀湾を見つめるように並べられていました。

  • 愛宕山公園からの眺め<br /><br />浦賀湾から浦賀水道、遠く房総半島まで望むことが出来ます。<br /><br />浦賀水道を行き来する船の数は夥しく、少し見ている間だけでも、何艘もの大型船が行き交っていました。

    愛宕山公園からの眺め

    浦賀湾から浦賀水道、遠く房総半島まで望むことが出来ます。

    浦賀水道を行き来する船の数は夥しく、少し見ている間だけでも、何艘もの大型船が行き交っていました。

  • 陸軍桟橋(西浦賀町1丁目)<br /><br />このL字型の桟橋は、太平洋戦争終了後、南方から引き揚げてきた人々が、日本の地に第一歩を印したところです。<br /><br />また、陸軍桟橋の前の駐車場の地が浦賀奉行所の出先機関であった番所が置かれていたところです。番所では、江戸へ出入りする船の荷改めを行い、それは江戸中の経済を動かすほどの重要なものでした。<br />その業務は昼夜を通じて行われ、三方問屋と呼ばれる、下田と東西浦賀の回船問屋100軒余が実務を担当していたっそうです。

    陸軍桟橋(西浦賀町1丁目)

    このL字型の桟橋は、太平洋戦争終了後、南方から引き揚げてきた人々が、日本の地に第一歩を印したところです。

    また、陸軍桟橋の前の駐車場の地が浦賀奉行所の出先機関であった番所が置かれていたところです。番所では、江戸へ出入りする船の荷改めを行い、それは江戸中の経済を動かすほどの重要なものでした。
    その業務は昼夜を通じて行われ、三方問屋と呼ばれる、下田と東西浦賀の回船問屋100軒余が実務を担当していたっそうです。

  • 浦賀港引揚記念の碑<br /><br />浦賀港は、第二次世界大戦後、外地からの引揚者を受け入れた引揚指定港となり、56万人もの引揚者を受け入れました。<br />平成18年10月に横須賀市制施行100周年のプレ事業として、「浦賀港引揚記念の碑」を引揚船が接岸した陸軍桟橋に建立したもの。

    浦賀港引揚記念の碑

    浦賀港は、第二次世界大戦後、外地からの引揚者を受け入れた引揚指定港となり、56万人もの引揚者を受け入れました。
    平成18年10月に横須賀市制施行100周年のプレ事業として、「浦賀港引揚記念の碑」を引揚船が接岸した陸軍桟橋に建立したもの。

  • 為朝神社<br /><br />浜町(西浦賀4丁目)の鎮守で、その名のとおり源為朝(頼朝の父の弟)を祀っています。<br />寛政12年(1800)、浜町の漁民が、海に漂流していた木像を引き上げ、地蔵堂に安置。祈願をするとその功が多かったそうで鎮西八郎為朝の像であったといいます。<br />創建は文政期(1820年代)であり、航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めていました。

    為朝神社

    浜町(西浦賀4丁目)の鎮守で、その名のとおり源為朝(頼朝の父の弟)を祀っています。
    寛政12年(1800)、浜町の漁民が、海に漂流していた木像を引き上げ、地蔵堂に安置。祈願をするとその功が多かったそうで鎮西八郎為朝の像であったといいます。
    創建は文政期(1820年代)であり、航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めていました。

  • 為朝神社<br /><br />社殿の彫刻も立派です。<br /><br />この浜町に伝承されている「虎踊り」は、浦賀奉行所の開設にあたって、伊豆下田から伝えられたもので、県の民俗文化財に指定されており、毎年6月の為朝神社の祭礼に奉納されています。

    為朝神社

    社殿の彫刻も立派です。

    この浜町に伝承されている「虎踊り」は、浦賀奉行所の開設にあたって、伊豆下田から伝えられたもので、県の民俗文化財に指定されており、毎年6月の為朝神社の祭礼に奉納されています。

  • 川間町内会館<br /><br />為朝神社から浦賀奉行所跡へ向かう途中にあります。

    川間町内会館

    為朝神社から浦賀奉行所跡へ向かう途中にあります。

  • 川間町内会館の鏝絵<br /><br />昭和34年、石川梅尾(51歳)の作品。<br />2階軒下に鳳凰、1階軒下に松竹梅と鶴亀が描かれ美しい色彩が施されています。

    川間町内会館の鏝絵

    昭和34年、石川梅尾(51歳)の作品。
    2階軒下に鳳凰、1階軒下に松竹梅と鶴亀が描かれ美しい色彩が施されています。

  • 浦賀奉行所跡<br /><br />享保5年(1720)に奉行所が下田から浦賀へ移されました。<br />業務は、船改めをはじめとして、海難救助や地方役所としての仕事などを行いました。<br />また、文化・文政(1804〜1830)の頃から、たびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防備するため、海防の最前線として、重要な役割を果たすようになりました。<br />享保5年から江戸幕府が終わる慶応4年(1868)までの約150年間に、 奉行は、二人制の時期もありましたが、初代の堀隠岐守から最後の土方出雲守まで53人が勤めました。<br />また、奉行所には、与力10騎・同心50人の役人たちも勤めていました。現在では、奉行所をとり囲む堀の石垣と表門の前に架かっていた石橋の伊豆石が僅かに残るだけで、当時の様子を偲ぶことはむずかしくなっています。(解説より)

    浦賀奉行所跡

    享保5年(1720)に奉行所が下田から浦賀へ移されました。
    業務は、船改めをはじめとして、海難救助や地方役所としての仕事などを行いました。
    また、文化・文政(1804〜1830)の頃から、たびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防備するため、海防の最前線として、重要な役割を果たすようになりました。
    享保5年から江戸幕府が終わる慶応4年(1868)までの約150年間に、 奉行は、二人制の時期もありましたが、初代の堀隠岐守から最後の土方出雲守まで53人が勤めました。
    また、奉行所には、与力10騎・同心50人の役人たちも勤めていました。現在では、奉行所をとり囲む堀の石垣と表門の前に架かっていた石橋の伊豆石が僅かに残るだけで、当時の様子を偲ぶことはむずかしくなっています。(解説より)

  • 西浦賀から眺める東叶神社<br /><br />この後、燈明堂まで足を延ばそうと思ったのですが、少し遠いので、また次の機会にしました。

    西浦賀から眺める東叶神社

    この後、燈明堂まで足を延ばそうと思ったのですが、少し遠いので、また次の機会にしました。

  • 浦賀湾と浦賀水道<br /><br />静かな海を眺めながら、この日の散策を終了。<br />浦賀駅までバスを利用し、京急で帰宅の途へ。<br /><br />約10年ぶりに訪れた浦賀、改めて、歴史のある町であることを再認識しました。<br />渡船に乗れずに願いは叶いませんでしたので、また出掛けてみたいです。<br /><br />(おしまい)<br /><br /><br />

    浦賀湾と浦賀水道

    静かな海を眺めながら、この日の散策を終了。
    浦賀駅までバスを利用し、京急で帰宅の途へ。

    約10年ぶりに訪れた浦賀、改めて、歴史のある町であることを再認識しました。
    渡船に乗れずに願いは叶いませんでしたので、また出掛けてみたいです。

    (おしまい)


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この旅行記へのコメント (7)

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  • きーちゃんさん 2014/03/06 11:32:26
    願いが叶うとな。。。
    morino296さん、こんにちは♪

    またたくさん歩かれましたね!
    morino296さんの、健康の秘訣はこの散策ですね(^^)v
    叶神社・・・願いが叶うのですね!
    是非そちらへ行くことがあったら、まずこちらへご案内お願い致します(笑)

    しかし〜(T_T) 渡船の願いはかなわなかったのですね〜
    きっと大願は叶うんだわ!ふふふ

    morino296さんの散策は、まるで修学旅行で周っているように勉強になります。
    東西の叶神社をお参りすると、恋愛も成就。。。う〜ん(-_-;)いいかもしれません(笑)
    ロトは買ったことがありませんが、こっちで願った方がいいかな!

    札幌は暫く雪が降っていなかったのですが、今朝は15cmほどの積雪がありました。
    朝から雪かきでひと汗かきました(>_<) まだ春は遠いです〜

        きーちゃん
     

    morino296

    morino296さん からの返信 2014/03/06 20:27:45
    RE: 願いが叶うとな。。。
    きーちゃん

    こんばんは。
    いつも有難うございます。

    こちらに来られるときは、まず、叶神社へご案内しますね。

    渡船、何故欠航していたのか分かりませんが、
    船頭さんの体調不良でしょうか。

    浦賀、日本の近代化の幕開けとなった所ですが、
    あまり馴染みがないのも事実ですね。

    今回、改めて散策してみて分かったことも多くありました。
    散策(徘徊ではありませんよ)するには、何か目的があるといいと思っています。

    天気予報を見ると、北海道に強い低気圧があって、大変なことになっていますね。

    特に、道東が大変なようですが、きーちゃんの故郷も心配ですね。
    低気圧、早くいなくなりますように!

    morino296
  • のーとくんさん 2014/03/06 08:29:33
    かなり歩数が
    morino296さん

    おはようございます。
    渡船にも乗れず、この日はかなり歩かれたのでは。
    天気もよく、すごく健康的ですね。
    浦賀の土地勘が無いのですが、旅行記を拝見しているとそう感じます。

    ところで、西叶神社の絵馬は、かわいいですね。
    「叶」の絵馬といい、いろいろな願いを叶えてくれそうですね。

     のーとくん

    morino296

    morino296さん からの返信 2014/03/06 08:53:26
    RE: かなり歩数が
    のーとくんさん

    おはようございます。
    いつも有難うございます。

    東浦賀から西浦賀まで、渡船でショートカットするつもりでしたが、
    欠航でだめでした。
    浦賀駅から東西の叶神社までは、徒歩15分くらいですから、
    東叶神社から西叶神社までは30分くらいでしょうか。

    この日の歩数は1万5千くらいでいた。

    馬の絵、可愛いですよね。

    morino296
  • ホーミンさん 2014/03/05 23:32:28
    ロトが当たったらいいですね
    morino296さま♪

    こんばんは。(o^v^o)

    叶神社、いい名前ですね。
    ロトと読んで、宝くじも当たる?
    なるほど・・・です。
    私は宝くじを買わない人なのでロトには興味ありませんが、元気な老人になれることを叶えてもらうためにお参りしたいですよ。

    渡し船に乗る願いがかなわなかったので、これは再訪しないといけませんね。

    浦賀といえば黒船しか思い浮かばない、貧想の私。
    296さんの旅行記で浦賀の勉強が出来ました。
    ありがとうございます。

    黒船が来たときも、このように穏やかな日だったのでしょうか。
    のどかな浦賀に、煙をもうもうと吐く大きな黒船。
    そりゃあ、夜も寝られないくらいに驚きますよわ。

    morino296

    morino296さん からの返信 2014/03/05 23:47:33
    RE: ロトが当たったらいいですね
    ホーミンさん

    こんばんは。
    早速ご覧いただき、書き込みも有難うございます。

    叶神社は、ここ浦賀だけだとか。
    願い事が叶う神社、良い感じですよね。

    私も、宝くじは買わないので、違うことをお願いしました。

    今回で3度目の浦賀でしたが、まだ渡し船に乗っていないので、
    是非もう一度行こうと思っています。

    日本の近代化が幕開けした浦賀、
    今回初めて知ったことも多く、勉強になりました。

    黒い煙を吐く黒船を見た人たちは、
    生きた心地がしなかったでしょうね。

    morino296

    ホーミン

    ホーミンさん からの返信 2014/03/05 23:56:10
    RE: ロトが当たったらいいですね
    お返事ありがとうございます。

    > そりゃあ、夜も寝られないくらいに驚きます「よわ」。

              ↑ 
         あはは、失礼しました。

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