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1022首里観音堂 新しい建物だが,ここもたくさんの人がお祈りしている.ここの萬歳嶺見晴らし台からは那覇の町がよく見える.高いビルのない昔はもっと見えただろう.守衛門まで戻り,金城町石畳道に.途中で樹齢300年の大アカギと内金城嶽を見る.首里城の丘沿いの歴史的水場(大樋川,仲之川)を見つつ,石畳を下る.下った先が金城橋.ここでバス停に行ったが,なんと一日4本.仕方なくタクシーで,護国寺へ.護国寺と波上宮は14世紀にたてられたと思う,琉球黎明期からの由緒ある社寺.両方とも建物は新しかったが,歴史の悲劇を示す碑がたくさんあった.波の上ビーチに出て,崖の上の波上宮をみた.やはり信仰を集める場所と思う.そこに大胆にも波の上臨港道路や那覇西道路を通すなんて罰当たりかな..

2013.12沖縄那覇旅行3-首里観音堂,真玉道(金城町石畳道),護国寺,波上宮

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2013/12/23 - 2013/12/23

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SUOMITA

SUOMITAさん

1022首里観音堂 新しい建物だが,ここもたくさんの人がお祈りしている.ここの萬歳嶺見晴らし台からは那覇の町がよく見える.高いビルのない昔はもっと見えただろう.守衛門まで戻り,金城町石畳道に.途中で樹齢300年の大アカギと内金城嶽を見る.首里城の丘沿いの歴史的水場(大樋川,仲之川)を見つつ,石畳を下る.下った先が金城橋.ここでバス停に行ったが,なんと一日4本.仕方なくタクシーで,護国寺へ.護国寺と波上宮は14世紀にたてられたと思う,琉球黎明期からの由緒ある社寺.両方とも建物は新しかったが,歴史の悲劇を示す碑がたくさんあった.波の上ビーチに出て,崖の上の波上宮をみた.やはり信仰を集める場所と思う.そこに大胆にも波の上臨港道路や那覇西道路を通すなんて罰当たりかな..

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
交通手段
タクシー ANAグループ 私鉄
旅行の手配内容
個別手配
  • 1022 首里観音堂 合掌犬コナンでも知られる.寺院の創立縁起は、琉球王朝時代、佐敷王子(のち尚豊王)が人質として薩摩に連れて行かれた際、父・尚久王は息子が無事帰国できたら首里の地に「観音堂」(観音様をお祀るお堂)を建てることを誓願されました。その後、無事帰郷したので、1618年、首里の萬歳嶺という丘(高台)に観音堂を建て、その南に、慈眼院を建立しました。<br />http://www.shuri-kannondo.or.jp/jiin.html<br />鐘楼山門

    1022 首里観音堂 合掌犬コナンでも知られる.寺院の創立縁起は、琉球王朝時代、佐敷王子(のち尚豊王)が人質として薩摩に連れて行かれた際、父・尚久王は息子が無事帰国できたら首里の地に「観音堂」(観音様をお祀るお堂)を建てることを誓願されました。その後、無事帰郷したので、1618年、首里の萬歳嶺という丘(高台)に観音堂を建て、その南に、慈眼院を建立しました。
    http://www.shuri-kannondo.or.jp/jiin.html
    鐘楼山門

  • 長老樹 がじゅまる<br />「当寺院、第26世南凕玄昭禅師により、大正10年、本堂改築と合わせて、平和を願う意味で植栽されたものです。<br />当時、この首里の地で禅師が「長老」と云われていたことから、「観音堂の長老樹」と云っております。 」

    長老樹 がじゅまる
    「当寺院、第26世南凕玄昭禅師により、大正10年、本堂改築と合わせて、平和を願う意味で植栽されたものです。
    当時、この首里の地で禅師が「長老」と云われていたことから、「観音堂の長老樹」と云っております。 」

  • 本堂

    本堂

  • 沖縄の人は信仰が厚い.何人かが正座して祈っていた

    沖縄の人は信仰が厚い.何人かが正座して祈っていた

  • 萬歳嶺見晴らし台<br />「琉球王朝時代、国王は那覇を見渡せるこの「萬歳嶺」という丘から国の安全、国民の安全を願ったと言われております。」

    萬歳嶺見晴らし台
    「琉球王朝時代、国王は那覇を見渡せるこの「萬歳嶺」という丘から国の安全、国民の安全を願ったと言われております。」

  • ここからの展望

    ここからの展望

  • すぐそばに都ホテル

    すぐそばに都ホテル

  • おなじ寒川通りを守礼門まで戻る

    おなじ寒川通りを守礼門まで戻る

  • 1050 首里城公園レストセンターに戻る.ここで一休み

    1050 首里城公園レストセンターに戻る.ここで一休み

  • べにいもとバニラのソフトを頼んだら,機械が故障していて,上下になってしまった.本来は斜めに,床屋さんのサインと同じようになるはずだった.300円

    べにいもとバニラのソフトを頼んだら,機械が故障していて,上下になってしまった.本来は斜めに,床屋さんのサインと同じようになるはずだった.300円

  • 首里門の上手で綾門大道に分岐する真玉道の起点は門構えに石積みされて「石門」と呼ばれていた.その左右には石碑が立っていた.国王頌徳碑 1522年 こちらはタイトルのみ平仮名で、あとは漢文です。「首里おきやかもいかなしの御代に、ミやこよりち金丸ミこしミ玉のわたり申候時にたて申候ひのもん」<br />(首里の尚真王の代に、宮古より治金丸と真珠が渡った時に建てた碑文)<br />とあります。<br />漢文を書いたのは禅僧・仙岩和尚。彼の提案により、この時期から殉死を廃止したことが記されています。<br />http://toraheko.ti-da.net/e1133826.html

    首里門の上手で綾門大道に分岐する真玉道の起点は門構えに石積みされて「石門」と呼ばれていた.その左右には石碑が立っていた.国王頌徳碑 1522年 こちらはタイトルのみ平仮名で、あとは漢文です。「首里おきやかもいかなしの御代に、ミやこよりち金丸ミこしミ玉のわたり申候時にたて申候ひのもん」
    (首里の尚真王の代に、宮古より治金丸と真珠が渡った時に建てた碑文)
    とあります。
    漢文を書いたのは禅僧・仙岩和尚。彼の提案により、この時期から殉死を廃止したことが記されています。
    http://toraheko.ti-da.net/e1133826.html

  • 真珠湊碑文 1522年、尚真王時代に真珠道および真玉橋を築造した際の記念碑で、「真珠道および真玉橋は一般交通の利便に供するほか、国土の防衛のため王命により建設された。<br />一旦ことある時には、首里の軍勢と南風原、島添大里、知念、佐敷の軍勢は、真玉橋を渡って下島尻の軍勢と合流し、那覇港口の南岸垣花に勢揃いして外敵の侵入に備えた。」と記されています。いずれも2006年復元<br /> <br /><br />

    真珠湊碑文 1522年、尚真王時代に真珠道および真玉橋を築造した際の記念碑で、「真珠道および真玉橋は一般交通の利便に供するほか、国土の防衛のため王命により建設された。
    一旦ことある時には、首里の軍勢と南風原、島添大里、知念、佐敷の軍勢は、真玉橋を渡って下島尻の軍勢と合流し、那覇港口の南岸垣花に勢揃いして外敵の侵入に備えた。」と記されています。いずれも2006年復元
     

  • 1107石畳道を下り始める

    1107石畳道を下り始める

  • 日本の道100選 真玉道 1522年にはすでに石畳

    日本の道100選 真玉道 1522年にはすでに石畳

  • その一部を金城町の石畳というようだ

    その一部を金城町の石畳というようだ

  • 途中で左折.金城の大アカギへ

    途中で左折.金城の大アカギへ

  • 300年のアカギはこの左.この階段,上の通りまで登れる

    300年のアカギはこの左.この階段,上の通りまで登れる

  • これが大アカギ

    これが大アカギ

  • 第二次大戦でたくさんの大きなアカギを失ってしまった

    第二次大戦でたくさんの大きなアカギを失ってしまった

  • ここに小さな御嶽がある,

    ここに小さな御嶽がある,

  • ピンボケだが内金城嶽(うちかなぐすくたき)<br />古い記録に登場するこの御嶽の起源は、大変古いと言われています。「琉球国由来記」には、茶湯崎村(ちゃなざきむら)(現松川)の項に記され、真壁大阿志母良礼(まかべのおおあむしられい)が仕えていた事がわかります。神名は、東側の大嶽がカネノ御イベまたはモジヨルキヨノ大神、西側の小獄はイベツカサ御セジと伝えられています。また、この御嶽は一般にフェーディン(拝殿)と呼ばれています。<br />9平米程の広さをやや丸く石垣で囲い、正面に直線のマグサ石をかけた石門の形になっています。<br />石囲いの中心には神聖とされる大木(アカギ)があり、その下に三個の石が立てられるという、沖縄独特の御嶽の形式です。<br />http://page.freett.com/aienar/main/uchikanegusukutaki.htm

    ピンボケだが内金城嶽(うちかなぐすくたき)
    古い記録に登場するこの御嶽の起源は、大変古いと言われています。「琉球国由来記」には、茶湯崎村(ちゃなざきむら)(現松川)の項に記され、真壁大阿志母良礼(まかべのおおあむしられい)が仕えていた事がわかります。神名は、東側の大嶽がカネノ御イベまたはモジヨルキヨノ大神、西側の小獄はイベツカサ御セジと伝えられています。また、この御嶽は一般にフェーディン(拝殿)と呼ばれています。
    9平米程の広さをやや丸く石垣で囲い、正面に直線のマグサ石をかけた石門の形になっています。
    石囲いの中心には神聖とされる大木(アカギ)があり、その下に三個の石が立てられるという、沖縄独特の御嶽の形式です。
    http://page.freett.com/aienar/main/uchikanegusukutaki.htm

  • 地元の人の説明.パワースポットだ.

    地元の人の説明.パワースポットだ.

  • こちらにも説明 340年前、豊かな森だったこの辺りを、村人が通る度に霊気に打たれるので、これはただ事ではないと時の王府に願い出て拝所を置き、神々と王府との交流の場となる。王府解体後は、個人信仰にゆだねられている。

    こちらにも説明 340年前、豊かな森だったこの辺りを、村人が通る度に霊気に打たれるので、これはただ事ではないと時の王府に願い出て拝所を置き、神々と王府との交流の場となる。王府解体後は、個人信仰にゆだねられている。

  • 小さな拝所

    小さな拝所

  • 他にも大アカギがあり,このあたりだけうっそうとした亜熱帯林になっている.

    他にも大アカギがあり,このあたりだけうっそうとした亜熱帯林になっている.

  • 1122さらに下りていく

    1122さらに下りていく

  • 後ろを振り返る

    後ろを振り返る

  • この家は

    この家は

  • ちゅらさんの撮影に使われた家らしい

    ちゅらさんの撮影に使われた家らしい

  • 石畳の説明

    石畳の説明

  • 金城村屋の休憩所

    金城村屋の休憩所

  • 金城大樋川 地下水が吹き出し,かつてはここで人々が休み,のどを潤し一息入れたところ

    金城大樋川 地下水が吹き出し,かつてはここで人々が休み,のどを潤し一息入れたところ

  • いまでは空堀かなあ.

    いまでは空堀かなあ.

  • 二本の樋からたくさんの地下水が出ていたのだろう

    二本の樋からたくさんの地下水が出ていたのだろう

  • 少し先の仲之川 ここも水場だった.

    少し先の仲之川 ここも水場だった.

  • 今はやはり枯れているが

    今はやはり枯れているが

  • 下に降りていく,向こうの山が識名平

    下に降りていく,向こうの山が識名平

  • 古い家

    古い家

  • 金城ダムのところからの通りに出る.10月に来たときにレンタカーで走った場所だ.金城橋と識名平.「金城橋は琉球王国時代、首里・識名の間に架けられました。1677年に木橋から石橋に建て替えられましたが1809年の洪水で損壊、翌年に元の場所より少し下流に再建されました。<br />金城坂を下りきった所にある金城橋を渡り南へ上る急坂。坂上に繁多川公園がある。昔ばなし「識名坂の遺念火」で知られる。「識名平は、金城橋から識名に至る坂のことで、呼称は方音の「シチナノヒラ」が転訛して「シチナンダ」となり、さらに坂の意味を加え「シチナンダビラ」ともいう。

    金城ダムのところからの通りに出る.10月に来たときにレンタカーで走った場所だ.金城橋と識名平.「金城橋は琉球王国時代、首里・識名の間に架けられました。1677年に木橋から石橋に建て替えられましたが1809年の洪水で損壊、翌年に元の場所より少し下流に再建されました。
    金城坂を下りきった所にある金城橋を渡り南へ上る急坂。坂上に繁多川公園がある。昔ばなし「識名坂の遺念火」で知られる。「識名平は、金城橋から識名に至る坂のことで、呼称は方音の「シチナノヒラ」が転訛して「シチナンダ」となり、さらに坂の意味を加え「シチナンダビラ」ともいう。

  • 金城橋,識名平の急坂は写真に撮り忘れた

    金城橋,識名平の急坂は写真に撮り忘れた

  • 碑が壊れてあり

    碑が壊れてあり

  • 左に復元 1809年の洪水の際に1910年に再建 重修金城橋碑文の複製

    左に復元 1809年の洪水の際に1910年に再建 重修金城橋碑文の複製

  • さてこれから南の護国寺などにいこうと近くのバス停に行ったらなんと一日4本しかない!ここ市内だよねえ!!!車の通りも多いのに何でこんなにバスが少ないんだ!

    さてこれから南の護国寺などにいこうと近くのバス停に行ったらなんと一日4本しかない!ここ市内だよねえ!!!車の通りも多いのに何でこんなにバスが少ないんだ!

  • 1148 すぐにタクシーが来たので止めた.運転手さんによるとこの道はバスが少ないのでタクシーにとってはとても拾われやすくいい道とのこと.

    1148 すぐにタクシーが来たので止めた.運転手さんによるとこの道はバスが少ないのでタクシーにとってはとても拾われやすくいい道とのこと.

  • 1204 護国寺

    1204 護国寺

  • 水子地蔵 本堂を見学.「1369年波上宮の別当として建てられた.山号は波上山。院号は三光院。本尊は聖観世音菩薩。琉球の真言宗総本山]。現存する沖縄の寺院のうち、最も古い寺院である。創建以来、琉球国王の祈願寺であった。」Wikipedia<br /><br />

    水子地蔵 本堂を見学.「1369年波上宮の別当として建てられた.山号は波上山。院号は三光院。本尊は聖観世音菩薩。琉球の真言宗総本山]。現存する沖縄の寺院のうち、最も古い寺院である。創建以来、琉球国王の祈願寺であった。」Wikipedia

  • 仲地紀仁顕彰碑 古いお寺らしく境内にいろいろな碑がある.<br />「尚穆38年(1789)1月9日‐尚泰12年(1859)3月15日 医師。<br />日本本土の公式の牛痘法導入に先駆けて、琉球で最初に牛痘法を成功させたという伝承があり、「琉球種痘の父」と称されている。」<br /><br /><br />

    仲地紀仁顕彰碑 古いお寺らしく境内にいろいろな碑がある.
    「尚穆38年(1789)1月9日‐尚泰12年(1859)3月15日 医師。
    日本本土の公式の牛痘法導入に先駆けて、琉球で最初に牛痘法を成功させたという伝承があり、「琉球種痘の父」と称されている。」


  • ベッテルハイム博士居住の趾の碑 日本に派遣されたキリスト教宣教師。また沖縄県地域最初のプロテスタント宣教師でもある.今のブラチスラヴァに生まれる.イギリス国籍を得て1846年沖縄へ.「彼は琉球に住む人々から排斥された。これは琉球の支配者薩摩と江戸幕府の方針によると指摘されている。到着当時、琉球王国ではキリスト教は禁教であった。そこで、琉球側はベッテルハイムへ退去要請を行った。<br />仲地に種痘を伝授.その後ペリーとともにアメリカへ

    ベッテルハイム博士居住の趾の碑 日本に派遣されたキリスト教宣教師。また沖縄県地域最初のプロテスタント宣教師でもある.今のブラチスラヴァに生まれる.イギリス国籍を得て1846年沖縄へ.「彼は琉球に住む人々から排斥された。これは琉球の支配者薩摩と江戸幕府の方針によると指摘されている。到着当時、琉球王国ではキリスト教は禁教であった。そこで、琉球側はベッテルハイムへ退去要請を行った。
    仲地に種痘を伝授.その後ペリーとともにアメリカへ

  • 台湾遭難者の墓 1871年宮古島の貢納船が遭難.台湾に漂着したが,3人は波にさらわれ,54人は原住民に殺され,わずか12人だけが助かった.この事件を口実に日本は台湾出兵.日清戦争へとつながる.台湾出兵時の遺骨が他の場所に収められたが1898年護国寺に移された.その墓碑

    台湾遭難者の墓 1871年宮古島の貢納船が遭難.台湾に漂着したが,3人は波にさらわれ,54人は原住民に殺され,わずか12人だけが助かった.この事件を口実に日本は台湾出兵.日清戦争へとつながる.台湾出兵時の遺骨が他の場所に収められたが1898年護国寺に移された.その墓碑

  • ふんばるガジュマルと書いてあった

    ふんばるガジュマルと書いてあった

  • 戦没新聞人の碑

    戦没新聞人の碑

  • 対馬丸遭難者の小桜の塔 1953年、「那覇市の波之上護国寺に沖縄戦没学童慰霊のための小桜の塔が建てられました。これは、住職名幸芳章大僧正が旅先で偶然に知り合った愛知県のすずしろ子供会会長の河合桂さんの申し出に端を発し、「沖縄にたくさんの慰霊塔はあるけれど、子どものための塔がない」ことから企画されたもので、愛知県知事を含む愛知県の全面的な協力・献金を得て、名幸住職が指揮して実現しました。 その除幕式が1953年5月5日の子どもの日に行われ、新聞・ラジオを通じて参加を呼びかけたところ、集まった遺族のほとんどが対馬丸の関係者でした。その後も毎年小桜の塔の慰霊祭が行われていますが、参列者が対馬丸関係者に限られてきたため、3年目の1955年から、開催日を対馬丸受難日の8月22日に改められました。また小桜の塔を管理する小桜会と対馬丸遭難学童遺族会は、1958年の慰霊祭を機に統合し、小桜の塔は対馬丸遺族会の管理するところとなりました。」http://www.tsushimamaru.or.jp/jp/about/about3.html<br /><br />

    対馬丸遭難者の小桜の塔 1953年、「那覇市の波之上護国寺に沖縄戦没学童慰霊のための小桜の塔が建てられました。これは、住職名幸芳章大僧正が旅先で偶然に知り合った愛知県のすずしろ子供会会長の河合桂さんの申し出に端を発し、「沖縄にたくさんの慰霊塔はあるけれど、子どものための塔がない」ことから企画されたもので、愛知県知事を含む愛知県の全面的な協力・献金を得て、名幸住職が指揮して実現しました。 その除幕式が1953年5月5日の子どもの日に行われ、新聞・ラジオを通じて参加を呼びかけたところ、集まった遺族のほとんどが対馬丸の関係者でした。その後も毎年小桜の塔の慰霊祭が行われていますが、参列者が対馬丸関係者に限られてきたため、3年目の1955年から、開催日を対馬丸受難日の8月22日に改められました。また小桜の塔を管理する小桜会と対馬丸遭難学童遺族会は、1958年の慰霊祭を機に統合し、小桜の塔は対馬丸遺族会の管理するところとなりました。」http://www.tsushimamaru.or.jp/jp/about/about3.html

  • 1215 波上宮に 当宮創建の年代は不詳である。しかし『琉球宗教史の研究』[2]では、琉球八社は真言宗寺院に併置され、その創建の由緒を見ると多くは社寺同時に創建されたものと考えられることから、当宮は察度王の御代、護国寺が開山した時期に創建されたのではないかと推測している。<br />『波上宮 略記』では、遥か昔、人々が海の彼方の海神の国(ニライカナイ)の神々に豊穣や平穏を祈った聖地が当社の鎮座する波の上の崖端で、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まると述べている。天啓3年(1623年、和暦では元和9年)完成の『おもろさうし 第十』には「国王様よ、今日の良き輝かしい日に聞得大君を敬って、国中の人々の心を集め揃え、石鎚金槌を準備して石を積み上げ、波の上、端ぐすくを造り聖地へ参詣し給えば、神も権現も喜び給う。」[と言う意味の“おもろ”がある。Wikipedia

    1215 波上宮に 当宮創建の年代は不詳である。しかし『琉球宗教史の研究』[2]では、琉球八社は真言宗寺院に併置され、その創建の由緒を見ると多くは社寺同時に創建されたものと考えられることから、当宮は察度王の御代、護国寺が開山した時期に創建されたのではないかと推測している。
    『波上宮 略記』では、遥か昔、人々が海の彼方の海神の国(ニライカナイ)の神々に豊穣や平穏を祈った聖地が当社の鎮座する波の上の崖端で、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まると述べている。天啓3年(1623年、和暦では元和9年)完成の『おもろさうし 第十』には「国王様よ、今日の良き輝かしい日に聞得大君を敬って、国中の人々の心を集め揃え、石鎚金槌を準備して石を積み上げ、波の上、端ぐすくを造り聖地へ参詣し給えば、神も権現も喜び給う。」[と言う意味の“おもろ”がある。Wikipedia

  • 階段を上る

    階段を上る

  • 拝殿

    拝殿

  • 二礼二拍手一礼

    二礼二拍手一礼

  • 裏の展望台に

    裏の展望台に

  • しかしほとんど海や波上宮は見えない.残念!!

    しかしほとんど海や波上宮は見えない.残念!!

  • 1230近くの波の上ビーチに 前の波の上臨港道路や沖縄西道路が邪魔だ

    1230近くの波の上ビーチに 前の波の上臨港道路や沖縄西道路が邪魔だ

  • ここからは波上宮が見える

    ここからは波上宮が見える

  • 崖の上にある由緒ある神社

    崖の上にある由緒ある神社

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